第四話[Friends]
◇◇◇
稀人志篇 第四話 [Friends]
◇◇◇
佐々木ナオの朝は早い。
もともと、体質的に寝起きは良いほうだし、どちらかと言うとショートスリーパーなナオである。部活動に精を出していた頃は言うまでもなく、引退して受験勉強に本腰を入れてからも日課の早朝ランニングだけは続けていた。長年かけて培われた早朝型の体内時計は筋金入りで、はるか遠く異世界に至っても、規則正しく日の出の頃には目が覚めるのであった。
「ん~~~~っ!」
ベッドに上半身を起こし、大きく伸びをする。
薄暗い部屋の中、白み始めた外の明るみがモザイク硝子越しに淡く照らす。
いつもの習慣で軽くストレッチをしながら、脚の調子を確かめる。あれから一週間、ニコールの献身的な治療のおかげでナオの脚は順調に回復していた。傷が開く恐れがあった最初のうちこそイルマに包帯を巻いてもらっていたが、今はニコールが施してくれた『シール』なる治療具を固定する必要があるだけなので、包帯ではなくラバー製のギプスに切り替えている。傷口はとうに塞がっているので、あとはゆっくり回復させて、傷痕が残らないようにしてくれるのだとか。
「よっと」
脚の復調が嬉しくて、ぴょんと跳ねるようにベッドから降りる。
部屋に備え付けの衣装棚まで歩き、スマホの中で熟睡中のミコトを起こさないように静かに開ける。
取り出すのはイルマが街で買ってきてくれた衣服だ。一張羅の制服だけでは過ごし辛かろうと、適当に数着見繕ってきてくれたのだ。ありがたいことに、下着や寝巻まで用意してくれて至れり尽くせりであった。
まあ、あくまでもイルマのセンスで選んでくれたものなので、寝巻は例によってロングTシャツだったのだが。
白い無地のロングTシャツを脱いでベッドに放り、今穿いているショーツとお揃いの水色のブラジャーを取り出す。イルマが買ってきてくれたそれは、元陸上部のナオにとってはあまりにも馴染みのあるスポーツブラだ。
ナオの名誉のために強く主張しておくと、ちゃんと揺れるくらいはある(当社比)ので、当然ブラジャーだって必要だ。
ラフなハイネックのトップスと、黒いワイドパンツのボトムスに着替える。
首からチェーンで下げた『感応』の指輪をしっかりと服の中に仕舞って、ナオは静かに部屋を出た。
途中、共同の浴場に立ち寄って洗面台で身嗜みを整え、それからロビー横の食堂へと向かう。ナオも一応は女の子なので、朝の支度にはそれなりに時間を掛ける。というわけでナオが食堂に着いた頃には、まだだいぶ早い時間には違いないが、チラホラと朝食をとる人の姿も見え始める時間帯であった。
入口に控えていたボーイに挨拶し、部屋番号を告げて食堂内に入る。流石は高級ホテルということで、宿泊客であれば適当に好きな場所に座って待っていれば、全部給仕がやってくれるのだ。最初は恐縮しきりのナオであったが、一週間も経てば少しは慣れてくる。
宿泊客以外にも食事処として開放している食堂は、ちょっとしたレストランという風情の内装だ。それなりに広い空間を歩きながら座る場所を考えていると、一角で見知った顔を見付けた。
「アグナムさん。おはよ」
二人掛けのテーブル席に一人で座り、食前らしいコーヒーを傾けている男。
こちら側でのナオの暫定保護者であるアグナム・イーラ・フェイローンだ。
アートメリア・タイムズと書かれた新聞に目を落としていた彼は、ナオの挨拶を受けて顔を上げると、口元だけ笑んで「おはよう」と返してくれた。ナオは彼の向かいの席を指して「座っていい?」と問い掛ける。
「いいぞ」
「ありがと」
いそいそと彼の向かいに腰を下ろすと、見計らったタイミングで給仕が現れて、流れるような動きでナオの前にコーヒーを置いて行った。
ミルクを投入してぐるぐるしながら、アグナムの姿を見遣る。相も変わらず黒っぽい格好で、黒髪に、緋色の瞳。今はその男性的な美貌に興味深そうな表情を浮かべて、紙面を目で追っている。
ナオの父親もよく、朝に仕事に行く前にはこうやって、コーヒー片手に新聞を読んでいた。
それを見て育ったせいか、ナオは男性のそういう風景を眺めるのが結構好きみたいだ。アグナムも最初こそ『何か用か?』と言いたげに一瞥を寄越したが、ナオが何を言うでもなくニコニコしていると、そういうものだと勝手に納得したらしく、以後は特に気にすることもなくなった。
「アグナムさんさぁ」
「ん?」
おもむろにナオが口を開くと、アグナムは顔を上げた。
「夜、一回も部屋に戻ってきてないですよね」
「そうだったか?」
現在ナオが宿泊している部屋は本来アグナムが使うための場所のはずなのだが、この一週間を振り返ってみても、彼はほんの数回荷物を置きに来たり取りに来たりしただけで、一回も部屋に滞在していない。
もしかして、ナオが居るから気を遣ってくれているのかとも考えたが、今の反応を見ても、別になんら意図があってそうしているわけではなさそうだ。たぶん普通に、あの部屋のことは荷物置き場にしか思ってなさそうな気がする。
それはそれでアグナムの勝手なのだが、ナオがどうしても気になってしまうのは、
「アグナムさん、ちゃんと寝てますか?」
彼のための部屋とベッドをナオが占領してしまっているので、彼は寝る場所が無いのではないかと危惧しているのだ。例えば、ナオが寝静まった後にこっそり戻ってきて部屋で休んでいるとかだったら、まあ年頃の女としては危機感を抱くべきなのだろうけど、ナオ的にはむしろ安堵するくらいだ。だが実際はそんな気配もないし。今日だって、夜に一度も部屋に戻っていないにも関わらずこうして平然と早朝の食堂に居るということは、また徹夜で迷宮にでも繰り出していたに違いない。
良い機会なので率直に訊いてみると、アグナムは質問の意図が理解できなかったようで怪訝そうな顔になり、とりあえずといった雰囲気で答えた。
「それなりに睡眠はとっている」
「どこで?」
「俺くらいになると立ったまま眠れる」
「だうと」
嘘かホントかわからないことを真顔で言い切って、アグナムは肩を竦めた。
実のところアグナムと言う人物はナオと同じ只人ではなく、竜人という強靭な種族なのだという。したがって睡眠の意味合いもナオ達とは異なり、休息と言うよりは嗜好的なものなのだとか。要するに、その気になれば不眠でも問題ないということだ。
そのことはミコトからの説明で理解しているナオであるが、だからこそ思うのは、睡眠が嗜好品だと言うのであれば、ベッドが占領されているせいで眠ることが出来ない日々と言うのはストレスなのではないかということだ。
嗜好品のコーヒーでカフェイン中毒になる人だって決して少なくないわけだし。
ちなみに言っておくと、ナオの「だうと」はアグナムが立ったまま眠れるという特技を持っているかの真偽ではなく、それなりに睡眠をとっているという言葉に対してものである。
「アグナムさん、ベッド使いたければ、言ってくれれば私が退きますから」
「そしたらキミはどこで寝るんだ?」
「そりゃあ…………床?」
イルマに頼めば毛布くらいは貸してくれると思うから、くるまって床で寝るとか。
「ナオのような少女を床に転がしておいて、自分はベッドで熟睡できるほど太い神経はしていないぞ」
アグナムは少し呆れたようにそう言った。
それを言うならナオだって、他人の寝床を奪っておいて熟睡など――と言いたいところであるが、生憎とナオは今朝もしっかり熟睡して心地よい寝覚めを経験したところである。
「むむむ……」
呻るナオの姿に何を思ったのか、アグナムは「ふむ」と思案すると、なんでもないように言った。
「では、部屋を変えてもらうか」
「え?」
「昨日、ちょうど一部屋空いたとイルマから聞いた」
このホテル『アーバン・ベルガミア』が満員御礼状態である理由としては、約一か月後に開催を控えたセンクティ・セントラル・コンペティション――SCCの予選を観戦するための長期宿泊客の存在が大きいのだが、割合としては全宿泊客の六割くらいだそうな。それ以外は普通に観光目的とか、ビジネスとか、あるいは眼前のアグナムのように迷宮目的とか、そういった人達だ。
宿泊客がチェックアウトしたところで次の予約が埋まっているので部屋が空くことはないのだが、イルマが言うには昨日とある国外からのお客が急遽帰国することになったらしく予定を大幅に繰り上げてチェックアウトしたらしいのだ。それならそれでキャンセル待ちの客に連絡するのが普通なのだが、その前に一応アグナムに都合を訊いてきたようだ。
今ならこっそり部屋変えられまっせ、と。
「それなりに良い部屋らしいから、室内に水回りも完備だぞ」
洗面台とか、浴室とか、お手洗いとか、ちょっとしたキッチンとか、そりゃあナオだって個室にそれがあったほうが嬉しいに決まっている。そもそも今の部屋は一泊とか二泊くらいの短期宿泊者用の部屋であり、長期滞在するなら普通は選択しないしお薦めもされない部屋みたいだし。
アグナムが普通じゃないのは今更なので置いておくとして。
「二人部屋だからベッドも二つある」
それって夫婦用の部屋なんじゃ……とナオは思ったが口には出さなかった。
目の前の男がナオのことを女として微塵も意識していないのは明らかなので、どうあがいてもナオの一人相撲に終わるからだ。おそらく、ベッドの数がどうのという事情をイルマがアグナムに語ったのは、彼女からナオに対する気遣いなのだと思う。アグナムはどうにもナオが何を気に病んでいるのかを、そもそも理解していない節があるので、彼が自分から寝床の数を気にしていたとは思えない。
まあ、ベッドが増えたところで彼が使うのかと言うと甚だ疑問だが。
「でも、お金かかるんじゃぁ……?」
「それは気にしなくていい」
そう言うと思ったけど、とナオは唇を尖らせた。
「というか、そもそも、それって良いんですか?」
「なにが?」
「キャンセル待ちのお客さんとか居るんですよね?それを差し置いて部屋を使わせてもらうっていうのは」
なんというか、普通にイルマの公私混同なのではあるまいか。
