第三話裏[Re:Chase]
――誰よりも優秀であれ。
それがヘレーネ・ヴォルフという少女が母親から望まれた、最初で最後の願いであった。
ヘレーネは上流階級の家系であるヴォルフ家の長女として生を受けた。
普通の家庭ではなかった。
ヘレーネの母親は優秀な軍人を多く輩出してきたヴォルフ家の令嬢であった。
婿入りした父親は同じく軍人家系の令息であったが家格はだいぶ劣り、家を継げぬ次男だった。
望まれた婚姻ではなかったらしい。
ヘレーネの母親は若い時分に恋敵に敗れ、意中の男性と結ばれることができなかった。
ヴォルフ家の一人娘であった彼女は血筋を残すためだけに、望まぬ相手と結婚したのだ。
ヘレーネは知らないが、きっと父親のほうにもそれ相応の事情があったのだろう。
そして、愛のない行為の末に生まれた、義務感の子供がヘレーネであった。
そんな事情であったから、ヘレーネの父親は力関係で母親に逆らえず、まるで逃げるように軍人としての職務に従事した。
自分の子供であるはずのヘレーネとは会話らしい会話もしたことが無い。
母親もまたそんな父親は居ないものとして扱い、本人はいつまでも過去の失恋の影を背負って生きていた。
彼女の恋敵であった女性。意中の相手をかすめ取っていった女性はただの庶民であったらしい。
何故、自分ではなく庶民の女が選ばれたのか。その理由は明らかで、彼女はずっとそのことを後悔し続けていた。あまりにも単純な話。ヴォルフ家の家柄をかさに着て生きてきた彼女には、それ以外に何もなかったのだ。
恋敵の女性が選ばれたのは、彼女よりも優秀だったから。
たったそれだけだったのだ。
だからきっとそれ故に、ヘレーネのことを見もしなかった母親が、たった一度だけ気まぐれに告げた言葉がある。
――誰よりも優秀であれ。
自分のような後悔をすることがないように、という。
義務感からでも間違いなく自分の腹を痛めて生んだ子供であるヘレーネに向けた、なけなしの愛情だったのかもしれない。
利発な子供であったヘレーネは、愛情とは無償で与えられるものではないと早々に理解した。
自分の家庭環境が普通ではないことも。
父親が自分を居ないものとして扱っていることも。
両親を呼んでも、泣き喚いても、怒鳴り散らしても、なにも返るものはなかった。
ヘレーネの存在価値はヴォルフ家の令嬢として健やかに成長することだけ。
ヘレーネに声を掛けるのは、職務に忠実な家庭教師と使用人だけ。
ヘレーネにとって心の支えは、母親が告げたあの言葉だけだった。
ヘレーネを見ず、声もかけない母親が、唯一直接ヘレーネに望んだことだ。
――誰よりも優秀であれ。
だからその願いを叶えることだけがヘレーネの存在意義になった。
両親に何も与えられず、何も望むことを許されなかったヘレーネには、己に還る望みというものがなかったのだ。
自分自身が能動的に生きていく理由として、母親からの唯一の言葉を支えとしたのはある意味で当然のことではあった。
愛情とは、無償で与えられるものではない。
愛情が欲しければ己の価値を示さねばならない。
母親はヘレーネに価値を問うたのだ。
少なくとも、母親はまだヘレーネを居るものとして扱ってくれている。
だったら、彼女の願いを叶えることが出来れば。
ヘレーネが、望まれた通りに誰よりも優秀であると示すことが出来たならば。
その時やっと、自分は母親に愛を乞う資格を与えられるのだ。
と、幼いヘレーネは理解した。
最も不幸なことは、ヘレーネの周囲にはその純粋すぎる結論を糾してくれる大人が、誰一人として存在しなかったことだ。
幸か不幸か、英才教育の環境だけは最高のものが揃っていた。
ヘレーネが望めば望むだけの教育が与えられた。
もとより優秀な軍人の家系であるヴォルフ家の血筋を色濃く受け継いだヘレーネは、瞬く間に機巧士としての目覚ましい才覚を発揮し、その頭角を現した。
ヘレーネは初等部に入学した頃には、既に高等部の誰よりも優秀な機巧士となっていた。
それを使用人つてに聞いた母親は無反応だった。
使用人は『奥様もお喜びです』とおためごかしに伝えたが、それを能天気に信じられるほどヘレーネは幼くなかった。
幼くあることを許されなかった。
仮に母親が本当に喜んでいたのだとしても、それをヘレーネに直接伝えようとしない以上、彼女の望むレベルではないのだ。
だったらそれは無反応と一緒だ。
まだ足りないのだ。
ヘレーネは既に自分の才能に見切りをつけていた。
自分が誰よりも優秀と認められるほどに極められる何かがあるとすれば、それは機巧術の腕前だけだ。
だからそれ以外は全部捨てた。
友達など要らない。
恋愛などしている暇はない。
趣味なんて贅肉と同義だ。
ただ只管に機械の油と魔素に塗れ、頭の中を数字で埋め尽くし、機巧士としての力量を研鑽し続けた。
学府で学べる内容に限界を感じ、飛び級で卒業したヘレーネは軍の門戸を叩いた。
もともとヴォルフ家の名を背負う以上は通る道だった。その時期が早まっただけのことだった。
そして十五歳となったヘレーネは、史上最年少という称号とともに機巧師団の一員となったのだ。
もういいのではないか。
ヘレーネは思った。
機巧師団は国内の誰もが認める、帝国最高の機巧士集団だ。
しかも、後方人員ではなく、花形のドライバーとして配属されたのだ。
そこに最年少で配属されたということは、少なくとも、同年代では史上誰よりも優秀な機巧士であると公に認められたのだ。
この純然たる事実を、誰も否定できはしない。
きっと今ならば、ようやく、ヘレーネは母親に会いに行ける。
自分は誰よりも優秀であると、胸を張って報告に行ける。
ヘレーネは、数年ぶりに実家に帰ってみた。
そこで初めて、自分の母親が既に死んでいることを知ったのだ。
自殺だった。
◇◇◇
稀人志篇 第三話裏 [Re:Chase]
◇◇◇
遠く地を震わせる轟音を聞き届け、ヘレーネは小さく息を吐く。
自身の乗機であった『グラディエール』の残骸が起爆した音だ。
そもそも原型をとどめぬ程に破壊されたドールではあったが、機密保持のため、僅かにでも構造解析できる部分を残すわけにはいかない。機巧術のオペレーションで即席の自爆機能を錬成して、遠隔で起爆した。
ドールの残骸に異失者どもが群がってくれていれば巻き添えで数を減らせただろうが、望み薄だろう。
ヘレーネを追跡する異失者達は、ある程度の訓練を受けた統率を見せている。別に、軍人や探索者が異失者になる例も少なくはないから、そういう輩が訓練を施したのだろう。となれば、ヘレーネが機密保持のためにドールの残骸を爆破することも予測の範疇だろうし、そうであるがゆえに彼らはヘレーネ自身の身柄を確保しようとしているのだろう。
機巧術を通して繋がっていたドールの反応を完全に失い、喪失感が押し寄せる。
ヘレーネの優秀さの象徴。
ヘレーネがこれまでの人生の全てを擲って手にした、ヘレーネの人生の証だった。
「もう、機巧師団に私の籍はないかもしれませんわね……」
撃墜され、ドールまで失った。
これ以上ないほどの、無能の証だろう。
尤も、未来のことを憂う前に、そもそも生きて帰れるかどうかすら怪しいところなのだが。
自分を捜索する異失者の接近を感じ、即座に移動を開始する。
最も警戒すべきは上空のウォッチャーだ。幸い地形的に遮蔽物には事欠かないので、慎重に動けば身を隠すことは難しくない。墜落後、コクピットから這い出たヘレーネは異失者の襲撃を受け、即座に交戦状態に入った。なんとか一度は撒いて身を隠したものの、状況は芳しくない。
方角的に考えて、どう見ても異失地帯のほうに追い込まれている。
おそらく、ヘレーネを一度見失ったのも、包囲して追い込むことを重視しているからだろう。包囲から漏らしさえしなければ、ヘレーネの逃げ場所は異失地帯しかないとわかっているからだ。
上空では現在も、BB翼竜とブレイズ小隊との交戦状態が続いている。
異失者が展開するジャミングのせいでヘレーネの有する通信機能は妨害され、上空のドミニク達に無事を知らせることも、救援を願うこともできない。ただし、異失者の側も、おおっぴらに索敵術式などを展開してヘレーネを捜索しようとすれば、魔素を感知されて上空のドールに狙撃される恐れがあるので、ウォッチャーを投入した肉眼での捜索を行わざるを得ない。
おそらく、異失者側の機巧士が展開しているであろうジャミング能力は、広域をカバーする範囲能力に重点を置いているらしく、出力は然程高くない。ヘレーネが携行できる通信装置程度では手も足も出ないが、哨戒任務用に装備を換装しているドールの能力を騙し切れるわけがない。
故に、ヘレーネが生還するための唯一の道は、上空の仲間がBBを殲滅してくれるまで逃走し続けることだ。
あちらに余裕が出来れば、ドールの索敵能力でヘレーネを探してもらえる。
「さぁ、行きますわよ……」
自らに小さく声を掛けて、地を軽く蹴ってふわりと浮かぶ。
機巧術において、術者が召喚できる魔導機の数には当然キャパシティが存在する。機巧士はそれぞれが『格納領域』と呼ばれるものを持っていて、その大きさがそのまま魔導機を格納できる容量となる。これは術者本人の潜在魔素の量によって決定する先天的な才能である。センクティ・ドールは当然莫大な容量を求めるので、まずは格納領域にドールを格納できるかどうかがドライバーになれるかどうかの絶対条件となる。どれだけ才能に秀でていようとも、潜在魔素が足りなければドライバーにはなれないのだ。
その点、ヘレーネの潜在魔素量は世間一般と比すれば充分に豊富ではあるが、機巧師団全体で言えば平均程度だ。少ない者だとドールを格納するだけでいっぱいいっぱいという者も居るが、ヘレーネはドール以外にもいくつかサブウェポンを格納しておく程度の余裕はある。
