謎の悪臭
ぱちりと目を開いたノエルが見たのは美しい彩色が施された天蓋だった。
「あれ、ここどこ……?」
明らかに自室ではない場所で目覚めたノエルは起き抜けのぼんやりした頭で思ったことをそのまま呟いた。
「ノエル! 気がついたのか!」
バサリと天蓋を捲って現れたヴィンセントを見て、やっと正常に頭が働き始めた。彼女はミルメコレオの王女の謁見の最中に意識を失ったのだ。
「気分はどうだ? 何か不調は? 医者を呼ぼうか?」
「大丈夫です。特に変な感じはしませんから。ごめんなさい。あんなところで倒れてしまって……」
「気にしなくていい。ミルメコレオの王女が騒いでくれたおかげで、誰にも気づかれずこっそり抜け出せた」
「そんな大騒ぎに……?」
ノエルは目を見張った。
背が高く、目立つヴィンセントが人目につかずに抜け出すなんて、よっぽどのことだ。
ノエルを抱えたヴィンセントは真っ直ぐ離宮に彼女を運んだと言った。
「私が気絶したあと、何があったのですか?」
「ぼくは君を連れてすぐにあの場を立ち去ったから又聞きだが……」
ヴィンセントはそう前置きして話し始めた。
最後のノエルの記憶通り、ミルメコレオ王女コンスタンスはトラヴィスを番だと言い、彼との結婚を望んだ。
人間のトラヴィスは番がわからないし、アンジェリカを愛しているため全力で拒否。
国王夫妻も「話が違う」とコンスタンスに詰め寄った。
彼らの計画ではヴィンセントと結婚させてコンスタンスには女王になって欲しかったのだ。
しかし、次期国王になる予定のトラヴィスが相手では妃の一人になるしかない。
それに、ほとんど離宮か執務室に篭るヴィンセントに対し、すでに国内の貴族のほとんどを掌握するトラヴィス相手では、国王夫妻にはどうやっても付け入る隙がないと彼らもわかっていた。
エメラインもコンスタンスに対して難色を示したが、彼女に味方が現れた。
王女に同行したミルメコレオの外務大臣である。
彼からしたらコンスタンスには女王を目指して貰うより、大国の王妃になって貰った方が国の利益になる。
それにあの場にいた一部の貴族も味方した。
二十年前の番騒動に似た事態に眉を顰める貴族が大半だったが、前回と明らかに違うのはトラヴィスが番を拒絶していることだ。
オスニエルのようにロレッタの言いなりになる可能性は低い。
それならコンスタンスを受け入れ、ついでに国内貴族からもひとり娶るべきという論調を作り、自分の娘を送り込む。
そんなことを一部の貴族たちは企んだのだ。
今までズメイの国内貴族が一枚岩になっていたのは、国王夫妻の存在が大きい。
国を蝕む害悪になる可能性の高い彼らを監視し、国を守るため素早い次代への継承を完遂するという目標が貴族たちを纏めていた。
しかし、巨悪になるはずだった国王夫妻は完全に国政や貴族社会から切り離され、何かを成す能力すらないことを露呈した。もはや二人は誰の敵にもならない。
そうなれば、貴族たちの目は次代に注がれる。
次期国王はどこをとっても申し分ないトラヴィスだ。
だが、次期王妃は他国の、しかも少し前まで平民だった女の娘。
大陸最大にして最古の王国の王妃に認めるには矜持が許さない貴族もいる。
多少ズメイに劣るが、歴史あるミルメコレオの王女コンスタンスならまだ許容できるし、本音を言えば国内の高位貴族の令嬢がいい。
短い時間の中でそんなことを考える者たちがいたのだ。
一定の支持を得てしまったコンスタンスにトラヴィスはひとつの証明を要求した。
「獣人である証拠を提示しろ」
コンスタンスの見た目は完全に人間だ。
自己申告だけでは信用できない。だから獣人らしい能力を披露し、証明しろと要求したのだ。
コンスタンスは一番感覚の鋭い聴覚で証明してみせると宣言した。
ただ、トラヴィスはここにひとつ条件を加えた。
ロードリック・ブラックウッド。
