第三話[Chase]
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稀人志篇 第三話 [Chase]
◇◇◇
「ああ!やられちゃったぁ!」
視線の先の光景に、ナオは思わず声を上げた。
黒域というものの存在を知り、決意を新たにした帰り道のことであった。行きの道中に上空を横切って行ったセンクティ・ドールの部隊がなんだか馬鹿でかい竜のようなものと戦闘している場面に出くわしたのだ。
正確には、だいぶ上空のだいぶ離れた場所でドンパチしている彼らの姿を、地上から野次馬根性で観戦しているだけなのだが。ナオとしては明らかに危険極まりない状況に、とっとと逃げたほうがいいんじゃないかと思えて仕方がなかったのだが、移動手段を握るアグナムが何を思ったのか「滅多に見られる光景じゃないぞ」とか暢気なことを言い出したので、こうして観戦と相成ったのだ。
それはそうなのだろうけど、というかあんな光景が頻繁に見られて堪るかという話なのだけど。そもそも今日の外出の目的が、稀人であるナオがこちらの世界について見識を深めるためというものなのだから、レアな光景に遭遇したこと自体は僥倖なのかもしれないが。
ミコトは胡乱気にアグナムを見ながら「もしもの時はちゃんとナオを護ってよね」と釘を刺すことさえしたが、対するアグナムが「無論だ」と応えるとそれ以後は特に異を唱えず上空の戦闘を観察している。
四機のドールに相対する巨大な竜のような生物は、そのままずばり翼竜と呼ばれる、竜の亜種なんだそうな。
街で遠目に見かけた際のセンクティ・ドールのサイズから判断すると、翼竜はそれこそ航空機とかと同じようなサイズ感である。黒い魔素を操り、黒く歪んだ体躯を有する、遠目にも禍々しい姿。ミコトによると、あれは異失者の動物版で、ブランク・ビーストを略してBBと呼ばれる存在らしい。
もしあのドール達がやられたら、翼竜はこっちに向かってくるんじゃないかと戦々恐々としながら見守っていたのだが、ナオの内心の応援虚しく戦況はドール側がどう見ても劣勢で、ついにその内の一機が撃墜されてしまった。
「あれって、ヒトが乗ってたんだよね……」
四散し、黒煙を引いて落下していく無数の破片を見ながら、ナオは呟く。
センクティ・ドールは搭乗型の有人兵器。今視線の先で爆発したドールにも、ヒトが乗っていたのだ。
目の前で、命が失われたのだ。
と、ナオは思ったのだが、相変わらず頭上に引っ付いたミコトから「いえ」と否定が入る。
「たぶん、ドライバーは生きてるわ」
「そうなの?」
そうであって欲しい、という思いで上を見上げると、といっても頭上のミコトを見ることは物理的に難しいのだが、彼女ではなく隣に立ったアグナムから返答があった。
「ドールのコクピットには、機体損傷時にドライバーを保護する機能がある。先の攻撃でドールは爆散したが、コクピットに直撃を受けたようには見えなかった。おそらく、無事だろう」
「なるほど」
それなら良かった、と息を吐く。ナオにとっては縁も所縁もない相手だが、それでも安堵してしまうのは性格ゆえか。
例えコクピットが無事でも、あんな高い場所から落下したら結局壊れてしまうのでは、とも思ったが、言うまでもなくその辺の対策は施されているだろうから、たぶん大丈夫なのだろう。
落ち行くドールの姿を複雑な思いで見つめていたナオは、ふと不穏な予感が頭を過った。
「ねえミコト」
「なに?」
「さっき私達を尾行してたウォッチャーだけど」
それだけで、ナオの言いたいことを察したらしい。
「あれを操っていた異失者が、この戦闘に気付いていないとは考え難いわ」
「だよね。もしかしたら、落ちたドールのドライバーさん、危ないんじゃぁ……」
「そうねぇ。どう思う?」
そうミコトが問い掛けたのはアグナムだ。
彼は特に考えるでもなく平然と答える。
「穏やかじゃない事態にはなりそうだな」
「その根拠は?」
「根拠などないが。強いて言えば、使い魔が先程俺達を尾行していたにもかかわらず、ドール部隊がBBの対処に掛かりきりのこの状況で、異失者がこちらに何のアクションも起こしてこないのが不気味だな」
「あたし達よりも、あちらに対する興味のウェイトが大きいということね」
その言葉を聞いて、ナオは考える。
アグナムもミコトも、だからどうするとも言わないので、きっとこれはナオが判断するべきことなのだ。ナオ個人としては昨夜の件があるので、異失者というのは凶悪な犯罪者という先入観があるのだが、先程説明を聞いた限りでは、あくまでも黒域の影響で何かを異失した存在をそう呼ぶのだとか。
だとすれば、なにもすべての異失者が犯罪者とは限らないのではないか。
在り得るのかはわからないが、仮に悪意を異失すれば、その異失者は一切の悪意を持たない聖人になるのではなかろうか。
「アグナムさん」
「ん?」
「異失者って、みんながみんな、昨日のヒト達みたいじゃないんだよね?」
訊いてみると、彼は「そうだな」と首肯した。
「善良な異失者って、あり得る?」
「あり得る」
「じゃあもしかしたら、異失者達がドライバーさんを救助して、介抱するって可能性もあるのかな?」
重ねて問うと、やはりアグナムは「あるな」と首肯した。
ナオが何を悩んでいるかというと、この辺りを根城にしている異失者達が昨夜の奴等と同じような犯罪者であったならば、落ちたドールのドライバーは危機的状況なので、できるならば助けてあげたい。
だが同時に、善良な異失者という存在が可能性としてあり得るならば、彼らを一方的に悪と決めつけて判断することは出来ない。ナオの持つお粗末な情報量だけでは流石に判断できないと思ったのか、ミコトが口を開く。
「善良な異失者は可能性としてあり得る。だけど、その存在が私達にとって善となるとは限らないのよ」
「えっと……なんで?」
「異失者というのはね、その異失の程度、内容にかかわらず、すべからく黒域に帰属するのよ」
「???」
ちょっと理解が及ばなくて首を傾げていると、今度はアグナムが助け舟をくれた。
「奴等は黒域という『うつろわぬ神』を信仰する狂信者だ。異失は不可逆。一度でも異失を経験した者は、あらゆる行動が黒域に偏向される」
「黒域のために行動するようになるってこと?」
「そうだ。常に黒域の繁栄を願い、黒域に安息を覚えるようになる」
だからこそ、軽度の異失で日常生活に支障が無い異失者は普通に社会の中に紛れていることもあるらしいが、それでも異失者である以上、いつか必ず黒域に帰ろうとするのだ。そして、黒域に近付けば近付くほど、近くに留まれば留まるほど、異失は進行していく。
たまたま善良な異失者が存在したとしても、いつかは必ず、理解不能のバケモノになるのだ。完全に異失しきった異失者は、完全にこの世界の存在ではなくなって黒域の向こうへと姿を消すと言われている。
「黒域の繁栄を願うって、どういう意味ですか?」
「黒域の拡大は凡そ人智の及ぶものではない。故に異失者は単純に黒域に属する者を増やし、属さぬ者を減らそうとする」
「神に貢物を捧ぐが如く、ね」
つまりは異失者の数を増やすか、あるいは異失者以外の数を減らすか、である。
そのために最も理想的な手段は、非異失者を異失地帯に引きずり込んで異失させること。そして最も効率的な手段は、非異失者を殺害することである。
あたかも、宗教を布教し、異教徒を弾圧するが如く。
「不可逆で、相容れず、理解不能。俺は異失者に対する正しい対処とは撃退、ないしは殲滅だと思っている。俺達が黒域を理解しえない以上、わかり合える日は永遠に来ないからな」
「向こうが友好的だったとしても、ですか……?」
「友好的に奴らの家に招待されたところで、応じるわけにはいかないからな。奴らの意図を問わず、かかわるべきじゃない」
緩衝地帯に乗り込んでいる俺が言えたことじゃないがな、とアグナムは結ぶ。
例えば、ここら周辺の異失者が善良な性質だとする。翼竜に撃墜されたドールのドライバーを彼らが救助したとして、次にどうするかというと、当然ドライバーを療養させようとするだろう。
彼らにとっての安息の地である『異失地帯』に引きずり込んで。
そうすれば、助けられたドライバーは晴れて異失者の仲間入りだ。そのドライバー本人を含めて、皆が納得できる結末と言えるだろう。異失者にとっては、でしかないが。
「異失者になることが、もしかしたら本人にとっては幸せなことなのかもしれない。でも、それを確かめる術はないわ。意思疎通が可能でも、異失者になった瞬間から思考の根幹はすり替わってしまっているのだから」
「なんか、寂しいね」
「そうね。いっそ全てが黒域に呑まれてしまえば、誰も彼もが傷付かずに済むのかもしれない。黒域の向こう側には、あたし達が理解できない楽園があるのかもしれない」
「だが、それを許容できないから、俺達は誰も彼もが必死に生き残る術を探しているのだろう。この世界を諦めるほど倦んじゃいないからな」
アグナムも、あのドールのドライバー達も、そしてたぶん、ミズホも。
再び戦端を開いた翼竜と三機のドールが奏でる轟音を遠く聞きつつ、ナオは目を閉じ、考える。
この場でナオが何かをする必要はない。そもそも、ナオにできることなんてない。だから、分を弁えて大人しく立ち去るのが賢明だろうし、誰もそれを責めないだろう。
