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前編



 本番直前の楽屋などどこも刺すような緊張感で飽和しているものだが、今日に限っては、この衣装部屋以上に刺激的な場所は存在しないのではないかと思われた。

 原因の大部分を占めるのは、王立舞踊団で最上級の称号を与えられた踊り子の存在だ。

 本来ならば与えられた控室で、本番に向けて過集中に入るか、特別なパトロンを出迎えているべき女のせいだった。



 ことの起こりは開演まで半刻を切った頃、踊り子へ衣装の着付けに行った針子が半泣きで戻ってきたことに始まる。

 衣装部では中堅となる針子が顔中に汗を浮かべて言うには、踊り子が痩せていて衣装が合わない、布が余る、全体のシルエットが崩れて、ガラス飾りによる重さの負担が増した、これでは踊れない、と吐き捨てられたのだとか。

 そんな、まさか、と、衣装部屋に詰めていた全員が青ざめた。

 「最高の美しさを見せる」ための踊り子たちの体型は常に変化しやすく、当然、衣装部の針子たちも本番直前の個別対応には慣れたものだ。胴回りの布地の、多少の増減などいつものことで、腰元のチュールの飾りをちぎって袖に組み直したことさえある。

 踊り子の最終フィッティングは二日前だった。そんな短期間で対応しきれないほどの差が出たというのだろうか。

 あぁ、せめて、今日のリハーサルで一度本番衣装に袖を通してくれていれば。踊り子が着ていたのは、本番衣装によく似せた、軽い練習用の衣装だった。

 

 名実ともにトップの踊り子が踊れない、では王族から末席のプロレタリアまで誰もが困る。無様な衣装は存在しても、無様な踊り子は存在してはならない。実際にどこまで衣装を正せるかはともかく、踊り子にはなんとか機嫌を直してもらって、舞台に立ってもらうほかない。

 衣装部の上役が、やはり顔中に汗をかきながら、「芸術監督と支配人にこの件を伝えてくるので、彼女をここに連れてきて」と、誰もやりたがらない役を私に命じた。


 そう。踊り子にまつわるこのような緊急事態下で、直接のやり取りを求められるのは常に私だった。

 踊り子にとって最も特別で、最もどうでも良い存在が、私だったから。




「……マダム、これほどお痩せになられては、言ってもらわねば困ります」

 

 実際のところ、布の余り方は異様だった。胴回りは指三本では足りず、胸元の隙間は更に深く、ドレスを支える肩紐や、胸元の生地と繋がっているアームスリーブは本来の位置よりも垂れ下がって、腕の動きを邪魔している。これでは確かに「踊れない」だろう。機嫌の問題だけではない。

 役柄が高級娼婦だったことも悪い方に作用した。踊り子たちの骨が浮き出る体型を、デコルテを大きく開けながらけして貧相に見せてはいけない、難しい衣装なのだ。そしてそれが、幕ごとに色とデザインを微妙に変えて四着もある。

 ため息を吐きたいのをこらえて、片端から布地を詰める。他三人の針子は大部分のガラス飾りを外し、心なしかしぼんで見えるスカートを引き上げ、内側にチュールを足して膨らみを戻していく。


「どいつもこいつも下手くそで、苦労が耐えないせいかしら」


 女はそらとぼけて、ゆったりとした動作で煙草を吸い、正面の大きな姿見に向かって煙を吐き出した。白い靄が覆ったのは鏡に映った女の姿のはずなのに、まるでこちらの顔が汚されたような気さえする。

 踊り子たちの控室とは違って火気厳禁となる衣装部屋で、こうまで堂々と煙草を吹かせるのはこの女ぐらいのものだった。

 女の正面で、休憩室から慌てて取ってきた灰皿の()役をやっている一番下っ端の針子などは、うっすらと涙を浮かべてうつむいている。女が指先で軽やかに灰を落とすたびに、灰皿を掲げた両手がぶるぶると震えていた。