このホテルはイルマの家であるクラナッハ家の単独経営形態なので、現オーナーであるイルマの母親の決定が経営方針だ。要するに大抵のことはイルマの母親が是と言えば是なのだが、だからこそ余計に私的な便宜を図ってもらうべきではないとナオは思う。
というナオにしては真っ当な心配には、別方向から返答があった。
「それはね、」
てっきり給仕のおじさんが近付いてきたものだとばかり思っていたので、不意に聞こえた女性の声にナオが振り返ると、妙齢の美女と目が合った。イルマとまったく同じ色彩の金髪碧眼の彼女は、まさしくこのホテルの経営者にしてイルマの母親そのひとである。
その美貌も、羨ましいくらいの豊満さも、イルマが正しく成長すればこうなるだろうなと容易に想像できるほどには似通った外見の母娘だ。イルマくらいの年頃の娘がいるとはとても思えないくらいに若々しいので、ナオは最初、歳の離れたお姉さんかと思った。しかも、聞くところによるとイルマの上にもう一人、ナオよりも年上の長女――文字通りの歳の離れたお姉さんがいるらしいというのだから驚きだ。
母親である彼女は明朗快活なイルマとは違って、性格的にはどこか愁いを帯びたような雰囲気があった。穏やかだけど、少しだけ草臥れたような、それが類稀な美貌と相まって、少々恐ろしいほどの色気を香らせる未亡人であった。
「おはよう、エリィ」
アグナムの挨拶に続いてナオも「おはようございます」と告げると、彼女――エルメンヒルデ・クラナッハはふわりと笑んで挨拶を返した。ちなみに多国籍の客層を迎えるホテルの経営者ゆえか、彼女は語学にも堪能で、大峰言葉もペラペラである。
彼女は手に持ったコーヒーポッドでアグナムのカップにおかわりを注ぎながら、話を続ける。彼女がコーヒーを注ぐために前屈みになると、その豊満なモノが重力に引かれてふるりと億劫そうに揺れて、ナオは思わず固唾を呑んだ。
「アグナムさんには『優先権』があるからなの」
「優先権ですか?」
そう、と囁くように返しながら、エリィはアグナムを流し見る。説明は任せたと言わんばかりに新聞に視線を戻したアグナムの横顔に送る流し目から迸る尋常ではない色香に、直接見られてるわけでもないナオの背筋が伸びて頬が熱くなる。朝っぱらからなんだこの色気の権化はと戦慄すると同時、その視線を受けても何ら反応を示さないアグナムの鉄面皮には恐れ入る。熱々のコーヒーをカップに注ぎ「どうぞ」と艶やかな声音で告げ、熱々の熱視線をアグナムに注ぎながらカップを渡し、そしてアグナムは「ああ」と言って受け取るだけでエリィのほうを見もしない。その不愛想な態度に、しかしエリィの表情が心から幸せそうに華やぐものだから、ナオは果たして自分がここに居ていいのか自問する。
と、表情を改めたエリィがそのままナオのほうにもポッドを向けてくるので、ありがたく注いでもらう。
「待たせちゃってごめんなさいね。アグナムさんも」
「いえ、そんな」
この時間に食堂を利用するのは基本的に朝早くから仕事に向かうビジネスマンとか探索者の類であり、暇なナオはその人達に優先して配膳してあげてくださいとお願いしているので、しばらく待たされるのは承知の上だった。
とはいえ、ただ待たしておくのもホテルの沽券にかかわるのか、オーナー自ら相手をしに来てくれたようだ。
尤も、彼女がアグナムに向ける視線を思えば、別の意図も垣間見えるわけであるが。
「アグナムさんはウチのホテルと契約している探索者だから」
企業が専属の探索者を雇うのはそれほど珍しい話ではないという。
よくある例としては、武器や魔法具に代表される迷宮内部で活躍する用品を開発するメーカーが、専属の探索者に新製品の試験運用を依頼するという形だ。探索者は試作品とはいえ装備を無償で揃えることができ、企業は実地におけるデータ収集を行うことができる、とまあそういう具合だ。
アグナムが『アーバン・ベルガミア』とどういう契約を交わしているのかは知らないが、つまりその契約内容の中に、アグナムが他の客よりも優先的に部屋を案内してもらえるという権利が含まれているのだろう。
「え?ていうかアグナムさん、そんな権利があるのに一番安い部屋だったんですか?」
意外に思って問い掛けると、エリィがおっとりと頬に手を当てて「そうよねぇ」と呟く。
「もっと良いお部屋に泊ってください、って何度もお願いしているのだけど……」
「むしろ部屋が無くても良いくらいだ。俺はな」
「予備の空室にもっと良いお部屋もあるから、そちらに移ってもらおうともしたのだけど……」
「予備は予備だろう」
アグナムらしい言葉に、エリィは『しょうがないヒトね』とでも言いたげに苦笑した。彼女にしてみれば、そのための予備なのに、といったところだろうか。
それからナオへと視線を向ける。
「だからナオさん。どうぞ遠慮なくお部屋を変わってくださいな」
要するにナオをだしにしてアグナムをもっと良い部屋に移そうという魂胆か。
そういうことなら遠慮なく、というか誰も損しないWin-Winな選択に違いない。ちなみにアグナムについては宿泊費も無料であり、それは彼の被保護者であるナオも同様とのことだ。ただし、あくまでもアグナムと同じ部屋を使う場合に限るが。食堂を始めとする館内の施設を利用する料金は別途らしい。
「じゃあ変えてもらおっかな。アグナムさん、いいよね?」
「好きにするといい」
ナオが一応確認として訊くと、アグナムはコーヒーを啜りながら一言で返した。
その姿を見て、ナオは『絶対この人部屋使う気ないな』と思った。
◇◇◇
あっという間に朝食を食べ終えて去っていったアグナムを見送って、ナオはゆっくり自分の食事を終えて、食後のコーヒー片手に過ごしていた。他の宿泊客も続々と朝食に降りてきて、食堂内は早朝の静かさが嘘のような賑やかさに満ちている。
給仕の人達や厨房のスタッフもフル稼働である。
イルマも学校が無い日はホールのスタッフに交じって仕事をしているのだが、今日は週に三回の登校日らしいので、今頃は学校の準備をしているところだろう。
「あ、」
待ちわびていた人物の姿を遠くに見付けて、ナオは思わず声を上げた。
食堂の入り口のほうから、白くて小さな人影が歩いてくる。
頭の上におっきなマシュマロを乗っけたみたいな特徴的なシルエットは、魔法士のニコール・ヴァレンタイン嬢のものに相違ない。ぽてぽてと擬音が付きそうな覚束ない足取りで向かってくるニコールに、ナオは声を上げる。
「ニコールちゃん!こっちこっち」
その声に反応したのかも怪しいくらいの緩やかさで、ニコールはナオのほうへとやってきた。
そしてナオが先程までアグナムが座っていた椅子を引いて待ち構えていると、ニコールはぽてぽてと歩いてきて、のそのそと椅子に座った。これ以上ないほどにしょぼついた瞳は、半分寝ているみたいだった。
「おはよう。ニコールちゃん」
ナオが自分の席に座り直してにこやかに挨拶すると、ニコールは正面のナオをぼんやりと見詰めた後、三拍くらい間をおいて、それからぽややんと表情を笑みの形にした。
「おはよーごあいまー……しゅ」
もにもにと半ば寝言のように言い、椅子の上でゆらゆらと揺れ始める。
ナオはと言うとそんなニコールから顔ごと逸らして、口元を片手で覆って必死に耐えていた。なににかというと、言うまでもなく寝起きニコールの無防備すぎる愛くるしさにである。普段の彼女の大人びた礼儀正しさとしゃんとした面持ちを知っている身からすると、この半覚醒の時だけに見られる舌っ足らずで無垢な笑顔は、ギャップも手伝ってとんでもない破壊力だ。
少しでも気を抜くと、にやけすぎて顔面が崩壊する自信がナオにはある。
いつまでだって眺めていたい愛らしさだが、引き際を見誤ると可愛いの過剰摂取で死にかねない。
給仕が用意していったニコールの分のコーヒーを手に取り、ナオは勝手知ったるとばかりにコーヒーミルクとシュガーをダバダバと注ぎ、よく混ぜてからちょっとふーふーしてニコールに渡した。
素直に受け取ったニコールは両手で包むようにカップを持って、小さな口で舐めるように飲む。
それから、ほう、と息を吐いてほにゃりと幸せそうな顔になった。
「~~~~~~ッ!!」
そしてナオはテーブルに突っ伏して、肩をぷるぷると震わせた。
衝動のままにバンバンとテーブルを叩きそうになる右手を必死に諫める。
うおお、鎮まれ私の右手ぇぇ、とか独りでやっていると、横合いから制服姿のイルマがやってきた。
「おはよー!」
メチャクチャ元気な声で挨拶してくれた彼女の装いは、日本の学校ではあまり見ない感じのワンピースタイプの制服だった。もちろん、エリィ譲りの類稀な美少女であるイルマにはこれ以上なく良く似合っている。腰をベルトで絞るような構造になっているので、仮にナオが着たら寸胴にしか見えないであろうシルエットも、圧倒的戦闘力を誇るイルマが着れば見事なくびれだ。
ナオの時と同じようにニコールが三拍くらい遅れて挨拶を返し、ナオは突っ伏した姿勢から顔だけを横のイルマに向けて口を開く。
「ニコールちゃんが世界一可愛いよぉ」
「うん。おはよ」
イルマはナオの病気を華麗にスルーする。
彼女自身は裏で朝食を済ませてきたらしく、登校する前に見知った顔を見付けて挨拶に来てくれただけらしい。適当に短い雑談をすると、そそくさと出掛けて行った。食堂を出るまでの間に、他の宿泊客や朝食を食べに来た近隣の住民なんかに口々に声を掛けられている姿を見て、本当に愛されてるんだなぁとしみじみ思う。
あれだけの美少女で、しかも明るく元気で物怖じしないとくれば、たぶん皆イルマのことが可愛くてしかたないんだろうと、ナオは独り納得してうんうんと頷く。言うまでもなく、ナオも彼女が大好きである。
ところで、今日ナオが陣取っている席は食堂の窓際であり、窓からはホテルの正面玄関外の景色が見える。
当然、今まさにロビーから元気に出発したイルマの姿も見えたのだが、
「んん?」
よく見れば、ロビーの外でイルマのことを待ち構えていたらしい人影が見えるではないか。
しかも、どう見ても男の子だ。
人相まではわからないが、赤っぽい頭髪の活発そうな少年に見える。
ひょっとして、イルマのボーイフレンドだろうか?