それが現在ヘレーネがパイロットスーツの上に纏っている魔導機械だ。
両脚の腿から下を覆う強化外骨格は、浮遊と推進の機能を併せ持った『ラビットケイン』と呼ばれる魔導機だ。名前の通り、ウサギのような跳躍力と、鞭のような蹴りを可能とする高機動格闘戦用の装備だ。
それから、腰部から放射状に伸びる流麗なシルエットの『ヴァルキュリアベール』は、スカート型のバーニアスラスターと、長大なテイルスタビライザーを併せ持った推進装置である。
機巧士が自らの身に纏って使用するタイプの魔導機は、総称して『バトルドレス』と呼ばれる。
身体に占めるカバー面積に応じて分類され、ヘレーネのように半身だけを覆ったものを『ハーフドレス』、腕だけあるいは脚だけを覆うものを『クォータードレス』、そして全身を覆うものを『フルドレス』と呼ぶ。
ちなみに女性でも男性でもドレスだ。
ラビットケインのフロート機能で僅かに浮かび上がり、身を低くして地を這うように移動する。
バーニアを噴かせれば所在がバレるので、圧縮空気を使った空気推進のみで動く。
ヘレーネのバトルドレスは本来機動用ではなく、射撃時の姿勢制御用に組まれたアセンブリだ。下半身ばかりに推進装置が集中しているのも、移動そのものを目的としていないからだ。本当の意味で戦闘機動を行おうと思えば肩部か背部にも推進装置を持つ必要があるが、姿勢制御だけならば下半身だけで事足りる。むしろ、上半身の装備は銃器の取り回しに難が出るので、邪魔なくらいだ。ドライバーの専用パイロットスーツには筋力補助の機能と、簡易な姿勢制御機能が全身に配されているので、それだけで充分である。
ヘレーネのドレスには多環境を想定した精密な姿勢制御のために複数の推進機構を内蔵した装備を選んでいるので、勿論、狙撃に必須の迷彩機能も高い水準で備えているのが幸いした。
ヘレーネが手に持つのは護身用のハンドガンだ。
他にもいくつか武装のストックはあるが、隠密行動には向かない。
「上の状況も……芳しくは、なさそうですわね」
あのBBは非常に強力だった。
四機がかりでも翻弄されていたのに、ヘレーネが間抜けにも撃墜されたせいで、ドミニク達は三機であれを抑えなくてはならなくなった。
ちらと上空を見上げると、特徴的な灰銀のスラスター焔が瞬いている。高機動格闘戦を得意とするオスカーのドールを主軸に戦闘を組み立てているのだ。彼のドールの推進器は特別仕様で、莫大な出力を誇るが、その分搭乗者にかかる負荷も大きい。
本来であれば、ヘレーネが射撃で撹乱しつつ、オスカーが隙をついて接近するというのがセオリーなのだが、ヘレーネ不在のためにオスカーが撹乱と攻撃を一手に引き受けざるを得なくなっているのだ。
「なんて無様……!」
罵るのは、自分自身だ。
これで自分が優秀などと、どの口で言えたものか。
きっと、誰よりも優秀足らんとした自分は、母の死を知ったあの日に終わったのだろう。
伽藍洞の心に、いっぱいに満たして欲しくて求め続けた唯一のものを永遠に喪ったあの日から、自分はもはや惰性で息をしているだけのものに成り果てた。
結果、これだ。
ヘレーネ自身が無様を晒して死ぬだけならばまだしも、仲間達までも窮地に曝している。まったくもって可愛くない後輩だったであろうヘレーネに良くしてくれた彼らのことだ、きっと今も上で戦いつつ、こちらを心配しているのだろう。彼らの心をこれ以上追い詰めたくない。だから、ヘレーネはなんとしてでも生き残らなくてはならない。
――本当に?
心のどこかで声がした。
異失者の目的はドールの情報だ。実機は既に爆破したので、奴らが求めるのはヘレーネ自身が有する情報しかない。そしてヘレーネが最も避けるべき事態は奴らにドールの情報が渡ること。ヘレーネの義務は情報を秘匿すること。
だから、ヘレーネは絶対に奴らに捕まってはいけないのだ。
――本当に?
現実から目を背けていやしないだろうか。
奴らに情報を渡さないために絶対確実な手段があるのだから。
機密保持のためにドールを爆破したように、ヘレーネ自身の頭を吹っ飛ばせばいいのだ。帝国軍人は安易に死を選ぶことなど許されないが、それが国家のためであれば、逆に揺ぎ無く己の始末をつけることも求められる。
無論、ヘレーネとて最悪の事態に陥れば、異失者の手に落ちる前に自決するつもりだった。奴らに捕虜という概念はないのだから。
――何故、今すぐに実行しない?
まだ希望を捨てるべきでないからだ。
仲間がBBを排除できれば、救助を望める。その時になってヘレーネが既に死んでいたとなれば、オスカーなどはきっと酷く自分を責めるだろう。彼らの心に傷を残すだろう。軍人なのだから死別はある程度覚悟の上だけど、だから平気というわけじゃない。
まだできることが残っている状況で、逃げの死を選ぶなんて、それこそ無様の極みだ。
だから、ヘレーネは生き残るのだ。
生き残らなければならない。
生き残って、そして。
――そして?
そして、なにをするのか。
生き残って、なにになるのか。
仲間達のために生き残りたい。それは正しい。それで生き残ったヘレーネはどうなるのだろうか。
また、伽藍洞の心を抱えたまま、人形のように生きていくのか。
そもそも、
――何故、生きてる?
義務感の子供であるヘレーネが生まれた理由とは、ヴォルフ家の血筋を後世に残すためだ。
だからヘレーネは生き残って、結婚して、子を為さなくてはならない。
すべて、他人の都合だ。
ヘレーネ自身にとってはどうでもいい。血が絶えるならば絶えればいい。あの母ときて、このヘレーネだ。こんな無様な血を継承していくことになんの価値があるのか。
ヘレーネ自身に生きるだけの理由が、既にない。何故ならばヘレーネの望みはただ、母親に認めてもらうことだけだったのだから。結局認めてもらうこともないままに母を喪った瞬間から、生きる意味なんて無いではないか。
――ならば死「うるさいッ!」
心の声を掻き消すように叫ぶ。
大きな岩場の洞に滑り込んだヘレーネは、岩肌に背を預け、息を整える。
極度の緊張状態が続いているせいか、考えなくても良いことまで次々と浮かんでくる――――というわけではなさそうだ。
「お気に召さなかったか?」
不意に、上方から声が聞こえてヘレーネはハンドガンを構えた。
見れば、ヘレーネが隠れる洞の天井に、上下逆さまに立っている影。
黒い装束を纏った、体格から見て成人男性。目深に被ったフードの下には顔が無い。黒々と燃える不吉な炎が頭部の輪郭を形作り、双眸の箇所には瞳を思わせる血色の輝きが埋まっている。
異失者だ。しかも形質を異失しているので、少なくともフェーズ3以上。
「さっきから、私の頭の中で喋っていたのは貴方ですのね……!」
警戒心も顕わに睨みつける。
ヘレーネは即座に、躊躇なく、その黒い炎の顔面へと照準し、発砲した。
サプレッサーに抑制された細やかな音とともに連続してリズミカルに放たれた弾丸は、寸分違わず狙い通りに撃ち抜く。
「おいおい」
小馬鹿にした声が降る。
顔中に着弾した弾丸は、黒い炎を僅かに散らしながら飛び抜け、男が被ったフードに風穴を開けただけだった。
男は肩を竦める。
「そんなお上品な兵器が効くような顔に見えるか?」
「あら失礼。あまりにも見るに堪えないので、整形して差し上げようかと思いましたの」
「思わず弾ァぶち込むくらいに醜いってか?ソイツぁなによりだ」
ヘレーネの悔し紛れの嫌味を受けて、愉快気にくつくつと笑う。
この男はカデューサと名乗った。墜落したヘレーネに最初に接触してきて、名ばかりの降伏勧告をしてきたのがこの男だ。どうやら一帯の異失者を率いる立場にあるらしい。
「私が死んだら、困るのは貴方がたではなくて?」
そう問うと、カデューサはわざとらしく首を傾げた。
「まあそうだな。何が聞こえていたかは知らないが、なにせ『黒魔法』なンでね。俺自身にもよくわからんのだ」
「異失者らしい、お粗末さですわね」
「聞くところによると、どうやら『真実の声』が聞こえるらしいが?」
「戯言を……!」
黒魔法とは異失者やBBと同じく、黒域の異法則の影響を受けて歪んだ魔法体系のことだ。
すべての異失者が使えるわけではなく、原理も効果も意味不明なものが少なくない。
カデューサのそれは恐らく精神汚染の類だろう。ヘレーネを殺さないことが目的のはずなので、こちらを死に誘うような声がカデューサの意図したものではないというのは事実なのだろう。
あれがヘレーネの『真実』を告げる声であるなどという戯言は、無論微塵も信じてはいなかったが。
「俺としては、何が聞こえていようと構わんのだ。お前が動揺さえしてくれりゃァな」
「…………ッ!」
「おかげでホラ。こうやって見つけ出せた」
嘲る様に告げるカデューサに、ヘレーネは歯噛みする。
このカデューサという男の存在そのものが理解の範疇を超えていて、対処法がわからない。黒魔法とは即ち『なんだか意味のわからない謎の技法』の代名詞のようなものだ。先の精神汚染にしたって効果も範囲も正確なところはわからない。カデューサ自身もわからないと嘯いていたが、それが事実かどうかもそもそもわからないのだ。
それ以外にも少なくとも一つ。この場に突然現れた時のように、カデューサが『転移』の黒魔法を身に着けていることはわかっている。それだけでも充分に厄介だが、それだけとも思えない。
これだから異失者は嫌なのだ。
睨むヘレーネを悠然と眺めながら、カデューサが呟く。
「逃げたほうがいいぞ」
「?」
「聞こえないか、ホラ」
その声を同時くらいだった。ヘレーネの耳が、ヘッドセットの補助で強化された聴力が、高速で飛来する不吉な風切り音を捉えた。
――砲撃!
