第一話~月の影2~
「後ほど花影宮に伺います。それまで富貴様のお側にいて差し上げてください」
翠珠様はそう言いながら椿様の手を握る。
「ありがとうございます。お茶会を台無しにしてしまって……」
「もう謝らないで」
何度も頭を下げる椿様に翠珠様は明るい笑顔を向けた。
椿様を見送った後、「さて」と言いながら出かける準備をする翠珠様。
「花影宮に向かわれるんですね」
わたしが訊ねると、翠珠様は不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「だって、後で伺うって」
「まぁ……真珠、ちょっとついてきてちょうだい」
足早に部屋を出ようとする翠珠様を、わたしは慌てて追う。
「待ってください!翠珠様!」
「翠珠様、ここですか……?」
想定していたより長い道のりの末、行き着いたのは後宮門のすぐそばにある馬小屋だった。
「そう、ここよ」
困惑するわたしをよそに、翠珠様は当然といったような顔をしている。
そのとき、馬小屋から一人の若い男性が姿を見せた。
「真珠、あの方にお話しを伺いたいわ」
翠珠様の指示でわたしは男性に近づく。
「すみません、お手を煩わせます」
わたしが話しかけると、男性は少し驚いた様子で振り向く。
「何かご用でしょうか?」
まだあどけなさの残る風貌の男性は、困惑した表情でわたしを見る。歳の頃はまだ15や16だろうか?
「わたしの主があなたに訊ねたいことがあるようです。少々いいでしょうか?」
「主……ですか?」
わたしの後ろでひらひらと手を振る翠珠様に気づいた男性は、さらに困惑の色を強める。
「あなたは……?」
「スイ、わたしスイって言います」
男性の言葉を遮るように、翠珠様は話し出す。確かに好き勝手出歩いている以上、正体を知らせるのはまずい。咄嗟に名前を偽ったのは正解かもしれない。
「スイ……さん。僕に何か御用でしょうか?」
「聞きたいことがあるのだけど、あなたは富貴様の従者さんね?」
「はい、そうです。僕は富貴様の従者をしている、宵と言います。」青年は軽く頭を下げて、恐縮した様子で答えた。
「宵さん、実は……」
翠珠様が話し始める中で、わたしは思わず口を開いた。
「この方が……富貴様の従者?こんなに若い方が……?」
そこまで口にしたところで、わたしは自分の不躾に気づいて慌てて頭を下げた。
宵は微笑みながらも少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「はい、そうです。まだ若いですが、富貴様の信頼をいただいてお仕えしています。」
「信頼を得るには、やはり並々ならぬ能力があるのでしょうね」
翠珠様がすかさずフォローを入れてくれたが、彼への申し訳なさと恥ずかしさで顔に熱が帯びるのを感じた。
わたしは改めて宵の顔を見る。やはり、どうしてもその若さに驚かずにはいられなかった。富貴様という名家のご令嬢に仕えるには、相応の経験と力量が必要だと思い込んでいたからだ。
宵は柔らかい微笑みを崩さず、落ち着いた口調で答えた。
「実は、僕が富貴様の従者を務めるようになったのは、少し前からのことです。どうして僕のような経験の浅い若者を選んでくださったのか、正直、僕自身も驚いているんです」
「富貴様がどのような経緯であなたを選んだのかしらね?本人の希望なのか、それともご両親の推薦か……」
翠珠様が尋ねると、宵は少し考え込みながら答えた。
「おそらく、富貴様は昔からの友人である僕に心を開いてくれているのでしょう。幼馴染の方が気兼ねなく付き合えるから」
宵はとても嬉しそうに、そして少し照れたように笑う。
「それにしても、富貴様はおかわいそうですね」
翠珠様が話を進めると、宵は今にも泣き出しそうに悲しげな目をする。
「そうですね……」
そして、思い出したようにこう言った。
「スイさん、それでお尋ねになりたいことというのは?」
「はい、実は」
翠珠様はそう言うと、一瞬だけ沈黙をおいてから、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「富貴様が花影宮に到着する前に、途中で特別などこかに立ち寄られたのではないかと思いまして」
「特別な……?」
宵は目を瞬かせた。明らかに困惑の色が浮かんでいる。少しの間、彼は黙って考え込み、やがて微笑みを浮かべた。
「いえ、そのようなことは」
その様子を見て、翠珠様はふっと笑みを漏らした。そしてすぐに力強い目で宵を見据える。
「そう、では質問を変えるわ。富貴様は到着前、誰かにお会いしませんでしたか?」
宵の顔がこわばる。そして、翠珠様の目がいっそう鋭さを増した。
「本当に?」
宵は一瞬言葉を詰まらせた後、眉をひそめながら話し始めた。
「本当です。富貴様は道中どなたともお会いしていません」
翠珠様はしばらく考え込み、その後静かに頷いた。
「分かりました。しつこく聞いて悪かったわ。気を悪くしないでちょうだいね」
翠珠はにっこりと笑ってそう言った。そして、こう続ける。
「ただ、わたしたちは富貴様をお助けしたいだけ。それは分かって」
宵は一瞬安堵の表情を浮かべたが、その後、少し沈黙してから、わずかに眉をひそめると、再び口を開いた。
「僕もお助けしたい……でも、」
宵が何かを言いかけたが、そのまま口をつむいでしまう。その目には涙が浮かんでいるようにも見えた。
その姿を見た翠珠様は、はっとしたように宵へ近づくと彼の両肩を掴んだ。
「あなた、まじないをかけられたのね」