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後編



 物心つく前から踊ってきたが、それが必然だったのか偶然だったのかわからない。ニルダーナという至高の存在が常に傍にあって、私自身が踊る必要は、私にも周囲にもなかったように思う。

 ニルダーナが所属を変えたばかりのその一瞬だけ、私にも光があたる時がある。あのニルダーナの血を分けた子供なのだから、その才や美貌も受け継いでいるのではないか?

 ……私には落胆という評価すら与えられなかった。地味でつまらない、小さな踊り。そんなに何もかも、簡単に上手くいくわけはない、という苦笑。

 私はニルダーナを半端に映す、くもりガラスのような存在だった。





「ちょっといいかい」


 ちょうどドーランを塗り始めようとしたところだった。控室を提供してくれている酒場の女将がドアを開けて入ってくる。

 ほとんど胸元を放り出したような私の恰好に、女将は顔をしかめた。


「あんた体は売らないくせに、娼婦も真っ青の脱ぎぶりじゃないか」

「ごめんなさい。つい」


 パフとドーランの入った缶をテーブルに戻し、衣装の胸元を引き上げる。その上からケープを羽織った。

 本番前後の控室は、下着やそれに類する薄物一枚しか身に着けていないような男女がうろついている。その感覚がいつまで立っても抜けずに、奇異の目で見られることは多かった。


「あの人があんたに会いたいとさ。すぐにでもこっちに来そうだったから、止めといて良かったよ」

「……塗り始める前で良かったわ。ありがとう」


 彼自身は恐らく慣れているし咎めるということもないだろうが、化粧途中の、半端に着た衣装とケープ姿で出ていくわけには流石にいかない。仕方がないので、ひとつなぎの衣装は完全に脱いでしまって、ブラウスとスカートを着直した。


「あっちの部屋にもう通してあるよ」


 こういう店にはそもそも来るべきでない彼のために、それでも一番マシな部屋がいつでも準備されている。裏口から入って、なるべく姿を見られずに帰れるように、一番奥まった一階の部屋。そこは安酒場には似つかわしくない内装と備品と清潔感で、頑丈な鍵をかけられるようになっている。


「私にもいつか鍵のかかる部屋を用意してくれる?」

「あんたはあの人ほど金にならないから、どうだかねぇ」


 女将の口調は粗野だが、存外それが私は好きだった。





 軽口を叩いたものの、鍵のかかる部屋や今以上の待遇を、切実に求めているというわけでもなかった。支度中に突然扉を開けられても、それが女将でも酔客でも、別に構わなかった。

 舞踊団での針子の職を辞してから、私は、自分が驚くほど大胆になっているのを感じていた。



 扉をゆっくりと叩き、従者の応える声を待ってから入室する。

 伯爵は、立ったまま、小さな窓から外を眺めていた。帽子やコートを脱いでもいない。黒いインバネスの表面が、かすかに濡れて光っている。弱い雨がまだやんでいないようだった。


「……あぁ、すまないね。これからだったのだろう?」

「いいえ。いつでも構いません。そのような約束でしたから」


 それに雨があがらなければどの道路上には立てない。そう答えると、伯爵は疲れたように笑った。頬は()けて土気色をして、拭いきれない悲しみの陰を漂わせていた。


「掛けて」


 座る気になったようだ。調度品以上の存在感を見せなかった従者が即座に帽子とコートを預かって、室内に備え付けのコートラックに持っていく。

 私も軽く礼をしてから腰掛けた。といっても、淑女の礼など、舞台上のキャラクターのマイムしか知らず、それをトレースしただけのまがい物だったが。


「君の評判を聞いたよ。子爵家のパーティはずいぶんと盛況だったらしいね。それにレストランでのパフォーマンスも」

「みんな、ご紹介くださったあなた様のおかげです」


 私は道化の恰好をして立っていただけだ。物珍しげに近づいてくる人には、気取った仕草で花を捧げる。


「見ていてもわからぬほど少しも動かずにいることは、常人にはできまい。それにあの、なんと言えばいいのか、機械仕掛けの人形のような所作だ」


 テーブルに用意されているティーセットには、伯爵のものにはブランデーの入った小さなグラスが、私のものには砂糖が用意されている。伯爵はため息をつきながら、紅茶にブランデーを落とした。この部屋とこの部屋にある品の全ては彼が買っているようなものだから、ここの客では舐めることもできないような高価な酒だった。