咄嗟に隠密行動をかなぐり捨てて、バーニアスラスターを全力で噴いてその場を離脱する。
ヘレーネが岩場の洞から飛び出し、別の小さな岩の影に飛び込んで身を隠した瞬間、刹那の差で飛来した砲撃が、カデューサごと先の岩場を木っ端微塵に吹き飛ばした。規模から見て、おそらく固定砲台か、大型の機動兵器からの。
吹き荒ぶ突風の中、ヘレーネの頭上に影が差す。
「ッ!」
スラスターを噴かせて飛び退く。
直後、頭上から巨大な影が地面を割り砕いて降ってきた。
重機を思わせる強化外骨格に全身を包んだ、フルドレス装備の機巧士だ。見覚えのあるフルドレスは、土木作業用の『ヘビーアームズ』というモデルだろう。至る所に魔改造が施されていて殆ど原型をとどめてはいないが。ドレスを抜きにしてもかなりの大柄のようで、全身を鎧った姿はまるで、人型の戦車だ。その男のドレスの脚部に仕込まれたホイールが回転し、地面を噛んだ瞬間凄まじい速度でヘレーネに突進してきた。
ヘレーネはハンドガンを連射するが、文字通り毛ほども効いていない。
そのままぶちかましを掛けてきたヘビーアームズの異失者を、ヘレーネは直上に跳躍して躱す。
そして、その隙を狙い澄まされた銃撃を食らって吹っ飛ぶ。
「くぁっ!?」
太腿に被弾した。ヘビーアームズとは別の敵からの、狙撃だ。
ドレスの装甲とパイロットスーツの強化被膜に阻まれて傷こそなかったが、かなりの衝撃だった。
高速で流れる視界の中、ヘレーネは機巧術のオペレーションを開始する。
「機巧展開!『ガングレイブ』!」
歯車機構の魔法陣から出現した部品群が組み合わさって作り出すのは、ヘレーネの身長ほどのリーチを持つ片刃のグレイブだ。ガングレイブの名の通り、刀身と平行に銃身を備えており、短距離の銃撃も可能なモデルだ。
召喚したガングレイブを即座に前面に構え、両手で持った柄で、ヘビーアームズの巨大な拳を受ける。
質量差で一方的に吹き飛ばされながら、ヘレーネは空中で身体を捻り、ガングレイブの銃口から炸裂弾を発射する。
大体の目測で、先程の狙撃が放たれた地点を狙い撃った。
そして、返す刃でヘビーアームズを迎え撃つ。
「このっ!」
エーテルの刀身の展開したガングレイブを身体全体で振り抜く。
ヘビーアームズはそれを腕で受けた。高出力の刃は装甲に深い傷を刻み込んだが、もとより重装甲のヘビーアームズにとって痛打にはなり得ない。もう片方の腕で殴りかかってきた一撃を敢えて受け止め、またも大きく吹き飛ばされる。
もとより、ヘレーネにこの相手を打倒するつもりはない。おそらく、一対一の接近戦に持ち込まれた時点で勝機は薄い。
相手の攻撃を利用して距離を取ったヘレーネは、バーニアを噴かして急速離脱を図る。
先程の狙撃手をあれで無力化できたとは思えないので、狙撃に警戒し、射線が通らないように超低空を岩場に沿うようにして飛ぶ。脚を止めてはならない。おそらくカデューサに発見された地点から最も近くに居たのがあのヘビーアームズと狙撃手の異失者だったのだろうが、脚止めを食らって居れば、すぐにでも他の異失者どもが集結してくるだろう。
そうなれば、詰みだ。
幸い、加速性能だけで言えばヘレーネのドレスは優秀だ。
小刻みな戦闘機動こそ得意でないが、少なくとも、あの鈍重なヘビーアームズに追いつかれることは無いはずだ。
「なにか忘れていないか?」
どこからか、カデューサの声が聞こえた。
同時に、聞き覚えのある風切り音。
しまった、と思って飛び退いた時にはもう遅かった。先ほど岩場を吹き飛ばしたのと同じ砲撃が飛来し、ヘレーネの真横に着弾した。直撃こそしなかったものの、爆風と飛散する礫に襲われて、姿勢制御もままならず、ヘレーネは地面を転がった。
飛びそうになる意識を必死に手繰り、ヘレーネはバーニアを細かく噴かして体勢をなんとか立て直した。
直後、爆風をものともせずに突き抜けてきたヘビーアームズの拳をもろに食らった。
「あが……っ!!」
ガングレイブが砕け折れ、ヘレーネは強かに地面へと打ち据えられる。
パイロットスーツの保護が無ければ内臓が破裂していてもおかしくない威力だった。
遮二無二逃れようと飛び出したヘレーネの脚を、ヘビーアームズが掴み取る。ドレス同士の出力勝負になれば軽装のハーフドレスが重装のフルドレスに勝てる道理などありはしない。
ヘビーアームズは横薙ぎにヘレーネを振り回し、近場の岩塊に叩きつけた。
ヘレーネは頭を腕で覆って、岩が砕け散るほどの衝撃に耐えようとするが、あまりの痛打に意識が朦朧とする。
そのまま二回、三回、とヘレーネが反応しなくなるまで叩きつけられ続ける。
ピクリともしなくなったヘレーネの片脚を持って眼前にぶら下げたヘビーアームズが伺うように視線を巡らせると、いつの間にか現れていたカデューサが軽く言う。
「邪魔なモンが多すぎるな」
黒炎の顔面が、歪な笑みに裂ける。
「四本までならもいでいいぞ」
カデューサの言葉に「了解」とだみ声で呟いたヘビーアームズの異失者は、ヘレーネの脚を掴んだ腕に力を込めた。もともとは土木作業用のパワーローダーであるヘビーアームズの強靭な握力によって、ヘレーネのドレスが容易く拉げ、その中の細い脚を圧し潰す。
「ッ!!あああああああああああああああッ!!?」
激痛に絶叫を上げ、ヘレーネの視界が明滅する。
執拗に叩きつけられて殆ど飛んでしまっていた意識が、皮肉にもその激痛で無理やりに呼び戻される。
視界が真っ赤に染まり、思考が灼熱化する。
熱い。痛い。殺される。死ぬ。――――死ぬ、前に、
「死ねェ!!!!」
もはや形振り構わず、ヘレーネは掴まれていないほうの脚のスラスターを全力噴射し、スカートバーニアの推力で力任せに身体を捻り、ヘビーアームズの異失者の顔面にトーキックを叩き込んだ。
人一人を浮かせ、射撃の強烈な反動を打ち消して姿勢制御を可能とするスラスターの推力を比類なく発揮した蹴り足は、頑強なフルドレスのバイザーを砕き割り、内側の眼窩を深々と抉った。
「ガアアアアアアアア!!?」
今度はヘビーアームズのほうが絶叫を上げる。
緩んだ腕から抜け出したヘレーネは、転がるように離脱する。
脚を掴まれたまま外力だけで無理な蹴りを放ったせいで、掴まれていたほうの脚は完全に折れた。握り潰された時点で砕けていたであろうから、どの道使い物にはならなかっただろうが。
「鎮痛、剤……ッ投与……!」
コマンドに応じてパイロットスーツの機能が働き、各部に取り付けられた極小のアンプルガンのうち最も患部に近い個所から、パスン、と即効性の鎮痛剤が注射される。死ぬほどの激痛が、泣くほどの激痛くらいには緩和された。
ドレスも損傷が激しい。脚部スラスターの機能は死んだが、フロートは生きている。地面に脚をつかなくても良ければ、片脚の骨折はある程度無視出来る。スカートバーニアとテールスタビライザーは健在なので、機動そのものには問題ない。ますます小回りは効かなくなったが。
生理的な理由で溢れてきた涙を乱暴に拭い、とにかく全力で逃げる。
失ったガングレイブの代わりにアサルトライフルを召喚しておく。
もう、取り回しのきく武装が殆ど残っていない。
徐々に、状況が窮まってきているのは気のせいではなかった。
なによりも厄介なのは、カデューサと、それからあの砲撃だ。
かなり長距離から撃ち込まれているようなので、ヘレーネからは妨害の手段が無い。そして距離があるのに正確にこちらの居場所を狙い撃ってくるのは、考えるまでもなくカデューサがこちらの場所を観測しているからだろう。
正確な観測がなくなれば、無暗に砲撃を撃ち込むことはできないはずだ。誤ってヘレーネをうっかり殺してしまったりしたら、全部台無しなのだから。
故に砲撃を無力化できないならば、せめてカデューサを黙らせなくては。
「それは良い考えだな」
またどこからか声が聞こえる。
「まあ、出来ればの話だが」
少し離れた岩場の上に、黒装束の姿。
黒々と燃える輪郭の中で、血色の眼光が爛々とヘレーネを見据えている。飛びながらアサルトライフルを構えたヘレーネを嘲笑いながら、カデューサはからかうようにチロチロと指を振っている。
ヤツがこちらを見ているということは――、
「くそっ!」
口汚く罵り、ヘレーネはバーニアを噴かして転げる様に稜線を超える。
その背後で着弾した砲撃が、三度爆炎と砂礫を巻き上げた。
爆風に背中を焼かれながら、ヘレーネはまたもや無様に吹き飛ばされる、受け身すら取れずに墜落し、ごろごろと斜面を転がり落ち、窪地の真ん中辺りまで飛ばされてようやく止まった。
「うぅ……い、っつぅ」
早く立たなければ。
逃げなくては。
飛ばなくては!
そう瀕死の身体を叱咤して立ち上がろうとしたヘレーネは、砕けた片脚の激痛に苛まれて崩れ落ちる。必至に意識を繋ぎ、立ち上がることは断念して、フロートを作動してその場に浮かび上がる。
そして霞む視界で顔を上げ――
「よォ」
眼前のカデューサと目が合った。
は、と息が止まる。
本当に身体一つの距離に居る。そして彼の背後には、窪地の中心目掛けて次々と集まってくる異失者達の姿があった。
ヘレーネは理解する。必死に逃げ続けたルートはカデューサと砲撃により誘導されていた。
最初からここに追い込むつもりだったのだ。
自分は既に満身創痍だ。
手に持ったアサルトライフルを構える気力すらない。
「あ…………」
完全に詰んだ。
「ああ…………」
絶望に染まるヘレーネの顔色を興味深そうに観察したカデューサは、黒炎の顔面を醜悪に歪めて笑った。
そして、黒衣に包まれた片腕をヘレーネの頭へと伸ばす。
抵抗する気力もないヘレーネの額に掌を当てたまま語りだす。
「俺のコレは、他人の頭ン中で囀る程度の能力しかないが、条件次第で面白いことが出来てな」
その手が、ぼう、と血色の輝き放つ。
魔素の色。魔法だ。黒魔法だ。
ヤツにそれをさせてはならない。理性とは裏腹にヘレーネの身体は指一本動いてくれない。
「心の折れたヤツが相手であれば、頭ン中を『汚しきって』人形にしちまえる」
こんなふうにな、と言うが早いか、カデューサの掌からヘレーネの額を通して、頭の中に黒々とした何かが流れ込んでくる。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああああああああああああああああああ」
なんだこれは!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!