「本番前にわざわざ顔を見たくないの。そう言って? ふたりともよ」


 衣装部の上役が静かに入室してきたのを目ざとく見つけた女は、妖艶に笑ってそう言った。上役の頬が、ぴくりと引きつる。

 ふたり、とは芸術監督と支配人のことだ。もう随分と前から、次期看板を作ろうとする彼らと、女は対立していた。


「マダム、控室のほうのお方はよろしいのですか?」

「いいのよ、待たせておけば」


 パトロンである、高貴なるお方にさえこれなのだから、舞踊団内部の役職など、女にとって意味すら持たないのだろう。


「あぁ、頭がかゆい。ついでだから髪もやり直してちょうだい」


 真っ赤な花を模した髪飾りがいい加減に外され、ぽい、と放られた。ひっ、と誰かが短く息を詰め——、スカートを直していた針子がとっさに針道具を投げ出して、髪飾りを受け止めた。

 衣装部屋の焦燥は最早敵意のようですらあり、びりりと私に突き刺さった。

 自由奔放、傍若無人。そんな振る舞いを美貌と才に許された女には、恐ろしくて向けられないだろう。誰だって、この伝統ある舞踊団での職を簡単に失いたくはない。





 ニルダーナ。

 それが、王立舞踊団で「北極星」の称号を戴く、稀代の踊り子の名だった。


 華々しい地位とは裏腹に、踊り子としての経歴は異質なものだ。

 さる舞踊団の下部組織で踊りを学びながら、場末の酒場でストリップ混じりに踊っていたのがわずか十の頃。数年後には当然のように体も売った。

 最低の環境で培った踊りの技術に、華やかな容姿と演技で舞踊団に取り立てられようかという時期に、大きな怪我をしたらしい。回復を待たれるわけもなく、舞踊団所属など夢のまた夢、下部組織すら追い出され、二年ほど行方がわからなくなり……。


——ある通りに、踊って金を稼ぐ乞食がいるらしい。とにかくボロで汚ねぇ、おまけに子連れだとかいうが、不思議と人目を惹きつける——

 そんな噂につられてやってきた、悪趣味な男に見いだされた。男は小劇場付きの劇作家だった。

 この劇作家が、元乞食(ニルダーナ)を主役に舞踊劇を書いた。

 遊学中の身分ある男と恋に落ち、裏切られ、狂乱のうちに階段から落ちて胎児の命も踊り子としての生命も断たれる、哀れな女の物語だ。

 これがどういうわけかあたって、ニルダーナも、小劇場も、劇作家も一躍名が売れ——……、女は新たな男に見いだされ、あっさりと彼らを捨てた。

 新天地でも躍進は続いた。女を支援しようと名乗りあげるパトロンは引きも切らず、豪商から、知識階級、資産家、爵位持ちと姿を変え、その爵位すら上がっていった。


 そんなことを繰り返して、遂には王立舞踊団のトップにまで上り詰めたのだ。

 パトロンを、所属を、男を、与えられた資産を、何の未練もなく乗り換えてのし上がってきた女が、けれど絶対に捨てないものが二つだけあった。


 ひとつは、踊り子には必要不可欠な専用のシューズ。老舗がどんなに高級品の売り込みをかけようと、女は馴染みの安価な品を変えることはしなかった。


 そしてもうひとつが、笑ってしまうことに、子供だった。どこで誰とどのような経緯で成されたのかもわからぬ、ただ顔立ちが似ているがために、かろうじて女との血の繋がりを感じさせる、さえない子供だ。子供はその時々で、ニルダーナの付き人だったり、研修生だったり、群舞の一員だったりと立場を変えたが、女の所有物、あるいは付属品(おまけ)であるという点は変わらなかった。


 そうして、今はただの針子になった、それが私。





 楽屋で待ちぼうけを食わせられたお方との面会時間——女が待たせておけばいい、と言ったということは、高貴なるお方に会う時間は作れ、ということなのだ——まで付け足して、何とか開演の刻限には間に合った。そのためにガラス飾りを当初のデザインよりもかなり減らしたので、衣装部の上役には睨まれてしまったが。

 だが大した問題ではない。女の内側から発光するような肌の美しさに比べたら、多少のガラス飾りなど物の数ではないのだ。衣装だけを楽しみに来る客もいない。ニルダーナの自由自在の四肢がどのように彩られるのか、客が注視するのはそんなところだった。