もにもにとコーヒーを啜るニコールから断腸の思いで視線を外し、窓に噛り付くように身を寄せた。出てきたイルマに少年は声を掛けたようだが、イルマはと言うと彼女らしからぬ『つーん』とした態度で、脚を止めることなく歩いていき、少年が慌てたようにそれを追いかけていった。
彼らの姿が道の先に消えるまで見送って、ナオは「うーん?」と呻る。
見た感じ、恋人同士とか、仲の良い友人とか、そんな雰囲気には見えなかったのだが。ただ、イルマの突き放すような態度も意外で、むしろ親密な関係だからこその態度のようにも思える。
「気になる?」
「ひゃあっはい!?」
突然、耳元で囁かれてナオは文字通り飛び上がった。
面白い悲鳴ね、とくすくす笑っているのは案の定エリィであった。ニコールの朝食を配膳しに来たらしい彼女は、窓に噛り付くナオの視線の先に自らの娘が居ることに気付いたのだろう。
というか、その人を殺せそうなほど色気のある声で、よりによって耳元で囁くのは勘弁して欲しい。吐息に耳を擽られて、冗談抜きで鳥肌が立った。エリィは手際よく配膳を終えると、甲斐甲斐しい手つきでニコールにきちんとエプロンを着けてあげている。ようやくちょっとだけ目が覚めてきたらしいニコールはされるがままだ。ナオは本当ならその役目も自分がやりたかったと思うのだが、当然だがどう見てもエリィのほうが手際が良いので、今は大人しく観察して技術を盗むことに努める。
全ては、おねむなニコールのお世話をしてあげるため、ひいては『お姉ちゃん力』の強化のためだ。
それはともかく、気を取り直して、折角なので素直に質問してみる。
「あの男の子って」
「スヴェンという子よ。イルマの幼馴染ね」
幼馴染!とナオは瞳を輝かせた。
つまりナオにとってのユーリだ。もしかして、登校する日はいつもああやって迎えに来ているのだろうか。となると、イルマのあの態度はやはり幼馴染ならではの気安さの現れと言うことなのだろうか。
「二人は恋人同士なんですかっ?」
わくわくとした気持ちで問いを重ねるナオに、エリィは微苦笑交じりに答えた。
「今のところ、片思いかしら」
「スヴェンくんの?」
「ええ。イルマったらいつまで経っても子供なんだもの。なんで自分がスヴェンにいじわるしているのかも気付いてないみたい」
いじわるというのは恐らく、先程の態度のことだろう。
察するに、イルマのことが好きなスヴェン少年は熱心なアプローチを掛けているが、当のイルマは冷たくあしらうような態度を取り続けていると。でもなんだかんだで結局一緒に学校に向かったみたいだし、本気で突き放すつもりもなさそうだった。
これは、どう考えてもアレではないか。
思春期の男女が、異性の気を惹きたくて敢えて意地悪しちゃうやつ……!
「……たまりませんな」
「ね。可愛いわよね」
ナオも女子の例に漏れず他人の恋バナは大好物だ。
もっとも自分自身は他人の事情にかまけていられるような立場ではないのだが。それはそれ、これはこれ、である。
「お母さん的にはどうなんです。スヴェンくんは」
「昔から知ってるけど、良い子よ。とてもね。頭も良いし、運動もできるし、礼儀正しくて、まっすぐだし、可愛いし、」
指折り列挙されていく高評価ポイント。イルマの母親であるエリィからこれほどの高評価を受けているということは、どうやらスヴェン少年の未来は明るそうである。余談だが、ここでエリィがいう『可愛い男の子』というのは、世間一般で言うイケメンのことである。
そしてエリィは困ったように頬に手を当てた。
「というか、あんなに良い男の子が、なんでウチの子なんかに惚れてるのかが全然わからないのよね……」
「イルマちゃんだって素敵な女の子だと思いますけど」
「あらありがと。でも私に言わせればダメダメよ。良い子だけれど、少なくとも女としては赤点ね。おっぱいが大きいことくらいしか褒めるところが無いわ」
流石母親、無茶苦茶言いますね……、とナオの頬が引き攣った。
大峰言葉で会話しているので周囲の客が聞いていても内容はたぶんわからないだろうが、イルマの名誉のためにこれ以上はやめておいたほうがいいのかもしれない。というか、イルマへの酷評が間接的にナオのメンタルにグサグサ突き刺さる。だって、ホテルのスタッフとして掃除も洗濯もベッドメイクも料理も出来て、包帯だって巻けて、しかもあんなに美少女のイルマですらダメダメだとすれば、女子力的な意味で彼女の足元にも及ばないナオはなんなのだろうか。ゾウリムシとかだろうか。
「スヴェンなんてどうせすぐに引く手数多になるのだから、彼がこっち向いてる間にヤることヤっておかないと、あとで後悔しても遅いのにねぇ」
生々しすぎること言うのは切実にやめて欲しい。
イルマと会った時に気まずくなっちゃうから。
流石、早朝からアグナムに凄まじい秋波を叩きつける人が言うと説得力が違う。
「ち、ちなみにエリィさん的には、イルマちゃんに足りないものとは……?」
「誑し込む能力かしら」
女子力なんてなまっちょろいこと言ってないで『女』を磨けよオラ、という副音声が聞こえた気がしてナオは身震いした。
エリィは艶めく目元でそんなナオに笑いかけた。
「その点は、ナオさんのほうが百倍見どころあるわね」
「ほへ?」
思わず呆けたナオの後ろで、何気に聞いていたらしいニコールが朝食を食べながらうんうんと頷くのであった。
◇◇◇
ホテル『アーバン・ベルガミア』の一角には小さな図書室がある。
宿泊客であれば自由に利用が可能で、書物を部屋に持ち帰って読んでも良い。最新の書物とかはあんまりなくて、どちらかというと、経営者が趣味で集めた蔵書を宿泊客にも開放しているという印象が強い。
大半はホテルの創設者――エリィの父で、イルマの祖父だ――が集めた書物ということで、古い文学や学術書の類が多い。ただ、世間的に需要の高い書籍なんかは現在も定期的に仕入れたりもしているようで、比較的新しめの小説や雑誌なんかも一応存在する。
基本的には暇を持て余した読書好きの客がたまに利用するくらいなので、ナオはここで他の客を見たことは一度もない。
別に読書家でもないナオがここを訪れる理由は言うまでもなく勉強のためだ。言葉がわからないのも然ることながら、文字が読めないというのが非常に不便で、こればかりは『感応』の指輪も助けてはくれないので、ナオは図書室で比較的優しそうな児童文学とかを借りて、ミコトの教えを受けて部屋で勉強しているのだ。
というわけで借りた本を返しがてら、新しい教材を物色しに来たナオは、しかし本棚に近付く前に足を止めることになる。
「あれ……?」
珍しいことに、人が居るのだ。
図書室の奥の窓際には申し訳程度の読書スペースがあって、机と椅子が並べてある。そのうちの一つには古びたチェス盤が乗っていて、誰かがここで暇潰しにチェスを打ったりするのかな、なんてナオは思って通り過ぎていたのだが、まさにその机に一人の青年が座っていた。
色素の薄い、紗のような独特の光沢を放つ金髪が特徴的で、窓から射す陽光の輝きで、ほとんど白に染まって見えている。柔らかそうな髪質の金髪は肩より長く伸ばされていて、襟足で緩く一つに括っている。金髪は帝国人に最も多い髪色だと聞くが、同じ金髪でもやっぱり人によって質が違うみたいだ。イルマも、ヘレーネも、視線の先の青年も、皆それぞれ個性的な金色だ。
年の頃は二十代半ばくらいだろうか。見たところ只人のようだ。紅色の瞳の鮮やかな魔虹を見る限りは、たぶん魔法士なのだろう、と予想が付く程度にはナオも勉強しているのだ。
室内着と思われるラフな格好で、青年はチェス盤を前に熟考していた。片手は思案気に顎先を撫で、もう片方の手には薄手の書籍。
たぶんナオが図書室に入ってきたことには気付いているのだろうが、盤に集中していてこちらに視線を向ける様子ではない。
「…………」
この場で初めて他の人間に会った興味も手伝って、ナオは青年に近付いてみた。
邪魔をしないようにできるだけ静かに机の傍らまで来ると、そっと覗き込む。
(詰めチェスってやつかな……?)