そう。ナオ以外の、誰も。
できることがあるのに見ない振りをした、なんて今のナオが自身に思うのは傲慢以外の何者でもないだろう。ナオが自分を許せなくなるとすればそれは、自分の中で答えが出ているのにそれを見ない振りすることだ。
そんな後悔は二度としないと決めていたのだから。
「アグナムさん、ミコト」
目を開け、傍らへと呼び掛ける。
「落っこちたドライバーさんを、なんとか助けてあげられないかな?」
「……向こうは助けなんて必要としていないかもしれないわよ?」
「必要としているかもしれないよね」
要らなければ、ああよかったと言って安心して帰ればいいのだ。
「異失者と戦闘になるわよ」
「うん」
ナオとて気付いている。先程ドールが落下した辺りの地表を伺うように、空中を旋回する複数の影は見覚えのあるウォッチャーだ。既に異失者達はあのドライバーを確保すべく動き出しているのだろう。
善良な異失者が云々と問答こそしたが、実際はあそこで蠢動する奴らが善良な性質であるなどとはナオ自身殆ど信じてはいなかった。自分達を尾行していたこともあるし、なによりドールが落ちたタイミングで待ってましたとばかりに出てくるのが、あからさま過ぎて。
「ナオ、あたしが言ったことを覚えているかしら?」
「どれのこと?」
「帝国軍のドライバーは国家に従う者よ。もし彼らにアナタが稀人であると露見すれば、彼らは職務上アナタを保護しなくてはならなくなる」
ああそのことか、と頷く。勿論覚えている。
公に存在が知られれば『稀人狩り』と便宜上表現している『何か』が現れて、きっとナオは死ぬ。今のナオは無知過ぎて、稀人であることを隠し通す演技もできないだろう。カバーストーリーも粗がある。追及されればすぐにボロが出るはずだ。
それでも。
「もうちょっと後なら良かったけど、今のアナタが彼らに接触するのはリスクが高い。だからあたしは、無視するべきだと思う」
「私が稀人であるとバレないように、上手く立ち回ればいいんでしょ?だいじょぶだよ」
「その自信はどこから来るのかしら」
「危なくなったらミコトがフォローしてくれるもん」
ね?と頭上に言い放つと、深い深いため息になって帰ってきた。
「そういうのを世間では他力本願っていうのよ」
「ごめんね」
ぐうの音もでないが、もはや開き直りの境地に至っているナオである。
何故ならば、こちらに来てこの方ナオが自分でできることなど皆無と言っていい。衣食住から会話に至るまで、なにもかもがミコトやアグナムやイルマにニコールと、誰かの世話になりっぱなしだ。
今のナオは言うなれば他力本願クイーンである。
どうせ後から恩返しのために奔走するつもりなのだから、今のところは好きなだけ頼ってしまおう、てきな。
「まったく困った頑固ちゃんねアナタ」
「あはは。そうみたい」
「まあ、ナオがちゃんと考えた末に自分で決めたんなら、あたしはサポートするだけよ」
そのかわり、とミコトがちっちゃい手で示したのは、隣で黙って聞いていた男の姿だ。
「そっちの説得は自分でしなさいよ」
それを受けてか、アグナムがその熾火の如き緋色の瞳で見下ろしてくる。
特にナオを咎める色もなく、なんというか寛いだ無表情だ。
気のせいかもしれないが、むしろ状況を楽しんでいる雰囲気すらあるような。
ちなみにナオは、あのドライバーを救援して異失者を撃退するという行為に対して、アグナムにそれが可能なだけの実力があることは微塵も疑っていなかった。別にナオは彼が戦う姿を見たわけではないが、何故か自然と『出来ないわけがない』と思っていたのだ。
「ナオはつまり、見ず知らずの軍人を助けるために、俺に危険を冒せと言いたいわけか?」
ドライバーを助けたいと言っても、勿論ナオにはなんの力もないので、全面的にアグナム頼りだ。ナオの言葉はつまり、アグナムにとってはなんの得にもならないヒト助けのために、異失者が集まってくる只中に、しかも上空で竜とドールが戦闘している危険地帯に突っ込んで来いということだ。
我ながら滅茶苦茶言ってるなと思いながら、ナオはパタパタと手を振った。
「お願いでも、まして命令でもないです」
「ほう?」
「私はアグナムさんの良心に提案してるだけですよ」
ナオの屁理屈っぽい言葉にアグナムは面白そうに眉を上げた。
ついでにミコトは呆れていた。
「ならば、俺が却下と言えば素直に諦めて帰るのか?」
「はい。素直な顔はしないと思いますけど」
結局働くことになるのは彼なのだから、彼の判断に従うのは当然だ。結果としてナオは今日のことを後悔するかもしれないが、それは彼のせいではなく自分自身の無力のせいだ。
これはただの提案なので、却下されれば食い下がるつもりもないという意思表示でもある。
目を逸らしたら負けな気がするので、緋色の瞳を頑張って睨みつけていると、不意に大きな掌が頭の上に置かれた。押しつぶされたミコトが「ぎゅむっ」と変わった悲鳴を上げ、ナオは首を竦めた。
そのままちょっと乱暴にミコトごと、というかミコトを使ってナオの頭を撫でたアグナムは、ニヤリと笑うと停車してあったバイクへと向かう。
「まあ、たまにはニコールの真似事もいいだろう」
「へ?」
それって、とナオが混乱したまま棒立ちしていると、バイクに跨ったアグナムが怪訝な顔で見てきた。
「ほら、行くぞ。乗るといい」
「え?え?私も行っていいんですか?」
「こんな場所で待っていると言われたほうが困る」
よくわからないけどアグナムがナオの提案を聞いてくれる気になったらしい。というかたぶん、最初からそうしてくれるつもりだったように見える。当然とばかりにナオに後ろに乗るように促してくるが、ナオはぽかんと口を開けていた。
なんで間抜け面をしているかというと、どうせ自分にできることはないからと考えていたせいで、自分の居所をどこに置いておくかを失念していたのだ。アグナムについて行ったところでなんの役にも立てない自信があるが、そうであるがゆえにこの場で一人待っていることも出来ないのだ。
戦場に突っ込むアグナムについていくのを今更恐れをなしたわけではなくて、ただ単純に、見ず知らずの軍人を救援すると同時にナオというお荷物を護らなくてはならない無理ゲーを了承してくれたアグナムに、ひたすら申し訳ないのだ。
見透かしたようにミコトが言う。
「さてはナオ、自分のこと忘れてたわね」
「いやあの、私なんの役にも立たないから戦力的にゼロなんだと思ってたけど、実はお荷物だからゼロどころかマイナスなんだなと今更気が付きまして……」
もにもにと言い訳がましく呟くナオに、アグナムは呆れ気味の苦笑を見せた。
「別に気にする必要はない。そんなことはわかったうえでナオの提案に乗ったんだからな」
それよりも早く、と視線で促されてナオは慌ててバイクに駆け寄った。
悲しいことにナオが間抜けなのは今更の話だし、申し訳なさは山積していくが生憎と他力本願クイーンにとっては平常運転だ。せいぜい心の日記帳に負債をいっぱいメモしておいて、あとで一生懸命恩返しすることにしよう、と自分を納得させるしかない。
もはや、ナオがうだうだ悩んでいればいるだけ、状況は窮まっていくのだから。
ナオがバイクに跨ってアグナムの腰にしがみつくや否や、弾けるような速度で走り出す。
山肌の起伏のせいでドール落下地点の状況は伺えないが、それでも時折ひらめく魔素の輝きで、既に戦闘が起こっていることだけは判断できた。
あそこに飛び込んでいくのだ。
思わず、腕に力を込めたナオへと、アグナムが背中越しに言う。
「ナオ。俺はキミの身体を護るだろう」
「え?あっはい、お願いします?」
「だが、その心まで護ることは出来ない」
硬い声音で告げられた言葉は抽象的だが、ナオは籠められた意味が理解できた。
彼はこう言っているのだ。
血を見る覚悟はあるか、と。
だからナオは精一杯の強がりを籠めて応えた。
「上等!ですよっ」
するとアグナムは少しだけ虚を突かれたように息を止め、その様子を面白そうに笑った頭上のミコトが、ナオの額をてしてしと叩きながら言う。
「この子、相当図太いからわりとへっちゃらよ」
「ミコト、それって褒めてるの?」
「かなり褒めてる」
「そっか……なんか照れるね」
えへへ、とナオがにやけていると、なんかよくわからないがミコトが「ほらね?」と呟き、どこで納得したのかわからないがアグナムが「そのようだな」と答えた。
そこはかとなく馬鹿にされた感があるのは何故だろうか。きっと気のせいに違いない。ミコトもアグナムも、まるで幼い子供を見守るような生暖かい雰囲気を醸し出してくるのは、気のせいではない気がするのだが。
口元をによによさせているナオに、ミコトが呆れ気味に肉球で叩いてきた。
「いつまでニヤけてんのよ」
「ん?ああ、えっと、ちょっと嬉しくてさ」
「?」
図太いって言われたのがそんなに嬉しかったの?とミコトは困惑している様子だった。
それもあるけど、それだけじゃない。
アグナムは先程、ナオの心までは護れないと言った。だけど、それはおかしな話だ。だって、その言葉そのものが、ナオの心を気遣う意図が無ければ出てこないはずのものなのだから。勿論、気遣うことと護ることは同義ではないのかもしれないが、それでも彼の気遣いでナオの心が喜んだのは事実だった。
だから、彼はちゃんとナオの心まで護ってくれている。
