第1話_推しが朝ごはんを食べに来る世界線
テーブルの真ん中で、宗谷くんがくるくる回っている。
台座のスイッチを入れると、淡い光をまとってアクリルスタンドがゆっくり回転する。
一人暮らしの1LDKは、ささやかに飾り付けた。
百均のガーランド、19の数字のバルーン。
私はケーキをうやうやしく箱から取り出した。
メンバーカラーのパールホワイトに仕上げた、チーズケーキ。
もちろん1ホール。
——いいよね。これくらいペロリだし。
なんせ今日は、“推しの誕生日”という特別感。
少しくらいは現実を忘れたい。
今朝、コンビニで買ってきたファッション誌。
休日も睡眠時間も削った原稿は、“有名料理家の仕事”として載っていた。
掲載誌さえ送られて来ない。
分かってる。
誰でもよかった企画に、祖母のレシピを差し出した自分が、いちばん安いってこと。
悔しさより先に、思い出まで奪われた気がして、ページをめくる指が震えた。
スマホが震える。
〈宗やん誕生日おめでとー!〉
〈今年もビジュ優勝〉
〈生まれてきてくれてありがとう♡〉
〈#そうやん誕生祭!〉
画面の向こうで、推し仲間たちが一斉に盛り上がっている。
皆とライブ動画を一緒に見て、宗谷くんのシーンでは共に語らう。
こんな有意義な、あったかい世界が他にあるだろうか。
国民的人気グループNØRTHのメンバー、宗谷くん。
彼のコンサートチケットは、当たったら奇跡、外れたら通常運転。
——行きたい。
でも、今の私じゃ無理だ。
もっと痩せて、もっと綺麗になってから。
こんな中途半端な自分で、すきピに会いたくない。
そう決心して、私は翌日から早朝マラソンを始めた。
……始めた、はずだった。
「いただきます!」
近所にある大き目の公園、ジョギングコース脇。
私はベンチに腰を下ろして、ほのかに立ちのぼる炊き立てごはんの匂いに包まれていた。
走り出して5分で、私の脚は悲鳴を上げていた。
なんだか息も苦しい。
まぁ、コロナ以降在宅勤務中心で、体力も減ってたしね。
そこで私は背負っていたリュックを降ろして、まずは腹ごしらえを始めたのだ。
——あ、これ正解。
手のひらに収まる、意識して小ぶりなおにぎり。
具は鮭と昆布。
年末実家の母がくれた厚手の海苔は、食べる前に巻く。
ひとくち噛んだ瞬間、パリッとした磯の香りが広がる。
次いで、粒の立ったごはんがほろっとほどける。
塩は控えめ、あくまで引き立てるくらい。
……美味しい。
中から焼き鮭の甘い脂がじゅわっと染み出す。
咀嚼するたびに、体の奥が目を覚ましていく。
さっきまで重かった脚が、少し軽くなった気がした。
食べるって、こういうことだ。
いつもの自分に戻る感じ。
思わず笑みがこぼれる。
ふと、視線を感じて顔を上げると、黒いスエットに帽子とマスク姿の男が、こちらを見ていた。
「……ぷっ」
短く、笑い声。
なに。
怪訝に思った次の瞬間、彼は視線を逸らして走り去っていく。
……気にしない。
私はもう一口、おにぎりをかじった。
今度は昆布。
噛むほどに、じわじわと広がる甘辛さ。
ごはんと一緒に食べるためにある味。
ああ、美味しい。
噛むたびに、体の奥に熱が入っていく感じがする。
——この調子なら、何日でも走れるかも。
§
——翌日。
今日も走る前に、まずは腹ごしらえ。
そう思って、本日のおにぎりを取り出したその時。
「それさ、ちょっとイイ?」
横から、手が伸びてきた。
え?
顔を上げると、昨日の黒スエットの男。
近すぎる距離感。
なにこの人。
怖い。
そう思った瞬間、彼はおにぎりを食べるためマスクに指をかけた。
「……驚かせた?」
マスクが外れる。
そこにいたのは——
テレビで何度も見た顔。
ステージで、眩しいくらいに笑う人。
宗谷くんだった。
宗谷くんはおにぎりを頬張りながら、しきりに何かつぶやいている。
「うめっ…やばっ……」
え、もしかしついに幻想が?神が?