盤の上には複数の駒が並べられていて、青年が片手に持っている書籍に載った問題を再現しているようだ。
どうやら、熟考する青年は最初の一手を考えているらしい。ナオはチェスはやったことがないし、駒の名前くらいは知っているが、動かし方までは知らない。たぶんこういうのは最初の盤面が問題として与えられて、そこから何手でメイトまで至れ、とかそういうのだろう。
詰将棋ならば知っているので、なんとなく想像はつく。
すごく集中してるみたいだし、邪魔と言われないうちに退散しよう、と考えたナオは最後になんとなく盤面に目を落とした。年季の入っていそうな、古めかしい意匠の駒が並ぶ。金属製らしくもともとは光沢があったのだろうが、表面に細かく刻まれた歴史の痕によって鈍く霞んでしまっている。
ぼんやりと一通り眺めると、なんとなく呟いていた。
「Qc2じゃないですか?」
無意識に言葉を零した後で、ハッとして口を紡ぐ。
自分は何を口走ったのか。棋譜の読み方すら碌に知らない分際で、適当なことを言って混乱させるだけだというのに。熟考していた青年はナオの言葉など聞こえないかのように何の反応もしなかった。
もしかして、聞こえてなかったかな?とナオが希望的観測を抱きかけたその時、
「なるほど」
青年がふと呟き、淀みない所作で盤上に手を伸ばした。
そしてカカカッと小気味よい音を立てて次々に駒を動かし、あっという間にメイトまで進めてしまった。いや、ナオには盤面の見方がわからないので、雰囲気でそう思っただけなのだが。
そうして、ようやく青年が顔を上げてナオを見た。
「ありがとうお嬢さん。おかげで解けたよ」
「え、あいえ、ごめんなさい!余計な事言って」
慌てて両手を振ると、青年は少し困った顔になった。
「すまないが、そちらの言葉はあまり得意じゃないんだ。ゆっくり喋ってくれるかな?」
アグナム、ニコールにエリィと、あまりにも普通に通じちゃう人が多いので、またしても言葉の壁の存在を忘れていた。ただ、彼は得意じゃないとの言葉通り、まったくできないわけではないみたいで、聞き取りやすいようにゆっくり言い直せば普通に通じた。
「いや、実際、煮詰まっていたからね。私の悪い癖だ。キミの助けが無ければ一日を無駄に使うところだった」
流石にそれは考え込みすぎなんじゃ、とナオは思ったが、先程までの集中ぶりを見る限りは決して大袈裟な表現ではない気がしてならない。青年は椅子から立ち上がり、ナオに相対する。アグナムに勝るとも劣らない長身で、同じく勝るとも劣らないほどの美形である。アグナムが野性味のある男性的な面立ちであるのに対して、目の前の青年は少しだけ中性的で線の細い、絵に描いたような優男であった。
ぼけー、と見上げるナオの様子に面白そうな笑みを浮かべ、青年は名乗る。
「私はアルフレッド・S・グレンフェル。錬金術師だ」
「錬金術師!」
すごいっ!と何が凄いのかもわからないナオの感動に、アルフレッドは相好を崩した。
「生憎と半人前だけどね。以後お見知りおきを、ナオ嬢」
「あれ、私の名前……」
まだ名乗ってないよね?と自分自身に問い掛けてみるものの、その程度の信頼すら自分には抱けないナオである。だって、つい先ほども無意識に要らんことを呟いたところだし。同じように無意識に名乗って、しかもそのことをさっぱり忘れているという奇跡も、ナオのポンコツ脳に掛かればあり得ない話ではない。
と真面目に思ったのだが、どうやら今回はそういうわけではなかった。
「キミのことは、アグニやニコールから聞いているよ」
「あ!もしかして、探索者さんですか?」
「ああ。普段は彼らと一緒に活動している」
ちなみに今日はアグナム達がオフなのは知っている。朝食をとっとと食べ終えたアグナムは所用があるとかで出掛けて行ったし、ニコールは近所の教会に行くと話していた。
そして目の前のアルフレッドは図書室で有意義な暇潰しに耽っていたということだ。
それにしても、と不躾にならない程度にアルフレッドの顔面を眺める。数回目ともなれば流石に慣れてきたが、このアグナム関係者の異常なまでの美形率はなんなのだろうか。一種の類友現象なのだろうか。イルマやニコールはともかく、男性のアルフレッドにまではっきりと『美しさ』で敗北しているナオの肩身はどんどん狭くなる一方だ。
「ときにナオ嬢はチェスが得意なのか?」
その質問にナオはとんでもないと首を振った。
「いえっ、実はルールすら知らなくて」
「……そうなのか?」
「はい。あの、さっきはごめんなさい。邪魔しちゃって」
ナオが適当に呟いた言葉が、何故かアルフレッドの発想の助けとなって問題が解けたようだが、それは結果論であってナオの行為は邪魔以外の何者でもなかっただろう。というか、適当じゃなかったとしても自力で問題を解こうとしてる人の横で勝手にネタバレするとか最悪過ぎるだろう。
どっちにしても言えるのは、ナオが悪いということだ。
恐縮しきってちっちゃくなるナオを思案気に見下ろしたアルフレッドは、ややあって笑みを浮かべる。
なんだか、獲物を見付けた肉食獣みたいな笑みに、ナオはびくりと背筋を伸ばした。イケメンにそういう顔をされると、意図とは関係なくときめいちゃうので自重して欲しい。切に。
「それなら、詫びついでに一局付き合ってくれないか?」
笑顔でとんでもないことを言い出したアルフレッドに、ナオは青くなった。
いやいや、ルールも知らないって言ったでしょうに。
「む、無理ですムリ!」
「まあまあ、そう言わずに。なにも真剣勝負がしたいと言っているわけじゃない。私の趣味に慰み程度に付き合ってくれれば充分さ」
うぐぅ、とナオは唸る。
アルフレッドの趣味を自分が邪魔してしまったのは事実だし、そう言われるとナオに断る権利などありはしない。
といっても、本当に盤の前に座って置物になるくらいしかできないと思うのだが。
あれよあれよとアルフレッドと向かい合う形で座らされてしまったナオは、どうしてこうなったと頭を抱えたくなった。
まあ、どうしてもこうしても、ナオが余計なことを言ったためにこうなった自業自得の結果なのだが。なにがそんなに嬉しいのか、笑顔で駒を並べ終えたアルフレッドは、特に何も言わずに無造作に一つの駒を手に取って動かした。ナオよりも余程美人なアルフレッドであるが、その白い手は骨ばっていて大きくて、やっぱり男の人だなぁ、なんてどうでもいい感想を抱く。
どうぞ、と視線で促されてもナオはそもそもどれがどの駒で、それぞれの駒がどういう風に動けて、何をすれば勝敗が決まるのかすらわからないのだ。まあ、駒の造詣からどれがキングで、どれがナイトで、とかそれくらいは想像がつくけど。実のところ、異世界のチェスがナオの知るそれと同じである保証もないので、仮にナオがルールを知っていたとしても同じことだったのかもしれないが。
こうなったらカンニングだ!とプライドを溝に捨ててスマホを取り出し、画面を見ると、そこにはミコトからの無慈悲な『がんばれ』のメッセージだけがあった。孤立無援らしい、と悟ってナオはようやく腹を括る。
「ほんとに、全然知りませんからね」
往生際悪く予防線を張って、差し込む陽光を浴びて眩く輝く駒を適当に手に取って、適当な場所に動かす。
この時点でルール違反してるんじゃないかなぁ、とナオは思わずにいられなかったが、アルフレッドはというと笑顔のまま自分の手を指したところだった。また自分の番がやってきてしまって、ナオはもはやヤケクソで駒を動かす。
お互いに無言で駒を動かす時間だけが過ぎる。
死んだ眼をしているナオに対して、アルフレッドはずっと楽しげな笑みを崩さなかった。アルフレッドが駒を動かすのを見ていれば、流石のポンコツナオにも見て覚えることくらいはできる。将棋と同じく相手の駒を取ることができるというのは知っているので、駒の動かし方がなんとなくわかれば、そういうちょっと戦略的なことも考えられる。
尤も、『あ、あの駒取れそう!』と思ったら後先もなにも考えずに馬鹿みたいに餌に食いついているだけなのだが。
どれほど繰り返したのか数えても居ないが、だんだんとナオが駒を動かす手も惰性でこなれてきた頃、また適当に動かそうとしたナオの手が止まる。最初の面影もないごちゃごちゃの盤面で、咄嗟にどの駒を動かすか迷ってしまったのだ。
同時に、もう良いんじゃないかと思う。
たぶん、このまま続けても真面には終わらないだろうから、この辺りで切り上げさせてもらおうことにしよう。
そう思ってナオが久しぶりに盤面から顔を上げて正面を見ると、アルフレッドは怖いくらいに真剣な表情で盤面を見ていた。変わらずに楽しげな笑みこそ浮かべているが、紅の瞳に宿る輝きの強さだけがまるで違った。
彼は、手の止まったナオを意味深に見遣って、深く息を吐いた。
「なるほどなぁ……」
「?」
ナオが首を傾げると、彼は気の抜けた表情で「そろそろ終わりにしようか」と言ってくれた。
流石に、この謎の遊戯にも飽きが来ていた頃だったのだろう。
ナオもホッと息を吐くと、だしぬけにアルフレッドが訊いてきた。
「ときに、これ。今がどんな盤面かわかるかな?」
「いえ、すいません。まったく……」
というか、少なくともナオは本当に適当に動かしまくっていただけなので、真面な意味のある盤面になっているはずがないと思うのだが。
その予想をあっさり裏切り、アルフレッドは言った。
「まさに勝敗が決したところだ。チェックメイトという言葉くらいは知っているかな?」
「あっはい。知ってます。てことは、」
私の負けですね、と言おうとした機先を制して、
「そう。キミの勝ちだ」
「はい?」
聞き間違いかな、と瞳を真ん丸にしたナオに、アルフレッドが念押しのように「私の負けだよ」と言い直してくる。
もちろん、ナオの心境は『そんなバカな』であるが。
可能性があるとすればアルフレッドが全力でわざと負けに来たか、あるいはどうせ盤面など読めないナオを担いでいるかのどちらかだろうが、目の前で本当に楽しそうに笑うアルフレッドからはそんな打算をまるで感じなかった。
「いやはや、私も然程腕が立つわけじゃないが、ルールも知らない素人のお嬢さんに負けてしまうとは」
はっはっは、と快活に笑うアルフレッドは、負けたといいながらも何故かご機嫌だ。
「これからは、『チェスを嗜んでおります』なんて冗談でも言えないな」
「えっと、なんかすみません……」
全然わけがわからないが、とりあえず恐縮して詫びるナオ。
「詫びることではないよ。私から誘ったのだからね」
「は、はい」
「だから、これはただのお願いなのだが」
正面に座ったアルフレッドが、少年のように瞳をキラキラさせて少し身を乗り出してくる。
イケメンの笑顔が直撃したナオは、己の頬に熱を感じつつも、困惑気味の彼の言葉を待った。
「どうか、またこうして相手をしてくれないだろうか?」
「チェスの?」
「もちろん」
名誉挽回したいからね、とアルフレッドは笑う。どうやら、『何故か』ナオが勝ってしまったせいで、彼のプライドを傷つけてしまったらしい。そりゃあ、ルールも知らないなどと宣う女に負けたら、穏やかで居られないのはよくわかる。そのわりにはアルフレッドの雰囲気がもの凄く活き活きしていて楽しそうなのが謎だったが。
問題は、そのルールも知らない女が、自分がどうやって勝ったのか微塵も理解できていないことである。
「私なんかで良ければ、構いませんよ」
「決まりだな」
早速特訓しなければ、とチェス関連の蔵書を広げるアルフレッドに別れを告げ、目的の教材となる児童書を借りたナオは図書室を後にする。特に次の約束なんかはしなかったが、同じ宿に泊まっているのだし、彼はアグナムと一緒に仕事をしているらしいし、意図しなくともすぐに再会することになるだろうと思う。
本を抱えて歩きながらナオが考えるのは、言うまでもなく先の対局で何故自分が勝利したか、である。
「…………あ。もしかして」
きっと、すべて彼の作戦だったのだ。
やっぱりあれはアルフレッドの自作自演で、彼はわざと自分が負けるように動いたのだ。
そして、リベンジマッチを口実に、ナオと再び会う約束を取り付けることが狙いだったのだ!