「アグナムさんって、素直じゃないって言われるでしょ?」
緩んだ口元のままそう言うと、アグナムは意外そうに答える。
「いや、初めて言われた」
少しだけおどけたようなその返事に、ナオの頭の上からミコトが「ウソつくな!」とツッコむのだった。
◇◇◇
「アグナムさん、待って!」
ナオの叫びに応じて、ドリフトを効かせつつバイクが急停止する。
ドールの落下地点に向かっていたナオ達の進路を塞ぐように、複数の人影が立っていたからだ。勿論、ナオが言うまでもなくアグナムも気付いていたのだろうが、彼はそのまま轢き潰すつもりみたいに全く速度を緩めなかったので、思わず止めてしまったのだ。
身体が吹っ飛びそうになる慣性を、アグナムにしがみ付いて必死に堪える。
互いの顔が確認できるくらいの距離で相対したのは、十数人の集団だった。ナオ達の進路上に三人、それ以外は少し間隔を空けて、ナオ達を半ば包囲するように布陣している。山肌の起伏や点在する岩塊の上に陣取って、高所から見下ろしてくる者も居た。
彼らは一様にマントのような外套を纏っていて、大部分が男性だが、女性の姿も見える。年齢幅は青年から中年まで様々で、只人以外の種族も確認できる。
おそらくリーダー格らしい、集団の中央最前列に立っていたのは若い女性だった。
波打つ金髪の女性で、どうやらナオ達のバイクが停車してくれたことに少なからず安堵しているようだった。歳の頃は二十代半ばくらい、たれ目が印象的な、他人を安心させるような風貌をした美人だ。
「止まっていただけなかったらどうしようかと思いました」
ホッと息を吐いた彼女は、柔らかな笑みを浮かべた。
彼女の背後に控える二人と、それから周囲に布陣した者達からは緊張感の漂う剣呑な気配が感じられたが、その中で中心の彼女だけが浮かべた穏やかな表情がひどく浮いて見える。
そして何より異様なのは、すっぽりと足元までをマントで隠した女性の、唯一露出した頭部に時折黒いノイズのようなものが奔るのだ。
「私はデボラと申します。お見知りおきを」
場違いなくらい穏やかに名乗ったデボラは、にこにこと笑いながら少しだけ間を置いた。
こちらが名乗り返すのを待っているのだということくらいはナオにもわかったが、アグナムが涼しい貌でシカトを決め込んでいるので、それに倣うことにする。
ややあってデボラが少し寂しそうに嘆息したので、ちょっと申し訳ない気分になる。
とはいっても、デボラ以外の人影は皆、強張った表情でナオ達を睨んでおり、友好感の欠片もない。そもそもフードを目深に被って素顔を隠している者も少なくない。
「あちらの――」
と言ってデボラが片手で示したのは、戦闘光と思われる魔素の輝きが瞬く、ドール落下地点だった。
「帝国軍のドライバーさんは、アナタがたの縁故でありましょうか?」
質問の意図がわからなくてナオが首を傾げていると、アグナムが口を開く。
「いや。おそらく赤の他人だな」
「?では、なにゆえあちらに向かわれるのですか?」
「通りすがりのお節介で、救援してやろうと思ってな」
特に隠すことなくアグナムが告げると、デボラは「そうですか」と呟いた。
それから、彼女は表情を少しだけ真面目なものにして告げる。
「その程度の理由であれば、どうかお引き取り願えませんか?」
「うん?」
「あのかたの保護であれば私どもが行います」
「絶賛戦闘中のように見えるが?」
「誤解でございます。誓って、私どもから仕掛けたわけではありません。私どもは保護を申し出ておりますのに、あのかたが抵抗なさるので身を護っているだけなのです」
思ってもみない方向に話が進み始めて、ナオは混乱してきた。
立ち塞がった彼らが異失者なのは間違いないし、雰囲気も友好的ではないが、少なくともデボラは理性的だし、即座に敵対する風でもなさそうだ。
それに、普通に会話が通じている。
ナオは、思わず口をはさむ。
「でも、アナタ達は保護したドライバーさんを異失地帯に連れて行くんですよね?」
ナオの言葉に、デボラは困ったように眉根を寄せて首を傾げた。
あ、と思い出す。
そう言えば、『感応』の指輪の効果でデボラの言葉を理解することが出来ても、ナオの喋る言葉はニア大峰言葉の実質日本語なので、おそらく帝国人のデボラには通じないのだ。というか、もう片方の指輪を持つイルマが居るであろう『アーバン・ベルガミア』からかなり離れた場所まで来ているはずだが、普通に効果が続いているのがすごい。
ナオの代わりに、頭上のミコトが訊いてくれた。
「保護したドライバーは異失地帯に連れて行くんでしょ?」
「はい。私どもの拠点は異失地帯にありますれば」
「そしたらドライバーは異失者になるわよ」
「はい。なにか問題が?」
「ドライバーがそれを望んでいるとは思えないのだけど」
「そうかもしれませんね」
「望まぬものを無理矢理に異失させるのはどうかと思うわ」
「わかります」
あまりにも素直にデボラは同意した。
そして、そのまま笑顔で言葉を続ける。
「ですが、正しい行いを躊躇する理由はありません」
「無理強いが正しいの?」
「虫歯の子どもが歯医者を嫌うからと言って、治療を受けさせない親が居ますか?」
そこまで聞いて、ミコトはナオの額をぽんぽんと叩いた。
これが異失者だと、そう言っているのだ。
それを教えるために、わざわざナオの代わりに問答してくれたのだろう。ナオはというと、『魔法の世界でも歯医者はそういうモノなんだな……』と能天気な感想を抱いていたわけであるが。
「で?それを聞いた俺達が大人しく引き返すとでも?」
「私どもとて譲れぬのです。退いていただけぬならば、相争うことになりましょう」
デボラは悲し気に目を伏せる。
「異失者にも心がございます。傷付きたくはないし、傷付けたくもないのです」
ナオはデボラの言葉を聞いていて思った。
この人は正しいことしか言っていない。
誰もが思っていることを語っているだけに過ぎない。ナオとて彼女の意見に同意することは吝かではない。ただ一点、事の中心に居るはずのドライバーの意志を完全無欠に無視しているという点を除けば、であるが。
勿論、ナオ達とて件のドライバーから助けを求められているわけではないので、現状では同じ穴の貉かもしれない。
だからきっと、それはデボラにとっては正しいのだ。
ナオにとっては正しいとは思わない。
どちらが間違っているとかは関係なくて、ただ相容れないということだ。
「アグナムさん」
そっと、彼の肩に手を置く。
「ドライバーさんを助けに行きましょう。この人達に任せては、ダメです」
ナオの言葉がわからないデボラは、説得が通じたのかと少しの期待を込めた視線を送ってくるが、対するアグナムはバイクのマギアドライヴを唸らせることで答えた。
「悪いが、引く気はない。ドライバーは俺達が連れていく」
「そうですか……」
すっかり気落ちした様子で、デボラが俯く。
そして彼女は、その黒いノイズが奔る顔で、悲しげに呟いた。
「残念です」
その瞬間、足元までを覆ったマントが内側から不気味に蠢き、がばりと持ち上がったかと思うと、得体の知れぬ黒いモノが噴き出した。
黒いモノは不定形に蠢きながら、巨大な咢のような、あるいは腕のような、名状しがたい触手のようなものとなってナオ達に襲い掛かる。
デボラはその場から一歩も動いていないにもかかわらず、黒い触手の膨張と伸展は明らかに質量保存を無視している。
「うひぃ!なにあれ!?」
間一髪、急発進したバイクの背後で触手が地面を爆砕する音を浴びつつ、ナオは叫ぶ。
振り返ってデボラを見遣れば、彼女のマントの下はなんと裸であった。
ただ、そこにあるのは艶めかしい裸体ではなく、下半身に蛸でも繋ぎ合わせたように、下腹部から下が黒い触手の塊に変じている。マントが首元で留まっているおかげで上半身は隠れているが、十中八九下に何も着ていないのは見て取れる。デボラが正体を現したのに呼応して、他の異失者達も次々にマントの下に隠していた獲物を構える。
デボラのように身体の一部が変質している者もいれば、おそらくは機巧術とやらの産物だと思われる巨大な銃器を召喚する者、あるいは魔法陣を展開してなにやら呪文を唱えている者など様々だ。
共通点は、一様にナオ達を排除せんとしていることだ。
「封じ込めなさい!」
デボラの号令に応じて、高所に陣取った魔法士らしき異失者の複数人が手を翳し、光り輝く魔法の壁を作り出そうとする。
文字通りの『檻』で囲ってこちらの逃走を封じるつもりだ。
バイクを駆りつつ、アグナムもまた片手を翳す。
「――――提起」
鮮烈な緋色の魔素が舞い踊り、アグナムの周囲で六つの星となる。
星の光が描きだす流麗な紋章が複雑怪奇に折り重なり、瞬く間に強靭な輝く剣を織り成す。六つの剣は光の帯を引いて放射状に飛翔し、完成間際の魔法の檻の僅かな隙間を縫うように高速で飛び抜け、檻を形成しようとしていた異失者達をピンポイントで射貫く。相手の魔法が完成するよりも尚早く、割り込んで潰したのだ。
光の壁が一斉に音を立てて砕け散る。
そのままアグナムはバイクを加速させ、包囲の一角を成していた壮年男性の異失者に真正面からぶち当たり、迷宮踏破仕様バイクのバケモノじみた重装甲の質量任せに吹っ飛ばして駆け抜けた。降り注ぐ遠距離攻撃や追い縋る黒い触手は、返す刃で飛翔した光の剣が悉く斬り払っていく。
