『化け物王子』
ノエルの住むズメイ王国はかつて竜の国と呼ばれていた。
王族が『竜人』と呼ばれる獣人よりもさらに珍しい種族だったからだ。
竜人は獣人と近い体質を持ちながらも、また違う種族である。
彼らは獣人とは違い、自然界に元となる生き物がいない。
その代わりとでも言うように、人と竜、二つの姿を持ち、自在に変身する。
その力は圧倒的で、獣人とは比べものにならない。竜人の強さに惹かれた獣人たちが自然と集まり、ズメイ王国ができたと言われている。しかし、それはあくまで昔の話だ。
かつて、この世界に暮らす人々はすべて獣人に生まれついていたという。だが、文明が発展し、生活が豊かになった頃に獣の性質を持たない者が生まれるようになった。
人間、と呼ばれるようになった彼らはより神の姿に近づいた人類として大切にされた。
ただ、時代が下るにつれて獣人と人間の比率は逆転していく。現代では全体で二割、特権階級においては一割以下しか獣人はいない。
そして、それは王族も同様であった。最後にズメイ王室に竜人が生まれたのは百年も前である。
竜人の圧倒的な力によって建国されたズメイ王国。その竜人がいなくなって、国力は衰えたのか、と言えばそうでもない。
竜人が生まれなくなっても、獣人が減っても、特に人類は困らなかった。生活様式も政治も、人間に合わせて変化していたからだ。
その頃にはほとんどの土地の開拓が進んでおり、国家間の戦争もあまり起こらなくなってきていた。なので獣人の高い身体能力が活躍できる場も減る一方であったのだ。
いなくても問題のない獣人だが、かつて人間が神の似姿と尊崇を集めたように、先祖と同じ姿を持つと大切にされている。
ノエルは希少な特権階級の獣人に生まれた。
彼女だけではない。家族では父と妹、親族を含めるとかなりの数の獣人がブラックウッド家にはいる。獣人の生まれやすい家系なのだ。
ただ、ノエルのように尻尾のある者は他におらず、それらしい特徴と言えば犬歯が尖っているだけである。
正直、牙というより八重歯にしか見えず、見た目はあまり人と変わりない。だが、能力も人間と同等とは限らなかった。
妹が三歳にして気配を悟らせずノエルのドレスへ侵入できるように、みな狼の優れた身体能力を備えているのだ。
そして、ノエルもまた尻尾があるだけではない。
◇◇◇
歴史あるズメイの王宮は、その分だけ広大である。
一般的に旧王宮と呼ばれる、建国の頃に建てられた城塞を元にした区画と、新王宮と呼ばれる新しく増設された、政を行う区画の二つに別れている。
今日ノエルが呼び出されたのは、新王宮を抜けた先にある旧王宮の、さらに奥にある離宮だった。
かつては無骨な要塞だった旧王宮は、長い時を経て国王や王太子の私室や、他国からの来賓を持て成すための宮へと改築されていた。唯一城壁だけがその名残りを感じさせる。
改築や増築を何度も繰り返し、さらに隠し通路があると言われるズメイ王宮は中々複雑怪奇だ。案内がなければ、迷子になることは必至だろう。
前世で何度か王宮へ来たことがあるノエルはなんとか迷わず目的の離宮へたどり着いた。結構な距離である。
待ち合わせに余裕を持って行動していたが、時間にギリギリだった。
離宮に入って案内されたのは、明るい日差しが降り注ぐサンルームだ。
高い天井の上までガラス張りで、気持ちのいい初夏の明るい緑と色鮮やかな花々が咲き誇る美しい庭が一望できた。美しい景色に見惚れている間に、案内してくれたメイドがワゴンで飲み物と菓子を運んで来る。