「ないな」
ないわ。
ありえない。
普通に考えて、あの王子様みたいなイケメンが、ナオ如きのフツメン女子を相手にするわけがない。あまりにも自意識過剰かつ身の程知らずな発想に、ナオは勝手に恥ずかしくなって頭をぶんぶんと振った。
「うーん……」
だが、だとすれば彼の目的はなんだろう。
アルフレッドがわざと負けるよう仕組んだところまでは間違いないと思うのだが。
「まいっか!」
別に悪い人じゃなさそうだし。
なによりイケメンだし!
と、ナオは能天気に棚上げしておくことにした。
◇◇◇
昼食を終えて部屋で勉強していたナオの元に、ニコールが訪ねてきた。
「お部屋を変わられたんですね」
ナオもアグナムも移す荷物の量なんてたかが知れているので、早速部屋を移動することにしたのだ。ナオは自分の荷物は自分で持って移動し、アグナムの分は了解を得てホテルのスタッフが移動させた。ちなみに彼の私物はあの草臥れたザックが一つと、一応部屋のクローゼットに衣服が数着仕舞ってあるだけだった。一年以上も過ごした部屋の筈なのに、恐ろしいほどの生活感のなさである。
「ここからなら私の部屋も近いので、すぐに遊びに来れますね」
「いつでも来てくれていいよ~」
にっこりと笑ったニコールが可愛いことを言ってくれるので、ナオも笑顔で返した。
新しい部屋は二人部屋ということもあって、前の部屋の十倍くらい広い。というか、ホテルの高級感に比して、前の部屋が特別小ぢんまりとしていただけなのだが。
綺麗にメイキングされたベッドの上に座ったナオはボトムスの右脚を膝まで捲り上げ、脚のギプスを外して、まっすぐに伸ばした脚をシーツの上に投げ出した。
そしてニコールが部屋の椅子を引っ張ってきて、ベッドサイドに座る。
ニコールがナオの脚に手を翳して小声で何事かを呟くと、傷口を覆っていた護符が、鮮やかな翡翠色の魔素となってぶわりと解ける。何度見ても美しい光に、ナオは毎回見惚れてしまう。ニコールの瞳と同じ、綺麗な翡翠色。清く愛らしい彼女の色だ。
「本当に綺麗だねぇ。ニコールちゃんの魔素……」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです」
そしてはにかむニコールが可愛い。
ナオの脚に顔を寄せて経過を見るニコールと同じように、ナオも自分の脚を見下ろした。ほんの一週間前にあれほど酷い傷を受けたとはとても思えないくらいに、うっすらと痕跡が残る程度だ。流石は魔法、と感嘆するしかない。きっと、治療してくれたニコールの技量が優れているのも多分に関係しているのだろう。
真剣な顔で暫く観察したニコールが、一つ頷いた。
「この調子なら、あと一週間もあれば、痕もなく治ると思います」
「そっか。ありがと」
こんなに早く治っただけでも充分に有難い話だが、傷の痕跡すらも綺麗に治せるというのであれば、それに越したことはない。感謝しつつ、大人しくお世話になることにする。
「ナオさんの脚は、すごく素敵だから。ちゃんと綺麗に治してあげないと、って思っちゃいます」
「そかな?」
少なくとも、ナオの人生で脚を褒められたのは、こういう意味では初めてである。足の速さを褒められたことならば何度か経験があるのだが。いわゆる女性的な美しさという意味であれば、本気でそう思ってくれてそうなニコールには悪いが、ナオ的に自分の脚は圧倒的にナシである。
ぶっちゃけると、下半身が太いのがナオのコンプレックスだったりするのだ。
足腰ばっか重点的に鍛えていたからしょうがないのだけど、普通に脚ゴツイし、お尻だって無駄にデカいし。その無駄な尻肉の半分でいいから胸に回してあげて欲しいと何度願ったことか。
「健康的なのは良いことだと思いますけど……?」
きょとんとしているニコールに「きっとそのうちわかるようになるよ」としみじみ言うと、彼女は曖昧な顔で「はぁ」と頷いた。ニコールも女の子である以上、絶対いつか、そういうことを気にする日が来るのだ。きっと、たぶん、おそらく。
ニコールは気を取り直して、そのちっちゃな手で人差し指と中指をピンと伸ばした形を作る。
「――――宣誓」
唱えた言葉に応じてその指先に翡翠色の光が燈り、瞬く間に長方形の護符を生み出した。二本の指の間に挟むように生み出したそれをニコールが撫でるようにナオの脚に近付けると、吸い付くみたいにぺたりと密着した。
「ところで、傷が塞がったのにそのシールってやつを貼るの?」
「ええ。そうですね」
ニコール曰く、最初のほうに貼っていた護符と、今貼っている護符は別物らしい。最初のソレは肉体の治癒力を高め、活性化させる効果の物。今のソレは、肉体の自己治癒を阻害する効果の物だ。
「治癒を阻害しちゃうの?」
「そうです。自然治癒に任せていると、絶対に傷痕が残ってしまいますので」
敢えて自然には治らないようにして、外部から魔法で少しずつ綺麗に治していくのだとか。
なんだか手間のかかりそうな作業に、もしかしてすごく大変なことをさせてしまってるのではないかと今更心配になったナオは、傍でフヨフヨしてたミコトに訊いてみる。
「ねえ、それって大変なんじゃない?」
「まあ、普通にものすごく面倒だし、疲れるし、気を遣う作業ね」
やっぱし、とナオは申し訳なさに眉が下がる。
横ではニコールが「私が好きでしていることなのでっ」とわたわたしているが、彼女は絶対にそう言ってくれるとわかっていたから敢えてミコトに訊いたのだ。
「そもそも、ニコールくらい腕の立つ魔法士だったら、治癒魔法でお金をとってもいいくらいだもの」
「と、とんでもないっ。私など、そんな……!」
ニコールのような優れた魔法士に専属で治療を受けられているだけでも幸運なのに、あろうことか手間暇を掛けてアフターケアまで万全にしてくれているのだ。流石のナオでも、これは能天気に「ありがと~」で済ませていい事態でないことはわかる。とはいえど、変に遠慮したり、あるいは対価を払おうとすれば、むしろニコールの心を苦しめるだけなのは容易に想像できる。
結局のところ、ニコールはいい子過ぎるし、優し過ぎるのだ。
返せない恩義ほど苦しいものはない、という言葉をどこかで見たことがある気がするが、まったくその通りだと思う。
ちゃんと恩返しの方法を考えよう、とナオは改めて自分に言い聞かせる。
「ところでニコールちゃん」
「はい?」
ギプスを脚に着けながら、敢えて話題を変える。
「あの『宣誓』っていうの、魔法の呪文なのかな?」
こうして治療をしてくれる時に、ニコールが魔法を使う際に言うセリフだ。
前々から、ちょっとカッコイイなと思って気になっていたのだ。
「あれは、略式詠唱と呼ばれるものです。本来、魔法を使う際には定められた手順が存在しています。詠唱術ならば力在る韻律を、紋章術ならば意味ある形状を、機巧術ならば緻密な演算を、正しく成すことで魔法となるのです」
饒舌に説明してくれるニコールに、ナオはふむふむと興味深く耳を傾ける。
「方法は異なれど、すべてが魔素に『意味』を与える手順です。逆に言えば、『意味』という結果さえ明確であれば、一から十まで手順を踏む必要はないので、熟達すればするほどこれらの手順は簡略化することができます」
詠唱の前節を丸々端折ったり、二つの紋章を描いて組み合わせる部分を最初から組み合わさった状態で描いたり、決まりきった計算過程は省略して変数として処理したり、そういう簡略化ができるのだ。
そうして最終的には略式詠唱と呼ばれる一言のコマンドだけで魔法を発動できるようになる。
「じゃあ、アグナムさんの『提起』っていうのも略式詠唱なんだね」
「はい。『提起』は紋章術において良く用いられる略式詠唱ですね。他には私の使っている『宣誓』とか、機巧術における『機巧展開』とかがありますね」
「一応言っとくけど、アグナムやニコールが当たり前みたいに使うのが例外で、普通にできることじゃないからね」
「あはは、それはなんとなくわかる」
ミコトの捕捉にニコールがまたもや「とんでもないっ」と謙遜し始めてしまうが、たぶん凄いことなんだろうなぁとは最初から思ってたナオである。
「あら。別に凄いことじゃないと言うなら、アグナムも別に凄くないってことよね?」
「いえ!そんな、アグニさんはとても優れた魔法士だと思いますっ!あれほどのヴァリアント・サインを略式で展開するなど、どれほど隔絶した技量か――」
「じゃあ、同じように略式詠唱を使いこなすアナタも優れた魔法士ってことね?」
「はぅっ!いえいえそんな、私が略式で唱えられる魔法など大した――」
「あらあら?あたしの記憶が確かなら、『護符』だって簡単な魔法じゃなかった筈だけど?」
「あぅあぅ、それは、そうなのですがぁ」
にやにやと楽しそうにニコールを追い詰めるミコトの頭に「こらっ」と手刀を落とす。
