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兎の彼女と幸福な年男

 年末には来年の干支を思って大騒ぎするくせに、1年も経たないうちに皆すっかりと今年の干支を忘れてしまう。

 

「今年の干支って何だったっけ」

「えっと、子丑寅……来年は辰年だから……今年はうさぎ!」

「だったねえ。そうだそうだ。今年の頭にさ、兎の耳付けて初詣にいったもん」


 懐かし~! と、明るい声が僕の耳に刺さる。

 雑貨店の年賀状売り場で、女子たちが大騒ぎしているのだ。

 回転ラックに並んでいるのは、辰の描かれた年賀状。

 ちょうど去年の今頃は、可愛らしい兎柄の年賀状が飾られていたはずだ。

 たった12ヶ月前のことなのに皆、すぐに忘れてしまう。僕はそれが憎らしくって悔しくってたまらないのだ。

「行こう、兎」

 僕は隣に立つ少女の耳を、そっと両手で塞いだ。

 彼女……兎は真っ黒な瞳で僕を見上げて口をとがらせる。

「正人、バカねえ」

「何が」

「こんなことは慣れてるの」

 兎の目の端に不満の色が溜まっているのをみて、僕は苦笑した。

「僕が君に聞かせたくなかっただけだ」

 さあ行こう、と彼女の手を掴むとようやく兎は微笑んだ。



「やってらんないよねえ」

 暖簾をくぐるなり、兎はぽつりと本音をこぼした。

 僕たちが駆け込んだのは、駅前の小汚いおでん屋台。

 うまいと評判の屋台だが、店主が気まぐれらしく場所をすぐに変えてしまう。どうも全国各地点々としているらしく、僕たちの地元で姿を見たのもつい一週間前のこと。

 だから今日、ここに居てくれて幸運だった。

「みんな1年前のこと、すーぐに忘れるんだから」

「やっぱり兎、怒ってた」

「良いのよ。私は怒っても。だって当事者だもん」

 ぷ、と口をとがらせて彼女は丸椅子を揺らす。

 ガムテープで補強された椅子は、彼女の軽い体重でもぎしぎしと不穏な音を立てる。

 ヒラメみたいな顔の屋台主はポータブルテレビに夢中で、僕たちを気にする様子もない。

 小さなテレビに映るのは忙しそうな蕎麦屋、初詣を目指し寺に並び始めた人の列。

 毎年変わらない大晦日、23時半の風景だ。

 今日は朝から雨模様で、どんよりとした晦日だった。しかし人々の気持ちが通じたように、雨は上がり雲も消える。

 気付けば外はきれいな闇に包まれていた。いつもなら疲れ果てたサラリーマンが足早に通り過ぎるだけの駅前も、今は明るく賑わっている。

 着物姿の女性も多く、皆幸せそうな顔ばかり。もう少しで2024年だね、なんて明るくおしゃべりしながら。

 こんな時間、閉店間際の屋台に居座るのは、僕と兎くらいだ。

「……ほら、文句を言わずにさ。おでん食べなって。大根、ちくわ、こんにゃく」

 僕は外の空気を振り払うように、真四角のおでん鍋をのぞき込む。

 兎も口をとがらせたまま鍋を見つめる。

「もう残り少ないわ」

「でも兎が食べたがってたものは残ってるよ」

 年季を感じる銅の四角鍋には、色の濃い汁が揺れている。

 ぷかぷか浮かぶのは、大根、こんにゃく、はんぺんの切れ端……奥底に沈む、つるりとした輝きは玉子だろうか。

 ぐずぐずに煮込まれた大根は色が真茶色に染まっているし、ちくわなんてデロデロに柔らかい。

「玉子もほしい。あと、餅巾着……正人もお餅好きだったよね、じゃあ2つ」

 兎の声を聞いて、屋台の親父は「あいよ」と気の抜けた声を出した。目線はポータブルテレビに釘付けで、客を見ることもしないが。

 差し出された皿に載っているのは、黒く染まった大根と、柔らかいちくわ。汁もたぷたぷ、皿の限界まで注がれていた。

「ありがとう……あっつ!」

 兎は大根を箸で掴むなり、小さな口でかぶりつく。大根から熱い汁が吹き出したのか、彼女はきゅっと眉を寄せた。

「辛子も!」

 それでも彼女は食べることを諦めない。べたべたのテーブルに置かれた瓶をつかみ、黄色の辛子をたっぷりと皿に盛る。

 それを大根にべったりとつけて再び口の中に。

 辛かったのか、目尻に涙が浮かぶ。それでもはふはふと、声を上げて彼女は食べる。

 小さな体から想像もつかないくらい、彼女は大食漢だ。

「兎、そんなにがっつかなくても、また次があるよ」

 僕も一つ、餅巾着に噛みついた。餅を包む薄揚げは先に甘く煮ているのか、甘辛い味が舌に広がる。

 柔らかく溶けた餅が口の中でとろりと蕩けて喉が鳴った。

(……久しぶりに、食べたな)