 言葉とは裏腹に、伯爵がちっともそう思っていないことを私は知っている。伝統的な踊り子の美的表現を支援してきた彼からしてみれば、私のやっていることなど下品で(いや)しい、児戯に等しい振る舞いだろう。

 伯爵が口をつけたので、私もお茶に口をつけた。こんな時でもないと上等な嗜好品を口にする機会などないから、それだけでも、このわかりきった問答を繰り返す価値はあるのかもしれない。


「……それも踏まえてだが、やはり、君に戻ってきてほしいと言っている」


 私も、そうあるべきだと考えているよ。

 そんな伯爵の言に、さて今回はなんと言って躱そうか、と考えて、私はただ微笑んだ。



 ニルダーナが死んでから三ヶ月が経とうとしていた。

 役柄の最期を演じてそのまま、というその死は王都中に衝撃をもたらし、舞踊界のみならず、芸術を愛する全ての人々が、未だその死から立ち直れてはいない、らしかった。

 王立舞踊団は追悼公演を続けている。もしもそこに血を分けた娘が出るとなれば、それは芸術に命を捧げた踊り子、というある種の幻想に、また別の華を添えるに違いなかった。

 舞踊団側は、次代の「北極星」が決まるまでの、話題の繋ぎにでもしたいと考えているのかもしれない。そういう扱いにはニルダーナの後を付いて方々を回った中で慣れていたし、また、その下手な商売に乗っかっていく気もさらさらないのだった。

 だから、困ったことと言えば、私には到底理解の及ばない情の深さで財を投げ打つ、この人のことなのだ。


「私達が今こうしているのも、あの人が遺してくれたものだと思うと……」


 伯爵は名前を呼ばない。あの女が死んでからもうずっとそうで、それが、彼が感じている悲しみの深さを物語るようだった。


「おかしな話だが、君のことを娘のように思っている」


 だから、なるべく良い環境にあってほしい、なんて。憂い顔でそんなことを言うものだから。

 ねぇ、ぷっと吹き出さなかった私を誰か褒めてほしい。私はあの女ですら親だなんて思ったことはないのに、私との方が歳の近いような、あの女の若い恋人なんてなおさらだった。

 甘くて青いシトラスとバニラの香りが似合う人は、きっと中身までそういうもので出来ているのだ。


「私に両親がそろっていたとしても、ここまでしてもらうことはなかったでしょう。この身に受けるにはいささか過分ではないかと、あなた様のご親切を恐れ多く思っています」


 顔を引き締めるのは大変だった。震えそうになる唇を噛み締めて、なるべくしおらしく見えるように、わずかにうつむく。

 路上や安酒場で、特定の姿勢で動かずにいるだけの芸をする私が、高級店や貴族の屋敷にまで出入りできるなど、破格の待遇だった。金銭であれ名誉であれ、舞踊団にいた時では見ることすら叶わなかったようなものを、目の前の人からは施されている。

 伯爵はもどかしげに、視線を落とした。二十半ばほどの、身分も財もある大人の男が、取るに足らない小娘相手に、ひどい意地悪でもされたかのような顔をしているのだった。


「私が好きでやっていることだから、そんな風に感じる必要はないが……。あの人に関しては、君は、たぶん、思い違いをしている」


 額に手を当てて、重いため息をつく。とても言いにくいことを話すかのように、声は掠れ、所々つかえている。


「舞台はあの人の命同然だったが、君もまた、あの人にとってはそうだった。心臓が弱っていたのは知っているだろう? 病を押して立ち続けたのは、君のことがあったからだ。君を復帰させようと……、いや、君のせいだと言いたいわけではない、すまない、泣かないでくれ」


 いよいよこらえきれなくなりそうだったので、ハンカチを取り出して顔を覆うしかなかった。

 心臓が弱っていた? あの女が健康上に問題を抱えていたなんて私は聞いたことがなかった。ずっと殺しても死なないような女だと思って生きてきたのだ。本当に死んでしまったことも驚きなら、体の不調を恋人とはいえ他人に明かしていたことも驚きだった。

 それを今、この人に言ったらどうなるだろうか、と悪魔のような考えがよぎった。舞台と同じくらい重要らしい娘は、重大な疾患を抱えていたことなんかちっとも知らされていなかったし、そのまま死なれた、それをたった今母親の恋人から明らかにされた、と。