ぎゅむっ、と呻いたミコトがベッドに墜落する。
「いじわるしないの!」
「……正しい認識をさせようとしただけよ」
「ニコールちゃんは私と違って繊細なんだから!」
「アナタと比べたら大抵の女子は繊細でしょ」
「時津さんとミコトにだけは言われたくないけどね」
今度はナオとミコトの言い争いが発生しそうだと思ったのか、あわわと慌てるニコールの姿が可愛くてしょうがない。
ミコトを諫めるふりをしてニコールの愛らしさを存分に堪能するナオに、ミコトが『きたないな流石ナオきたない』とでも言いたげなジト目を向けてくるが、勿論気付かないふりをする。
「さて、と」
おもむろに声を上げたナオは、ミコトの本体をボトムスのポケットに突っ込んだ。
ニコールに「治療ありがとね」と告げて、ベッドに上がるために脱いでいた靴を履き直し、立ち上がる。
「お仕事しよっかな」
「お仕事、ですか?」
きょとんとしたニコールが問うてくるので、簡単に説明する。
「うん。イルマちゃんやエリィさんにお世話になってるから。ちょっとでも恩返ししたくて、お掃除の手伝いしてるんだ」
アグナムと緩衝地帯に出かけた翌日から、毎日やっていることだ。
ただの高校生でしかないナオにホテルの仕事など手伝えるはずもないので、あくまでも誰でもやれるようなことだけ、であるが。単純に人手が居るだけの仕事とかを手伝わせてもらっているのだ。
と言うと、ニコールは感動したように瞳を輝かせてポンと手を合わせた。
「素晴らしいです!私も是非っ、お手伝いさせてください!」
「ニコールちゃん、忙しいんじゃないの?」
「本日はこのあと自室で自学するつもりでしたので、大丈夫です!」
普段は大人に交じって迷宮に繰り出し、たまのオフには怪我人の治療と教会での慈善活動、そして自習して過ごすとか、本当にこの子は聖人君子かなにかかとナオは慄くしかない。この子には趣味とかあるのだろうか。
このまま彼女を独りで勉強させるのと、自分の掃除に付き合わせるの、どちらがマシなのだろうかと自問するが、どちらもあまり健全とは言えない気がしてならない。尤も、教えてしまった以上はニコールは絶対ナオを手伝おうとするだろうから、もうなるようにしかならないのだが。
ならせめて、一緒に居ようとナオは思った。
この子が独りで居るよりは、きっといい。
「じゃあ、一緒にお掃除しよっか」
「はい!」
◇◇◇
今更だが、ホテル『アーバン・ベルガミア』の売りを紹介しておこう。
それは、なんといっても『温泉』である。
ノイフォルテで唯一、かつ第三区『アートメリア』内でも数少ない温泉宿であるというのが、このホテルのセールスポイントだ。帝政ディ・エンテではそもそも入浴時に湯船に浸かるという文化があまりなく、基本的にはシャワーで済ますことが多い。昨今の国際化に伴い、温泉大国である大峰連邦を始めとした他国から文化が入ってきて、帝国内でも温泉愛好家がじわじわと勢力を増してきているとか。
そうして潜伏する温泉好きの帝国人にとって、高級なサービスと豊富な温泉を誇る『アーバン・ベルガミア』は、魂の故郷と言っても過言ではない癒しスポットであるわけだ。アートメリアにはここ以外の温泉宿がいくつか存在するが、規模とグレードで言えば間違いなくここが第三区最高である。
「というわけで、湯船のお掃除をします」
結構な数が存在する温泉のうちの一つ、小さな露天風呂の掃除がナオに与えられた仕事である。
源泉の流れを一度切り替えて湯船を空にし、水垢や汚れ等を落とす。湯船以外の場所も当然ピカピカに磨き上げ、シャンプー等の備品を補充するのだ。力仕事の単純作業であるが、なにぶん風呂の数が劇的に多いので人員は多いに越したことがない、とナオの手伝いの申し出も歓迎された。昨日までは脱衣所の掃除を主に任されていたので、湯船を洗うのは今日が初めてである。
というのを道すがらにニコールへと説明しつつ、各種風呂が存在している『温泉棟』へと移動する。
ちなみにミコトもちゃんと手伝ってくれる。ふわふわ浮かぶ彼女は高い位置の照明とか装飾とかの掃除に最適なのだ。
その移動の道中、横合いから声が掛かった。
「あれ?ニコじゃないか」
可愛らしい声に呼ばれて脚を止めたニコールと一緒に振り向くと、一人の小柄な影が歩み寄ってきた。
「こんにちは。ヨルハさん」
「うん。こんにちわ」
小さな影は、ニコールと同年代くらいの少女だった。
獣人の一種で、おそらくは黒猫のワーキャットだ。アグナムのそれよりも蒼味が強い濡れ羽色のショートカットで、瞳の色は琥珀色だった。いたずらっぽい光を湛えた大粒の瞳は少年のようで、だがふっくらと柔らかそうな唇からは幼さに見合わぬ色気すら感じる。美しいが、ただ美しいだけではない、どこか危険なアンバランスさを備えた『魔性』の美貌の持ち主だった。
「ニコールちゃん、この子は……?」
「ボクはヨルハ。ニコと同じくアグニの一味さ」
「あっはい。私は佐々木ナオと……言葉わかるかな?」
「わかるよ。ボクは大峰の出身だからね」
軽くそう言ったヨルハの装いは、ニコールとはあらゆる意味で対照的だった。
白基調のローブをきっちりかっちり着込んで殆ど肌を晒さないニコールに対して、ヨルハは黒基調の軽装で、肌が露出していない部分のほうが少ないくらいだ。極端に丈の短い半袖のショートジャケットに、その下はお腹が丸出しのおそらくノースリーブのトップス、そして下半身は腿が剥き出しのショートパンツだ。真っ白な肌はきめ細かくて、しなやかな薄い筋肉に覆われていて僅かな無駄もない。
幼いのに、色がある。
たぶん男性にとっては存在そのものが目に毒な感じの女の子である。
そして、それとはまったく関係のない部分でナオの精神は甚大なダメージを受けていた。
「ニコから色々と噂は聞いているよ」
くるりと細い尻尾を回して、ヨルハが上目遣いにナオを見上げる。
ぴくぴくっ、とその頭の上の獣耳が震える。
「ボクともよろしくしてくれると嬉しいな。ナオお姉ちゃん?」
そのちょっとだけからかうみたいな笑みを受けて、ナオはもう限界だった。
がばっと傍らのミコトに向き直り、そのちっちゃい身体を両手でホールドする。
ミコトは壮絶な表情で「ぬわばぁ!?」と悲鳴を上げた。
「ねえミコト!聞いた!?見た!?ネコミミの美少女だよ!しかもボクっ子だよ!?お姉ちゃんって呼んでくれたよおおおおお!?」
興奮のままにがくがくとミコトを揺さぶると、「まままままままって」という声が漏れた。
「なにここ、天国!?たった一週間で三人も妹ができちゃったよ!?」
「にゅおおおぉお」
「な、ナオさん、落ち着いてくださぁい!ミコトさんが、ミコトさんがぁ!?」
「ふふ、やっぱり愉快なヒトだね」
ナオの中では一応ヘレーネも妹としてカウントされている。異失者からの逃走劇以降会っていないし、もしかしたらもう会うこともないのかもしれないが。
これはつまり、しっかり者だけど甘えん坊の素直な妹ニコールと。
飄々としてつかみどころがないけど、そこが可愛い妹ヨルハと。
優秀で誇り高くて、誰よりも頑張り屋さんな妹ヘレーネの夢の姉妹計画始動の予感である。
無論、大部分はナオの勝手な妄想であることは言うまでもない。
二分後。
「すみません取り乱しました……」
「ほんとにね!」
お冠のミコトに只管平謝りをするナオの横では、ニコールがヨルハに経緯を説明していた。
もともと、ヨルハが声を掛けてきたのも珍しい場所で珍しい人に会ったかららしくて、なんでも貞操観念がお堅いニコールは不特定多数の他者に肌を晒す温泉に入ることは基本的になくて、故に温泉棟で姿を見ることも滅多になかったのだとか。
ついでに言うとヨルハも理由は違うが温泉には入らないらしくて、今ここに居たのは自室に帰る途中にたまたま通りがかっただけだとか。
お風呂好きで温泉も大好きなナオとしては、なんとも勿体ないと思う限りだ。
「そういうことなら、ボクも手伝うよ」
「いいんですか?」
「うん。アルほどじゃないけど、暇してるからね」
アルというのは午前中にナオがエンカウントしたアルフレッドのことだろう。
図書室で一人黙々と詰めチェスに興じていた彼が暇人であることは流石に否定できない。
「ボランティアだけど、いいの?」
「構わないよ。イルマ達に世話になっているのはボクも同じさ」
ニコールといい、ヨルハといい、いい子過ぎやしないだろうか。
心がほっこりしながら、同行者を一人増やして、割り当てられた露天風呂まで移動する。
入口に『清掃中』の看板を置いていたスタッフのおじさんに「よろしくねぇ」と声を掛けられつつ脱衣所に入り、既に中身が抜かれた露天風呂をざっくり眺める。それなりの広さだが、ありがたいことに三人がかりなので、まあそれほど時間はかかるまい。脱衣所はさっきのおじさんが掃除を済ませているので、そこからナオ達が引き継ぐことになる。