そして、私の手元にあるおにぎりを見て、少しだけ首を傾げた。
「食べないの?」
「……え?」
声が裏返った。
いや、あるけど、ありますけど、
そもそも宗谷くんが食べているのは私の朝食で——
「い、いや……あ……」
完全に言葉を失っている私を見て、宗谷くんはふっと笑った。
「もう一個たべてもいい?」
え。
え?
反射的に、私は手の中のおにぎりにかぶり付いた。
もぐ。
……あ。
不思議だ。
さっきまで頭が真っ白だったのに、噛むたびに、ちゃんと現実に戻ってくる。
ごはん、すごい。
それより何より——
ヤバい。
宗谷くん、ヤバい。
近くで見ると、想像の何倍もかっこいい。
顔が整っているとか、そういう次元じゃない。
肌も、目も、表情も、全部が「綺麗」。
テレビの中の人が、今、私の隣でおにぎりを食べている。
これ、夢じゃないよね?
「……なんか」
宗谷くんが、またおにぎりに目を落とした。
「このお米、いつものコンビニのと違う」
え。
見ると、彼の口元に、ちょこんと米粒がついている。
……無理。
尊い。
可愛い。
なにこれ、現実?現実ってこんなに解像度高いの?
私が完全に固まっていると、宗谷くんが不思議そうな顔をした。
「どうかした?」
はっ。
ダメだ、ダメだ。
落ち着け、私。
「お米はっ!」
勢いで、私は語り始めていた。
「おにぎりに向いてる銘柄があって!粒が立ちすぎると握りにくいし、柔らかすぎると崩れるんです。
時間が経ってももちもちした触感が楽しめるミルキークイーンがおすすめで、コンビニでよく見る銘柄はどちらかと言うとぱらぱらしてて。あと、握り方も、力を入れすぎると——」
止まらない。
本当は、宗谷くんのことを語りたい。
そっちを一生語りたい。
でも今はお米。
宗谷くんは、うんうん、と素直に頷きながら聞いていた。
「へえ……」
真剣。
推しが、私のお米推し話を真剣に聞いている。
世界線合ってる?
そして一通り話し終えた頃。
「おかわり」
……え?
「あ、もう……なくて……」
そう言うと、宗谷くんは「ふーん」とだけ言って立ち上がった。
あ。
待って。
このまま帰る?
帰るの?
この奇跡、ここで終了?
ダメ!
ここで逃したら、もう二度と会えない!
一生、画面越しの推しに戻る!
「あ、ああああの!」
声がひっくり返る。
「もっとすごいの、あります!」
宗谷くんが、きょとんとした。
§
——十数分後。
火を止めたフライパンから、ふわりと立ちのぼる湯気が部屋に広がった。
温めなおした鶏むね肉は、驚くほどしっとりしている。
——ちゃんと火は通っているのに、繊維がほどける。
箸で持ち上げると、表面にうっすらと色を残し、照りが出ていた。
肉だけじゃない。
タレは、甘み、酸味、旨味が何層にも重なった、奥行きのある香り。
そして私の部屋のキッチンカウンターにちょこんと座る推し、宗谷くん。
どうしてこうなった。
夢を見てるのか自分。
ちなみに、推しグッズは怒涛の勢いで寝室に放り込んである。
ファンと伝えたら、きっと引かれる。
「……なにこれ」
宗谷くんが、黒い発酵ダレをフォークでつついて小さく息を漏らす。
一口。
噛んだ瞬間、繊維質に沿ってほろっとほどけた。
淡白なはずの肉に発酵ダレのコクが染み込んでいて、噛むたびに味が変わる。
いくらでも食べられる。
添えたきゅうりは、冷水にさらしてからしっかり水気を切ってある。
口に入れると、ぱりっと小気味いい音がした。
しっとり、ぱり。
しっとり、ぱり。
そのリズムが心地いい。
「……止まらない」
宗谷くんは、少し困った顔でそう言った。
私は笑って肩をすくめる。
「胸肉って、味が薄くて飽きちゃうから。
でも、タレを使い分けるとその薄さが生きるんです」
宗谷くんは、黙々と食べ続けている。
さっきまでの警戒した表情が、少しずつほどけていくのが分かった。
——良かった、食べてる。
「筋肉欲しいなら」
ふと思い出して、私は言った。
「運動の後じゃなくて、本当は一時間前くらいがいいんですよ」
「え、そうなの?」
「エネルギーが足りない状態で動くと、体が守りに入っちゃうから。
ちゃんと燃料入れてから使ったほうが、筋肉はつきやすいです」
宗谷くんは、なるほど、と頷いてもう一口食べた。
最後の一切れを口に運んで、宗谷くんはしばらく黙っていた。
噛んで、飲み込んで、ゆっくり息を吐く。
そして、ぽつり。
「……これ、明日も食べたい」
え。
思わず、箸を持つ手が止まった。
明日。
いま、明日って言った?
