プロローグ
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失敗したと気づいたのは、手遅れになってからだった。
重い衝撃と同時にずぶりと鋭いナイフが根元までノエルの脇腹に刺さる。
痛みより先にこんなに近づかれるまで襲撃犯に気づかなかった自分の不甲斐なさを恥入った。
ただ、彼女は人より頑丈であるため、致命傷にはならない。そう冷静に判断し、追撃される前に犯人を捕らえようとした。
しかし。
「ノエル!!」
灼けるような痛みにかくり、と膝から力が抜けて崩れ落ちる。
隣に立つ婚約者が床へ倒れる前に彼女を抱き止めた。
刺されただけではありえない強烈な痛みに、自分の身に何が起こったかを理解し、震える手でナイフを引き抜く。
「駄目だ! 血が……!!」
ナイフを抜いたことで大量に出血する。ノエルは緩慢な動きで顔を上げた。
夜会の照明を浴びて輝く金髪に、深い青色の瞳。端正な顔立ちをした彼女の婚約者、第二王子のヴィンセント。
いつものどこか余裕のある態度は消えさり、慌てて傷口を押さえている。
ノエルはそんなことをしなくてもいいと伝えようとして、舌が痙攣してうまく動かないことに気づいた。
震えは全身に行き渡り、身体を支えることができずにヴィンセントへ寄りかかる。
「衛兵! その女を捕らえろ!」
ノエルを刺した女がヴィンセントに命じられた兵士たちに囲まれ、拘束される。
華やかな夜会の会場はたちまち騒然として、突然の凶行に悲鳴が上がる。
襲撃犯の正体はか弱い令嬢だった。歳の頃はノエルと同じくらいで、面識はない。
屈強な騎士たちに囲まれているのに、彼女はぼんやりと座り込み、どこか遠くを見ていた。
床に押し付けられ、後ろ手に縛られても抵抗どころか悲鳴も上げない。まるで人形のようだ。
こんな大胆な犯行を行ったとは思えない大人しさだった。
(あの様子……。もしかしてミカエラの仕業? 本当に、操り人形みたい)
霞む目を凝らして会場を見回したが、ぼやけ始めた視界ではミカエラを見つけることはできなかった。
多分、いたとしても犯人との接点を極力無くすため近寄っては来るまい。彼女も、彼女の一族もそれが常套手段だった。
ミカエラ・アッシュフィールドは、幼い頃ヴィンセントに一目惚れをして以来、彼に付き纏うようになった令嬢だ。
彼の婚約者になるために手段は選ばず、同年代の令嬢へ手当たり次第危害を加え、時にヴィンセント本人に薬を盛ることすらやってきた。
当然、ヴィンセントと王家からの心象は悪く、彼女は婚約者に選ばれなかった。
正式に発表されたヴィンセントの婚約者はノエルである。しかし、それで諦めるミカエラではない。
ノエルを亡き者にしようと、あの令嬢を刺客に仕立て上げたのだ。
ミカエラに操られ、襲撃犯にされたあの可哀想な令嬢は、王族を襲ったかどで処刑されるし、一族郎党すべて罰せられる。
それをミカエラは罪悪感もなく見捨てるのだ。
(でも、もうトカゲの尻尾切りなんてできない。……私を殺すこの毒が、動かぬ証拠になる)
あのナイフには毒が塗られていた。普通の毒があまり効かないノエルさえ殺せる猛毒だ。
完全に毒が体に回り、痙攣し始めたノエルをヴィンセントが横抱きにして、そのまま足早に会場を後にする。
「ノエル、医者を呼んだから大丈夫だ。すぐ治療して貰えば痕も残らない」
焦りを押し殺したような声が耳をすり抜けていく。
朦朧としてほとんど理解できなかった。手足の先から血の気が引いて感覚が鈍い。
(痕……。痕なんて、死んでしまえば関係ない。あの一撃を避けられなかった時点でもう私の運命は決まってしまった)
ノエルは諦観と共に死を受け入れた。
ナイフには、トリカブトが塗られていた。解毒薬のない危険な毒草である。
助かる方法もないことはないのだが、ノエルの場合、傷が深すぎる。内臓まで達した刃先は身体の奥深くまで毒を届け、今や全身に回っている。
幸いなのは彼女の死によりミカエラが捕まりそうなことだ。
トリカブトは薬の材料にもなるため一般にも流通しているが、よく暗殺に用いられてきた歴史から販売や採取、栽培は国が厳しく管理していた。足の付きやすい毒なのだ。
「医者はまだか!」
「申し訳ありません! 宮廷医に獣人を診察できる医師がおらず……」
「もう普通の医者でいい! 早く治療しないとノエルが死んでしまう!」