 餅が好きだと言ったのは僕がまだ12歳のときだ。

 彼女はそれをまるで昨日のことのように覚えている。

 それは嬉しいが、同時にさみしくもある。

「兎、次もおでんを食べに来ようか。少し遠く……静岡とか姫路とか……御当地おでんの食べ比べとか」

 車に乗って、兎と二人で気ままにおでんを食べ歩く旅も悪くない。そうつぶやいた途端、兎が静かに僕を見つめた。


「……12年後に?」


 兎はくたくたのちくわにかぶりつき、グラスに注がれた日本酒をぐいっと飲んだ。

「12年経てば、行きたいお店はもうないかもね。それどころか、見たこともないものが増えてるわ。食べ物も、建物も……人も」

 ポータブルテレビでは、ショッピングモールが取材を受けていた。12年前の大晦日にオープンし、今日12歳になりました。と嬉しそうな声が響く。

 オープン当時に赤ん坊だったという少年が、顔を赤くして花束を贈っている。「全然覚えてないんですけど」なんて言いながら。

 小さな画面の映像を、兎は冷たい目で見つめて酒を一口飲んだ。

「……12年もすれば、正人はきっと、もう私のことを覚えてないでしょうね」

「僕の記憶力は完璧だよ。それに彦星だって、織り姫を忘れないだろ」

「あっちは年に一回じゃない」


 七夕の彦星は一年に一度、織姫に会えるのだから幸福な男だ。

 と、僕は思う。 

 僕は兎に12年に一度しか出会えないのだから。


 うさぎ年に生まれた僕は、0歳のときに初めて兎に出会った。

 兎は嘘だと言って信じないけれど、本当なのだから仕方ない。

 まだ目も開かない僕は、産着越しに兎の存在を知ったのだ。

 再会は12歳のとき。

 両親に連れていかれた初詣。狛犬のすぐそばに、12年間ずっと夢に見てきた女性の姿があった。

 それは0歳の僕に触れた人だった。

 夢の中に折々現れては、消えていく人。0歳の僕に優しく微笑んでくれた人だった。

 彼女をみつけたとき、僕の中に雷が落っこちた。

 探し続けていたジグソーパズルの破片をようやく見つけた、そんな気分だった。

 

 つまり、僕は始めての恋をしたのだ。

 

 その後、僕は全力疾走で彼女を追いかけ、兎の手を取り名を聞いた。

 彼女が干支の神様だと知ったときは驚いたが、しっくりときた。

 そして干支の神様らしく彼女はその年の12月31日、姿を消したのである。

 春のお花見。夏の花火大会、秋の紅葉、冬のスキー。

 いろいろな思い出を僕に残して。


 彼女に再再開したのは12年後、今年の正月明け。

 場所は僕のアパートのすぐ近く。車道の向こうに彼女の顔を見つけたとき、僕は確信することになる。

 ……彼女は12年ごとに僕を探してくれている。

 逃げようとする彼女の手を、僕はまた掴んでいた。そして、お願いをした。

 一年、一緒にいさせてほしい。

 そのかわり、彼女に美味しいものを食べさせてあげる。

 食いしん坊な彼女はそれに乗っかかり、僕たちはこの一年、各地で様々なものを食べ歩いた。

 そして今日の晦日は彼女が消える夜。最後に何を食べたいかと聞けば、兎はおでん、とそういった。


 無言になってしまった兎から目をそらし、僕は熱いおでん汁をそっとすする。

 そしてくつくつ煮込まれる鍋を見つめた。

 バラバラの時期に生まれた食材たちが、こうして一つの鍋で煮詰まっている。そして、誰かの胃の中におさまって揃って寿命を迎える。

(羨ましいな)

 と、僕は思った。

「いまから12年間、兎は何をしてすごすの?」

「んー、そうだなあ」

 長い黒髪を垂らした彼女は、せいぜい20歳くらいにしか見えない。

 しかし出会ったときから、彼女はずっと同じ顔、同じ体型。成長は一ミリもしていない。

 神様の見た目は変わらない、と彼女は言った。

 今回は僕と同世代に見える。

 12年後は、年の離れたカップルに見えるかもしれない。

 その次は?