 ピアノの演奏が厳かに始まり、緞帳が重々しく引き上げられていくのを、舞台袖でただ見守った。



「やめて、鬱陶しいわ」

「……あぁ、ごめんなさい」


 踊り子たちの衣装替えを手伝うために共に控えていた同僚に、拍をとっていたのを注意されてしまった。


 「未練たらしい」


 同僚の苛立ったような、小さな声に、私は笑うしかなかった。たったの二年では、染み付いた音楽の感覚を忘れることはできない。


 二幕、田舎で遊び暮らす高級娼婦達の真っ白で清楚な衣装は、高級娼婦に初めて訪れた真実の愛を可憐に彩る。

 私があの日着るはずだった、群舞の衣装もあんな風だった。




 決定的な断絶が起こったのは、二年前。

 とある喜劇で、本番直前に大きなハプニングが起こった。

 ニルダーナが星の称号を与えられてから五年がたち、私は初めて群舞の一員として舞台に立つことになっていた。

 はっきり言って、お情けの人選だった。当時、どうも上層部と、ニルダーナ、そしてそのパトロンの伯爵様が揉めていて、機嫌を取るために私の存在を使うことになった、ということらしい。

 舞台に立てる喜びで満たされていたのかどうか、おかしな話だがどうにも思い出せない。

 


 その舞踊劇は、結婚直前の恋人たちが、偏屈な老人形師と彼が作った魔導人形を巻き込んで痴話喧嘩を繰り広げる、恋愛喜劇だった。

 その劇の中では、主役に姿形を似せた人形が全幕で登場する。大抵は、木製に布や綿を貼って化粧とかつらで髪や目の色を似せた程度の、質素で丈夫な人形が使われる。

 ところがその時の人形には、有名な工房がニルダーナに惚れ込んで特別に制作した、陶器の頭部が使われていた。化粧では再現できない、艶めいた白肌にぬめるような黒髪の色が、舞台の照明でぼんやりと光るのは、喜劇に不思議な夢想表現を与えた。顔立ちは、少女の役に合わせて、本物のニルダーナよりもやや愛らしい。


 そんな工芸品の人形を、舞台に設置する過程で針子が落として割った。多少のヒビや欠けならば応急処置でその日の公演をしのげたかもしれないが、ふっくらとした若々しい頬が、親指の先程の大きさ、剥がれてしまっていた。

 リハーサルや日々の稽古で使っている木製の人形は、セカンドの踊り子に似せた茶髪に緑の瞳。開演まで四半刻、新しい着彩をしている時間はなかった。


 だから、私が、人形になった。

 逡巡は一瞬で、私のことを唯一ニルダーナの子供として見なかった針子の彼女のために、何かがしたかった。



 幕が上がった時、舞台の上にも観客席にも、少し戸惑ったような空気が流れた。それも当然だ。照明を本来よりも落として悪あがきをしたが、本物の人間と陶器の人形を全くの同一に見せるのは、それこそ錬金術でも使わない限り無理だろう。私とニルダーナの顔立ちが血縁によって保証されているから、かろうじて役柄の意味を変えずにいられる。

 老人形師の老いらくの恋の意味を。


 私は、バルコニーの椅子の上でぴくりとも動かずに、そのざわめきを、「ニルダーナが演じる少女」のような微笑みを作って受け止めていた。

 そうして開幕の群舞が終わり、ニルダーナが満を持して舞台に登場すると、観客には「人形役に人間を使った新演出」として受けいれられたようだった。

 一旦そうなってしまうと現金なもので、戸惑いは好奇心の視線へと変わって、私の皮膚に突き刺さった。

 

 半ば勢いで動いたようなものの、少しも動いてはいけない人形役などやり遂げられるだろうかと不安で、背中にはだらだらと大量の汗が伝った。

 けれど、同じ姿勢でいる内に関節や筋が固まって、固まりきって、その痛みすら遠くなった頃訪れたのは、なんとも言えないような多幸感だった。

 稀代の踊り子のスキャンダラスな存在として、どこに行っても居心地の悪かった「私」の存在は、紙塵のようにくしゃくしゃに丸められて、小さく小さく、体の内側へ沈んでいった。その外側をそれこそ陶器のような硬い殻が覆って————、なのに何故だか、透過してくる空気や光の存在を感じるのだ。

 

 極まった踊り子は、精神世界とコンタクトを取れると聞いたことがある。きっとニルダーナは()()なのだとみんなが口にしていた……。


 そこまで考えた次の瞬間、私は魔導人形ではなく、遠眼鏡で人形を好奇心たっぷりに見つめる観客のひとりになっていた。

 彼は少し、意地悪な気持ちで人形を見つめている。人形役が少しでも動いたら、それを後で新演出批評のネタにしてやろうと考えている。さぁ、今に、足が動くか腕が動くか首が動くか? 彼自身が内心悪趣味だとも考えているそこへ、ぱっと花が咲いたような、溌剌とした気持ちが流れ込んできた。


