中編
舞台は、私の一番好きな場面に差し掛かっていた。
ニルダーナ演じる高級娼婦が、恋人に札束を投げつけられるシーンだ。舞踊劇としてはその直前、主役ふたりによる愛と葛藤の男女の踊りのほうが山場となる。
けれど私は、てひどい侮辱を受けた高級娼婦が見せる表情が好きだった。
散々に男を翻弄し傅かれて生きてきた女が、プライドを投げうって年下の恋人に許しを請う。恋情に訴えかけ一度は結びつくものの、今度は衆目の場で突き放されるのだ。
ニルダーナがまるで普通の町娘みたいに驚き呆けて、じっとりと悲しげな顔を見せると、腹の底から笑い出したいような衝動にかられる。共通点のある役柄でさえ、そのような情緒が女の中に塵程も存在するとは思えないが、馴染みある感情しか演じられないと考えることこそ、凡人の証明だろうか。
クライマックスでは、不治の病に侵された高級娼婦の死にゆく踊りと同時に、セカンドの踊り子たちによる、そうはならなかった未来を表す幻影の踊りも披露される。
現実の高級娼婦がひとり寂しく息絶える間に、幻影の恋人たちは誤解を解き、女は男に看取られて幸福のうちに息絶える。つかの間見た夢としての幻影が消えていく中、若き恋人の未来のために身を引いた娼婦と、残される男の悲哀が際立つ。
舞踊劇の初版では踊り子たち三人が複雑に絡み合い、特に女性二人は結末の違いを表すように重なって踊っていたようだが、この版では一組とひとりの踊りは完全に分けられていた。
今夜のニルダーナの踊りは、一段と熱が入っているように感じられた。
大きく開いた背中はびっしりと細かな汗で覆われ、光っていた。それが余計に筋肉や骨の陰影、身のこなしを強く浮かび上がらせる。
死にゆく踊りは、ピアノの音に合わせて脱力と突然の緊張が繰り返される。力が入るその一瞬は、生命の最後の燃焼のようにも、魂が抜けていく肉体の、ただの反射のようにも思える。
ニルダーナの肉体が発する熱量は、劇場の温度を上げ、見る者全ての血潮を沸騰させるようだった。太ももから足首までは柔らかく波打ち、しかし爪先は細かく固く舞台の床を叩く。
その小さな、本当に微かな音はマッチを擦る音に似て、情念の炎を無数に灯してまわるようだった。
やがてべったりと舞台の床に足裏をつけたことで、本当の終わりが訪れた。一歩、二歩と踏み出し……、横なぎに倒れ込む。重い荷物を落とした時のようなどん、という音に、客席が息を飲む。
何が起きたのか、数瞬窺うような気配が漂い……、それからわぁ、と歓声と拍手があがった。ブラボーと叫ぶ声があちこちから上がり、やがて反響でそれらが混然一体となり、耳鳴りのような音に変わってもまだ鳴り止まない。
まだ幕も落としきられていない中、ニルダーナの白いジョーゼットの衣装が、燃え残った蝋燭のようにぼんやりと浮いて見えていた。
「マダム! マダム、素晴らしかった! マダム!」
いったん袖にはけていた相手役の男が、うずくまったままのニルダーナに歩み寄った。激しい踊りの後に虚脱状態に陥るのはよくあることではあるが、幕はすぐにでも上がってしまう。主役が消耗しきっているのなら、相手役がそれを支えねばならない。
ニルダーナの肩に遠慮がちに手が置かれ、何度か声がかけられたが、中々起き上がらない。倒れた時にずいぶんと派手な音があがったから、どこか痛めでもしたのかもしれない。
相手役の男が下手のほうに合図を送ると、ゴブレットや大きなタオルを腕に世話役の娘が飛び出してくる。
ニルダーナの汗みずくの背中が大きなタオルで覆われ、その上から相手役の男が、割れ物を扱うかのような慎重さで、上半身を抱き起こす。
ぐらりと頭が大きく揺れて、一瞬、首でも落ちたのかと錯覚した。
「マダム」
興奮か疲労かに上気していた男の横顔が青ざめた。舞台袖をばっと振り向き、何を言おうとしたのか、もどかしげに一度口が開閉する。それから、大きな叫びがあがった。
「ドクターを! 誰か!」
ひっ。横の同僚が、喉を絞められた鳥のような悲鳴をあげた。
すぐにも駆け出した人がいる。すれ違いざまにがつんと肩がぶつかって、こんな時に誰だ、と苛立たしげに振り向いた彼から、私がいったいどんな風に見えたというのか。ひどく驚いたような顔と舌打ちが返される。真っ青な同僚に乱暴に引っ張られて、端の方へ避けさせられた。
