Alter.30 イナンナの目覚め
【今回の今北産業】
・なぜか新米のグスティが指揮を執ることに。
・ガルシア少尉は手加減して下さった。
・ゴーレムはエーテルを弾く不思議な装甲を搭載しているらしい。
・イエスミス。
陽煌の節 8/10 5:00
シュヴァルツ諸侯同盟領 北の都市トーレッド
ハッグハグ・モット卿の城 病室
護身竜連峰の頂きから、真紅の太陽が半分ほど顔を覗かせる早朝。乾きと熱さが居座る静けさの中、帝国のシグマリアに全身を深く切り裂かれ、重症を負っていた竜の巫女の護衛、イナンナが、ついにそのまぶたをゆっくりと開いた。
彼女はしばらく、白一色の病室の天井を茫然と見つめた。体が全く動かないことに一瞬、混乱の波が押し寄せるが、すぐに優しい声がその静寂を破った。
「おはようさん」
ボサボサの髪の毛で、部屋のソファでコーヒーを片手に新聞を読んでいるグスティだった。
「私は……どれくらい、眠っていたんだ?」
イナンナはほんの少しだけ首を持ち上げ、重い視線を辺りへと巡らせる。ベッドの脇の椅子には、竜の巫女ザバーニャが、膝を抱えるようにして眠りこけている。その寝息だけが、静かな病室に小さく響いていた。
「……だいたい一ヵ月くらい、かな」
グスティの言葉に、イナンナは微かに息をのんだ。
「我ながら……よく、生きていたものだ」
そう呟き、彼女の目はベッドサイドの小さな机に向けられた。そこには、葦と豚の腸で作られた、不器用な作りの細い管が置かれている。この一ヵ月、意識のない彼女に誤嚥を覚悟で食事を流し込み続けてきた「食事の友」の姿が、そこにはあった。
点滴という概念のないこの世界で、グスティが限られた素材と知恵を絞って編み出した、まさに苦肉の策だった。
「ああ……本当に。奇跡だよ。アンタが生きてたのはさ」
コーヒーを飲みながら、グスティは柔らかな微笑みを浮かべる。その顔つきに、イナンナはグスティの中で何かが確かに変わったことを察した。
「こりゃあ、イナンナさんの一生分の幸運を使い果たしちゃったかも知んないな」
彼は、微笑みを湛えたまま、そっと目を閉じ、小さく漏らすように呟いた。
彼の頭の中では、この一ヵ月の記憶が嵐のように駆け巡っていた。既にイナンナは脳死しているかもしれないという絶望の淵に立たされながらも、それでも生かし続けようと必死にあがいた日々。
一ヵ月が過ぎ、これからも長く苦しい戦いが続くだろうと覚悟していた彼にとって、これは神が微笑んだ、紛れもない奇跡だった。
「私の体は……もう、動かないのか?」
イナンナは自身の不安を隠すかのように、掠れた声で問うた。しかしグスティには、彼女の心の奥底に渦巻く恐れが痛いほど伝わる。彼は、励ますように、まっすぐな言葉を選んだ。
「トレーニング次第だと、聞いたことがある」
「それは……お前の、元いた世界の知識か?」
「ああ。前に話した、別の世界の」
グスティが知る医療知識は、あくまでドラマや漫画の世界だけ。この時ばかりは、大門未○子やブラ○クジャックの存在に心の中で深く感謝していた。
「そうか……。随分、世話をかけたみたいだな。礼を言う」
グスティは医者ではないため、彼女がどれほど酷い状態だったのか、そして今どんな状態なのか、正確には分かっていなかった。
ただ、呼吸はあるがまるで死体のように冷たく横たわる彼女と、ただひたすらに、必死に向き合い続けただけである。
その甲斐あってか、全身の骨が折れ、腕があらぬ方向に曲がっていたりした痛々しい痕跡は、もうほとんど残っていない。均整の取れた筋肉の持ち主だった彼女の体は、今や鶏ガラと見紛うばかりに痩せ細ってしまったものの、その細胞一つ一つが、懸命に再生しようと鼓動を打っていた。
「ここはどこだ? 護身竜の村は……?」
イナンナの言葉に、先ほどまでの喜びで輝いていたグスティの顔に、うっすらと影が落ちた。しかし彼は、覚悟を決めて、全てをイナンナに語り始める。
「……そうか。村の人間の大部分は、消息が掴めず、多くが散り散りに……か」
イナンナは唇を強く噛みしめ、血が滲んだ。
「ああ。それに、数人がこのトーレッドに辿り着くことができたが、難民である俺たちにはこの都市で暮らす市民権がなくてね。だから仕事につくこともできず、物乞いになるしかない奴らが大勢いる。まあ、かなり大変だが、何とかやってる」