もうほとんど感覚のない体が、柔らかいものに包まれる。寝台に下ろされたらしい。
脇に立つヴィンセントが誰かを怒鳴っている。もう手遅れだとわかっているノエルは少し申し訳なくなった。
ノエルは獣人という、今では数少なくなった人種である。
獣人は体力や筋力で大きく人間に勝る。だから、ミカエラに付き纏われるヴィンセントの婚約者にノエルは選ばれたのだ。
ヴィンセントを守り、ミカエラを排除する。始めからそのためにノエルは彼の隣に立った。
自らの死を以てなんて少し情けないが、役目が果たせそうでホッとする。ただ、同時に虚しさを感じた。
ヴィンセントが横たわるノエルを覗き込んで何かを話している。まだ音は耳に届いているが、言葉を理解することは出来なかった。
彼がいる方の手だけがほんのり温かく、握られているのだと気づく。毒のもたらす激痛が少し紛れた気がする。
目に映るのは金色の髪と顔の形だけで、もうどんな表情をしているかは見えなくなっていた。
(ああ、開き直って、もっとパーティを楽しんでおけばよかったな)
今日のヴィンセントは新年を祝う夜会にふさわしく、白い生地に藍色の糸で全面に刺繍をした豪華な衣装を纏っていた。
彼女も血で台無しになってしまったが、彼から贈られた金の刺繍が施された青いドレスを着ていたのだ。
初めて婚約者から贈られたドレスを着て、絵に描いたように美しい王子と、夜会に出席する。少女の夢がそのまま現実になったような経験だ。
ノエルは夜会が苦手だが、それでもこれっきりなら楽しめばよかったと今さら後悔する。
素直に楽しめなかった原因は、ヴィンセントにある。彼は彼女と婚約しながら、秘密の恋人がいたのだ。
ミカエラが恋人へ危害を加えることを恐れたヴィンセントはノエルと婚約し、恋人を守る盾とした。
そんなこと、少し前までノエルはさっぱり知らずに贈られたドレスを喜び、夜会を楽しみにしていたのだ。
(ちょっと変わった仕事だって切り替えたはずだったのに。こんなことで心を乱して、失敗するなんて情け無い)
婚約者の不誠実さを知ったあとでも、ノエルの心に浮かぶのは自身の力不足を責める言葉だけだ。
ヴィンセントは不誠実だったかもしれないが、優しかった。
今日のエスコートも気遣いに溢れていたし、贈り物も手抜きのない素晴らしいものだった。
時々あった茶会での会話も楽しかったし、何より、だんだんと儀礼的な態度が消え、彼女に気を許してくれていたのが嬉しかった。
どんな事情があろうと、ノエルの記憶の中にいるヴィンセントはきらきらと輝いている。
それが少し悔しくて、けれども仕方ないと受け入れる。
どう足掻いても、ノエルにとってヴィンセントは特別だ。何故なら、彼女の番なのだから。
番というのは神によって結ばれた運命の相手である。ただし、それがわかるのは獣人だけだ。
ある理由から本人には打ち明けていないため、ヴィンセントは自分がノエルの番であることを知らない。
でも、それでいい。彼の幸せにノエルは不要だ。
会ったことはないが、彼の恋人は地味なノエルと違って、可憐で愛らしい令嬢らしい。
きっと並べば一幅の絵画のように似合いの二人なのだろう。
(よかったですね。これで婚約を破棄する手間が省けますよ)
ここで彼女が死ねば婚約者の座が空き、長年彼を苦しめてきた女も排除される。
恋人との関係を秘密にする必要もなくなるし、結婚もできるのだ。
これからすべてが彼に都合が良く進むに違いない。
それが嬉しいか、悔しいか、考える余力はもうノエルにはなかった。
視界が暗く沈み始め、瞼が開いているのかどうかすら自分ではわからない。
ただ、ヴィンセントの手の温もりがだけが温かく、少し切なかった。
彼は特別ではない相手にもこんなに優しくできるのだ。いっそ残酷だった。
(……もし、次があるなら)
この世界の神は、若くして死んだものを憐れみ、加護を与えて生まれ変わらせると信じられている。
今まさに死に行こうとしているノエルも、その恩恵を受けられるかもしれなかった。
(番は、わからなくてもいいかな)
ノエルは静かな心持ちでそう思った。
番は神によって結ばれる一対。でもそれがわかるのは獣人だけ。
わからない人間からしたら一目惚れと同じだ。
稀にわかる人間もいるらしいが、ヴィンセントはそうでなかった。
番と出会えて幸せだったが、同じだけ苦しんだ。もし次があったとしても、同じ思いをするのはごめんである。
――君は、どんな尻尾をしているの?