アグナムにしがみ付いてぷるぷるしていることしかできないナオは、せめて背後を振り返って追手を確認してみた。
そして即後悔した。
「うわぁぁぁぁ!来てるぅぅ!?」
包囲して勝った気になっていたらしい異失者達は、あまりにもあっさり包囲を抜けられて慌てて追撃してきていたが、中でもデボラの反応が劇的だった。黒い触手の下半身を蠢かせ、まるで巨大な蛇のように恐ろしい速度で地を這って進んでいる。
正直、滅茶苦茶怖い。
たれ目が特徴的な顔が相変わらず穏やかに微笑んでいるのが余計不気味だ。
「デボラさんが怖すぎるんだけど!?あれ絶対ヒトじゃないよねぇ!?」
「フェーズ3であそこまでイカれた異失者は俺も初めて見る」
興味深そうに呟くアグナムに、ミコトが「感心してんじゃないわよ」と釘を刺す。
「しかもなんかロボットみたいなのまで出てますけど!」
機巧士の異失者が用意したのか、巨大な六脚の戦車じみたロボットが、重低音の駆動音と地響きを伴って追ってきている。センクティ・ドールと同じようなサイズ感で、アグナムのバイクなど一息に踏み潰されてしまう大きさだ。その他にも、アグナムと同じようなバイクを駆っている者、謎の装置で空を飛んでいる者、巨大な獣に跨っている者、獣型のロボットに跨っている者、肉体が獣っぽく変化している者、変なフォームで『ダカダカダカダカッ!』と怒涛の走りを見せる者、それから――
「いやいやいやいや!追手のバラエティが豊か過ぎる件!」
「みんな違ってみんな良い、を地で行く連中だからな」
追いすがる異失者からバラエティ豊かな攻撃が雨あられと降り注ぎ、アグナムは背中に目でも付いているのかと言いたくなるハンドル捌きで躱し、そして飛翔する光の剣で斬り払っていく。そのたびにナオは「ひぃ!」とか「ふぁ!」とか情けない悲鳴を上げる羽目になる。
肩越しに振り返ったアグナムが緋色の瞳を眇めた。どことなく懐かしげに見遣るのは一際存在感のある多脚戦車である。
「センクティ・ドールの登場でお役御免になった『エイブラムスMK-IV』だな。まあ骨董品だが、対地戦に限定すれば今でもそれなりに使える兵器だ」
「解説してる場合じゃあ――ってなんかヤバげな光りかたしてますよ!?」
「エーテルを投射する術理兵装ね。最新はあの手の兵器もドールが携行できるくらいにダウンサイジングが進んでるわよ」
ここぞとばかりに勉強させてくるミコトであるが、あいにくとナオの頭には一割すらも入っていない。ナオの元の世界にもエイブラムスという戦車があったような気がするが、マーク4ともなるとついに脚が生えて歩き始めるらしい。余談だが、あのいかにも『変形しますがなにか?』と言わんばかりの脚部構造と、その内側に垣間見えるキャタピラを鑑みれば、戦車らしい無限軌道も健在なのだろう。
姿勢制御など知ったことかとばかりに、爆走する『えいぶらむす』なる多脚戦車が光の砲撃をばら撒いてくる。進行の妨害になれば良し、直撃すれば儲けもの、くらいの雑な狙いで放たれた砲撃が、数の暴力で飽和攻撃と化す。
フ、とアグナムが鼻で笑うと同時、飛翔していた光の剣が無数の破片に分離する。折り重なって一つの剣を成していた無数の紋章が、まるで立体パズルを組み替えるみたいに、いくつもの盾となって降り注ぐ砲撃を防ぐ。
そうこうしている間にも、他の異失者達が側面から回り込みつつあった。味方の砲撃に巻き込まれないように距離を取りつつ、徐々にこちらの進路を塞ごうとしている動きだ。いかにアグナムの運転が神業染みていて、バイクがバケモノ染みた踏破性を有していようが、この岩肌の悪路では多足の獣のほうが有利だった。
「左!スナイパー!」
機械の獣に跨った異失者がもの凄く細長い銃のようなものを構えているのに気付いて、ナオは咄嗟に叫んだ。正直、あれが狙撃銃かどうかなんて全くわかっていなかったのだが、今回は正解だったようだ。
強烈なマズルフラッシュとともに放たれた弾丸が、当然目視など叶わぬ速度で飛翔し、アグナムが小蠅でも掃うように適当に振った片手に跳ね返されて射撃手本人にぶち当たった。
「…………ええ」
意味不明の光景に驚き疲れてきたナオは、思わずげんなりと呻いていた。
なんだいまの。このヒト、銃弾を『ぺいっ』て跳ね返しおった。『ぺいっ』て。
ナオの眼にはアグナムの手が一瞬緋色に光ったことくらいしかわからなかった。
「座標で弾丸を補足してエネルギーを一度奪って、逆向きのベクトルを与えて投射したのね。でも、それだけじゃあ跳ね返した弾丸は真っすぐには飛ばないはず……間に一工程挟んでいるはずだけど、このアタシの眼をもってしても見えなかったわ」
「ちゃちな錬金術だ」
「まさか、あの一瞬で弾頭を錬成したの……!」
「そういう小手先の技が得意な知人が居てな。ヤツに比べれば手品みたいなものだ」
凄まじいわね……、と頭上のミコトが感嘆した様子で呟いているのはわかるのだが。
生憎とナオは『ぽかーん』状態である。これから勉強して魔法についての知識をつければ、今の会話でちゃんと感動できるのだろうか。ナオがわかったのはアグナムの『ぺいっ』がとんでもない高等技能だということくらいであった。
むむむ……、と難しい顔をしているナオに、ミコトが呆れ声で言う。
「竜人の身体能力を只人基準で考えちゃダメよ。銃弾を見てから避ける連中なんだから」
「竜人もピンキリだがな。血の薄い連中はそこまでバケモノじみてはいない」
そういうからにはきっとアグナムは血が濃いぃ類の竜人なのだろう。
竜の血が濃いほど人間離れしているというのは、ある意味当然のことではある。
気を取り直して、ナオは目的地であるドール落下地点の方角を見遣る。どうやら、ドールのドライバーは異失者との戦闘を断続的に繰り広げながら潜伏と移動をしているらしく、魔素がきらめく戦闘エリアは、当初のドール落下地点からだいぶ離れつつある。
アグナムはリアルタイムで進行方向を補正しながら最短距離を突き進み、当然、追手のデボラ始め異失者達はそちらの方角に行かせまいとしているが、あまり足並みが揃っておらずお世辞にも効果的な連携とは言い難い包囲網だ。初手でアグナムにあっさりと包囲を突破されたこともそうだが、どうやらデボラ達はそれほど荒事に慣れているわけでもなさそうだった。
察するに、そういうのに長けた異失者がドライバーの『保護』に掛かり、そうでないデボラ達が邪魔者の足止めという役回りだったのだろう。
ズンッ、と突然の地鳴りが響く。
何事かと振り向いたナオは、多脚戦車がその進行を止めて脚部からゴツい杭を地面に打ち込んでいる様子を捉えた。杭を打ち込んだ衝撃が先の地鳴りの正体だ。
脚部を固定した戦車の上部にある角のような機関が作動し、溢れ出た緑色の魔素がバチバチと放電し迸る。緑色の放電はまるで触手のように至近の巨大な岩塊を絡めとり、ふわりと持ち上げる。数十メートルはあろうかという巨大な岩塊が、放電の鎖に引かれて宙に浮かぶ様はかなりの迫力だった。
「も、もしかして……?」
「たぶん、想像通りよ……!」
ごくりと唾を飲み込んだナオの頭の上で、流石のミコトも引き攣ったような声を漏らした。
そして肩越しに背後を一瞥したアグナムは、感心したみたいに目を瞠る。
「魔法鎖を用いた大質量のフレイルというところか。面白いことを考える」
なにを暢気な、とナオが言い募ろうとするより速く、多脚戦車が放電する魔素を振り回し、小山の如き岩塊を振り下ろしてきた。直撃すれば即死――というかたぶん掠っただけでも即死だろう。疾駆するバイクを周囲の地形ごと圧し潰すほどの巨大さで以て、どう考えても回避不能な一撃だった。アグナムが操る飛翔する紋章の防御網をどうやっても抜けないので、じゃあ一帯ごと潰しちゃえばよくね的な結論に至ったらしい。
思考が追い付かなくてアホみたいに岩塊を見上げるしかないナオを他所に、アグナムは片手でハンドルを握ったまま半身で振り向いた。彼の腰にしがみ付いていたナオは図らずも彼の胸元に縋り付くような体勢になる。
ふあっ、と声を上げるナオに構わず、アグナムが片手を岩塊へと翳す。
「――――提起」
先程も聞いた言葉だ。
おそらく、アグナムが魔法を使うときの決まり文句みたいなものなのだろう。
彼の動作と言葉に応じて、降り注ぐ岩塊を取り巻くようにして幾重もの緋色の円環が発生する。生命の危機に応じてかスローになったように感じるナオの視界の中で、岩塊の重心を中心に、天球儀のように異径同心の円環が発生し、高速で回転しているのが見て取れた。
そして、まるで岩塊の保有するエネルギーを吸い取ったかのように、円環が回転数を上げるに従って岩塊の落下速度が鈍っていく。
ついには巨大な岩塊が空中で完全に静止し、ぐるんぐるんと回転しながら回転していた幾つもの円環が、同心円状にピタリと動きを止めた。
円環の軸の延長線上に存在するのは、未だに脚部を固定したままの多脚戦車。
気のせいか、顔など無いはずの多脚戦車が、たらりと冷や汗を垂らす光景をナオは幻視する。たぶん、あれを操っている異失者は、まさに一瞬前までのナオやミコトと同じ引き攣った顔をしていることだろう。
同心円状に並んだ円環が軸に沿ってスライドし、岩塊を中心に据えた巨大な銃身を形成する。