本物の獣人と知られている父にもコンスタンスと同じことをするように命じた。つまり、能力を比較して本当に獣人かを確かめるのだ。
証明の方法は極めてシンプル。離れた場所で交わされた会話を当てるというものだ。
会話に参加する者たちは国内貴族から二人、公平を期すためにミルメコレオの外務大臣とその部下の四人が選ばれた。
会話の内容を他の人々も把握するため、彼らは大広間の真ん中に。
王女とロードリックは監視のための騎士と共にその場を離れることになった。
「ちまちまやるのも面倒ですし、大広間の外から始めましょう」
証明に当たってロードリックは、まずそう言った。
父は聴覚だけならノエルと遜色のない能力を備えている。だから、大広間の分厚い扉を隔ててもなんら問題ない。
現場は水を打ったような静寂に包まれていたから余計よく聞こえたはずだ。
当然のようにロードリックは証明に成功した。
一方のコンスタンスは失敗した。
だが、彼女も大広間の中ならば小声で交わされた会話でも聞き取ることはできたのだ。
しかし、ロードリックにできたことができなかったことや、直前にロレッタの化粧品をピタリと当てて見せたノエルと比べるとどうしてもその能力は見劣りした。
ノエルのカンニングをロードリック以外は知らないのだから、あまり匂いのしない白粉の種類すら当てるノエルは強く印象を残したようだ。
「盲人は優れた聴覚を持っていることがあるとご存じでしょうか。彼らは見えない目の代わりに耳に頼ることで聴覚が鍛えられるのでしょう。
王女殿下の耳は確かに人より優れているようですが、それは盲人の鍛えられた耳と同等くらいかと思います。
今の獣人の能力は先祖と比べると衰えたと言われています。しかし、人間との能力差は歴然としたものがあるのです。私は今の証明よりもっと離れた場所の音も聞き取る自信がありますよ」
柔和な笑顔を浮かべながらロードリックがそんな見解を披露したことで、コンスタンスが獣人であるかは一気に疑わしくなってしまった。
当然、番にも疑惑が出る。
ミルメコレオは現在はほどほどの関係を築いているものの、過去に何度も宣戦布告をしてきた好戦的な国だ。
そこの王女がズメイの王位継承者の番を自称し、婚姻を迫る。
事態を静観していた貴族たちも何かあると危惧し、黙っていなかった。
貴族たちはコンスタンスを受け入れる派と拒絶する派に分かれてしまった。
ひとつのきっかけから、またしても思わぬ方向に話が転がったのだ。
「それで、王女たちはどうなったんですか?」
「しばらく王宮に滞在するそうだ」
「追い返せばいいのに」
「外務大臣がこれを機会に滞っていた条約やらの話し合いをしたいと言い出してな。確かにのらりくらりと逃げられて決まっていない取り決めがどっさりある。本人がそう言うなら今回の訪問ですべて片をつけてやると兄上は言っていた」
「まあ……」
ノエルは言葉を失った。
外務大臣は目の前の利益に気を取られ、身ぐるみを剥がされるかもしれない。自業自得である。
コンスタンスが何を考えているかはわからないが、彼女の目的はヴィンセントからトラヴィスに変わったようだ。
とりあえずヴィンセントを取られる心配はなくなり、ノエルはホッとした。
しかし、思わぬ心労を抱えることになったアンジェリカのことを考えると安心していいものか悩む。
「あっ、もうこんな時間!」
話がひと段落して、窓から差し込む光が赤くなり始めたことに気づき、ノエルは腰を浮かせた。
王女の訪問が午前中だったから随分長い時間眠っていたようだ。
「私帰らないと」
「起きて大丈夫なのか……。いや、ここにいると気絶の原因と鉢合わせする可能性があるし帰った方がいいな」
寝台から降りるノエルを支えて、ヴィンセントは苦い顔をした。
彼女が気絶する直前の様子を思い出したのだろう。
ノエルは待機していたリサに声を掛けて身支度を整えて貰い、帰宅するために離宮を出た。