宗谷くんは、空になった皿を見つめながら続ける。
「なんていうかさ……」
少し言葉を探すみたいに、視線を彷徨わせて。
「食べたあと体が軽いのに、ちゃんと満たされてる感じする」
信じられない好フィードバックに、頭が一瞬で真っ白になる。
「なんて言うの?」
宗谷くんが、顔を上げて尋ねる。
「あ、これは鶏むね肉の発酵ダレで」
ふっと笑われる。
私を指さし、
「いや、そうじゃなくて、そっちの」
顔が一気に赤くなる。
「ゆ、柚子」
ゆづ…と、推しが小さく私の名前をつぶやく。
「柚子は、何かごはん関係のお仕事してるの?」
「え?あ……ときどきWEB雑誌にレシピ提供したり…」
「すごいじゃん、プロか」
いえいえ、見習いなんですと言いかけたとき。
「じゃあ柚子、俺の朝ごはん担当、お願いできますか?」
…………え?
「えええ!?」
声が、思いっきり裏返った。
いや、待って。
それってつまり、公式に推しに会えるって事?
「い、いや、私……」
栄養系の学校出ただけで、実績もない、料理のプロでもない。
頭の中で言い訳がぐるぐる回る。
宗谷くんは、そんな私を見て、困ったように笑った。
「大丈夫。管理してほしいわけじゃない」
そう言って、少し真面目な顔になる。
「体づくりしろって事務所にも言われてるから、ごはん作ってくれる人を探してたんだよね。
こういうちゃんとしたご飯を食べて、朝から動けるようにしときたい。
協力してくれる?」
……ずるい。
その言い方、ずるい。
「それに」
宗谷くんは、さっきより少しだけ声を落とした。
「柚子のごはん、好きなんだよ」
心臓が、一拍、遅れる。
——あ。
これ、夢か。
推しが。
私のごはんが好きで。
明日も食べたいって言う、夢か。
高解像度の顔面アップでお願いされて、情報量が多すぎる。
「……あの」
喉がからからで、うまく声が出ない。
「そ、それは……」
宗谷くんは、私の返事を急かさない。
でも、食べ終わったらすぐに席を立って玄関へ向かった。
そりゃ忙しいものね。
靴ひもを結び直そうと屈みこんだ宗谷くんの背中が、思いのほか骨ばっていた。
ダンスで鍛えられた筋肉に、男の子らしい骨格。
……でも、もうちょっと食べてもいいんじゃない?
——ああ。
この人に、おいしいご飯を食べさせてあげたい。
そう思ったら、戸惑う理由が見つからなかった。
「……できます」
私は宗谷くんの背中に向かって、小さく、そう言った。
振り向いた顔が、少しこわばっている。
「ほんとに?」
「た、ただし!」
慌てて条件をつける。
「出せるのは普通の家庭料理ぐらいで、
プロみたいな食事制限じゃなくて、ちょっと体づくりを気にする程度の…
あと、料金もちゃんといただきます。月8万で」
「うん」
即答。
「じゃあ」
宗谷くんは立ち上がって、にっと笑う。
「よろしくね、俺のメシ担当」
——こうして私は、
国民的アイドルの朝ごはん担当になったのです。
お読みいただき、ありがとうございます。