まさか、と思うまでもなく、一度奪ったすべてのエネルギーを乗せて、巨大な岩塊が異失者達に向かって射出された。円環を潜るほどに尚速くなる、まるで戦闘機を撃ち出すカタパルトのようだ。
射出の衝撃で岩塊は砕け散り、唸りを上げる空気が巻き上げた砂礫と一体化し、大質量の岩雪崩となって山肌を掘削しながら異失者の一団を瞬く間に飲み込んだ。轟音という表現すらも生温い音の大瀑布と、砂塵を伴った衝撃波が駆け抜ける。例によって飛翔する紋章が形作る盾に守られつつ、土石流の余波から一目散に逃げるように駆け抜けたバイクの上で、アグナムが呟いた。
「やはり、質量は正義だな」
簡単に言えば、先程銃撃相手にやった『ぺいっ』を、死ぬほど大規模でやっただけのことだ。
確実に地形が変わったことだろう。
ここが黒域緩衝地帯であるのをいいことにやりたい放題である。もうもうと立ち上る砂煙が、まるで爆撃の跡地の如き様相を呈していた。
ナオはばくばくと音を立てる心臓を必死に宥めつつ、アグナムの背にひしっとしがみ付き、噛み締める様に言った。
「さよならデボラさん……!」
「ナオって、わりと良い性格してるわよね」
白けたミコトのツッコミは、もちろん聞こえなかったことにした。
◇◇◇
「居たっ!あそこ!!」
ナオが件のドライバーの姿を捉えたとき、既にその人物は異失者に半ば包囲されつつあった。
まだかなり距離があるので詳細までは見て取れないが、黒いパイロットスーツのようなものを纏った金髪の人影を、案の定個性豊か過ぎる異失者達が遠巻きに取り囲んでいる。おそらく、多勢に無勢で追い詰められた、まさにその状況だ。
岩山の一つの稜線を超えた瞬間に開けた視界の、傾斜を下った窪地の中心が戦場となっているようだった。
「一気に突っ込む」
「はい!」
下り坂の勢いも手伝って、アグナムのバイクが急激に加速する。
最早幾ばくの猶予もない状況に、ドライバーを救援すべく最高速度で戦場に突入する。当然、先程まであれほど派手にやらかせば異失者達もこちらの接近には気付いているわけで、包囲の外周付近に居た者達が反転して、遠距離攻撃を飛ばしてくる。
飛び交う弾丸の雨を斬り払って飛翔する六つの光の剣が、するりと解けるように分離した。一体どれほどの数の紋章が組み合わさっていたのか、瞬く間に百を優に超える数の小さな破片へと転じた光の剣が、まさしく絨毯爆撃の如く異失者を強襲する。
彼らがこちらに向けて展開していた弾幕が、十倍になって跳ね返ってきたような密度の差。
異失者達は怒号を上げて迎撃せんとし、回避を試み、防御を図り、そして成す術もなく上から叩き潰されて蹂躙される。
降り注ぎ、はちゃめちゃに飛翔する光の剣の嵐の中を高速で駆け抜け、斜めに隆起した岩の上に乗り上げる。一切速度を緩めずに岩の上から踏み切ったバイクは、一瞬だけ空を飛んだ。巨大なホイールから砂煙の軌跡を引き、放物線を描いて異失者の布陣の上を跳び抜ける。
迷宮踏破仕様の優秀な緩衝装置をフルに酷使して着地したバイクは、それでも着弾や墜落と表現したほうがしっくりくるような衝撃を伴って地面を砕き割る。そのまま包囲の真ん中に居たドライバーの側面を通り抜け、少し行き過ぎた背後でドリフトを効かせて急停車した。
ナオは、アグナムの後ろから身を乗り出して、精一杯に手を伸ばす。
「――乗って!!」
その声にビクリと身を震わせた帝国軍のドライバーは、見ればナオと同年代の少女であった。
軍人ということでガチムチマッチョのお兄さんだと先入観を抱いていたナオは、かなり意外に思う。
綺麗な子だ。
いかにもパイロットスーツといった風情の黒いボディスーツに身を包んでいて、まるわかりのボディラインは屈強さとはまるで無縁で、ナオよりも断然華奢に見える。パイロットスーツは少女の全身と下顎の辺りまでを隙無く覆っているが、頭部と顔は露になっているので、容貌はよくわかる。
豊かに波打つ金髪はツインテールに纏められていて、その豪奢な金色は目に眩しいほどだ。同じく金髪のイルマの色彩がお月様の金色だとすれば、この少女のそれは燦然と輝く太陽だ。頭髪を結い上げる髪飾りがそのままヘッドセットになっていて、大きなアンテナらしきシルエットがまるでネコミミのようで愛らしい。
気の強そうな吊り目の瞳は深い紫色で、アメジストを思わせる高貴な色彩を帯びていた。
凛とした表情が良く似合いそうな面立ちだが、突然のナオ達の乱入に思考が追い付かないのか、呆然と瞳をまんまるにした表情はどことなく幼い印象を与え、非常に可愛らしい。惜しむらくは、ここが戦場のど真ん中で、その可愛らしい表情を愛でている場合ではないということか。
少女はその下半身に機械のユニットを纏っていた。
腰部の側面から臀部にかけてを覆うスカート型の推進装置と、尾てい骨の辺りから長く伸びるスタビライザー。それから両足の腿から下を覆うのはセンクティ・ドールの脚部をそのままダウンサイジングしたかのような機械製の脚鎧だ。
少女の両脚と地面の間には魔素の力場が展開していて、なんと彼女は地面から三十センチ程度の位置に浮遊していた。
重装備の下半身とは対照的に上半身には一切の外装が無く、その手に武装と思われるアサルトライフルを持っているのみだ。見るからに機動力に特化した装備に見えるので、そのおかげでここまで異失者の包囲を逃れられていたのだろう。
「はやく!」
何故か一向に動こうとしない少女にナオが再度呼び掛けるが、少女は呆然とこちらを見遣るだけだ。
バイクを降りて引っ張ってくるべきか、とナオが一瞬考えた時、アグナムが片手を伸ばした。
「世話の焼ける」
小さく呟き、彼が伸ばした腕を軽く振ると、まるで見えない腕に掴まれたかのように少女の身体が不自然に泳ぎ、ぽーんとナオ目掛けて吹っ飛んできた。明らかにナオ目掛けて飛んできた少女を、ナオは怪我をさせないように身を挺して、そのささやかなクッションで受け止める。ナオの胸に思いっきり顔を埋めた衝撃にも反応らしい反応を示さず、ぼんやりしたままの少女のことが心配になる。
少女が持っていたアサルトライフルはその場に取り落としてしまったが、流石に拾っている余裕などない。
「よし、確保!」
「さっさと退却するか、――ッ!」
ナオの言葉に答えようとしたアグナムが急に息を呑み、少女を引き寄せるために掲げていた片手をもう一度翳す。
その時、ナオの視界に映ったのは『黒い塊』だった。
ドライバーの少女の軌跡を追うように追いすがってきた黒い塊が、その一部から鋭い棘のようなものを伸ばして、ナオを貫こうとしたのだ。アグナムの片手の動きに応じて展開した緋色の円環が、ナオの手前で黒い棘を補足して動きを止めた。物量作戦とばかりに次々と伸びてくる黒い棘を、アグナムの魔素が片っ端から捕捉し、拘束していく。
そしてナオは、その棘の持ち主と目が合った。
にこにこ、と垂れ目がちの優しげな瞳だ。
「ていうかデボラさんだ!?」
「なんで生きてるのよ!?」
ナオとミコトの素っ頓狂な叫びを浴びた異失者のデボラは、砂塗れの酷い有様だったが、驚くべきことにほぼ無傷に見える。
彼女はにっこりと得意げに笑んだ。
「実のところ、私自身何故助かったのかわかりません!」
「自信満々に言うことじゃないよ!?」
などと言いながらもデボラはその下半身が変じた不定形の黒い触手を棘状にして、執拗にナオの命を狙ってくる。それ自体はアグナムのバインドに次々と捉えられて完全に無力化されているのだが、ナオは大変なことに気付いて顔を蒼くした。
「デボラさん!見えちゃう見えちゃう!?」
彼女が元々纏っていたマントは既に襤褸切れ同然で、しかも下半身の触手がどんどん数を増やしてマントを持ち上げていくせいで、彼女の実り豊かな母性が非常に危うい位置まで見えてしまっている。
ナオの叫びにデボラは首を傾げる。言葉が通じないことをまた忘れていた自分を罵倒しつつ、ナオは咄嗟に指差して伝えることにした。ナオの指の先を視線で追ったデボラの砂塗れの頬がさっと染まる。
「やだっ!?」
なんか妙に可愛い悲鳴をあげたデボラの黒い触手の一部が蠢き、上半身に巻き付いて即席の衣服となる。
あら便利、とミコトは感心し。
そこは普通に恥じらうんだ、とナオは謎の安堵を覚える。
そして触手を捉えた緋色の円環が一斉に輝き、一切合切の遣り取りをガン無視したアグナムが無慈悲にデボラをぶっ飛ばした。残像が見えるほどの豪速で視界から消えたデボラのことはさっぱりと意識から追い出して、アグナムが今度こそバイクを急発進させた。ナオは片腕でアグナムの身体にしがみ付き、もう片方の腕でドライバーの少女を抱き締め、身体が吹っ飛びそうになる慣性に耐える。
運転するアグナムの後ろに、ナオと少女とついでにミコトが一緒くたに乗っかっているような状態だ。幸いバケモノじみた重装甲を誇るモンスターバイクなので、少女一人が余分に乗るスペースくらいは余裕である。
「ドレスを畳んでくれ。重い」
振り返りもせずにアグナムが告げた言葉にナオはきょとんとしてしまうが、どうやら言われた本人はちゃんと意味が理解できたようで、ドライバーの少女が小声で何かを呟くと、その下半身に纏っていた機械のユニットが魔素の粒子となって消滅した。
積載重量が軽くなったおかげか、アグナムのバイクは軽快な唸りを上げてガンガン加速していく。先ほど異失者への絨毯爆撃を敢行した無数の紋章が、まるで魚の群れのように空中を泳いで追走しつつ、そのまま立体パズルのように組み合わさって六本の光の剣へと戻る。