 ……想像の先はひどくつまらない。

 あの女に対する伯爵のよくわからない幻想を壊してやりたいわけでも、感傷に浸る彼に恥をかかせたいわけでもなかった。


「彼女にとっての舞台と私が並べるとはとても、思えなくて。あのように倒れられたのは不幸なことでしたが、どこかで彼女らしいとも感じました。それくらい、舞台と共にある人でしたから」

「そう、……難しい人だったからね。信じられなくとも無理はないが、あの人は……、君のことを特別に想っていたよ。私は時折それに嫉妬した。年甲斐もなく」


 まるで罪の告白でもするかのような口ぶりだったが、思い違いをしているのは彼の方だった。

 私には、ニルダーナが私のことをどう思っていたのか、などということは最早どうでもいい。私が舞踊団に戻らないのは、あそこで役を受けて踊るよりも、もっと心惹かれるものを見つけてしまったからなのだ。

 けれどそれを説明し、理解してもらうことは難しかった。私にもそれが私の感覚上で見る幻覚の類なのか、それとも現実のものなのかがはっきりとしないのだから。


「あの人のことを、一緒に偲んでくれないか」


 伯爵は声を震わせた。

 手を変え品を変え私の所に持ち込まれる話の終着点は、結局の所、こうなのだった。そこに至るまでの思惑が何であれ、ニルダーナを思い出すための(よすが)を求めて、側に置きたがっている。本物ですらない、できの悪い模造品よりもまだ一段落ちる、くもりガラスに染み付いた影を。

 すがらずにはいられない伯爵を、哀れに思った。

 喪う準備ができていなかったせいで混乱している。

 頼まれもしないのにぎらぎら(ひか)っていたような女が、死ぬときばかりは儚く綺麗だったものだから、こんな風な未練を残すのだ。


「申し訳ありません。あなた様の彼女へのお気持ちの深さを、私などが分かち合えるとは思えません」


 不在の痛みを慣らしていくために、似たようなものをと求める気持ちは理解できる。しかし、いつか必ず来るだろう彼らが正気に返るタイミングで、何故こんなものを?とある日突然怪訝な顔で見られるのはまっぴらだったし、付き合わねばならない道理もなかった。

その役はやりたくない、ではなく、あなた以外にはできないことだ、と匂わせると、伯爵は傷ついたように微笑んだ。


「……君の意に沿わないことをさせてしまっては、本末転倒だったな」

「ご期待に添えないことを心苦しく思います」


 私には舞踊団よりも今の場所が似合っていると思うし、好きだ、と聞こえの良い言葉で伝える。

 伯爵は、全く納得はいっていないが、受け入れるというサインで、顎先を少し動かした。

 言うことを聞かないなら支援を打ち切るとか、どこにもいられないようにするとか、脅すようなことを言ってもいいし、またそうできる立場ある人なのに、伯爵からは匂わされたことすらなかった。それは伯爵の弱さなのかもしれなかったし……、だからここまでニルダーナのような女に執心しているとも言えるのかもしれなかった。


「予定を変えて出てきてしまってね、もう行かなければいけない。君と少しでも話せて良かった」


 伯爵が立ち上がり、従者が帽子とコートを着せかける。雨に濡れかけていたことなど嘘みたいに、綺麗に直されていた。

 従者の開けた扉をくぐる直前に、ふっと思い付いたように伯爵は振り返った。


「君がもし、結婚を考えるようになったら、そのときは私に世話をさせてほしい」

「そんなことまで……」


 これは少しも予想できない切り口だったので、なんと答えたものか迷った。

 伯爵の口調は軽いもので、にこやかなユーモアすら含まれていた。まぁ呆れるほど、与えたがる人なのだ。ニルダーナにしてやれなかった、と思っていることを、全てやるまでは気が済まないのかもしれない。


「結婚だなんて今はとても……、想像もつきませんが、その時が来ればご相談させていただくかもしれません」

「約束だよ。大抵の相手とはまとめられる」


 約束、という言葉は、ひとつ、この伯爵の好きなものだ。

 何の拘束力も課さずに、言葉一つで叶えられると信じているように見える。例えば、私がずっとここを拠点にして、定期的に伯爵と面会を行い、困り事があったら必ず相談するといった、今みたいに。