ふと、いつか想い合う夫婦になるのだと信じていた頃のことを思い出した。
獣人のノエルには尻尾がある。それに興味を示したヴィンセントからそんな質問をされた時もあった。
あの時ノエルは混乱の末に「結婚するまで秘密です」なんておかしな返答をしてしまった。しかし。
(あなたにだけは、絶対に秘密です)
もう、いつかなんてない。
そう思ったのを最期にノエルの意識は途絶えた。
◇◇◇
不意に目が覚める。
随分長く眠っていたような、一瞬目を瞑っただけのような、不思議な感覚に包まれた彼女の目の前を見覚えのある肖像画が視界を占拠していた。
ノエルが十五歳の成人を迎える記念に描かれたものだ。
こちらへ背中を向け、顔だけ振り返った白いドレスを着た彼女の尻からふっさりとした毛足の長い毛皮のようなものが生えている。
これが、ノエルの尻尾だ。
狼の獣人を先祖に持つブラックウッド家に生まれたノエルには狼の尻尾が生えている。
普段はドレスの下に隠しているのだが、この時だけは家族のリクエストに応えて尻尾を出して描いて貰った。
祖父の代からずっと付き合いのある画家の腕は確かで、彼女自慢の尻尾の毛並みの艶や柔らかさが伝わる筆致である。
家族にも大好評の、書庫に飾られたこの肖像画。
それを何故か彼女は見ていた。
ついさっき死にかけていたはずなのにいつ死地を脱したのか。それに、何やら身体にも違和感があった。
「ノエル、これが君の名前を貰った百年前のノエル様だよ。ほら、君と同じで尻尾が生えているだろう?」
父とよく似た声がすぐ近くから聞こえて咄嗟にそちらを向いていた。
すぐ横にいたのは父や彼女と同じ灰色の髪と榛色の瞳をした男性だった。
ブラックウッド家特有の地味で人の良さが滲み出るような顔立ちをしている。父に似ているがほんの少し違った。
ノエルは今この男性の腕に抱かれているようだ。
身体はしっかり支えられているが、足はぷらぷらしている。目線の高さがおかしいと、追及する前に別の声がした。
「尻尾だけじゃなく顔もよく似てるわ! 百年も昔の人なのに不思議ねぇ」
可愛らしい声に振り向くとキャラメル色の髪と瞳の小柄で愛らしい女性が笑顔でノエルと肖像画を見比べていた。
こちらはまったく見知らぬ人物だった。
貴婦人と思われる装いだが、ブラックウッド家の女主人である母は銀髪に渓流の淵のような深い碧の瞳の凛とした美人だ。この女性とは正反対の雰囲気をしている。
「ねぇ、リック。この方はどんな人生を歩んだの?」
「ノエル様は百年前の王子の婚約者で、夜会の最中に襲撃犯から襲われた王子を庇って亡くなったんだ。享年は確か十八歳だったかなぁ」
「えっ……」
リックと呼ばれた男の語る絵画の少女の人生に貴婦人は呆気に取られた。
「そんな早くに亡くなられた方の名前を娘に付けたの?」
「いや、でも、本当にノエルにそっくりだから……」
「そっくりだからって! ノエルちゃんがこの方みたいに短命になったらどうするの! 縁起が悪いわ!」
ノエルは混乱の極みにあった。
ここは彼女が生まれ育ったブラックウッド邸で間違いない。でもこの邸の主人らしい男女は彼女の両親ではなく、目の前の自分の肖像画は百年前のノエルだと言う。
一体、何が起こっているのか。
「どういうこと……?」
呆然と呟いたノエルの言葉を拾った男は焦る。
「ノ、ノエル? どうしたの? 大丈夫、長生きできるように父様がノエルを守るからね!」
「もういっそ改名しましょ? 今度はキャンディちゃんとかショコラちゃんみたいな可愛い名前がいいわ」
「なんてことを言うんだ、ミア! ノエルだって可愛いじゃないか!」
ノエルを改名するかしないかで争う男女を他所にノエルは呆然と自分の手を見下ろした。
紅葉のように小さな手に、ぷにぷにと柔らな短い指。手足も短く、まるで子供のよう。
いや、子供になったのだ。
目の前にある肖像画に向き直る。
百年前のノエルだという絵の少女は少しはにかんだような表情で彼女を見つめ返した。
先祖の名前を子供に付けることは、この国では一般的な風習だ。実際ノエルの名前も元は大叔母から貰ったものだった。
でも大叔母に尻尾はない。ノエルは久しぶりに生まれた尻尾のある獣人だったのだ。
だから、尻尾のあるノエルと言えば彼女しかおらず、この肖像画の少女は確実にノエルで、でもこの肖像画の少女は百年も前に生きた人物で……。
「うそでしょ……」
ノエルは愕然とした。彼女はどうやら百年後の未来に生まれ変わってしまったらしい。
困ったことに、前世の記憶を残したまま。
今日から毎日一話ずつ投稿していく予定です。よろしくお願いします。