掃除にはなんの関係もないが、ちなみに混浴である。
掃除道具はおじさんが用意ししておいてくれたみたいなので、早速取り掛かろうとナオは靴下を脱いで衣服籠に入れる。靴は脱衣所に入る際に脱いで下駄箱に入れておく決まりだ。それからボトムスの裾を折り、トップスはどうしようかと考える。汚れを洗い流すにはホースで水を使うわけだが、まあ腕まくりでもしとけばいいだろうか。濡れたところで然程困りもしないし。
そう思って隣を見ると、ニコールが豪快にローブを脱いで下着姿になっていた。
可愛らしいフリルの付いたピンクのショーツと、お揃いのデザインのキャミソールである。
「おおう……ニコールちゃん、良い脱ぎっぷりだね」
お堅い貞操観念はどこ行ったのか。
「ナオさんとヨルハさんしか見ていませんし、お二人にならなにを見せても恥ずかしくはありませんので!」
浄化されそうなほど綺麗な笑顔に、ナオは「そうですか」としか言えない。
ニコールのローブは濡れたらそう簡単には乾かないだろうから、当然と言えば当然の行動なのかもしれないが。
それに、言われてみればニコールの言葉に頷ける部分もある。この場には三人しか居ないのだし、女の子しか居ないのだから、多少はしたなくても構わないか。
というわけでナオもトップスを脱ぎ、上半身は色気のないスポブラ一枚の姿になった。それからヘアゴムで髪を括って、馴染みのあるポニーテールに纏める。
ナオまで脱いだのが意外だったのか、ヨルハが「ちょっ」と慌てたような声を上げた。
見ると、彼女は頬を真っ赤にして顔を逸らしていた。
どうしたのだろう、とナオは小首を傾げる。ニコールが脱いだ時にはヨルハも苦笑気味に見ていただけなので、別に他人の肌とか下着に耐性が無いわけではなさそうなものだが。
「どったの?ヨルハちゃん」
「~~~~いや、なんでもないよ」
言いつつ、ヨルハは何故か深呼吸をして自らを落ち着けてから、ジャケットと足袋を脱いで衣服籠に入れた。もとから軽装の彼女は、それだけで充分そうだ。
まだ若干顔の赤いヨルハが、緊張気味にナオに訊いてくる。
「下は脱がないよね?」
「え?うん。流石にね」
スタッフのおじさんが様子を見に来るかもしれないので、流石にボトムスまで脱ぐ気はない。子供のニコールはともかく、ナオがそれをやればただの痴女になってしまう。
そう言うと、ヨルハは安心したように胸を撫で下ろした。
たぶん、ナオの女子力があまりにもゴミなので、心配してくれたのだろう。
お前それ女として大丈夫か?的な。
「……タイミングを逸したわね」
「ボクもそう思う」
背後で交わされるミコトとヨルハの謎の会話に、ナオはまた首を傾げるのだった。
◇◇◇
「よぉし!こんなもんかな」
小一時間掛けて、ぴっかぴかに磨き上げられた露天風呂を眺め、ナオは満足げに息を吐いた。
もともとそれほど汚れていたわけではないが、それでも『綺麗になった』と思うと気持ちのいいものである。備品の補充もしたし、上のほうもミコトがしっかり綺麗にしてくれたし、まあ文句なしだろう。
「お疲れ様です。ナオさん、ヨルハさん」
「お疲れ。結局、けっこう濡れちゃったね」
「ですね~」
頑固な汚れを落とすためなのか、ホースの水圧がかなり高かったので、跳ねた水で結局濡れネズミになってしまった。慣れてるスタッフさんなら上手くやれるのだろうが、まあ素人仕事なので然もあらんといったところだ。
ニコールの可愛らしいキャミソールもびしょ濡れで、がっつりスケスケセクシーモードである。
ナオ自身も同じような有様だ。
「ヨルハちゃん、だいじょうぶ?」
ところで、心配なのはヨルハである。
最初のほうは普通に真面目に掃除してくれていたようなのだが、途中から何故か顔を真っ赤にして挙動不審になってしまった。もしかして、濡れたせいで熱でも出てしまったのではないかとナオは心配でしかたがないのだが、ミコト曰く「平気よ」らしい。
尻尾から水を滴らせるヨルハは、ナオの問いかけに小さく「だいじょうぶ」と答えた。やっぱり真っ赤な顔で、ナオのほうを見てくれない。
念のため、治療魔法の使い手であるニコールにも訊いてみたのだが、彼女ははっきりと「ヨルハさんは至って健康です」と断言してくれた。
「あら?もう終わったのね」
そう言って、ひょっこり顔を覗かせたのはエリィであった。
素人のナオがちゃんとやれてるか様子を見に来たらしい。
「二人が手伝ってくれたので」
ニコールとヨルハを示してそう言うと、エリィは意外そうに瞳を丸くした。
そう言えば、三人でやるなら事前に伝えておくべきだったかもしれない。それならそれで、もっと広い場所を任されたかもしれないのだし。などと反省するナオを他所に、エリィは濡れネズミのニコールを見て、それからナオを見て、最後にヨルハを見て、ものすごく楽しそうな笑みを浮かべた。
「あらあらまあまあ」
片手で口を覆って、語尾に音符でも付きそうな声だ。
エリィのその様子を不思議に思っていると、彼女は『いいこと思い付いた!』と言わんばかりの笑顔で口を開いた。
「折角だから、このまま一番風呂入ってく?」
「え?いいんですか!」
「まだ時間あるから、今なら貸し切りよ?」
「ぜひぜひっ!」
お風呂好きのナオは一も二もなく飛びつく。
早く掃除が終わったおかげで、一般の宿泊客が利用できる時間までまだ暫くある。それまでの時間をナオ達に使わせてくれると言うのだ。ボランティアでお掃除をした、ちょっとしたご褒美といったところだろうか。既に夕方の良い時間であるが、露天の開放時間は夜間のみなので、ゆっくり浸かれるくらいの猶予はある。
どうせ既にびしょ濡れだし、脱衣所に備え付けの浴衣を借りて部屋まで戻ろうと思っていたので、その前にひとっ風呂浴びれるのは願ってもない話であった。言うが早いかエリィがマナホを取って、どこぞに短い連絡を取ると、滔々と湯船にお湯が注がれ始めた。
温泉の独特の香りと、湯気がゆらりと立ち込める。
「貸し切りなら、ニコールちゃんも入れるね!」
「はいっ!」
「ヨルハちゃんも一緒に入ろうね!」
嬉しそうなニコールと笑い合い、ヨルハはどうだろうかと思って反対側に振り向くと、そこには。
「…………え?」
白い肌を、気の毒なくらいに真っ赤に染め上げた黒猫少女が居た。
処理能力の限界を超えたみたいにフリーズしてしまったヨルハは、錆びたブリキ人形のような動きで脱衣所のエリィを見遣る。冗談でしょ?とでも言わんばかりのヨルハの視線に、エリィはにっこり笑った。
「もちろん、ヨルハちゃんも一緒にね?」
「ぼ、ボクは……」
「なんなら、私も一緒に入ろうかしら?」
エリィの言葉にナオは「いいですね!」と歓迎し、ヨルハは声にならない悲鳴を上げたようだった。
流石にヨルハの尋常でない様子が気になってナオは彼女を見る。理由までは教えてくれなかったけど、普段から温泉には入らないと言っていた彼女だし、もしかして都合の悪いことがあるのだろうか。
だとすれば、無理強いはしたくないなとナオがやんわり伝えようとすると、機先を制してエリィが言った。
「大丈夫よナオさん。ヨルハちゃんはすっごい恥ずかしがり屋さんなだけだから」
「そうなんですか?」
楽しすぎる表情のエリィの言葉にヨルハは「ちがっ」と何かを言いかけるが、それより先にニコールが言う。
「たぶん、ナオさんとは初めてだから緊張してるんですよっ。迷宮では私と一緒に入ってくれるので、慣れれば大丈夫です!」
迷宮にもお風呂があるんだ……、じゃなくて。
そういうことなら遠慮はいらない。慣れてもらうためにも、むしろここは是非とも一緒にお風呂に入ろう。
ヨルハは死にそうな顔で「待っ」と叫んでいるが、それも照れ隠しだと思えば可愛いものである。
「よしっ、お母さん脱いじゃう!」
ヨルハが赤くなったり青くなったりしながらあわあわしているうちに、エリィが衣服を脱ぎ始める。どうやら本当に一緒に浸かっていくつもりのようだ。途端、ヨルハの頭から温泉にも負けないくらいの湯気が吹き上がって、顔面がかつてないほどに真っ赤に染まる。
気持ちはわかるよヨルハちゃん、とナオは訳知り顔で頷く。
なんてったって、あの色気の権化の如きエリィなのだ。衣服を脱いだ彼女のグラマラスなダイナマイトボディと、それを包む扇情的と評するのすら生温い黒レースの下着姿を見せられれば、ナオであってもなんだかイケないものを見てしまった気分にさせられるのだ。
「ナオさん達も、そんなところに立ってないで」
思わず見蕩れていたナオとニコールも、その言葉で我に返り、脱衣所に戻っていそいそと服を脱ぎ始める。
もとから殆ど着てないようなものだったニコールが一早く裸になり、ぺたぺたとヨルハに歩み寄って、湯気を噴く彫像と化した彼女の手を引いて戻ってくる。