 お父さんと娘、そう呼ばれるだろう。その次は孫に見えるか。

 僕たちは、きっとこれから引き離されていく。

「ずっと寝てる」

「どこで」

「言わなーい」

 熱いこんにゃくにかぶりつき、彼女は僕を睨んだ。

「何度も言うけど、正人。人間の寿命は100歳くらいまででしょ。私と会えるのは年男の年だけで、せいぜい……」

「9回」

 彼女の言葉を遮って僕はいう。

「……でも108歳まで生きられたら、10回。僕はギネスを狙うから、次もいける。きっとそのときには不死身の薬ができてるから、それを飲めば永遠に会える」

 言われなくても、ずっと計算しつづけている。彼女と出会える残りの回数を。

 僕の言葉を冗談と思ったか、彼女が寂しそうに苦笑する。

「……ばっかじゃないの。私のことなんて忘れて、人の人生を歩みなさい」


「年越し蕎麦はいるかい、お客さん」


 ふと、店主がこちらを見た。

 見れば、ポータブルテレビは寺の中継に切り替わっている。

 厳かに鳴り響く鐘の音が聞こえた。それはテレビの中と、現実と。その両方から聞こえている。

 昨年まで、除夜の鐘は嬉しい響きだった。兎の年に近づくための音だったからだ。

 しかし今、この音はさみしい。

 だってこれは、別れの音だからだ。

「いらない。今からだと間に合わないし」

 おでん出汁を飲み干して兎はつぶやく。

 そして半分に割った玉子の片割れを僕の皿に落とす。

「美味しいけど、食べるの間に合わなさそう。半分あげる、正人」

「兎、次も探してくれる?」

 べっ甲色に染まった玉子を見つめながら、僕は未練がましくつぶやいた。

 12歳の別れのときは脇目も振らず大泣きしたので、それに比べたら成長したほうだと思うけれど。

「……どうかな。その頃にはもう正人は結婚でもして、子供がいるかもだし。そうなると私が行くのは邪魔だろうし」

 少しずつ鐘の音が響きを増している、この鐘は彼女を連れて行く音だ。止めてくれ、もう一日待ってくれ。僕は叶わない願いを唱え続ける。

「正人」

 僕はよほどひどい顔をしていたのだろう。兎が僕の頬を優しくなでた。

「どんな人間でもね、12年は長いんだよ。正人のせいじゃない。私達の時の流れが違うだけ」

 年が変われば次の辰と入れかわり、彼女は12年の眠りにつく。

 鐘の音は80回、83回。

 煩悩をかき消す音だというけれど、僕の煩悩はどうやら消えそうもない。

 兎は屋台暖簾の隙間から空を見上げて、机に肘をつく。

 暖簾の隙間からは、少しだけ欠けた月が見えた。

「じゃあ、なんで兎は12年経つたび、僕に会いに来てくれるの」

「別に、様子を見に行ってるだけ……」

「僕は絶対に忘れないから」

 逃げようとする兎の手を、僕は掴む。

 一年、握り続けた手だ。消えてしまうのは信じられない。

 しかし、彼女は後数分で消えてしまう。

「……みんなそう言うんだよ」

「僕は僕だ。他の人じゃない」

 兎が僕を通して別の人を見ている……そんな気がして、心がざわつく。

 彼女には彼女しか知らない歴史があるのだと、僕は当たり前のことに気がつく。

 これまで彼女を傷つけてきた別の人間が、憎らしい。

「僕は忘れない」

 85回目の鐘の音を聞いて僕は焦った。

 このあたりの鐘は105回か106回目で、年を越す。

 つまり、108回目の鐘の音を聞く前に彼女は消える。

 僕は薄くなっていく兎の手を強く強く握りしめた。

 90回、100回、ゆっくりと憎らしく、鐘の音は鳴る。

「君が僕を諦めても、僕は君を諦めないから」

 ……107回。

「信じて」

 僕の声は彼女に届いただろうか。

 手に掴んだぬくもりがゆっくりと消えていく。

 消える瞬間、彼女は「本当に?」と、つぶやいた。


「……いっつも、108回目は年を越してからなんだよなあ」


 店主の声で、僕は現実に引き戻された。

 気づけば僕は一人、宙を握りしめたままの恰好だ。

 おでん屋の店主は暖簾を外すと、僕の横にどっかりと腰を下ろす。

「いつも108回目の鐘の音が鳴るときに願い事をするんだよ。今年は危うく聞き逃すところだった」