只管拒絶を訴える理性の抵抗虚しく、ヘレーネの身体は既に自分のものではないかのように応じようとしない。全身がカタカタと痙攣し、悲鳴と一緒に唾液を垂れ流し、瞳がぎょろぎょろと無秩序に動く。
ヘレーネがこれまで生きてきた記憶が、誇りが、希望が、憤りが、黒く塗りつぶされていく。
消えてしまうわけではなく、あらゆる思い出が黒ずんでいく。
それは、ただ消えてしまうよりも遥かに残酷で、不快なことだった。
「あ、あ、あ……あ……」
ヘレーネの悲鳴も徐々に力を失っていき、か細く途切れていく。
最期の記憶が黒くなろうとしている。
あれは、懐かしくも寂しいお屋敷の一室で。
他人みたいに疎遠だった『母親だったヒト』の姿で。
彼女は、ただ、ぽつりと。
――ヘレーネ。誰よりも優秀になりなさい。
結局叶うことのなかった願いが。
伝えることのできなかった想いが。
それでも大切な記憶が。
黒く――――
「ッ!!?」
いきなり、カデューサが手を離して背後に振り仰いだ。
彼は小さく「クソが」と呟くと、まるで映像を切ったみたいにブツリとその場から掻き消えた。
処理が中断したことで辛うじて自我を保ったヘレーネがゆるゆると視線を上げると、そこには。
星があった。
緋色に輝く、満天の。
緋の流星群が、異失者の一団を蹂躙する信じられない光景が広がっていた。
カデューサが繰り広げるショーを楽しんでいた異失者達が、その余裕の立場から一転、阿鼻叫喚の叫び声を上げている。心が死に掛けているヘレーネには殆ど何も理解できなかったが、ただ、純心に、
その緋色の暴威が、美しいと思った。
そして、異失者の只中を猛然と突っ切ってきた何かが、呆然と立ち尽くすヘレーネの脇をすり抜けて駆け抜けていった。
緩慢に振り返ると、ちょうどドリフトして停車した巨大な自動二輪と、その上からこちらに手を伸ばす少女の姿が視界に映る。
「――□□□!!」
少女がヘレーネに向かって何かを叫んでいるが、生憎とヘレーネのわかる言葉ではなかった。
ヘレーネはただ、必死に手を伸ばす少女の顔から目が離せなかった。
カデューサにぐちゃぐちゃにかき乱された頭では真面な思考もままならず、ヘレーネはただぼんやりと、たぶん自分の頭は一生このままなのだろうな、と静かに理解しただけだった。
もしかして、この人達は自分を助けに来てくれたのだろうか。
きっと、そうなのだろう。
でも、もう遅かった。
これでは、生きて帰れたところで、もう、
と、目を伏せた瞬間にヘレーネの身体がグンと強く引っ張られた。まるで巨大な見えない手に掴まれたみたいに、ひとりでに宙を舞ったヘレーネは、勢いのままに少女の胸へと突っ込み――
そして、柔らかく抱き締められた。
「……………あ」
強く、強く、しかし壊れ物を扱うようにやんわりと。
無防備な少女の胸に顔を埋めていた。乳房の柔らかさを感じる。ヘレーネよりも高い体温が暖かくて、洗い立てらしい衣服からは洗剤のいい香りと、それと少女らしい甘い匂い。ヘレーネが不要と捨て去り、なくしてしまったものだった。
身体全部で包まれている。
自分は今、護られていると本能で理解できる。
自分は今、受け入れられていると、感情が叫びをあげる。
ずっと欲しかったものだった。
憧れていた暖かさだった。
もう諦めていた『愛』だった。
思わず、幼子のように彼女の胸に縋り付いた。
頬をこすりつける様に顔を埋めると、ぎゅっと腕の力が強くなった。
軍人として過ごしてきてヘレーネにとっては、とるに足らないような、華奢な腕の微かな力だ。
だけどそれが、泣けてくるくらいに、安心できるのだ。
「…………?」
そして、更に信じられないことが起きる。
ヘレーネが壊れた心の全てを開いて少女に縋り付いた瞬間、少女からヘレーネへと、何かが流れ込んでくる。
それは先程のカデューサの行為と似通った現象で、しかし正反対の色だった。
暖かくて、心地よくて、清廉ななにかがヘレーネの心を満たし。
カデューサが黒く染めた思い出が、洗われるように白さを取り戻していく。
悔しさも、涙も、痛みも、全てが許容され、受容される。
あの日、お屋敷の一室で。
ヘレーネに顔も向けないままに言葉を継げた母親の思い出も、綺麗に鮮やかに色付く。
きっと、これまでの時間で摩耗し、ヘレーネ自身も忘れてしまっていたことだったけど。
綺麗になった思い出の中で、ヘレーネから顔を逸らした母親はつまらなさそうに窓の外を眺めていて。
――ヘレーネ。誰よりも優秀になりなさい。
そう、呟いた時、窓硝子に映った母親の顔は、ほんの少しだけ笑ってくれていたのだった。
「ドレスを畳んでくれ、重い」
低い声でそう言われ、ヘレーネはようやく正気に返る。
正気に返れたという事実そのものが奇跡だった。誰よりもヘレーネ自身が理解していたのだ。あのカデューサの精神汚染は黒魔法だ。異失と同じくその変質は不可逆で、あれほどまでに心を壊されたヘレーネは、もはや廃人となるか、あるいは完全にカデューサの傀儡になるかの二つに一つだったはずだ。
だが、そうはならなかった。
今もヘレーネを抱き締め続けている少女が、救ってくれたのだ。
言われるがままにバトルドレスを送還すると、違和感に気付く。
「……?」
脚が、動くのだ。
恐る恐る動かしてみると、確かに折れて砕けていたはずの脚がすんなり動いた。
これは一体、と驚愕するしかない。
頭上から名前を問い掛けられた気がするが、それどころではないヘレーネは適当に返事を返しつつ、全身に力を籠めたりして調子を確認する。案の定、散々痛めつけられた全身の打撲なんかも、すっかり治ってしまっていた。パイロットスーツの全身に残る破損の痕が、決して夢ではなかったと教えてくれるのに、まるで夢でも見ていたかのように痛みも不自由も消え去ったのだ。
理由はわからないが、原因はわかる。
ヘレーネを抱き締める、この少女だ。
治癒魔法が使われた形跡はないし、それならヘレーネも気付く。
カデューサの黒魔法と同質のことを行ったのならば、この少女も黒魔法の使い手――異失者なのかとも考えられるが、ヘレーネの理性はそれを否定する。
この少女の力は違う。あくまでも、カデューサの力を打ち消したのだ。
同じ力ではなく、完全に上位の何かだ。
そしてその力が、ヘレーネの傷までも癒したのだ。
不思議と、そのことに疑いを持つ気にならない。
ただ一つ理解できるのは、自分は彼女に救われたということだけで、それだけで充分だった。
「機巧師団のドライバーともなれば、然るべき設備と材料、そして莫大な魔素があればドールを一から作ることすら可能だろう」
頭上で交わされる会話に意識を向ける。
どうやら、異失者がヘレーネを狙う理由について話しているようだ。
そもそも彼らは何者なのだろうと今更の疑問が過るが、そういえばと思い出す。BBとの戦闘に入る前の哨戒任務中、緩衝領域をバイクで走っていた二人組だ。おそらく、あのまま付近に留まってた彼らは、ヘレーネが撃墜されたのを見ていて、わざわざ救援に来てくれたらしい。
少女は面立ちや言葉からして恐らく大峰連邦の出身らしく、ヘレーネはそれが大峰言葉であることは理解できるが内容はわからない。ただ、バイクを運転する男性と、その使い魔らしき精霊の言葉は帝国語なので理解できる。
少女のほうも、話せないながらも帝国語は理解できるのだろう。
少なくとも、味方で、命の恩人だ。
ならばヘレーネも可能な範囲で情報を開示するべきだと判断する。
「……その通りですわ。ただし、制御中枢のコアモジュールだけはブラックボックスで、私達にも情報は開示されておりません」
男性の説明に補足を入れると、使い魔が「当然ね」と相槌を打った。
話しつつも相変わらず、ヘレーネは少女の胸に顔を埋めたままだ。少女が強く抱き締め続けていることも理由の一つだが、それ以上になによりも、ヘレーネ自身がこの温もりを手放しがたかったのだ。
まだ異失者の追撃は続いている。
危機は去っていない。
怪我も治ったのなら、ヘレーネも再び迎撃に移るべきだ。
それがわかっていても動けないのは、この腕があまりにも暖かいから。
同時に、この暖かさを知ってしまったからこそ、怖くなった。
「軍用ドールが異失者の手に渡ることなどあってはなりません。もしもの時は、異失者などに身をやつす前に、自らの始末は――」
自分に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
少し前までは当然と思っていたその決断を下すことが、今、どうしてか、どうしようもなく怖い。
死が怖い――のではないと思う。
きっと、この暖かさを二度と感じられなくなることだけが恐ろしいのだ。
この暖かさを知らなければ、誇り高く在れたものを。
そう思っても、知らなかった頃にはもう戻りたくない。戻れない。
「だいじょうぶ」
まるでヘレーネの内心を見透かしたみたいに、ぎゅうっと強く抱き締められた。
優しく囁かれた言葉が、こちらを安心させるものであることくらいはわかる。
その言葉に勇気をもらって、ヘレーネはやっと顔を上げることが出来た。
縋り付いた胸の中から見上げた少女の顔は、ヘレーネが今までに見たどんな表情よりも優しかった。
そして何故か、顔も、表情も全然似ていないのに、あの日窓硝子ごしに見た母親の笑みの面影が過った。
愛に満ちた笑みを向けられて、ヘレーネの顔が自然と綻ぶ。
今までの人生で一度だって浮かべたことのないような、淡い笑顔の欠片だった。
理屈抜きに理解する。
自分は、これが欲しかったんだ。
そして思う。
今度こそ、喪ってなるものか――――
「それで?天下の機巧師団が、まさか一般人の腕の中で震えてるつもりじゃないわよね?」
生意気な使い魔に言われるまでもない。
もう一生分の力をもらった気がする。
だから、次はその力を使ってヘレーネが彼女を護る番だ。
見上げた彼女の瞳には魔虹の輝きが無い。つまりは魔法士ではないということだ。その彼女がどうやってヘレーネの心と傷を癒したのかは今以て謎のままだが、そんなことはどうでもいい。
戦う力を持たない彼女を、護るのだ。