その開けた道を、口々にマダム、と叫びながら、踊り子たちがニルダーナの周りに集まっていく。荒々しい足音。踊り子、芸術監督、大道具小道具、針子、そんな人の壁の隙間から、ニルダーナの痩せた胸がかすかに上下しているのが見えた。死んではいない。しかしそれは、今はまだ、と誰もに予感させるような状態だった。
高揚感でいっぱいだったはずの舞台が、瞬きの間に、狂乱に陥っていた。
公演では必ず控えているドクターがふたり、すぐに連れてこられた。外傷を診るドクターと、内側の疾患を診るドクターだ。その後ろに強張った顔の支配人が続く。彼らもまた息をきらしている。
一方のドクターが脈を測っている間に、もう一方のドクターは足元を診ている。シューズを足首に固定するリボンに裁断用の大きな鋏が入れられ、ニルダーナの白く小さく、鬱血だらけの足が顕になった。脚元はでろりと溶けるように脱力していて、それもすぐにタオルで隠された。
縫い付けた糸ではなくリボンそのものをあんな風に切ったりしたらきっと嫌味を言われるだろう、とぼんやりと考えた。ニルダーナはそういう、意味の分からないこだわりのある女だった。
外傷のドクターにさほど出番がないことはすぐにわかる。反対に疾患のドクターは、顔中流れるほどの汗をかきながら、ニルダーナの胸に聴診器をあてている。一度は驚いてゴブレットから水をぶちまけた世話役の娘は、ハンカチを水に浸し、ニルダーナの唇を湿らせてやっている。
支配人が緞帳を少しまくり、オーケストラピットに指示を出した。何でもいいから演奏を続けてくれ、誤魔化してくれ、幕は上げられない。
「残念だが……」
ニルダーナの腕をとり何かの薬を注射したドクターが、口にしたのと同時だった。
とさり。
軽い音が足元からして、首が錆びついたように感じながら視線を落とすと、今夜ニルダーナが着た衣装を思わせる、真っ赤な薔薇の花束が落ちていた。その横をふらふらと男が通り過ぎる。磨き抜かれた革靴、艶めくテールコート、サンダルウッドにバニラの香水の匂い。ニルダーナのパトロンの、若き伯爵だった。
彼自身もまた支えの必要な病人なのではないか、と思われるほど力なく踊り子たちの円に近づくと、崩れ落ちるように膝をついた。相手役の男が、まるで聖骸かのように、ニルダーナの痩身を引き渡す。
伯爵の小さな声がひとつきり、ぽつりと舞台上に落ちた。
「ニルダーナ……」
呼ぶ声に、力なく閉じられていたニルダーナの瞼が、待ちわびていたみたいに、ゆっくりと持ち上がった。
黒い瞳が、不安定に、涙の膜の下で揺れている。
場違いにも誰かが感嘆のため息をあげる。そして誰もそのことを咎めない。それほど現実味を欠いた光景だった。
ぶるぶると震える手で、ニルダーナは伯爵のクラバットを掴んだ。とても身分差のある相手にする態度とは思えなかったが、伯爵は気にしたふうでもなく、上からその手を包むと、紅の剥げかけたニルダーナの唇に、顔を寄せた。
しん、と静寂が落ちる。
誰もが、ニルダーナの、恋人に向けた言葉を、最期になるかもしれない言葉を、聞き取ろうとしたのかもしれない。しかしこの距離はおろか、伯爵とニルダーナを囲んでいる団員達のだれひとりとして、聞き取れた者はいないようだった。あるのはひどく苦しそうな、喘鳴の音だけ。
伯爵だけが、わかった、約束するよ、と唇を動かした。その生白い頬の上を、涙が筋を描いて転がっていく。
そこに込められた感情が実は憎しみだったのではないか、と錯覚するほど力の入っていた手指が急にほどけて、ぱたり、と落下していった。
「ニナ! あぁ、嘘だろう……、目を開けてくれ、ニナ……!」
——あなた、ほんとうはそんな名前をしていたの——
緞帳の向こう側から聞こえてくる拍手の音が、段々戸惑いのざわめきへと変わっていく。
高貴なるお方の、ただニルダーナを呼ぶ哀惜の声が舞台を満たしても、私はちっとも動くことができなかった。
物語は、まだ続いていたとでもいうのだろうか。
若き恋人が自らの行いを悔いて高級娼婦の元を訪れ、その最期を看取る。ここに真実の愛は成就され、女の死をもって永遠となる。
そんなような、物悲しくて、幸福な結末を迎えるために。