 今度は貴族のご令嬢だ。彼女は、ニルダーナの踊りと同時に、平民の生活にも惹きつけられている。恋人を振り向かせようと一生懸命踊る少女の一挙一動を見逃すまいと、こんなふうに明け透けに、嫉妬を表してみたいと憧れている……。


 私をちらと見上げた人もいる。ニルダーナのことも私のことも嫌いな群舞の踊り子だ。勝手なことをした罰を受ければいいと思っているし、初めて知ったけれど、ニルダーナの相手役に恋をしている。

 準主役となる六人の村娘たちを演じる踊り子は、それぞれに色彩豊かで面白い。右、左、次のステップと振り付けを細かく思い起こしている踊り子もいれば、オーケストラの演奏に合わせて歌っている踊り子も、ニルダーナあなたが一番美しい、恋人もすぐに目を覚ますわ、なんて。主役となる村娘に呼びかけている踊り子もいる。


 なんて心地が良い。

 無機物に扮したはずの私は、けれど、いつの間にか、劇場中のすべてであった。

 太陽のように、あれほど正視することを恐れてきた、ニルダーナですらあった。


 ニルダーナの中は、ただ、真っ暗だ。うすぼんやりとした球体、のようなものが、体の中心に存在しているだけなのだ。

 けれど、急にその球体から腕が生えて、この世の何よりも優美な線を描く。そうすると、そこに花びらが舞う。ニルダーナの指は、色とりどりの花びらを指輪でも通すかのように受け入れる。そのまま両腕は、風に揺れるリボンのように柔らかに流れ、ふわりと腰元で結ばれて……。

 たった一瞬の姿勢に、永遠に残しておきたいような妙がある。

 誰も心の内に入れないような顔をして、けれど、身体は全てを抱き込み許しを与えるように、外へ外へと開かれている。

 誰よりも高く脚が上がると、膝が内側へしなり、きゅっと音がする。自分の肉体だったら、それは人体の破壊の、怖気のするような音だったに違いないのに、まるで楽器の弦を気まぐれに弾いたみたいな、遊び心のある音なのだ。

 こんなに規格外の動きをしているのに、体はどこも痛まない。背中と腰に二対ずつ羽が生えている。この羽が、引き上げにも跳躍にも回転にも軽やかさを与えている。独自に動いて風の流れまで作っている。ニルダーナへと全てを巻き込むように。


 私はずっと勘違いをしていたのだろうか。

 踊り子の体の優雅さは、鍛錬の果てに、そう()()()ように歴史の中で積み上げられてきた技術によって生まれるものだと知っていた。

 だけどこれは。


——あなたはどうして降りてこないの? どうして、座っているだけなのに、私の恋人を魅了してしまうの?——

 ほんの少し、ほんの少し首を傾げただけだ。けれど、そのデコルテのラインが、胸が痛くなるほどの無邪気さを帯びている……。



 この世で最もニルダーナ似た、けしてニルダーナの存在を邪魔しない人間、による人形の役は、観客に喝采で迎え入れられた。

 甘い夢想の恋愛喜劇は、老人形師の少女への執着を匂わせる、もっと生々しい情感の舞台へと姿を変えてしまった。


 舞台の幕が降りた後、ニルダーナの怒りは凄まじいものだった。心のままに平気でものを言う意地の悪い女だったが、声を荒らげるようなことはめったになかった。それが、叫び、怒鳴り散らし、舞台道具から楽屋内の私物公共物、パトロンからの贈り物までを等しく破壊した。

 私が庇いたかった針子は首を切られ、多額の借金を抱えてその後も知れない。

 ニルダーナの怒りを恐れた舞踊団側は、私の処遇に苦心しているようだった。芸術監督には舞台の演出が変わってしまった怒りもあるだろう。さりとて、ただの乞食であった頃から連れ回してきた子供を追い出した場合もどう転ぶかわからない。

 ニルダーナが何か言ったのか、あるいは何も言わなかったのか、私に知るすべはなく。

 王立舞踊団における籍は失われることはなく……、私は踊り子ではなくなった。




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