あれがどういう魔法なのかも、帰ったら教えてもらおうとナオは思った。もしかして、自分にも使えるようになるだろうか。
「アナタ、名前は?」
ナオの頭上からミコトがドライバーの少女に問い掛けると、彼女はまだ状況に戸惑った様子ながらも、小さな声で「ヘレーネ、」と答えてくれた。ちなみに、未だにヘレーネはナオの胸に顔を埋めたままなので、その声はもごもごとくぐもって聞こえた。というかたぶん、ナオが彼女を抱き締めて離さないのが悪いのだろうが。
ヘレーネを回収した以上はさっさと緩衝地帯からオサラバするのが良いだろうが、彼女を追い詰めていた異失者達は当然ながら彼女を異失地帯に追い込むように包囲を狭めていたようで、間一髪助け出した現在地店は緩衝地帯でもかなり奥まった場所だ。
「アグナム、追手よ」
「ああ。熱心だな」
アグナムの絨毯爆撃で一時的に行動不能になっていた異失者達が、体勢を立て直して猛然と追ってくる。
デボラに率いられていた者達とは明らかに練度が違う動きだ。彼らが異失者側の戦力の中核なのだろう。ナオはそんな者達に包囲されながらも今までたった一人で逃げ延びていたヘレーネの実力に感嘆するとともに、寄ってたかって女の子一人を追い回す異失者達に憤りを覚えた。
緊張が切れてしまったのか力なくナオに体重を預けてくるヘレーネを抱き締めながら、ナオは誰にともなく呟く。
「なんで、ここまでしてこの子を狙うのかな」
ただ単に異失者を増やしたいとか、帝国軍のドライバーを殺したいと言うだけの理由とは思えない執着だ。
遠目から見た限りではわからなかったが、こうして抱き締めているといやでも目に付く。ヘレーネの身体はまさに満身創痍と言った様相だった。何度も地面を転がったみたいに土だらけで、パイロットスーツにも大小無数の傷痕が無数に刻まれている。
もしかしたら、スーツの下には打撲とか、骨折とかしていてもおかしくない。
「おそらく、ドールが狙いだろう」
「でも、この子のドールは壊れちゃったんじゃあ……?」
「だからこそ、ドライバー本人を確保したいんだろう」
機巧術とは人機一体を可能とする魔法技能だ。機巧士と呼ばれる魔法士達は、機械を手元に呼び出してただ使っているわけではない。彼らは機械を自身の肉体の延長線上に置くのだ。その強みとは、魔素を消費して機械部品を生み出したり変形させたり組み替えたりすることが可能な機巧術のオペレーションにある。つまりは、機械を使用しながらリアルタイムで修復・整備・チェーンを行うことすら出来るのだ。帝国軍の機巧師団が強力なのは、ただでさえ凶悪な戦闘力を誇るセンクティ・ドールを、その気になれば殆ど整備・補給要らずで長期間運用できるためだ。
補給の要らない軍隊の有用性など改めて語るまでもない。
もちろん、その精度は術者の技量やコンディションに依存するので、不確定要素を減らすためには可能ならば通常通りの整備や修理を行ったほうが賢明ではあるが。
「逆説的に、機巧士は自らが操る機械の構造を熟知していなくては務まらないのよ」
「つまり、異失者がこの子を狙うのは、この子が持ってるドールの情報が欲しいから……?」
「機巧師団のドライバーともなれば、然るべき設備と材料、そして莫大な魔素があればドールを一から作ることすら可能だろう」
「……その通りですわ。ただし、」
そこで大人しくナオ達の会話を聞いていたヘレーネが口を挟む。
どうやらナオのニア大峰言葉はわからないようだが、アグナムとミコトの言葉からでも会話の流れは掴めたのだろう。
「制御中枢のコアモジュールだけはブラックボックスで、私達にも情報は開示されておりません」
「まあ、当然ね」
その理由はナオでもわかる。
安全管理上の問題だろう。万が一ドライバーが離反したり犯罪者の手に落ちたりした際にセンクティ・ドールを悪用される危険性を減らすために、ドライバー単体のオペレーションではドールが完成しないようにしているのだ。
補給・整備要らずのセンクティ・ドールの弱点とはドライバーかコアモジュールのどちらかが損傷すると運用困難になる点だ。逆に言えば、ピンポイントで弱点を狙われない限りは殆ど無敵だと言うことだが。
「軍用ドールが異失者の手に渡ることなどあってはなりません。もしもの時は、異失者などに身をやつす前に、自らの始末は――」
ナオと同年代か、もしかしたら年下かもしれないヘレーネだが、垣間見える表情には痛いくらいの義務感と悲壮感が伺えた。
硬い声で告げるヘレーネの言葉を聞いていられなくて、ナオは彼女を強く抱きしめて無理矢理に黙らせる。
そして、抱き込んだ彼女の頭を優しく撫でながら、言葉を掛ける。
「だいじょうぶ」
例え言葉が通じなくても、想いだけは届けばいいと祈りながら。
「そんなことにはさせないよ。私達が、護ってあげるから」
驚いた様子で、ヘレーネがナオの顔を見上げてくる。
そのあどけない表情に、ナオは精一杯のほほえみを返した。
きっとヘレーネはナオなんかよりもずっと強くて、立派で、気高いヒトだけど、今この瞬間だけはナオの腕の中で震えるただの一人の女の子だった。だから、理屈は抜きにして、この気高い少女の笑顔が見たいとナオの心が叫ぶのだ。
ね?とナオが笑うと、ヘレーネはぎこちなく表情を緩めた。
とろけるような淡い笑顔だ。これでこんなに可愛いのだから、彼女が心から笑ってくれたら、きっともっとずっと素敵に違いない。ほっこりと癒されるナオに釘を刺すように、ミコトが口を開く。
「大きく出たわね、ナオ」
「え、あ、いやまあ、私達がって言うか、十割がたアグナムさん頼りなわけだけど」
なんの戦力にもならないナオが言っていい台詞ではなかったと今更ながらに慌てるが、当のアグナムは背中越しに微かに笑ったようだった。
「身体に傷が付かなければ良いという話ではなかろう」
「あ…………」
言ったからには、ヘレーネの心はお前が護るといい。
そう言外に告げられたような気がして、ナオは目を丸くした。
こんな自分にもできることがあったという驚きと、無力な自分を頼ってもらえるかもしれないという喜びだった。
そしてナオを揶揄った調子のまま、ミコトが今度はヘレーネへと言葉を掛けた。
「それで?天下の機巧師団が、まさか一般人の腕の中で震えてるつもりじゃないわよね?」
明らかに発破をかける挑発的な言葉に反応し、ヘレーネがナオの胸から身を起こした。
当然ですわ、と低い声で告げる彼女のアメジストの瞳には、凛とした強い輝きが宿っていた。
街の方角を目指して疾駆するアグナムのバイクを追跡する異失者の一団は、初動で稼いだ距離の差を徐々に、確実に詰めて来ていて、幾ばくもなくナオ達を射程範囲に収めるだろう。三人乗りのバイクでは出せる速度に限界があるし、地の利は向こうにあるのだ。このままだと間違いなく、緩衝地帯を抜ける前にもう一度交戦する羽目になる。
バイクの後部装甲の上で器用に体勢を立て直したヘレーネが、その強い瞳のままナオを見詰める。
「お姉さま。お名前を教えてくださいまし」
へ?ときょとんとなりつつも、ナオは端的に「ナオ」と自分の名前だけを名乗る。
ヘレーネは確かめるように何度かナオの名前を呟き、それから晴れやかに笑んだ。
「ではナオお姉さま。どうか、私にも貴女を護らせてください」
「あ、ありがとう?ってあれ、そういう話だったっけ?」
「今ほど語学を疎かにしてきた過去を悔やんだことはありませんわ……!」
只管に混乱するナオと、そのナオの言葉がわからないことを悔やむヘレーネ。
なにせ、言葉が通じないのですれ違い続けるしかない。
その有様を見たミコトが日本語で「また誑し込んだわね」と呟き、アグナムが大峰言葉でおかしそうに「大したものだ」と返していた。何故かほのぼのとし始めた空気を切り裂いて、ついに追いついてきた異失者の攻撃が始まり、飛翔する光の剣が再び排撃を開始する。
「お姉さま!私を掴んでいてくださいまし!」
「は、はいっ!」
後ろ向きに座り直したヘレーネの腰と、アグナムの腰にそれぞれ片腕を回して、無力なナオはシートベルトに徹することにする。それからヘレーネはアグナムにも声を掛ける。
「ミスター!援護なさい!」
何故か命令口調のそれに気分を害した様子もなく、アグナムは「ああ」と答えた。
パンと両掌を打ち合わせたヘレーネがアメジストの魔素を纏う。
「機巧展開!――『E.H.レイルライフル』!!」
ヘレーネが離した両掌の間から光が溢れるように、アメジストの魔素が複雑な魔法陣を描く。複数のギアが噛み合わさった意匠の魔法陣から湧き出すように複数の部品が次々と出現し、独りで組み合わさって、瞬く間に長大な銃器のシルエットを作り出した。
ヘレーネ自身の身の丈ほどもありそうな長大な銃身を誇るボルトアクション式の狙撃銃だ。
武装を展開する隙をカバーするように飛翔する光の剣が、襲い来る異失者の遠距離攻撃を排撃する。
アグナムの魔法に護られつつ悠々と武装の展開を完了したヘレーネは、それを追手に向けて構える。重過ぎる銃身のウェイトを受けるために、銃身の半ばで鳥の足じみたアームが二ヵ所に存在し、それぞれが勝手にバイクの装甲板を掴んで姿勢を維持しているようだ。初弾を装填し、射撃姿勢を取ったヘレーネは、気負うことなく一射。
「発射!」
