第一話:浸食される日常
「ねえ、聡。昨日の夜、私たちが食べたもの、覚えてる?」
朝の柔らかな光が差し込むリビング。麻友が、まだ膨らみの目立たない腹部にそっと手を当てながら問いかけてきた。
俺、水谷聡は、トーストを口に運ぶ手を止める。
「……昨日の夜? 確か、麻友が作ってくれた和風パスタだったろ。大葉が効いてて美味しかった」
「そうよね。私もそう記憶してる。でも、見て」
麻友が差し出したのは、スマートフォンの家計簿アプリだった。
そこには昨日の日付で『外食:イタリアンレストラン 8,500円』という記録が刻まれている。
「……レシートも、財布の中にあったわ。私、そんな店に行った記憶、まったくないの」
背筋に、冷たい氷の粒を流し込まれたような感覚が走った。
これが最初ではなかった。
ここ数日、俺たちの周囲で「記憶と現実の乖離」が頻発している。
俺と麻友は、実の姉弟だ。
親からの勘当、周囲の冷淡な視線、社会的な孤立。
それらすべての「地獄」を二人で手を取り合って越えてきた。
そして今、麻友の腹部には、新しい命が宿っている。
生物学的な禁忌を犯した結果だ。
俺たちはその報いを受ける覚悟で、誰にも邪魔されないこの静かなマンションで、寄り添うように生きてきたはずだった。
だが、世界が俺たちを拒絶し始めている。
「聡。さっき、母さんから電話があったの」
「……母さん? 縁を切られたはずだろ。三年も連絡なんて取ってない」
「それが……。母さん、普通に話すのよ。『来月の法事、麻友も聡もちゃんと来なさいよ』って。まるであの絶縁の夜なんて、最初からなかったみたいに」
麻友の瞳には、深い困惑と恐怖が浮かんでいた。
俺たちが血を吐く思いで積み上げてきた「拒絶の歴史」が、何者かによって消しゴムで消され、書き換えられている。
それは世間一般で言うところの「正しい姉弟の姿」への強制修正だった。
―侵食の正体
その日の午後、俺は仕事中にさらなる異変に気づいた。
デスクに置いてある、麻友とのツーショット写真。
二人で海へ行った時のものだ。
俺が麻友の肩を抱き、彼女が幸せそうに笑っている。
だが、ふと目を離し、再び写真を見た時、心臓が跳ね上がった。
写真の中の俺の腕が、彼女の肩から離れている。
単に隣同士で直立しているだけの、どこにでもある「姉と弟」のスナップ写真に変わっていた。
「嘘だろ……」
写真を手に取り、裏側を見る。日付も場所も合っている。
だが、そこに漂っていたはずの、二人だけの親密な熱量が、急速に冷却されている。
俺たちの「愛」を証明する証拠が、物理的な次元から消滅しようとしていた。
―深まるミステリー
帰宅途中、俺はかかりつけの産婦人コールの医師に電話を入れた。
麻友の妊娠三ヶ月の経過を確認するためだ。
『……佐藤聡さんですか? はい、麻友さんの受診記録ですね。……少々お待ちください』
保留音が長く感じられる。やがて、看護師の声が戻ってきた。
『お待たせしました。ですが、佐藤麻友さんのカルテには「妊娠」の記録はございませんが……。先週の受診は、風邪の処方となっております』
「そんなはずはない! エコー写真ももらったんだ。心拍も確認した!」
怒鳴るような俺の声に、電話の向こうで看護師が困惑している。
『……大変失礼ですが、当院ではそのような診断は下しておりません。麻友様は独身でいらっしゃいますし、定期検診の項目にも……』
俺は電話を切った。
手が震えている。
これは単なる記憶の混濁ではない。
「正しい世界線」という名の巨大な圧力が、俺たちの不道徳な――けれど唯一無二の純愛を、この世から抹消しようとしているのだ。
―帰宅、そして変貌
急いでマンションの自室へ戻り、玄関を開ける。
「麻友! 大丈夫か!」
返事がない。 リビングへ駆け込むと、麻友がソファに座り、虚空を見つめていた。
テーブルの上には、俺たちの母子手帳が置いてある。
いや、置いてあったはずの場所には、一冊の「料理本」が置かれていた。
「聡……。怖い」
麻友が震える声で呟く。
「お腹の中のこの子、時々……消えそうになるの。感覚がなくなるのよ」
俺は彼女を抱きしめた。
だが、その抱擁すら、どこか薄ら寒い。
彼女の肌の温もりが、まるでホログラムに触れているかのように、一瞬だけ透けた気がした。
「大丈夫だ、麻友。俺が、俺だけは覚えている。たとえ世界が俺たちを姉弟に戻そうとしても、俺は君の夫で、この子の父親だ」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
モニターを確認すると、そこには警察官が二人、立っていた。
『夜分に失礼します。近隣から通報がありまして。……こちらに、行方不明になっている水谷麻友さんが保護されているという情報が入ったのですが』
彼らの言葉は、鋭いナイフのように俺たちの静寂を切り裂いた。
「行方不明」?
俺たちはここで、三年も一緒に暮らしているというのに。
世界という名の巨大な意志が、俺たちを「加害者」と「被害者」に仕立て上げ、引き離そうとしている。