バイクの装甲板の上に体勢を立て直し、ヘレーネは眼光鋭く後方を見遣る。
それなりに距離があるが、間違いなく異失者の追跡は続いている。
見たところ、カデューサの姿は見えない。ヤツはそもそも機動力に秀でていないので、現れるとすれば追跡ではなく、得意の短距離転移で来るだろう。
のこのこ出てきたら、今度は実弾でなくエーテルをぶち込んでやる。
ああいう手合いにはエネルギー兵器が効果抜群と相場が決まっているのだ。
と、ヘレーネは大事なことを訊き忘れていたことに気付く。
ばっと振り返ると、突然視線が合った少女が瞳を丸くした。
改めて見れば愛らしい少女だ。意志の強そうな瞳と、少しだけ日に焼けた肌の、健康的な美しさがある。帝国人はヘレーネがそうであるように実年齢よりも老けて見られがちなのだが、大峰人は逆に見えるという。おそらくヘレーネと同年代か、年下にも見える幼気な彼女も、実際は年上なのだろう。そう思えるくらいには包容力に満ちていた。
そんな彼女の、一番大事な名前を知らなかった。
「お姉さま。お名前を教えてくださいまし」
帝国語で告げると、彼女はますます瞳をまんまるにした。その可愛らしい表情に頬が緩んでしまう。
確かに、この切迫した状況でいきなり名前を尋ねられれば、自分でもそんな顔になるかもしれない。
「ナオ」
ナオ、か。
ナオ。
とてもいい名前だ。
きっとどんな名前でも、彼女の名前ならそう思ったのだろうけど。
口の中で転がすように彼女の名前を呟き、あらためてもう一度彼女に向き直った。
「ではナオお姉さま。どうか、私にも貴女を護らせてください」
いきなり姉扱いは勇み足だったのか、ナオは変な顔になってしまった。
でもこれはヘレーネなりの愛情の表明だった。
ナオの大き過ぎる愛情に比べれば随分とちっぽけだろうけど。少なくともヘレーネがナオを慕っているのだということを、その感謝を言葉にしておきたかったのだ。
困ったように笑うナオの言葉が、ヘレーネにはわからない。今まで大峰言葉を聞いたことが無いわけではないし、簡単な単語とかならば知っているものもあるが、流石にネイティブの話し言葉を理解するとなるとお手上げだった。
「今ほど語学を疎かにしてきた過去を悔やんだことはありませんわ……!」
語学、などというものはヘレーネが不要と真っ先に切り捨てたものだ。日常会話に必要な帝国語と、機械と対話するための機械言語さえ理解していれば他は無駄でしかないと。
ヘレーネは思う。帰ったら大峰言葉の勉強をしようと。
ついさっきまで生きて帰れるかどうかの心配をしていたのに、随分と余裕だなと自分で苦笑してしまう。今だって確実に生還できると決まったわけではないし、危機は続いているが、ヘレーネにもやっと理解できたのだ。
そんなことと、未来を思うことはまったく別なのだと。
むしろ、未来に希望を持つからこそ、危機に立ち向かえるのだと。
ついに距離を詰めてきた異失者の攻撃が始まる。
こちらを狙い来る銃弾や、魔法弾、マイクロミサイル、あるいは呪詛――その全て一切合切を、飛翔する緋色の光剣が斬り払って寄せ付けない。ナオにばかり気を取られていたが、バイクを運転する男性も大概おかしい。
ヘレーネの小隊長であるドミニクの知己の探索者とのことだが、もしかして相当な高ランクなのではなかろうか。
飛翔する光剣は、紋章術の一種だろう。
確か学術都市のほうで発展した魔法技能で、この国では珍しいが、多国を股に掛ける探索者ならば使用していても不思議でない。紋章とはいわば魔法を構成するアーキテクチャであり、複数の紋章を組み合わせた『ヴァリアント・サイン』と呼ばれる技法は魔法陣と同じ働きをし、またヴァリアント・サインを更に複数組み合わせれば複合魔法と同じ働きをする。
要するに、組み合わせる紋章の数が多いほど、より高度に、複雑に、難度の高い強力な魔法となる。
周囲を飛翔する光の剣の数は全部で六本。
その正体は、先程ヘレーネを救出する際に異失者を蹂躙した緋色の流星群そのものだ。
パイロットスーツのヘッドセットが勝手に記録した情報によると、光の剣一本辺りの構成紋章数は実に111個。即ち六本の剣で総計666個からなる、儀式魔法レベルの上級魔法と同等の性能を誇るのだ。何故なら紋章一つに付き一つの効果。となれば光の剣一本につき、111個の魔法効果を有しているということに他ならないのだから。
そりゃあ、異失者の攻撃程度へでもないわけである。
だからと言って、負けてはいられない。
「お姉さま!私を掴んでいてくださいまし!」
呼び掛けると、ナオが慌てたようにヘレーネの腰に手を回してしっかりと抱き締めてくれる。
この暖かさだけで無限に力が湧いてくる気すらする。
「ミスター!援護なさい!」
同時に、牽制の意味も込めて叫ぶ。
ナオは自分が護るのだと、そう強く主張を籠めた呼びかけに、彼はどことなく微笑ましそうな雰囲気を滲ませて応じた。ものすごく子供扱いされた気がしてならないが、憤るのは後だ。ちなみに会話から彼の名前がアグナムだということは理解しているが、初対面の殿方の名前を了解も得ずに呼ぶのは憚られただけだ。
両手を合わせ、機巧術のオペレーションを開始する。
召喚するのは対物ライフルだ。
独りで追手から逃げている時には使えたものではなかったが、この状況ならばむしろ十全に輝く。
「機巧展開!――『E.H.レイルライフル』!!」
エーテルハンマー・レイルライフル。
全長1520ミリにも及ぶ長大な砲身を備えたバケモノライフルだ。その名の通り、エーテルエネルギーを耐構造物用徹甲弾へと精錬して放つ一種の術理レールガンである。一射ごとに触媒を交換する必要があるが、その威力と射程は携行兵器の中では群を抜いて強力である。
その強みは、エーテルの弾丸を用いるがゆえに大気状態、風速等の影響を全く受けない驚異的な直進性と弾速・長射程、そして物理的な防御を殆ど無視して貫通する術理兵装ゆえの高火力だ。
重量のある砲身を支えるためのロボットアーム――フレキシブルポットがヘレーネの意に連動して動作し、バイクの装甲板に勝手に連結する。
ちなみにこのバイクは帝国のとある兵器メーカーが開発したもので、探索者にも軍用にも人気が高い『ブリッツヴォルフ』シリーズだろう。双発マギアドライヴ駆動のため、大喰らいだが圧倒的な出力を誇る。運転する彼の潜在魔素次第ではあるが、スペック的には三人乗せても積載量的には全然余裕だろうし、上でバケモノライフルをぶっ放してもへっちゃらの筈だ。
なにせ、迷宮を踏破することを念頭に置かれたモデルなのだから。
「発射!」
というわけで気負うことなく、無造作に一射を放つ。
こちらと同じような魔導バイクを駆る異失者の頭部に狙いを定め、寸分違わず撃ち抜く。誰よりも優秀にならんとしたヘレーネが唯一と見定めて磨き続けたものが射撃の技能であった。ドールでも生身でも、射撃の腕前にかけてヘレーネの右に出るものは居ない――と言えるようになるまでは遥かに遠いが、『この程度』の距離で狙いを外すなどヘレーネが自分自身に許しはしない。
エーテルの弾丸は大気中の魔素を伝播して進行するので、射線上の魔素が鮮やかに色付き、傍目には有色光のビーム兵器みたく見える。
激烈な反動はヘレーネには伝わらず、フレキシブルポットを介してバイクに伝わり、そのせいでバイクが一瞬『どむんっ』と跳ねた。
「おいおい」
運転するアグナムが声を上げる。
反動に暴れる車体を苦も無く御して、咎めるようにというよりは、軽くからかうような声音だった。
同じ『おいおい』でも、発する者が違えばこんなに受ける印象が違うんだな、とヘレーネは微かに頬を緩める。
「あら失礼」
ニヤリと笑って答えつつ、レイルライフルのチャージングレバーを引き、反応済みの触媒を排出、新たに格納領域から召喚した触媒を装填する。
異失者どもが身を隠す前に続けざまに狙撃し、少しでも数を減らす。
狙撃を警戒した異失者が詰めて来ていた距離を若干離し、遮蔽物に隠れるようなルート取りをし始めるのを確認して、ホッと息を吐く。これで少しは時間稼ぎになるだろう。
そう思った矢先だった。
「待ち伏せされたようね」
使い魔の忌々し気な呟きが聞こえ、ヘレーネは背後を警戒したまま進行方向に一瞥を向けた。
一瞥で充分だった。
山肌の麓の辺りに異失者の一団が展開している。
一際目を惹くのは、巨大な多脚戦車『エイブラムスMk-IV』の存在だろう。ドールによって役目を追われた時代遅れの兵器ではあるが、だからといって兵器としての性能が否定されたわけではない。ドールには遠く及ばなくとも、充分に強力な兵器だ。
そして、その多脚戦車の武装構成を確認して、ヘレーネは一目で理解した。
先程、カデューサからの要請に応じてヘレーネにしこたま砲撃をブチ込んでくれやがったアンチクショウは、他でもないヤツだと。
「こなくそですわ!ドールさえあれば……!」
この手で復讐してやるものを……!と怨嗟の呟きが漏れる。
と、そんなヘレーネを落ち着かせようとしたのか、それとも巨大な敵に恐れをなしたのか、ナオがヘレーネを抱き込むようにぎゅっと抱き締めてきた。それだけでヘレーネの心が急速に澄み切っていく。
今はくだらない怨恨などにかかずらっている場合ではない。そんなことより、ナオを護るのが優先だ。
だがどうするか。あれは多脚なだけあって移動にかなり融通が利く。直線距離での速度勝負ならともかく、迂回機動であれを回避するのはほぼ不可能だ。となるととれる手段は真横に進路を変更するくらいか。
唇を噛んで悩むヘレーネを、アグナムが呼んだ。
「ヘレーネ。運転変わってくれ」
「?構いませんが……いかがなさるおつもり?」
了承しつつも問い掛けると、彼は実にこともなげに告げた。
「前を掃除してくる」
は?とヘレーネが疑問を呈する暇もなく、アグナムは運転席から上に跳躍し、彼が操る光の剣のうちの一本を足場にして立つ。
いきなりの暴挙に止まりかけた心臓を叱咤して呼吸を再開しつつ、ヘレーネは大慌てでナオの腕から抜け出して運転席に収まり、機巧術のオペレーションを展開して新たな魔導機としてバイクを支配下に置く。構造は理解しているので操作するのは造作もない。マギアドライヴに接続し、自身の魔素が正しく流れ出したことを確認して、ホッと一息。