心配したヴィンセントが馬車まで送ると申し出てくれたので、パーシヴァルを含めたいつもの四人で旧王宮に足を踏み入れる。
「ヴェッ!」
中に入った途端、嗅いだ覚えのある悪臭が鼻につき、ノエルは呻いた。
ファーストインパクトに比べればかなり薄い臭いだが、不快なものは薄まっても不快だ。
「ノエル……。臭いのか?」
「はい……。とっても」
ノエルは他に人がいないことをいいことに鼻を摘んだ。これで多少はマシになる。
「あの時も臭い臭いと苦しんでいたが、どんな臭いなんだ?」
「色々混じってます。一番強いのは腐敗臭でしょうか。他にも生臭さや、草のにおい、獣や血……」
そう言いながらノエルが思い出していたのは幼い頃に見た狩りの光景だ。
領地に暮らす一族は年に一度だけ、かつての先祖と同じように集団で鹿を狩る。
ノエルはそれに参加はしなかったが、捕らえた鹿を解体する現場は見ていた。
その時狩りの指揮を取ったのは祖父で、彼は手慣れた手つきで捕らえた鹿の皮を剥ぎ、内臓を掻き出し、瞬く間に鹿を毛皮と骨と肉片に変えていった。
あの日に嗅いだ臭いに似たものをこの悪臭には感じるのだ。
ただ、一番強いのは腐敗臭であるから、ノエルの頭に浮かんだのは解体されながらも、誰も食べずに放置された鹿の姿だった。
蛆が集り、腐って変色した肉がまざまざと想像できてゾッとした。
「ノエル? 酷い顔色だ。くそっ、においは避けようがないな……」
「コンスタンス王女がいるのは北の宮ですよね。なら遠回りになりますが……」
よほどノエルの顔色が悪かったのか、ヴィンセントが悪態を吐き、パーシヴァルは王女の現在地から遠いルートを提案する。
ノエルはその気遣いを嬉しく思った。
(……おかしいな。臭いが薄まらない)
当たり前だが、においというものは大元に近いほど強く、離れれば薄くなる。
壁を隔てれば隙間がない限り遮断ができるのだが、この悪臭はどこを歩いても薄く均一に臭った。
(まるで、残り香のような……)
そこまで考えて気分の悪さが最高潮に達した。
ふらつくノエルを支えるヴィンセントの顔色も悪い。リサも不安げにノエルを見ている。
「……隠し通路を使うか」
「はっ!? い、いいんですか!?」
「このままではノエルが王宮から出られない」
「ヴィンセント殿下、ご存知なんですね。俺はてっきり国王が教えてないもんだとばかり……」
「……隠し通路をすべて知っているのが国王というだけだ。もしもの時のためにいくつかなら高位貴族たちも知っている。お前の父親も知っているはずだぞ」
「そうなんですか……」
ヴィンセントとパーシヴァルの会話が耳を通り抜ける。王宮の隠し通路の話をしているようだ。
王宮にはもしもの時に備え、いくつもの脱出用の通路が張り巡らされている。
歴代の王だけがそのすべてを把握しているそうだ。
いくつかの貴族家の当主は一部の隠し通路を知らされており、ノエルの父もその一人だった。
ノエルはヴィンセントに手を引かれ、知らない部屋へ連れて行かれる。
「ここに隠し通路への入り口がある」
「……今更なんですが、俺とリサさんに隠し通路教えていいんですか?」
「随分と長いこと使われていないから……。でも、口外するなよ」
「わかりました……」
リサとパーシヴァルが神妙に頷く。ヴィンセントは壁を探っているが、何をしているか見る余裕はノエルにはなかった。
「へぇ、そんな仕掛けが……」
感心するパーシヴァルの声はガタンッという音にかき消される。
見れば目の前の壁に大きな入り口が開いていた。
夜目の利くノエルが見ても暗い隠し通路から、密閉されていた空気がぶわりと吹きつける。
「くっっっさっ!!!!」
「ノエルッ!?」
人の出入りがないはずの場所から流れ出た空気にもあの悪臭が濃く臭い、ノエルは本日二度目となる失神をした。