「ありがとうございます。あとは私の侍女がやりますわ」
「かしこまりました。第二王子殿下は後ほどいらっしゃいますので、もう少々お待ち下さい」
「わかりました」
支度をしようとしたメイドを止めると、彼女はすんなりとそれを受け入れた。
部屋の中で待機することもないようで、即座に退室する。足音は欠片の迷いもなく遠ざかって行った。
部屋の前に騎士も待機していないし、王子の住まう離宮にしては随分人の気配がなかった。
「……これ、王子様も飲むものなのに、いいの?」
「信用していただけているということでしょうか? まぁ、こちらにとっては都合がいいです」
いつでも毒殺の危険がある王族に仕える使用人が、あっさり外部の者へ給仕を任せてしまうのはあまりに不用心だ。
ノエルは呆れていたが、リサは気にした様子もなくポットの蓋を開けて中身を確認していた。
「リサ、それはハーブティーだよ。私が飲んでも大丈夫なやつ」
「そうですか。茶菓子の方は……」
「スコーンだね。妙なものは入ってないから食べすぎなければ問題ないと思う。蜂蜜も大丈夫。……ジャムとクリームは使わない方が良さそうかな」
「念の為、あまり口になさいませんように。何が入っているかわかりません。体調を崩されてはいけませんから」
「そうね。ちょっと鼻が麻痺してるし、気をつけるわ」
はしたないがくんくんとにおいを嗅いで出されたものを確認する。
毒が仕掛けられていないか警戒している訳ではない。彼女にとっては毒になるものが混入していることもあるから慎重になっているだけだ。
幸い、少し麻痺していても、彼女の鼻は害のあるものはないと教えてくれた。
同族の中で最も鋭敏な嗅覚と聴覚。それがノエルの能力だった。
壁を隔てるどころか、かなり離れた場所の会話が聞こえたり、茶の種類を嗅ぎ分ける優れた感覚は便利である一方、多大な不便も抱えている。
敏感過ぎる聴覚は聞こえなくてもいいことをノエルに知らせてしまうし、様々なにおいを感じ取る嗅覚は強すぎる香りに晒され続けると麻痺してしまう。
つまり、人が多い場所ほど要らないことが聞こえるし、雑多なにおいで鼻が使い物にならなくなるのだ。
例えば夜会などは最悪で、体臭だけではなく、香水や整髪料、化粧品にアルコール、タバコなどのにおいで鼻が完全に利かなくなってしまう。前世でトリカブトのにおいに気づけなかったのも夜会の最中だったからだ。
ノエルにとって人の多い場所は鬼門だった。
それに、獣人特有の体質もある。狼の性質を持つノエルは狼に有害なものが、当然有害だ。
これは獣人全員に言えることであり、人間用の食事をそのまま食べると命に関わることもある。
ブラックウッド家は獣人用の食事しか出ないからその心配は不要だが、出先で出されるものは確認して安全なものしか口にしないようにしていた。
百年もの未来に生まれ変わり、時代の変化を様々なことから感じているが、一番身に迫るのが飲食物だ。
百年前はまだ獣人に配慮されたものが用意されることが普通であったが、昨今はそんなことはまったくない。
今日のように飲めるもの、食べられるものが供されるなんて珍しいことだった。
多分、エメラインがノエルのことを調べてこういったもてなしになったのだろう。流石は元王妃といったところである。
安全が確認できたため、リサがハーブティーをカップに注いでくれた。優しい香りに鼻の麻痺が和らぐ気がする。