一歩間違ったら転倒して大惨事であった。
走行しながらの操縦者交代を、こんな高速下で、しかもこんな悪路で行うなんて。
もし事故ってナオが怪我したらどうするつもりだ、と抗議のつもりで猛然とアグナムを見上げたヘレーネは。
そこで、竜の瞳と目が合った。
こちらを見下ろすアグナムの緋色の瞳の奥には、まるで熾火のように揺らめく深い、深い、強靭な輝きが宿っていた。
莫大な叡智を宿した竜の瞳だ。
正気を失った翼竜も同じ瞳を持っていたが、あれとは比べるのも烏滸がましいほどの圧倒的な深みと、震えるような畏怖を感じる。
「自動防御は残す。このまま真っすぐ突っ込むといい」
アグナムは散歩にでも行くみたいな口調でそれだけ言うと、足場を蹴って高く跳躍し、虚空で緋色の円環を幾重にも纏って爆発的に加速・上昇する。物質投射用の『ベロシティリング』と呼ばれる魔法だ。本来は武器を投射したり障害物をどかしたりするのに使う魔法で、自分自身を加速するなど正気の沙汰ではない。姿勢制御を誤れば良くてムチ打ち、最悪壁に突っ込んでミンチになる。
前方で待ち受ける異失者達の直上まで上昇したアグナムは、遥か上空で折り返し、殆ど垂直降下で異失者を強襲する。
ここからでは彼が纏う緋色の魔素の輝きしか見えないが、その強靭な輝きに、異失者の対空砲火が悉く弾かれていく。
空に解けるように広がって消えていくハニカム構造のエフェクトは、間違いなく認識圏のものだ。信じられないことに、あの男は認識圏の強度だけで対空砲火を潜り抜けている。普通は在り得ない光景だが、ヘレーネにとっては在り得る。
何故なら、少し前に同じ光景を目にしていたからだ。
垂直に降りるアグナムの軌跡をなぞるように、膨大な魔素の流れが収束していく。
ヘレーネが目を細めて彼の更に上空を見詰めると、天空に描かれた超規模の魔法陣らしきものが見える。
人智を超えた魔素の奔流は、あの天空魔法陣から地上に降り注ぐ不可視の瀑布だ。
「このスペクトルは――!」
魔素の流れを解析したヘッドセットが警告を発する。
類似の傾向を告げるのは、BB翼竜が使用した、多段式の誘導弾魔法陣。
そして、ヘレーネが見たアグナムの瞳に秘められた竜の威容――。
「まさか竜魔法……!?ッ衝撃に備えて!!」
叫ぶなりハンドルにしがみ付くように身を伏せる。
一瞬の静寂があって、直後。
轟!!、と大気を振るわせて巨大な火柱が発生した。
まるで多脚戦車の直下からマグマが噴火したかのように見える光景は、その実遥か上空の天空魔法陣からアグナム自身を基点に降り注ぐ強力な炎魔法だ。
地上から天空までを一直線にぶち抜く暴力の奔流。
拡散する火焔が津波となって周囲を舐め、熱風が砂礫と岩塊を巻き上げ、灼光が天を焦がす。インパクトの瞬間、間違いなくこの世の地獄が顕現していた。
「アメイジングですわ……」
直撃を浴びた異失者や多脚戦車がどうなったのかなど、考えるまでもない。
跡形も残さず蒸発したのだ。
そして彼は飛び去る前に何と言っていたか。
ヘレーネの記憶が確かならば、このまま真っすぐ突っ込めとのたまってはいなかったか。
あの火柱に、正面から、突っ込む。
おいおい嘘でしょう、と言いたくなるが、そんなヘレーネを追い立てるように、周囲に侍っていた彼の光剣が組み変わり、バイクを覆う障壁型のヴァリアント・サインとなる。
盾があるから大丈夫って?
「~~~~ああもう!死んだら化けて出ますわよ!?」
どの道、背後からは追われているのだ。
活路は前にしかないと自分に言い聞かせ、ヘレーネはやけくそでバイクの速度を上げて、最高速度で突っ込んだ。
周囲の障壁がシールドしてくれているので光に目を焼かれることはないし、熱すらも感じない。障壁内の酸素が燃えることもない。音は完全にカットされているらしくて、障壁の内側に居るバイクの駆動音しか聞こえない。視界を埋め尽くすのは赤い炎と黒い煙ばかりだが、見えなくとも酷いことになっているのは容易に想像がつく。クレーターと化し、更には融解した地面を巻き上げながら強引に突っ切り、永遠にも思える時間を掛けて火柱の内部を横断する。走行の都合上、バイクのホイールだけは障壁の外に出ているのだが、流石迷宮仕様、マグマを踏んでもびくともしない。
その最中、ヘレーネはふと思い立って、自分の頭部のヘッドセットを取り外した。
ミッションレコーダーを兼ねたヘッドセットには、今回の一連の戦闘の記録が収められている。手に持ったそれを見下ろしたヘレーネは数舜躊躇したが、思い切って投げ捨てた。外側からの侵入を拒む障壁には引っかからず、ヘレーネのヘッドセットはすんなり外に飛び出し、そして一瞬で融解して消えた。
異失者からの逃走中に失ったと報告すれば虚偽にはならない。
ドールを失った上に、戦闘の記録すらも持ち帰れなかったヘレーネの評価は更に落ちるだろうが、既にどん底レベルの失態なのだから、今更誤差でしかない。
そんな些事よりも。
ヘレーネを襲ったカデューサの黒魔法と、そして砕けた片脚や全身の負傷。それらを綺麗さっぱり『なかったこと』にしてしまったナオの謎の力。このことが軍の人間の目に触れることのほうが拙い気がしたのだ。きっと、知られればナオにとって碌でもない方向に動く。根拠はないが、確信に近い予感だった。
だから、ヘレーネもまた、そんな事実は『なかったこと』にした。
自分は怪我などしなかったし、カデューサに心を壊されもしなかった。まあ、カデューサという黒魔法使いが存在したことはちゃんと報告するが。
火柱を踏破し、黒煙と砂煙で視界がゼロの中を暫く走るとようやく視界が開けた。
周囲の障壁が障害物を破壊してくれるとはいえ、ごろごろと岩塊がころがっている中を視界無しで走行するのは生きた心地がしなかったので、またヘレーネはホッと息を吐いた。
なんとなく、安堵の息を吐くことが増えたな、と思った。
安堵するということは、心配することがあったということだ。
きっと、心配するべきものが出来たから。
運転するヘレーネの後ろからは、使い魔とナオの互いの無事を喜ぶ声が聞こえてくる。例によってナオがなんと言っているのかはわからないが、その声が聴けただけでヘレーネは頬が緩む。
バイクを護っていた障壁が勝手に分離し、元通りの六本の光剣に戻る。
そしてその上に涼しい貌で降り立った男が一人。
「貴方、何者ですの……?」
「しがない探索者だが」
ヘレーネがジト目で問い掛けると、アグナムは当然のようにはぐらかす。
いや、まあ本人は本気でそう思っている可能性も否定はできないが。ともあれ、ヘレーネは「まあいいですわ」と引き下がる。どうせ、ドミニクに訊けばはっきりするのだ。
ヘッドセットを捨ててしまった以上、仲間に連絡を取るためには一度機巧術を展開して予備の端末を召喚する必要がある。と、今後のことを考え始めたヘレーネの耳に、背後のナオが息を呑む気配が伝わってきた。
何事かと背後を肩越しに確認すると、なんとまだ異失者が追ってきているではないか。火柱のおかげでだいぶ数を減らしているようだが、それでも追ってくるのは見上げた根性である。
というか、このバイクにはなんでミラーが付いていないのか。運転しながら追手を確認するのが不便で仕方ない。市販されているバイクには当然付いているので、アグナムがわざわざ外したのだろうか。まあ、彼には必要ないのかもしれないし、迷宮の探索中に魔物の攻撃で吹っ飛んで、強いて直す必要もないので放置――とかそんなところか。
「しつこすぎるでしょ」
げんなりと使い魔が呟き、ヘレーネも内心同意だった。
この使い魔、ネコの精霊だと思うのだが、これほど流暢に言葉を話すということは相当に高度な精霊に違いない。常識の範疇を天元突破したアグナムの使い魔だと考えれば、むしろ普通の精霊なわけが無いと思うべきか。
そのアグナムは、何故か背後を見遣って愉快気に口元を歪めていた。
怪訝に見遣ると、彼は顎で背後をしゃくった。
「見るといい。どうやら援軍のようだ」
そして背後を見たヘレーネは瞠目する羽目になる。
一体、今日一日で自分は何度驚愕すれば気が済むのだろうか。
なんと、ヘレーネ達を追跡する異失者の更に背後を無数のドルクスが追跡しているのだ。ドルクスの群れは瞬く間に合体して巨大化し、虫でも踏み潰すみたいに異失者の一団を蹴散らしてしまった。
天を衝くようなサイズになったドルクスはそのまま歩を進め、ヘレーネ達のバイクのすぐ傍らを歩き始めた。
同じように蹴散らされるのではないかとヘレーネは気が気でなかったのだが、どうやらそう思っていたのはヘレーネだけだった。
「ありがとー!」
後ろのナオは嬉しそうに声を上げて、ドルクスに向かって暢気にぶんぶんと手を振っている。
ありがとうがお礼の言葉なのはヘレーネにもわかる。
そして、礼を言われたドルクスは、その頭部にはっきりと得意げな表情を見せてから、無数に分裂して去っていく。
群体の精霊種は、複数個体が集まって融合することでその能力を増強することがある。それは単純な足し算だ。ドルクスの例で言えば、集まるほど大きくなるし、速くなるし、強靭になる。
そして、それは知能という能力においても例外ではない。
あれほどの巨体となったドルクスが有する知性とは、人間のそれを軽く凌駕するだろう。言葉を話さないから会話こそ出来ないが、はっきりと意思疎通ができるはずだ。
つまり、最後にドルクスが得意げな顔をしたのは気のせいなどではなく、彼らは群体としての知性を以て、その意志でナオをわざわざ助けに来たのだ。ヘレーネの背後でのほほんと笑う愛しい少女は、それがどれだけ異常なことか気付いていないらしい。
「…………」
ヘッドセットを捨てておいて正解だった。
ヘレーネはそう思い、ホッと息を吐いたのだった。
◇◇◇
「再会のおまじないにしては、随分情熱的だったわね?」
ころころと笑いながらそう言ったのは、アンネロッテ・ミューラー少尉。