 60歳くらいだろうか。よく陽に焼けた顔は精悍だ。屋台を引っ張り全国を回っているせいか、体格もいい。

 彼は大きな手のひらを寒そうにすり合わせながら、残ったおでんを自らつついて僕を見た。

「遠距離かあ。寂しいもんだねえ」

 店主は僕たちの会話を断片的に聞いていたらしい。彼の言葉に僕は苦笑で返す。

「遠距離といえば、まあ遠距離です……彼女が会いにきてくれて、それで……今日まで」

「彼女が会いにくるのかい? 何やってんの。だめだよ、男から会いに行かなきゃ」

 店主が父親みたいな顔で、僕を睨んだ。

「いや、でも彼女は……」

「かくいう俺もさ、長い間、遠距離で」

 彼は僕の言葉を無視して、ぽつりと語る。

「だから屋台をしたんだ。気軽に移動できりゃあさ、いつだって会いに行けると思ってね」

 おでん屋台の壁に、黄ばんだ写真が一枚張られている。

 店主は写真に、指を置く。

 その優しい動きだけで感情が分かる。

「でも、兎……彼女……どこにいるかわからなくて」

 皿の中に半分残った玉子は、まるでおでんの宇宙に浮かぶ月のようだ。

 そういえば、兎は月に住むという。

 そのせいかどうか、僕は幼い頃、宇宙飛行士になるのが夢だった。そんなことをふと、思い出す。

「地球にいるのかさえ……だから僕はいつも彼女が来るのを待つばかりで。忘れずに待ってるのが、せいぜいで」

 黄色い卵に辛子を塗りたくり、口に放り込む……びりりとした刺激が僕の鼻の奥を刺激して、思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。

「じゃあ宇宙にいきゃあいいじゃねえか」

「宇宙!?」

 店主はまるで僕の心を読んだように、あっさりとそういった。

「宇宙飛行士でもなんでもなってさ。宇宙まで探せば、どこかにはいるだろう」

「そんな無茶な」

「待つのは飽きるだろ。俺は行くよ。会えるんなら、どこへでも」

 店主は屋台に張り付いた写真をまた、見つめた。

「俺の場合はさ。地上だったから、おでん屋をやっただけのこと」

 黄ばんだその写真は古い。彼女との遠距離がどうなったのか、僕にはわからない。彼が108回目の鐘に何を祈るかも知らない。

「おじさん、その人とは……まだ遠距離で……」

「そうだな。遠距離だ……見てくれ、別嬪だろう」

 彼が手にする写真には、するりとした女性が写っている。アーモンド形の大きな瞳、鋭い目線。横に並ぶ少年は、幼い頃の店主だろう。

 二枚目の写真は青年の店主。三枚目の写真は壮年の店主。

 ……しかし、隣に並ぶ女性は老けない。ずっとずっと同じまま。

「俺の場合は、寅だ」

 ぽかんと見つめる僕に気づいたように店主は笑う。そして僕の背中を強く叩く。

「なあ、俺達は幸運な男だよ」

 神様を追えるんだから。と、彼はへたくそなウインクをした。

 


 二人分の勘定をして腰を上げ暖簾を押して外に出ると、冷たい風が僕を揺らす。

 先ほどまで隣にあったぬくもりは今はない。

 その代わり、正月を寿ぐ空気が僕の背を押す。

「そうか……12年もあれば、どこでも探しに行けるんだ」

 手のひらに残った彼女の温かさを思い出しながら、僕は呆然とつぶやいた。

「なんで、気づかなかったんだろう。なんで僕が待ってる前提だったんだろう」

 きっと過去、兎と過ごした人たちもみんな待っているだけだったに違いない。

 もし探しだせたら、彼女はどんな顔で僕を見るだろう。驚くだろうか、泣くだろうか。

「だって12年もあるんだから……奇跡は起きるかも」

 思いもしなかった、想像もしなかった未来が僕の手のひらに落ちてきた。

「幸運な男、か」

 まだ鳴り響く鐘の音に包まれながら、僕は正月の雑踏を力強く抜けていく。

「……僕が、探すんだ」

 今度は僕が探してやろう。

「きっと、見つける」

 遠く浮かぶ黄金の月を見上げて、僕は指を伸ばした。

 驚く彼女の顔を思い浮かべ、僕はほくそ笑んだ。

 僕の計画は始まったばかりだった。

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