「第二王子殿下が来る、とだけ言っていたからエメライン様はいらっしゃらないみたいね」
「……一体、なんの用でしょうね。わたくし、お見合いだと思っているのですが」
「それは全力で辞退させていただきたいわ」
ただのお見合いすら拒否するノエルにリサは呆れた顔をしているが、窘めることはしない。彼女に王子妃は向いてないと知っているからだ。
ノエルは長らく跡継ぎとして扱われてきたが、ブリジットが生まれたことで後継者から外れた。
ノエルの体質で、社交が必須の当主は酷だ。自分でも社交界に向いていない自覚はあるので、ありがたいことである。
基本的に今後のノエルは女侯爵になるブリジットを助けるため家業を手伝う予定になっていた。
その場合、領地にいる親族の誰かと結婚することになるだろう。
獣人には番という運命の相手がいるが、ノエルは前世で失敗しているため、端から期待していなかった。
番とは、双子の神がそれぞれ選んで結びつけた一対の男女のことである。
前世のノエルの番は、婚約者のヴィンセントだった。獣人のノエルは初めて会ったその時から彼を番だと認識したが、ヴィンセントの方は最後まで気づいていなかった。
人間は番を察知する能力が退化してしまっているのだから仕方がない。ノエルも事情があって番であることを話さなかったので、気づいてくれなかったことを恨むつもりはなかった。
ただ、ヴィンセントが彼女を婚約者に選んだ諸々の経緯から、不信感が拭えない。
ノエルの知るヴィンセントは理想的な紳士だった。なのに実際は彼女を自分の都合のいいように利用していたのだ。
番以前に人間不信になりそうな仕打ちだ。期待が持てなくなっても無理はないと思う。
それに、番の重要度は種族によってかなり変わる。
ノエルは狼の獣人である。獣の狼と同様に、生涯同じ伴侶と添い遂げる。そのため、特別な相手である番に執着しがちだ。
しかし、特定の伴侶を持つ生き物は意外に少ない。
そういった獣人にとって番は『少し特別な存在』でしかないそうだ。特に獅子などのハーレムを築く獣人にとってはたくさんいる恋人のひとりに過ぎない。
獣人が減った今、恋愛小説で取り上げられやすい伴侶に一途な獣人の話ばかりが注目されている。世間的に番は『運命の恋人』というイメージが強い。
だが、現実はこんなものである。所詮は一目惚れに近い一方的な恋のきっかけだ。ノエルのように上手くいかないこともある。
それに、感知ができなくなっただけで人間も元は獣人。彼らだって自覚はできなくとも番は存在する。
しかし、人間たちは特に伴侶が番かどうかなど気にせず、恋をし、幸せな家庭を築いているのだ。
獣人のノエルだって番ではなく、好む相手を選んで結婚してもいいと思う。
でも、前世の因縁がある王族だけは嫌だった。
そんなことを考えながらハーブティーを飲んでいると、遠くから激しい口論に続いてバタン、と強く扉を閉める音がした。
さらにドカドカと苛立っているような大きな足音がノエルの部屋に近づいて来る。
「……こっちに向かって来る人がいるわ」
「第二王子殿下でしょうか?」
「どうかしら? すごい足音だけど」
王族とは思えない荒々しい足音に警戒を上げた。
こんな王宮の奥深くまで不審者が侵入するとは思えないが、もしもということはある。
リサが僅かに前へ出て、身構えた。彼女は獣人ではないが、侍女と護衛を兼任できる腕前だ。
ノエル自身も訳あって戦闘訓練を受けてきた身である。不測の事態に対応する自信はあった。
バンッ!