サンダー小隊の紅一点。ヘレーネにとっては機巧師団所属の先輩である。紫がかった独特の色味の銀髪を揺らす、大人の色香が漂う妙齢の女性だ。
迎えに来てくれた彼女のドールにヘレーネが乗り込むや否や、からかうように声を掛けてきたのだ。
コクピット内の余剰スペース、パイトロットシート裏の隙間に身を置きつつ、ヘレーネは「ふん」と小さく鼻を鳴らすことで答えた。見られて困る情事ではないが、覗き見に良い気はしない。
ふるり、と唇を指でなぞる。
彼女の残り香が甘く香り、それだけで幸せな気分になれた。
ヘレーネは学習したのだ。
愛情とは、無償で与えられるモノではない。
だから愛を乞うためには自身の価値を示さなくてはならない。
それが幼い日のヘレーネが出した結論であり。
そして幼い日のヘレーネの限界だった。
結果として愛を得ることなく母親は他界し、ヘレーネの心には伽藍洞が残った。
故にヘレーネは学んだ。
いかに価値を示したところで、待っているだけではダメだ。
愛とは双方向。一方的に乞うものではない。相手がこちらを見てくれるのを待ち続けて、その機を永遠に逃すくらいならばそれならば。むしろヘレーネのほうからめいっぱいの愛情を叩きつけてやる。
愛を以て、愛を叫ぶのだ。
もし、最初からヘレーネがそうしていれば。母親がこちらを見てくれないからと諦めた振りなどせずに、自分から愛を伝えるために動いていれば。母親の近くに居れば。もしかしたら、母親は自殺などしなかったかもしれない。ヘレーネの手で止めることが出来たかもしれない。あの屋敷はヘレーネにとって寂しい場所だったけど、母親にとっても決して幸福な場所ではなかったはずだ。そのなかで独り、ひっそりと己の命を終わらせた彼女は、最期の時に何を思ったのだろうか。
何故私は、寄り添うことすら諦めてしまったのだろうか。
これは後悔だ。
だから二度と喪わないと決めた。
今度こそ、愛を求めることに臆病になったりしないと。
だから今度は最初から手加減抜きの全力攻勢だ。
ほんの少しでも、これでヘレーネの存在がナオの中に残ればいい。
…………一応言い訳しておくと、最初はフレンチで済ますつもりだったのだ。
でも、思ってたよりもずっとたまらないものだから、ちょっと抑えが効かなくなっただけなのだ。
「これは、オスカーくんに強力なライバル出現の予感かな~」
歌うように楽しそうに告げるアンネロッテに、ヘレーネは顔を顰めた。
オスカー・シャッヘはブレイズ小隊の同僚で、ヘレーネが機巧師団に入隊した当初からなにくれと世話を焼いてくれた恩人でもある。自分で言うのもなんだが、最高に可愛くない態度をとっていたであろうヘレーネをそれでも放り出さないで面倒を見てくれただけでも、彼は相当にお人好しだろう。
当たり前だが、別にヘレーネとオスカーは男女の関係ではないし、その気配もない。
そもそも八つも年が離れているし、オスカーにとってのヘレーネは良くて世話の焼ける妹分くらいの扱いだろう。まあ実際には面倒な後輩と思われているだけだろうが。
「シャッヘ少尉とはそういう関係ではありませんし、お姉さまはそういう対象ではありません」
「お姉さま!いいわねぇ禁断っぽくて。私そういうの大好き!」
聞いてないですわ、とヘレーネが突き放してもアンネロッテはどこ吹く風だ。
アンネロッテの気を逸らすためにも、ちょうどオスカーの話題が出たことだし、ついでに訊いておくことにする。サンダー小隊の増援により無事にBBを殲滅したことは通信で聞いたが、皆は本当に無事なのだろうか。
ヘレーネのせいで苦境を強いてしまった、ブレイズ小隊の皆は。
本当は今も彼らと無線で繋がっているのかもしれないが、ヘッドセットを失くしたヘレーネはそこに加われないのだ。
言葉少なに問うと、アンネロッテは気軽に応えてくれた。
「大丈夫。皆無事よ。ドールも、ドミニク隊長とモーガンくんのはほぼ無傷だし、オスカーくんのも片腕が吹っ飛んだくらいで済んだから」
たぶんライコウの振り過ぎね、と適当な予測まで添えて。
どうやら、本当に墜とされた間抜けはヘレーネだけだったようだ。
思わず強張っていた肩の力を抜き、ホッと息を吐いた。
なんだか、安堵する癖が付いちゃったみたい、と内心で苦笑する。
「ねぇ。ヘレーネちゃん」
ぽつり、と。
呟くような呼びかけにヘレーネは耳を傾けた。
「きっと、男連中は碌に言わないだろうから、私が代わりに言っとくけど」
わざわざそんな前置きをしてまで、一体なにを言うつもりなのかとヘレーネが身構えると、
「アナタが無事で良かった」
「え……」
全然予想外の言葉で、ヘレーネの目が丸くなる。
「ドールを失ったことは軽くないわ。叱責もあるでしょう。隊長なんかは表立って言えないでしょうけど、きっと皆こう思ってる」
ふ、と一息継いで。
「ドールなんかより、アナタが生きて帰ってくれたことが嬉しい」
だから、今だけは叱責でなく。
「よく頑張ったわね。えらいぞ」
「…………ッ!」
零れ落ちそうになるものを必死に堪え。
殆ど徒労に終わりながらも、ヘレーネは改めて思う。
今だけは、ヘッドセットが無くてよかった。
これ以上の醜態を晒したら、生きていけなくなってしまう。
噛み締める嗚咽を聞こえないような振りをして、アンネロッテが囁いた。
「哨戒がてら、ゆっくり帰りましょうか」
◇◇◇
稀人志篇 第三話裏 [Re:Chase] 了
◇◇◇
「やはり、不確定要素に頼ると碌なことが無いな」
ザッザッザ、と荒野を歩く人影が愚痴めいた呟きを零す。
黒い装束に身を包んだ長身の男だった。
全身を隙無く装備で覆い、頭部までもがすっぽりと覆い隠すフードに包まれている。
そのフードの下には、本来あるべきものが無い。
顔が無いのだ。
あるべき場所には揺らめく黒い炎が燃えている。
そして尋常ならざる黒炎に埋もれるようにして、血色に輝く眼光が。
異様な男の名はカデューサ。
少し前まで異失者の統率者だった人物だ。
カデューサはぶつぶつと呟きながら、荒れ果てた野を独り歩く。
「文字通りの全滅じゃねエか。酷いモンだな」
彼は自らが率いていた者達の痕跡を探していた。運よく生き残っているヤツでも居ないかと思って暫く彷徨ってみたが、結果は芳しくない。
どうしたもんか、と独り考える。
カデューサはもともと流れ者だった。何の因果か身に着けた強力な黒魔法を頼りに、異失者のコミュニティを渡り歩いて、傭兵じみた活動を生業にしている。今回この地に居合わせたのも単なる偶然である。
ことの発端はゴドウィンという名の異失者だった。
彼はこの付近の異失地帯に拠点を構える異失者の中で、強い発言力をもつ男だった。武闘派で、過激派。決断力はあるし、統率力もあるが、思慮が浅くて、そのくせ自信家――――つまるところが最も厄介な『無能な働き者』である。
巨大な翼竜という強力なBBの発生を知ったゴドウィンは、それに乗じて帝国軍のドールないしドライバーを手に入れる作戦を立案し、決行に移した。翼竜の行動を制御することはできないが、BBである以上ある程度の予測は出来るし、それを阻むためには十中八九センクティ・ドールが投入されるだろう。
不確定要素を作戦の根幹に据えるなど正気の沙汰ではないが、異失者に正気を問うことこそ無益だ。
カデューサも『それもまた面白い』と同調し、ゴドウィンの作戦に力を貸すことにしたのだ。
そして、目論見通りに順調に事が運び。
更に強大な不確定要素により完膚なきまでに粉砕されたのだ。
獲物を追い詰め、黒く染めるまであと一歩だった。
その場に乱入してきた男とガキ。
最初こそ、奴らを脚止めする役割だったはずの者達の無能を罵ったが、すぐに考え直した。
ありゃァ無理だ。
本能で理解したカデューサは即座に逃げの一手を打ち、戦場から遠ざかった。
結果的に、それが彼の命を救ったのだ。
天を焦がす緋色の業火を思い出す。
得意満面に待ち伏せ部隊を率いていたゴドウィン閣下の冥福を祈るばかりである。
「だァから俺に任せておけと……言ったンだがな」
単にドールかドライバーを手に入れるだけならば、こんな大それた戦力を展開する必要などない。カデューサ一人で事足りる。この身に宿った黒魔法の一つは他人の頭の中で不安を煽るような『声』を響かせるだけのちんけな能力だ。しかも『声』が語る内容はカデューサの影響下にないと来てる。
だが、黒魔法の神髄とはその効果に非ず。
黒魔法は既存のどの魔法体系からも異質な存在であるが故に、既存のどんな魔法体系を以てしても察知も妨害もできない。効果が現れた後に対抗することは出来ても、効果そのものが発動することを妨げられない。
例えば、先程のドライバーのガキを手に入れようと思えば、カデューサが街中に入って行って帝国軍基地の周辺に貼り込んで、通勤する彼女を尾行して自宅でも突き止めればいい。あとは見付からないくらいの距離を保って付き纏うだけだ。
黒魔法で囁きながら。
前述の通りカデューサの黒魔法はクソみたいな細やかな効果しかなく、魔法で察知も妨害もできないので、頭の中で声が聞こえたところで魔法攻撃を受けているとは普通は気付けない。しかも、カデューサの制御下にない『声』は対象者にとって心当たりのあることを勝手に喋ってくれるので猶更だ。下手にカデューサが介入するよりも余程自然に振舞ってくれる。
たかが『声』だが、それがいつ何時も絶え間なく続けば、普通の人間は気が狂う。
どれだけ強靭な精神を有していようが、一月ももてば良いほうだろう。
狂ってしまえばこちらのものだ。
心の防壁を失った人物が相手であれば、カデューサの黒魔法は一転、凶悪なまでの威力を発揮する。
心の髄まで汚し切って、操り人形の一丁上がりである。
まあ、結局ゴドウィンは自分の立てた作戦で、自分の指揮でドールを入手することにこだわったし、所詮は流れ者のカデューサを信じる者など居なかったから、ゴドウィンの指示のもと事は進み、こうなったわけだが。
それに、と思うのは。
「何故、正気に戻った……?」
不完全ではあったが、あのドライバーの心は確かに壊したはずだ。