悪路を高速で走行する二輪車の車上だと言うのに、ヘレーネの射撃は寸分違わず異失者の一人の頭部を捉え、粉々に吹っ飛ばした。あまりにも距離が遠いのでシルエットでしかわからなかったのがナオにとっては幸いだったのだが、言い換えればそれだけの距離から精密射撃をしてのけたのである。
弾丸が魔素色の光の帯を引いていたおかげで、その軌跡が一直線に伸びていて、まるでレーザービームのようだ。
射撃の激烈な反動で巨大なバイクが一瞬跳ねる。苦も無く姿勢を制御したアグナムが呆れるように「おいおい」と呟き、ヘレーネは悪びれもせずに「あら失礼」と返した。
なんか、彼女のナオに対する態度とアグナムに対する態度がえらく違うのは気のせいだろうか。
流れるように排莢し、次弾を装填したヘレーネは、続けて二射、三射と放つ。
恐ろしいほどの精密射撃で、すべての弾丸が寸分違わず命を奪う。
ヘレーネの狙撃を警戒した異失者は地形や遮蔽物に身を隠しながら追撃せざるを得ず、これまでのように不用意に距離を詰めてくることができなくなった。
このまま行けば逃げ切れるかも、とナオが思った矢先であった。
ミコトが忌々し気に呟く。
「待ち伏せされたようね」
「えっ!?」
慌ててナオが前方を見ると、岩山と荒野の中間地点くらい、おそらくは緩衝地帯の出口に何か巨大なものが陣取っているのが見える。シルエットだけでも明らかにわかる。多脚戦車だ。まさか戦車だけが置いてあるわけではないだろうから、その周囲には異失者達が布陣しているのだろう。まだかなりの距離があるが、このまま山を下っていけば激突することになる。最短距離で緩衝地帯を抜けようと思えばあそこを通らざるを得ない。
「こなくそですわ!ドールさえあれば……!」
ヘレーネが悔しげに毒付く。
確かにセンクティ・ドールがあれば相手にもならない存在なのだろうが、少なくとも手持ちの火器でどうにかなるとは到底思えない。そもそも武装の射程距離が全然違うだろうから、このまま進めばあの多脚戦車の射程範囲に侵入した瞬間から一方的に滅多打ちにされることは想像に難くない。
たった一人の少女を捕えるためにそこまでの執念を注ぐ異失者が空恐ろしくて、同時に、そんな奴らに絶対にヘレーネを渡してなるものかと、思わずぎゅっと彼女を抱き締める。
「どうしてそこまで……!」
「あのBBがドールを撃墜してくれた機会こそ、奴らにとっては千載一遇のチャンスだろうからな」
この機になにがなんでもドールの情報を手に入れたいんだろう、とアグナムが冷静に告げる。
強力なBBである翼竜の侵攻を阻むためには十中八九帝国軍のセンクティ・ドールが動員される。そしてドールの戦闘力をもってしても翼竜は容易な相手ではなく、ドールが撃墜される可能性も低くはない。そして事実一機のドールが撃墜され、残骸とドライバーが緩衝地帯に放り出されている現状。しかも上空のBBが健在で、帝国軍はそちらの対処に掛かり切りときている。
ドールの情報を欲する異失者にとっては、二度と訪れない好機に違いない。それこそ、幾多の犠牲を払ってでもドライバーの身柄を確保しようと躍起になっているのだ。
「ヘレーネ」
不意に呼び掛けたのはアグナムだ。
「運転変わってくれ」
「?構いませんが……いかがなさるおつもり?」
「前を掃除してくる」
言うが早いか、アグナムはナオの腕をするりと抜けて、重力を感じさせない動きで垂直に飛び上がった。そのまま、まるでサーフボードにでも乗るように、飛翔していた光の剣の上に立ってバイクと並走する。
突然のことに動揺していたのはどうやらナオだけで、ヘレーネは少しも動じずに手元の銃器を送還すると、猫のような体捌きでナオの脇を抜けてバイクの運転席に収まった。操縦者が居なくなって一瞬だけ速度を落としたバイクだが、ヘレーネがハンドルを握るとマギアドライヴから溢れる魔素が緋色から紫色に変わり、元の速度を取り戻す。センクティ・ドールを操るくらいなのだから、バイクの運転など造作もないのだろう。
ナオがアグナムを見上げると、彼の緋色の瞳が、熾火の如く深々と輝いていた。
「アグナムさん!どうするの!?」
「自動防御は残す。このまま真っすぐ突っ込むといい」
ナオに(というよりヘレーネに)一方的に告げると、アグナムは更に上方へと跳躍し、先程から何度も使っている緋色の円環を今度は自分自身に纏い、爆発的に加速して生身のままロケットのように上空へと吹っ飛んで行った。
見送ることしかできないナオがヘレーネの華奢な腰にしっかりとしがみ付くと、彼女はこそばゆそうに吐息を漏らす。
緋色の軌跡が天高くで折り返し、遠く多脚戦車へと殆ど垂直降下で飛び込んでいく。当然、アグナムを寄せ付けまいとする異失者からの激烈な対空砲火が迸るが、ほぼ真上という位置取りとアグナムの速度が速すぎるせいで殆ど掠りもしない。運よく当たったとても、彼が纏った強靭な魔素に弾かれて何の痛痒にもなっていない。
まさしく、緋色に輝く隕石と化したアグナムの軌跡を追うように、ハニカム構造のエフェクトが空に散り、入れ替わるように茫漠たる光が集っていく。
ナオですら明らかに理解できるほどの、尋常ではない力の奔流だ。大気そのものが渦を巻いて収束していくかのような、大きなうねりを感じる。
「このスペクトルは――――まさか竜魔法……!?ッ衝撃に備えて!!」
目を瞠ったヘレーネが悲鳴染みた警告を上げ、ハンドルを握ったまま身を伏せる。
ナオは反射的に頭上のミコトを引っ掴んで「ぎゅむっ!?」胸元に押し込め、自身はヘレーネの背に隠れるように丸くなった。
そして緋色の光が多脚戦車に着弾したように見えた瞬間、
轟!!、と大気を振るわせて巨大な火柱が発生した。
あの巨大な多脚戦車の直下から、丸々と飲み込んで余りある規模の緋色の爆炎が、天高く雲すら貫いて吹き上がる。まるっきり火山の噴火のような、天災じみた光景に言葉が出ない。凄まじい熱量と光量に、一瞬だけ荒野が煉獄色に染まる。
身を伏せたヘレーネが呆然と「アメイジングですわ……」と呟いているが、ナオも全く同感である。
更に一拍遅れて爆心地から放射状に衝撃波が駆け抜け、砂煙が津波のように襲い来る。アグナムが残していった飛翔する剣が勝手に変形してバイクを覆う障壁を展開したので、ヘレーネは小声で毒付きながらやけくそみたいにまっすぐ爆心地へと突っ込んだ。
黒煙と炎に巻かれて視界ゼロの中を、まっすぐに突っ切る。流石に直視する度胸が無くて、ナオはヘレーネにしがみ付きながら、彼女の背に顔を埋めてきつく瞳を閉じていることしかできなかった。
バイクを護る障壁がなにか大きな障害物を跳ね飛ばすような異音が連続して響き、半ば融解した地面を巻き上げながら速度任せに駆け抜ける。まるで炎そのものがナオ達に道を譲ってくれたみたいに、驚くほどすんなりと進めるし、少しも熱くなかった。
迷宮踏破仕様の面目躍如といったところか、文字通り地獄のような悪路をものともせず、バイクは見事に走り抜けたようだった。瞼の上から瞳を焼く眩しさが収まった頃合いを見計らってナオが恐る恐る瞳を開くと、視界に映る景色は岩だらけの山肌から、殺風景な荒野へと変わっていた。
ここまで来れば、黒域緩衝地帯を脱するのも時間の問題だ。
ほっと息を吐いたナオの胸元でミコトが呻く。
「うう……眼とか耳とか、いろんなところがぐわんぐわんしてるわ」
「あはは、同感……」
ヘレーネは大丈夫かと気になって彼女を見ると、その頭髪をまとめていたヘッドセットがなくなって、ツインテールが解けていた。たぶん、炎の中を駆け抜ける際にどこかで落っことしたのだろう。ネコミミみたいなシルエットが可愛かったのに残念だと思いつつも、ヘレーネ自身には怪我もないようで安心する。
アグナムはどうしたのだろうと視界を巡らせると、ちょうど彼が頭上から降ってきたところだった。
背後の地獄絵図を作り出した張本人とは思えない寛いだ顔で、また同じように光の剣の一つに着地し、バイクと並走する。
ハンドルを握ったままのヘレーネが、戦々恐々とした面持ちで口を開く。
「貴方、何者ですの……?」
「しがない探索者だが」
彼には是非とも『しがない』という言葉の用法をもう一度勉強し直して欲しい。なんというか、彼が竜人という種族だと聞いていてもいまいち実感が湧かなかったナオであるが、流石にあんなものを見せられれば同じ生物だとは思えない。
なにはともあれこれで危機は脱しただろう、と背後を振り返ったナオは、信じられない思いで目を瞠った。
まだ追い掛けてきている。
ヘレーネの狙撃を警戒しながら追ってきていた異失者の一部が、待ち伏せ部隊跡地を乗り越えて、煤と砂塵の帯を引いて走るのが見えた。同じように背後を見たミコトがげっそりとした溜息を吐く。
「しつこすぎるでしょ」
「いや、」
もう一波乱ありそうか、と気を引き締めたナオの耳に、アグナムの短い否定の言葉が届く。
彼のほうを見ると、面白そうに口元を歪めて後方を眺めていた。
「見るといい。どうやら援軍のようだ」
そう言ったアグナムに従ってもう一度背後へと視線を向けると、相変わらず追走してくる異失者の姿と、そのさらに後ろに不思議なものが見える。
なんだか、地面から湧き出るように、まるで津波のようなものが押し寄せてきているのだ。
「んん?」
その津波は空色の輝きを放っていて、気のせいでなれば、どんどん中央に寄り集まって大きくなっているように見える。