ナオはニコールからヨルハを受け取ると、その衣服を脱がせに掛かる。
「はいばんざーい」
相変わらずブリキ人形みたいな彼女を、エリィの手も借りて脱がせていく。
ああ今私、最高にお姉ちゃんしてる……!と感動しつつ。
少し前から何故か一言も発しなかったミコトが、ふわふわ浮きながら「骨は拾ってあげるわ……」と呟いていたが、なんのことだろうか。
そしてナオはヨルハの下衣に手を掛け――
◇◇◇
「いやぁー……」
風呂上り、温泉棟のロビーにて。
浴衣に身を包んだナオは、機能不全を起こしたヨルハの手を引いて、ふかふかのソファーに座らせる。自分もその隣に腰を下ろしつつ、頬をかいた。向かい合わせのソファーに座ったニコールが、心配そうにヨルハを覗き込む。
エリィは仕事に戻るのか脱衣所を出たところで別れ、ナオ達がもと着ていた衣服はホテルのスタッフが回収して洗うものはクリーニングに、それ以外は部屋に届けてくれるらしいので手元には無い。
「ごめんねヨルハくん」
隣へと声を掛けると、ヨルハの肩がびくりと震えた。
「まさか男の子だったとは。全然気付かなかったよ……」
というわけである。
そんじょそこらの美少女よりもよっぽど可愛い顔をしているので、最初から彼が女の子であると信じて疑わなかった。ヨルハはボクっ子ではなく、普通に『僕』だったのだ。
傍らのヨルハが真っ赤な顔で項垂れながら口を開く。
「いや……ボクのほうこそ、黙っててごめんよ」
圧倒的美少女フェイスのヨルハにとって、初対面の相手に女だと思われるのは普通のことであり、今回も例に漏れず勘違いしたナオに対して『いつ気付くかな』とからかうつもりだったらしい。
だが、ナオが無防備にブラを晒した辺りでカミングアウトするタイミングを見失い、確信犯のエリィのせいで退路を見失い、そしてああなったわけだ。まったく気付きもしなかったナオとは違って、ミコトは気付いていたが本人が黙っていたので特に教えず、ニコールはそんなことは気にもしていなかったようだ。
勿論、ちゃんと四人と一匹で仲良くお風呂に浸かってきた。
完全にフリーズしたヨルハはエリィに良いように洗われて、そのあと身体を拭いて浴衣を着せてあげたのはナオである。
「ちなみにヨルハくん、いくつ?」
「たぶん、十二……」
十二歳かぁ……、としばし考え、
「まぁ……アウトだよねぇ」
率直に言うと、ヨルハが「ぅぁぁぁ~」とか細い呻き声を上げて顔を両手で覆った。
ニコールが今年で十歳らしいので、ヨルハはその二つ上になる。
実を言うと、今の今までニコールと同い年か、一個下くらいだと思っていた。だって十二歳といえば身体つきに男女の性差が現れていて普通の年齢である。だというのに、小柄で華奢なヨルハの身体は、まるで少女のそれと見分けがつかないのだ。実際、下衣を脱がすまでは気付かなかったのだし。声質も言われてみればちょっと低めだが、男か女か訊かれたら、間違いなく女の声だと思う。
それを言ったところでフォローどころか余計に彼を傷付けるだけかもしれないので黙っておくが。
「混浴ですし、問題ないのでは?」
不思議そうに首を傾げたニコールの言葉は全く以て正しい。
そもそも混浴の露天風呂なのだから、一緒に入ること自体にはなんの問題もない。
では何がアウトなのかというと。
ちゃんと性差を意識していて、異性に興奮できてしまうから、ということに尽きる。
だからこそヨルハは項垂れているし、ナオは『悪いことしちゃったなぁ』と気まずくなっているのだ。
「ま。誰が一番悪いのかって言えば、間違いなくエルメンヒルデでしょ」
「あはは、そうかもね」
あの場で唯一の確信犯だったのはエリィである。
「ヨルハくん。あんまり気にしないでよ」
しっとりと濡れた彼の頭を優しく撫でながら言葉を掛ける。
知ってて誘ったエリィはともかくとして、知らなかったナオを騙すような形になってしまったことをヨルハが気にしているのだとすれば、それは全くの見当違いだ。
何故なら、
「私はお姉ちゃんだからね。可愛い弟と一緒にお風呂に入れて嬉しかったよ」
「……妹じゃなくても良かったのかい?」
顔を上げないままヨルハが恐る恐る問うてきて、ナオはきょとんと眼を見開く。
そして、感情のままに彼を胸に抱え込む。
「あったりまえじゃない!こんなに可愛い弟ができたら、感激だよぉ~!!」
かいぐりかいぐり、と彼の頭を撫でながら、向かいに座るニコールに「可愛い妹も居るし」と微笑むと、彼女も幸せそうに笑ってくれた。
そう。まったくもって無問題なのだ。むしろバッチコイ。
子供好きで、可愛いものも大好きなナオにとって、美少女よりも可愛い弟なんて生物は、むしろご褒美以外の何者でもない。
「ボクは、キミを姉と呼んでもいいのかな……?」
「もちろん!というか、呼んでくれなかったら泣いちゃう」
無理強いするつもりはないが、ヨルハは既に一度そう呼んでくれているのだ。だとすれば、ナオに姉の自覚を抱かせた責任を取ってもらわないと困る。とっくの昔にナオはヨルハのお姉ちゃんになったつもりでいるのだから。
ただでさえ、ミコトが釘を刺したせいでニコールはナオのことをお姉ちゃんとは呼んでくれないのだから。
ヨルハは暫く黙っていたが、ナオの胸に頭を擦りつけるように寄せて、小さな声で告げた。
「じゃあ、よろしく…………ナオ姉」
その言葉に、ミコトが顔色を変えて「やばっ」と呟くが、時既に遅し。
「か――」
ナオは一瞬フリーズし、
「かわゆいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!」
そして爆発した。
浴衣がはだけるのも構うことなくヨルハを力の限り抱き締めて、その頭を撫でまくる。
驚き過ぎて呼吸が止まったヨルハの尻尾が緊張でぴーん!と伸びっぱなしになるが、ナオはもはや止まらない。
だってだって、ナオ姉である。
これぞ弟!と言わんばかりの呼び方ではないか。
嬉し過ぎて幸せ過ぎて魂が口から飛び出しそうだった。
周囲の客が何事かと振り返り、向かい側のニコールが「いいなぁ」と羨ましそうに呟き、ミコトが「あちゃー」と天を仰ぐ。
ナオの胸に顔面を押し付けられたヨルハが酸欠で死ぬのではないかと心配される頃、救世主が現れる。
「…………なにしてるんだ?」
不運にも後ろを通り掛かったアグナムである。
あまりにも既視感がある光景に眉間を揉んだ彼の隣には、面白そうな笑みを浮かべたアルフレッドの姿もある。どうやら、野郎二人揃って温泉に向かうところだったらしい。
びくぅッ!と肩を跳ねさせたナオがゆっくり振り向き、その拍子に腕の力が緩んでヨルハが真っ赤な顔でそこから抜け出し、そして入れ替わるように何故かミコトが飛び込んだ。
「やあナオ嬢。また会ったな」
軽く片手を挙げたアルフレッドは、しかし不自然に上のほうに視線をやっていた。
「ところでその艶姿は刺激が強すぎる。前を閉じることをお薦めするよ」
呆然とナオが自分の胸元に視線を落とすと、浴衣が完全にはだけてしまっていて、とびこんだミコトが身体を張ってナオの名誉を守っていた。大慌てで浴衣の乱れを治し、気まずさに頬を染める。
「お、お見苦しいところを……」
たはは、と力なく笑って胸元を押さえるナオを胡乱気に見遣るミコトの視線は、『見苦しいのはソコじゃねえよ』と如実に語っていた。
「いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
「さっき、エリィさんも一緒に、五人で露天風呂に入ったんです!」
ちょっ、とヨルハが止める間もなく、ものすごく嬉しそうなニコールが包み隠さず暴露してくれた。ミコトのこともちゃんと一人とカウントしてくれている辺りが、なんというかとてもニコールらしい。
ちなみに死ぬほど恥ずかしそうにしているのはヨルハだけで、アグナムはニコールに「それは良かったな」といつもの調子で相槌を打っているし、アルフレッドは微笑ましそうに瞳を細めるだけだった。
その様子を見たナオは、探索者として一緒に活動しているというこの四人が、仕事上の付き合いだけじゃなくて本当に仲良しなんだなと実感できて、心がぽかぽかとあったかくなる。
それから、自分もその一員になれるだろうか、と。
一緒に迷宮に潜ることは出来ないけど、せめて心の距離だけは、と思うのは烏滸がましいことだろうか。
「どうだヨルハ。私の言った通りだったろう?」
にやりと笑ったアルフレッドが、ヨルハにそんな言葉を掛ける。
何のことだろう、とナオは首を傾げるしかないが、ヨルハは力の抜けた笑みで両手を挙げた。
「今回ばかりは、ぐうの音も出ないよ」
溜息っぽくそう言ったヨルハの頭を、ナオはなんとなくもう一度撫でてあげた。
◇◇◇
稀人志篇 第四話 [Friends] 了
◇◇◇