カデューサのあれを受けて復帰できた者など、未だかつて一人として居なかった。だというのに、車上から異失者相手に狙撃をかますあのガキは、間違いなく正気を取り戻していた。
いかにあの男であっても、そのような真似は出来まい。
だとすれば、ヤツが連れていた学生服の女。あのガキの仕業としか思えない。
「まァ、どうでもいいか」
どの道、二度と会うこともあるまい。
あったとして、あのガキがカデューサの黒魔法を無効化する妙な力を有しているとわかった以上、こちらから避ければいいだけの話だ。
「ン?」
視界の端で何かが動いたような気がして、カデューサは脚を止めた。次の瞬間カデューサの身体がブツリと映像を切ったように消え去り、少し離れた場所に同じく唐突に出現した。
黒魔法による転移である。
「ンだこりゃ……」
思わず、と言った声が漏れる。
茫々と輝く血色の瞳を胡乱気に歪めてカデューサが見下ろした足元には、瓦礫の隙間に埋もれるようにして不定形の黒い『何か』が蠢いていた。うごうごと形を変え続けるそれは、既存のどんな物質でもない。
あまりにも異常で、異失者にとっては然程珍しいものでもない。
黒域の異法則に触れて形質を異失すると、大抵はこんな感じになるからだ。カデューサの黒炎の頭部も本質的には同じものである。
ただ、今回率いていた連中にここまで気色悪いヤツがいただろうか。
しばし考えたカデューサは、ぽんと手を打った。
「ああ!あの露出狂女か!」
裸マントで歩き回る、恥という概念を異失したとしか思えない女性に思い当たる。確か、あれの下半身がこんな感じの何かだったはずだ。
名前はデボラ、だっただろうか。
下半身どころか、どうやら全身異失してしまっていたらしい。異失は黒域至近でしか進行しないので、先程の戦闘の結果こうなったわけでなく、本当ならとっくの昔に触手の塊に成り果てていたところを無意識にヒトの振りをしていただけなのだろう。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
ものすっごく長い溜息が落ちる。
見なかったことにして立ち去ろうかと一瞬本気で考えた。ようやっと見つけた生存者が、よりによってこれかよ、と。だがまあ、見付けてしまった以上は放置はできない。
「おい。いつまで遊んでンだ」
うごうご。
「あー……お前まさか」
うごうご。
「めんどくせェー……」
天を仰ぐ。
どうやらデボラ(仮)は触手の塊から元に戻ることができないらしい。舌打ちを一つ零して、カデューサはフードを脱ぎ、黒い炎が揺蕩うだけの頭部を晒す。そしてデボラ(仮)を見下ろしながら言う。
「ホラ、こうすンだよ」
無秩序に燃え盛るだけだった黒い炎が、カデューサの意志に従って形を変える。
まるで型に押し込めるように、その不定形の輪郭が徐々に確固たるものに変わっていく。
ほんの数秒で、そこには間違いなく人の頭部が現れていた。
浅黒い肌に真っ白い頭髪、そして長い耳を有する『妖精人』の青年――それがカデューサの本来の顔だ。
麗しい種族である妖精人の例に漏れず、凛々しく整った美形であるが、野卑な表情と眼付きの悪さのせいで台無しになっている、そんな印象を受ける容貌だ。
血色の瞳でデボラ(仮)を見下ろしつつ、更に何度か妖精人と黒炎を行ったり来たりする。
「ホラ、やってみろ」
促すと、一応言葉は理解できていたのか、デボラ(仮)は一生懸命身体をうごうごし始めた。
率直に言って非常に気持ち悪い光景に、カデューサは妖精人の麗しい顔面を思いっきり歪める。
ややあって、コツをつかんだのか、不定形の黒い塊が明らかに指向性を以て形を変え、人型を象り始めた。
すぐに女性らしい丸い輪郭が見え始め、そして血色鮮やかに色付く。頭髪までも寸分の狂いなく再現し、一瞬の後には、カデューサの眼前の地面には一糸纏わぬ裸体の女性が座り込んでいた。
「……うそ…………もどった?」
彼女――デボラは己の掌を見下ろして、呆然と呟いている。
触手の塊に成り果てた自分が元の姿を取り戻したのが、それほどまでに意外だったようだ。思わぬ面倒ごとに機嫌が急降下していたカデューサであったが、一転にんまりと上機嫌になる。
「ほほう……イイ身体してんじゃねェか」
触手にしておくには勿体ないと言わざるを得ない。
おそらく、碌に鍛えたこともないのだろう。肉付きよく、豊満で、少しだけだらしない身体から匂い立つような雌を感じる。カデューサの言葉にキョトンとしたデボラは、ぼんやりと己の掌から身体へと視線を移し、
「~~~~~~ッ!?」
声にならない悲鳴を上げた。
そしてカデューサの視線から逃げるように必死に縮こまる。その劇的な反応に虚を突かれたのはカデューサだ。
「今更なにを生娘みたいな反応してンだ」
「き、き、生娘ですッ!」
「あっそ。じゃあ一生生娘だな。ご愁傷サマ」
なんせ触手の下半身じゃ初体験もクソもない。
てかよォ、と不躾にデボラの裸体を眺めながら、
「裸マントで歩き回ってたくせに、そんな反応できるほうがすげェわ」
「す、好きであのような格好をしていたわけではありませんっ!」
真っ赤になったデボラは涙目で抗議する。
カデューサの加虐心が少しだけ擽られる。
「じゃあなんであんな変態な格好してたンだよ?」
「こんな身体で服なんて着れるわけ無いでしょう!?」
「あのよ」
呆れを隠さず鼻で嗤う。
「形状も体積も操作できるンだからよ。脚の振りでもできるだろォが」
というか今まさにそうしてるだろうに。
触手を脚の形にして衣服の中に押し込めておけばいいのだ。伸縮も膨張も自在の肉体なのだから、使うときは服を破らないように露出した部分から伸ばせば良いだけである。それこそ、靴だけ履かなければ良いではないか。
そのようなことを言うと、デボラは特徴的な垂れ目の瞳を見開いた。
「貴方……頭が良いのですね」
「さてはお前アレだろ。賢しらぶってるだけで相当なアホだろ」
「失礼な!」
デボラはそう言って憤りを見せるが、既にカデューサの中でこの女の評価は『ただのアホ』で決定した。
その証拠に、もう自分がどんな状態か忘れているらしい。
「見えてンぞ」
「ひああああああああああああ!?」
どっぱぁん!と派手な音を立ててデボラの身体が弾け飛んだ。
羞恥のせいで集中が途切れて、肉体が擬態を維持できなくなったのだ。拡散しながら蠢く黒い触手の塊は、どう見ても未成年お断りな光景であった。カデューサは「うわキモ!?」と叫びながら転移で飛び退く。
混乱したようにのたうちまわるデボラ(仮)に「どうどう」と声を掛ける。
「異失した肉体が戻ったわけじゃない。不定形だから、やろうと思えば元通りの形も作れるってだけだ。だから、意識してねェと、そうなる」
というか、その身体でどうやって見聞きしてるのか全く以てわからないが、ともかくカデューサの言葉が届いたらしいデボラ(仮)は、うごうごするのをやめてもう一度身体を作ろうとし始めたようだった――――かと思えば、何故かカデューサのほうに触手を伸ばしてくる。
「ああ?」
クイクイ、と触手で控えめにカデューサの外套の裾を引っ張ってくる。
なんとなく察したカデューサは外套を脱いで「ほらよ」とくれてやった。
「ありがとうございます……っ」
カデューサの外套にすっぽりくるまって裸身を隠した状態で、デボラが再び人に戻った。
本当にありがたそうにお礼を言われて、カデューサはどうでも良さそうに手をヒラつかせて返した。
「さて、行くか」
「え?あ、はい……どちらへ行かれるのです?」
とりあえず、デボラ以外の生存者はもう居なさそうなので、カデューサは立ち去ることを決めた。
「決めてないが、まあ、どこぞの異失地帯にでも紛れ込むさ」
「はぁ、あの、私どもの拠点には戻られないので?」
首を傾げているデボラに、これ見よがしに溜息を吐いて見せる。
わかってはいたが、なんて危機感のない能天気な女だ。
「アホ。どの面下げて戻れるンだよ」
大見得切って出てきたゴドウィン以下、ほぼ全滅なのだ。貴重な戦力と魔導機も失い、そして得られた成果はゼロである。これでノコノコと拠点に戻りでもしたら、それこそ損失の全責任を押し付けられるに決まっている。
デボラはともかく、流れ者のカデューサなどスケープゴートにはお誂え向きだろう。
だからむしろ、表向きには本当の意味で『生存者など居なかった』ことにしておいたほうが良いのだ。
そのために、わざわざ、ひとりひとり入念に、数少ない生存者をこの手で殺して回っていたのだから。
「ところで、ゴドウィンさんはどうなったのでしょうか?」
そして悩むのは最後の生存者である、このアホ女の処遇である。
同じように始末してしまうのが一番手っ取り早いわけであるが、全身を異失しても平然と元に戻っているこの女が、普通に殺しても死なない可能性が高過ぎる。
「あの火柱見てただろう。灰も残さず消し飛んだよ」
「そうですか……」
幸い、ただのアホだから言いくるめるのは難しくないだろう。
使いようによっては有能な手駒になるかもしれない。
なにより、身体だけなら最高に好みだ。
とりあえず、街を目指すことにしよう。正面からは入れないだろうが、やりようはいくらでもある。今のように人に擬態しておけば、街の雑踏に紛れるのは難しくない。フェーズ3以上の異失者の特徴である黒いノイズが、実は擬態によって隠せるのだと知っている者は非常に少ない。そもそも、異失した肉体を元通りに擬態するのも普通の異失者にはできないし、知らないのだ。
勿論、身体を走査されれば一発でバレるので油断はできないが。
「あの黒衣の男性は、結局何者だったのでしょうか……?」
「ゴドウィン閣下を消し飛ばしたヤロウか?」
はい、と頷くデボラは「お名前を名乗っていただけませんでしたので……」と悲し気に呟いている。
名乗るわけがねえだろう、とツッコミを入れるのも面倒でカデューサは無視した。
実のところ、名乗ってもらうまでもなく、カデューサはヤツの正体を知っている。
「『禍竜』だ」
「?……もしかして、お知り合いだったのですか?」
まあな、と相槌を打ったカデューサは、妖精人の顔を苦々しく歪めて呟く。
「俺がまだ人だった頃の…………まあ、昔馴染みだ」