蝶番が壊れそうな勢いで扉を開く。そこにいたのはひとりの男だった。
無造作に肩口まで伸ばされた朱色を混ぜ込んだような金髪に、碧ががった青色の瞳。
鬱陶しい前髪で隠れているが秀麗な顔立ちに、背が高く、均整の取れた線の細い身体つき。
その身を包む衣裳の豪華さから彼こそが第二王子ヴィンセントだと名乗られずともわかった。
冷たい無表情で、明らかに不機嫌な雰囲気を放っていた彼はノエルを見た瞬間、目を見開いて固まる。それはノエルもまた同様だった。
彼の頭の右側から、捩れた大きな角が一本生えている。本来右耳がある場所は緑色の光沢を持つ黒い羽が不揃いに生え、覆っていた。
顔の左側は滑らかでシミひとつない白い人間の皮膚なのに、右側はびっしりと金の鱗が生えている。扉を開け放った手は左より右が大きく、黒く鋭い爪が光っていた。
薄く開いた形の良い唇からは鋭い乱杭歯が覗いている。
特に異様なのは左目で、虹彩の色は右目と同じだが、瞳孔は縦に裂け、白眼の部分が黒くなっていた。
獣人だ。かなり外見に特徴が現れている上、ただの獣人とも違う。
(もしかして、キメラというもの? 本当に存在するなんて……)
交雑種とも呼ばれる複数の生き物の特徴を備えた獣人。
普通の獣人よりさらに希少な彼らは、出生数の少なさからほとんど知られていない。
ノエルも本でそんな存在がいるらしいというあやふやな記述を読んだだけだ。
とても稀有な存在である彼は、まったくの初対面であるはずのノエルを驚愕の表情で見ていた。
何をそんなに驚いているんだろうと内心首を傾げていると不意に彼は顔を背けた。
ノエルからは獣人の特徴のない、美しい顔だけが見える。
「第二王子の、ヴィンセントだ。……顔合わせは済んだ。もう帰るといい」
彼は名乗っただけで来たばかりのノエルに帰宅を促すという暴挙に出る。
さらに返事も聞かずにもと来た道へ戻り、ノエルの視界から消えた。
「なっ……」
驚いて言葉を失うリサを他所にノエルはあることに気づき、呆然としていた。無意識の内に見えなくなった彼の足音を耳で追う。
ヴィンセントの足音は躊躇いなく遠ざかっていたが、途中で軽い足音が混ざる。
――ヴィンセント、待ちなさい!
女性の声がヴィンセントを引き止めようと、必死で説得している。しかし、ヴィンセントは小声で何か一言言い返して足を止めることはなかった。
「もうっ!」と苛立った声のあと、軽い足音はつかつかと部屋に近づいて来た。
「ご機嫌よう、ブラックウッド侯爵令嬢。招待したのに息子が失礼しましたわ」
開け放たれたままの入り口に現れたのは艶やかな美女だった。
豊かな朱色の髪を一筋の乱れもなく結い上げ、洗練されたドレスを見事に着こなすこの美しい貴婦人こそ、元王妃にして現側室のエメラインだ。
先程のヴィンセントだけではなく、二十五歳になる第一王子の母でもある。
大きな息子が二人もいるとは信じられない美貌だった。
ノエルは未だに衝撃から抜け出せないまま反射的に立ち上がり、頭を下げた。
「ああ、堅苦しいのはやめにしましょう。こちらが失礼してしまったし。……本当はあの子の相手をして欲しかったのだけれど、今日のところはわたくしに付き合ってくださる?」
そう言って、彼女は有無を言わさぬ笑顔を浮かべた。支配者の微笑みである。
その迫力を前にしても、ノエルは気もそぞろだった。
「……喜んで」
それでもなんとか返事だけはする。
優雅にノエルの前に座るエメラインを見ながらも、心は先程会ったヴィンセントの姿をなぞっていた。
あの、心が浮き立つような匂い。
前世でよく知る人の匂いだった。そして、あの顔立ちも。
ヴィンセントは前世の婚約者と名前だけではなく、容姿も、匂いまでもが同じだった。
しかし、番に出会った時に感じたあの高揚を、ノエルは感じなかった。彼女の中にあるのは衝撃だけだ。
彼はノエルの番ではない。
(血縁ですもの。似ていてもおかしくはないわ。でも、匂いがまったく一緒なのはどうして?)
彼女の経験上、同じ体臭の持ち主は存在しない。双子であっても少しの違いがあった。
なのに、百年もあとに生まれた子孫が先祖と寸分違わぬ体臭を持つなんてあり得るのだろうか。
(ヴィンセント様の匂いを私が間違えることはないし……。って、なかなか気持ち悪いわね、私……)
番に期待していないくせに未だ前世の番に執着を見せる自分に呆れる。
そこでやっと出会いの衝撃から覚めた。慌ててヴィンセントのことを頭から追い出す。
目の前には一筋縄ではいかなそうなエメラインがにっこりと微笑んでいた。
狼に与えてはいけない食べ物については犬を参考にしているので間違ってるかもしれません。そんなもんだと流していただけたら幸いです。




