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純愛の境界線~零れ落ちる世界~  作者: MCdragon


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最終話:永遠の輪郭 ―愛の逆襲―

眩い白光が収まったとき、俺は静寂の中にいた。

鼻を突くのは、清潔すぎる消毒液の匂い。


「水谷さん、目が覚めましたか?」


聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには白衣を着た藤田紗江がいた。


「……紗江? なんでお前がここに……。麻友は? 麻友はどこだ!」


俺がベッドから飛び起きようとすると、紗江は困ったような、それでいて慈愛に満ちた笑みを浮かべて俺の肩を抑えた。


「何を言っているんですか、水谷先生。お姉様なら、三年前の事故で亡くなったじゃないですか。……ショックで記憶が混濁しているんですね。ここはあなたが勤務している大学病院ですよ」


世界は、完璧に書き換えられていた。

俺は姉を失った悲劇の医師。紗江は俺を支える優秀な助手。

佐々木明は、この病院の理事長として、俺の将来を嘱望している「恩師」だという。

麻友の妊娠も、あの夜の激情も、血の繋がった姉弟の愛も。

すべては俺の脳が見せた、あまりに長すぎる悪夢として処理されていた。


「……嘘だ」


俺は震える手で、自分の腹部を見た。

そこには、麻友が死に物狂いで立てた爪痕も、俺が彼女に刻んだ歯型もない。

滑らかで、不気味なほど「正しい」皮膚があるだけだった。


―唯一の「不純物」

数日が過ぎた。

俺は「正しい世界」の住人として、平穏な日常を演じ続けていた。

紗江は献身的に俺の世話を焼き、夜には当然のように俺のベッドに潜り込んでくる。


「ねえ、聡さん。もうあんな悲しい夢、見ないで? 私がここにいるわ。あなたの子供を、私が産んであげる」


紗江が俺の耳元で喘ぎ、その豊かな肉体で俺を誘惑する。

だが、彼女の肌に触れても、心は一向に動かなかった。

彼女の体は、この精密な世界の演算が生み出した「模造品」に過ぎないと感じてしまうからだ。

ある夜、俺はふと思い立って、かつての旧宅跡地へと車を走らせた。

今やそこには、モダンな高級マンションが建っている。

俺は吸い寄せられるように、その最上階へと向かった。

そこは、かつて俺と麻友が二人で暮らしていた、あの部屋と同じ場所だった。


「……誰だ」


部屋の前に立つ人影。

それは、あの「観測者」の姿をした父親ではなかった。

そこにいたのは、佐々木だった。


「水谷先生、こんなところで何をしている。明日のオペに備えて休むべきだ」


「あんたこそ、なぜここにいる。ここは……俺と麻友の――」


「まだそんなことを言っているのか。この世界に『麻友』という存在は、もう定義されていない。存在しないデータに固執するのは、君の優秀な脳の無駄遣いだ」


佐々木の瞳が、銀色に光る。


「諦めろ。世界は君を救ったのだ。禁忌から、罪から、孤独から」


「……いいや、違うな」


俺は笑った。

左手の薬指の付け根。

そこに、微かな「痛み」を感じたからだ。

目には見えない。

だが、そこには確かに、肉体を貫通して魂にまで刻まれた「咬み跡」があった。


「あんたたちは、一つだけ計算を間違えた。……愛は、情報じゃない。血を流し、肉を裂き、互いを呪い合った『痛み』だ。それは、あんたたちの綺麗な演算じゃ消去できない」


―逆流する真実

俺は自分の指を、持っていたメスで深く切り裂いた。

ドクドクと溢れ出す鮮血。

その赤色が、モノクロに見えていた景色を侵食していく。


「バグを……起こしてやる」


俺は自分の血を、マンションの壁に塗りたくった。


「思い出せ、麻友! 俺の血は、お前の体の中に流れている! お前が産もうとした俺たちの子供は、まだ死んでいない!」


叫びと共に、空間が歪み始めた。

完璧だった壁に亀裂が入り、そこから「ありし日の記憶」が溢れ出す。

麻友の喘ぎ声、湿った肌の感触、二人で食べた和風パスタの匂い。


「正しい世界」が、俺の流す血によって拒絶反応を起こし、激しく明滅する。


「やめろ、水谷聡! 世界が崩壊するぞ!」


佐々木の声が、ノイズに紛れて遠ざかる。


亀裂の向こう側から、白い手が伸びてきた。

細く、しなやかで、俺の血を求めて震えている手。


「……聡……?」


その声を聞いた瞬間、俺は迷わずその手を取った。

世界が砕け散る。

紗江の叫びも、佐々木の警告も、偽りの太陽も。

すべてが瓦礫となって崩落していく。


―零れ落ちた先の、二人

目が覚めると、そこは真っ白な砂浜だった。

空には星もなく、海は静止した鉛色。

世界の終わりか、あるいは始まりの場所。


「……起きたの、聡」


膝枕をしていた麻友が、愛おしそうに俺の頬を撫でた。

彼女の服は、あの夜のまま、ボロボロに引き裂かれている。

そして、彼女の膨らんだお腹は、確かな熱を持って俺の顔に触れていた。


「ここは……」


「どこでもない場所。正しい世界からも、間違った世界からも、零れ落ちた人たちの終着駅」


麻友が俺の手を取り、自分の腹部へと導く。

ドクン、ドクンと、力強い鼓動が手のひらに伝わってきた。


「この子は、消えなかった。……私たちの痛みが、この子を繋ぎ止めてくれたのね」


俺たちは、すべてを失った。

家族も、地位も、名前も。

そして、明日という保証さえも。

だが、この閉ざされた空間で、俺たちは永遠に「姉弟」であり、「夫婦」であり、「父と母」であることができる。


「愛してる、麻友」


俺は彼女の、血の匂いが残る唇を塞いだ。

それは甘く、切なく、そして何よりも過酷な――けれど、誰にも邪魔されない純愛の完成だった。

遠くで、世界の修復プログラムが、空虚な音を立てて消滅していくのが聞こえた。

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