ハッグハグ・モット卿は難民に何の支援もせず、護身竜の村からやってきた村人たちをスラムの片隅に追いやっていた。しかしそれは、モット卿が非道というわけではない。北では帝国が砦を築き、今にも攻め込もうとしている。
そんな非常事態に、内政に目を向け、難民に向けた支援など、到底できる状況ではなかったのだ。
そのためグスティはこの一ヵ月、イナンナの世話をほとんど竜の巫女やシスターたちに任せ、一人で仕事を終えた後も、スラムの清掃や食料配達、居住施設の建設に奔走していたのだった。
世間にチート能力がバレないよう、金銭の獲得や食料配達をしながら動き回る彼と共に、死んでやるものかと、必死になって護身竜の村の人々は逞しく生き続けていた。
この炎天下の夏、護身竜の村の人々は、初め雨風すらまともにしのげないようなボロボロの布と木の棒でできた仮設テントに住まわされ、彼によって作られた仮設住宅には火が放たれることもあった。そして今もなお、村の人々にはトーレッドの民からは侮辱的な言葉を投げかけられている。
そんな地獄のような環境の中でも、彼らは互いに助け合い、感謝と礼儀、そして人間としての尊厳を決して忘れることはなかった。
そして、そんな彼らのひたむきな姿勢こそが、村ではお昼寝が大好きだったはずのグスティを、常に突き動かし続ける原動力となっていたのは言うまでなかった。
「最低限暮らしていけるだけの家と金銭は俺から出しているんですが、この状況が健全とも思えず、どうしたものかと……すみません、目覚めたばかりなのに、こんな話しちまって」
「いや、私も助かっている。今はこのような身だ。自分では動くこともままならない。今の私にできることは、知恵を貸すことぐらいだろう。なに、暗い顔をするな。奇跡は起きたんだ、あと二、三回ぐらい、簡単に起こしてみせるさ。ハッハッハッ、ケホッケホッケホッ……」
無理をして笑って見せているのが、あまりにも明白だ。グスティは心配のあまり、咄嗟にベッドに近づいた。
同時に、イナンナの体が咳き込むたびにわずかに跳ねた振動で、ベッドの脇で眠っていた竜の巫女が、ゆっくりと目覚めた。偶然にも竜の巫女の後ろに立つ格好になってしまい、グスティは咄嗟に危険を察知する。
「死にたいの……? 」
竜の巫女は大きな右腕でグスティの胸倉を掴み上げつつ、左腕で口元を隠し、大きなあくびを一つ。寝て起きたら、グスティが後ろに立っているのに恐怖し、咄嗟の判断で吊るしあげたのだった。
グスティは内心、『タイミングが悪い……』と思うものの、口に出した瞬間にこの脆い関係が崩壊することも承知しており、ぐっと口を噤んだ。
そしてグスティは大人しく胸倉を掴まれたまま、視線をベッドに向け、顎をクイッと目覚めているイナンナの方へと促す。
竜の巫女は眉をひそめ、涙目を手の甲で拭いながらベッドを確認した。そして、目覚めたばかりのイナンナと目が合った瞬間、彼女の右手がパッとグスティの胸倉から離れた。膝から崩れ落ちるように、彼女はその場に跪く。
「……嘘」
「おはよう、ザバーニャ」
長らく目覚めなかった友を前に、ザバーニャの目から静かに涙が溢れ落ちた。二人の再会に、グスティの口元も自然と緩んだ。
「……迷惑をかけたな」
イナンナの優しく、まだ少しか細い声が響く。
「本当にね」
ザバーニャはそう言って、優しくイナンナを抱きしめた。
もう長い間その名が呼ばれることはなかったが、一ヵ月の時を経て、再び友の口からその名を呼ばれたことによって、彼女は喜びの笑顔を咲かせる。
そんな二人を見て、グスティは尊さのあまり朝日の中に昇天しそうになった。しかし、そんなことをしては二人の空間の邪魔になると思い、自らは迷彩チートで壁のシミになることに徹して、二人の再会に涙を流した。
そして、三人ともが生還した初めての朝が、静かに訪れる……。
次回:3人で今後の計画を立てよう
P.S.
点滴なんて便利なものがない異世界で、意識不明の人間に食事をとらせる方法に苦戦しました。
誤嚥など色々考えましたが、おそらくこれが一番現実的だろうと…判断しました。
絶対もっと他に考えるべき場所がある気がしますが、気のせいでしょう。