「それでは、また」


 ひら、と伯爵のコートの端が翻って、酒場の煤けた暗がりの中で、その上質な黒色は浮かび上がって見えるようだった。




 供された部屋で再度街路に立つ準備を始めながら、そろそろ潮時かもしれない、と思った。

 この酒場も、酒場が面している道も好きだ。様々な階層の人がちょうど行き別れていく立地が良いし、伯爵の支援があって、女将が良くしてくれる。ここにいれば、お金や生活の心配をする必要はない。笑ってしまうことに、結婚なんて道もあるらしい。

 けれども、ここにいる限り、あの女との繋がりが消えることはない。いっそ全部、捨てるべき時が来たかもしれない。それを確認するための日々だったような気さえした。

 私は流れていたい。そうするほど、求めているものに、私以外の何にでもなれるあの瞬間に、もっと透徹に、近づける気がするから。



 外へ出ると、ぽつり、と雫が頬に落ちてきた。またもう少し待たなければならないか、と空を見上げたけれど、そのひと粒が本当に最後で、雨は上がったようだった。雨になるのも好きだけれど、衣装も化粧も全部だめにしてしまうから、ひとりで適当な洋服を着ている時以外はふさわしくない。


 馬車道よりも一段高い歩道の、ガス燈の横に立って、酒場への階段を案内するようにお辞儀する。

 雨上がりの夕暮れの中で、道化の白塗りと、性別もわからないような、体の線の出ない派手な衣装は人目を引いた。ぎょっとしたような視線がたくさん集まってきて、それでも私は微笑んで動かずにいるだけだ。何がしかの芸が始まるのかもしれないというちょっとした関心が、なんだあれは置物なのか、と散っていく。酒場の看板と同じデザインの、小型の木板を首や腰から下げているので、尚更だった。

 湿度が高いせいもあって、衣装の中はすぐにも汗まみれになるけれど、どうしてか、こんなことを始めてから顔や首には汗が浮かないようになった。固まっていく節々が上げる悲鳴を聞きながら、じっと我慢を続ける。

 高揚の瞬間が訪れるのは、その後だった。



 今夜の私は、どこからか聞こえてくる、馬車の車輪の回る音。あるいは、濡れて妖しく光る敷石の冷たさ。雨が立ち昇らせた、眉を顰められる埃のにおい。

 私のお尻にぶつかって振り向いた煙突掃除の少年。ナイフのように差し込まれた一瞬の緊張感と、何も()れるものがなかった、と舌打ちしたい気分。

 腰のベルトに、残った花を挿してくれた、花売りの少女。今にも崩れ落ちそうな白いローダンセ。あなたにほんものの花をあげたいの、思ったのが、私かあなたかわからない。

 馬車を探す淑女。協会に衣類を寄付した帰り道だった。哀れみと、貧民の、胸の悪くなるような臭気への嫌悪感が同居する。神よお許しください、肩がぶつかって懺悔が途切れる。道を急ぐのはガチョウを買ったばかりの料理番。高そうなコートだったのに、汚してしまったかもしれない。追いかけられないように早く紛れてしまわないといけない。焦りが二重にこだまする。

 じめじめした路地裏。煤けた被り物の中で、乞食は、ガス燈に負けぬほどの燐光を目に宿している。今ここで、馬車の事故でも起こって、たくさんの人間が巻き込まれればいい、と夢想する。そこから持ち物や金を盗む。ひとまずあんな白塗りは死ぬべきだ。喉の乾きも知らぬから、芸などに身を預けられる。


 劇場の観客や、高級店や貴族の屋敷で出会う、物静かでわきまえた人々よりも、時には本物なのか疑って触りに来る人や、ぶつかって倒れたままでいると、気まずげに立て直そうとしてくる人たちのほうが、私は好きだった。

 こんな幸福が、誰にもわかるはずがない。あのニルダーナにでさえ。



 ガラガラと車輪の音もやけに大きく、箱馬車から半身乗り出す男が見えた。

 ()()()は、杖を振りかぶる。ぴくりとも動かない、真っ白い肌の道化が遠くから見えたので、人形に服を着せているのか?と疑ったのだ。ちょっとした好奇心というやつだった。

 杖の先は、顔を出し始めたばかりの月に照らされて、銀色にきらめいていた。




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