ナオの脳裏に、ほんの少し前の記憶が蘇る。
「精霊さん!」
行きの道中でデッドヒートを繰り広げた、ガゼルに似た形状の野生の精霊種『ドルクス』の姿であった。
信じられないことに、地を埋め尽くすような夥しい数のドルクスが集結し、合体に次ぐ合体をくり返して凄まじいサイズに成長しつつある。こちらを追ってくる異失者達からも色濃い動揺の気配が伝わってくる。
瞬く間に多脚戦車よりも更に巨大な姿へと変貌したスーパードルクスは、そのまま加速して異失者の一団を軽く蹴散らしてしまった。まさしく鎧袖一触という有様だ。馬鹿でかい蹄で蹴り飛ばし、踏み潰す。異失者も抵抗を試みたようだったが、サイズ感が違い過ぎてドルクスにしてみれば文字通り蚊に刺されたようなものだっただろう。
そしてドルクスはそのままナオ達との距離も詰め、アグナムとは逆の側方を並走し始めた。というか歩幅が尋常ではないので、ゆったりと歩いているだけでも同じ速度なのだが。
ヘレーネは完全にビビった表情で「ひぇ……」とか細い悲鳴を上げたが、ナオは少しも怖いとは思わなかった。
首が痛くなりそうなくらい上のほうにあるドルクスの顔を見上げると、こちらを見下ろす瞳と目が合った。
やっぱりというか、こころなしかドヤ顔である。
「精霊さん!ありがとー!」
お礼を言いながらぶんぶんと手を振ると、ドルクスは納得したように一つ頷くと、弾け飛ぶように個々に分離して、方々へと散っていった。
何故かは知らないが、本当にナオ達を助けるためだけに集まってくれたようだ。
レースが楽しかったから友達認定されたのだろうか。
「今度こそ、もう追ってきてないよね?」
声に出して確認すると、アグナムとミコトの両方から肯定の返事が返ってきて、ナオはようやく大きく息を吐くことができたのであった。
◇◇◇
ノイフォルテの街と黒域緩衝地帯のちょうど中間辺り。小高い丘の上まで辿り着いたヘレーネは、断崖の傍でバイクを停車させた。結局サーフィン状態のまま並走して着いてきていたアグナムも、光の剣を消して地面に降り立った。
バイクを降りたヘレーネに続いて、ナオもその場に降り立つ。
緊張感に凝り固まっていた身体を解すように伸びをすると、心地よい疲労感が身体を巡るのが感じられる。ミコトもナオの胸元から浮き上がり、空中で小さな翅をぱためかせて伸びをしていた。
少し離れたところでマナホみたいなのを取り出してゴニョゴニョやっていたヘレーネが、振り返って言う。
「異失者どものジャミングもなくなりましたので、部隊との連絡が付きました。すぐに迎えが来るので、ここまでで結構ですわ」
通信妨害されていたなんて初耳のナオであるが、考えてみれば当然か。
ヘレーネの部隊発言で思い出したが、そういえば上空で戦っていたドールのほうはどうなったのだろう。
「アナタのお仲間は無事なの?」
「ええ。増援が間に合って、無事にBBを殲滅したとのことですわ。なので被害は私だけですわね」
少し自嘲気味に言って、ヘレーネはアグナムへと視線を移す。
「救援に感謝いたします。後日、改めてお礼をさせていただきたいのですが……」
「不要だ」
にべもないアグナムの言葉に、ヘレーネは何故か納得したような表情になると、ふっと苦笑して「了解ですわ」と返した。
「でも、個人的に親交を結ぶ分には構いませんわよね?」
アグナムはすぐには答えず、ふと、
「ヘッドセットを失くしたのか?」
と脈絡のないことを問い掛けた。
何故このタイミングでそんなことを訊くのかナオにはわからなかったが、問われたヘレーネのほうはにっこりと綺麗な笑みを浮かべた。
「ええ。いつのまにかなくなっておりましたの」
それを聞いたアグナムは薄い笑みを浮かべて「そうか」と呟いた。
「先の答えだが、好きにするといい」
「では遠慮なく」
その意味深なやり取りにナオがはてなを浮かべていると、おもむろにヘレーネが振り返った。
彼女はナオの眼前まで歩いてきて、そっとその両手を取った。
ぱちぱちと瞳を瞬かせるナオをまっすぐに見詰めて、
「お姉さま。私は貴女に救われました。このご恩は一生忘れません」
「え?ええ!?」
話の流れが全然わかんない!と混乱が極まるナオを他所に、ヘレーネはその美しい瞳を潤ませ、白い肌をほんのりと上気させる。
「願わくば、近いうちに、ご恩に報いさせてくださいませ」
「いや私たいしたことしてないし、助けたのほぼほぼアグナムさんだし、てか言葉通じないんだったぁ!?」
「浅学の身にて、今の私にはお姉さまのお言葉を理解することすらままなりませんが、次に会うときは必ず、貴女の国の言葉でこの想いを伝えて見せます」
「つまりどういうこと!?」
「これが、誓いの証ですわ――」
「へ?」
流れるような所作で更に距離を詰め、ヘレーネはナオの両肩に手を添える。
そして頭半分だけ背の高いナオに合わせるようにほんの少し背伸びをして、その瞬間ナオの視界が豪奢な金色で埋まる。
擬音を付けるならば『はむっ』である。
頭が真っ白になったナオは、一瞬遅れて自分がヘレーネにキスされていることを理解した。啄むような可愛らしい所作で、しかしがっつりと唇を合わせた濃厚なやつだ。
もちろん、ナオの内心は大混乱である。
ヘレーネの睫毛が長いこととか、肌理細かくて白い肌が羨ましいとか、軍人さんらしからぬくらいに良い匂いがするとか。
たぶん私の唇ガサガサだとか、お昼食べた後歯磨いてないとか、女の子相手だからノーカンかなとか。
意味不明な思考が流れては消えていく。
(…………んん?)
反射的に閉じていた唇を割るように、温かい何かが入ってくる。
噛み締めた前歯をトントンとノックしてくるこれはまさか――
(~~~~っ!?)
最早ナオはされるがままである。腰が砕けないようにするのが精一杯だった。
ちゅるちゅると卑猥な水音が響き、ゾクゾクと背筋を駆け上がる謎の快感と恍惚感に、ナオの背中が徐々に弓なりに沿って行く。その分だけヘレーネは背伸びをし、ついには二人して爪先立ちになり、お互いに完全に体重を預けて一体となる。
「わお……ガチなやつね」
「ああ。強いな……」
外野が何か言っているが、理解する余裕が無い。
ナオの体感的にはたっぷり五分くらい口づけをして、息が苦しくなってきた頃にようやく名残惜しげにヘレーネが身を離した。
ちゅぱっ、と音を立てて離れた唇の間に掛かる銀糸の橋を見て、ナオはわけもわからず頬が熱くなって、ヘレーネは心の底から嬉しそうに瞳を細めた。僅かに荒くなった呼吸が、唇をぺろりと舐める舌の動きが艶めかしくて、色んな意味で心臓に悪い。
そして突風が吹き荒れる。
「わぁっ!?」
暴れる頭髪を押さえて上空を見上げると、メタリックに輝く巨大な人型がゆっくりと降下してくるところだった。
すぐそばの断崖の下に降り立ったセンクティ・ドールが伸ばした掌の上に、崖の上からぴょんと飛び乗ったヘレーネは、一度だけナオのほうを振り返って可愛らしく手を振ると、そのまま腕を伝って軽やかにドールのコクピットハッチまで移動して中に滑り込んだ。
ぽかーん、とアホ面で見上げるナオの視線の先で、ヘレーネを回収したドールはゆっくりと上昇し、ある程度の高度まで上がると甲高い音を立てて巡航形態へと変形し、あっという間に彼方へと飛び去ってしまった。
「…………え?」
今更、思い出したように腰砕けになったナオはその場にぺたりと座り込んだ。
ええと、つまり……?と考えるものの、なに一つ理解できない。
「なんで私、べろちゅーされたの……?」
◇◇◇
稀人志篇 第三話 [Chase] 了
◇◇◇
「ただいま~」
怒涛のアクシデントを潜り抜けて、すっかり日も落ちた頃に『アーバン・ベルガミア』へと帰ってきたナオを出迎えたのはイルマであった。
何故かロビーで待ち構えていた様子の彼女は、ナオが帰るなり勢いこんで声を掛けてきた。
「ねえナオ!なにかあった!?」
「へ?ええと、いろいろあったけど……?」
そりゃあもう色々あったのだが、何故イルマがこんなに必死な様子で訊いてくるのだろうか。
首を傾げるナオに、イルマは挙動不審に方々へと視線を飛ばしながら、
「あのね、ええと、その、言い難いんだけど」
「なぁに?」
言い淀んだイルマの顔がだんだんと赤くなっていく。
ますます意味が解らなくて瞳を丸くするナオの前で、イルマはもの凄い葛藤を乗り越えたような鬼気迫る表情で、
「もしかして、えっちなことしてた!?」
「は?」
あまりに予想の斜め上を行く質問に、ナオの目が点になる。
しれっと後ろに立っていたアグナムが、腑に落ちたように「なるほど」と呟く。
「ナオ。キミに渡した『感応』の指輪の本来の効果は、文字通り感覚を共有することだ。言葉が理解できるのはその副次的な効果に過ぎない」
「感覚…………」
「複雑化した視覚などの感覚を共有できるほどの効力はないが、ごく原始的な感覚であれば共有する可能性はある」
はて、と考えるナオの肩に掴みかからんばかりの勢いでイルマが詰め寄る。
「さっきね!仕事してたらいきなり!なんかすっごい背中がゾクゾクして!立てなくなっちゃって!!」
「あー…………」
どうしよう。めっちゃ心当たりある。
原因など考えるまでもない。
パタパタと傍らで浮いていたミコトも重々しく頷いた。
「アレだよね…………」
「アレでしょうね…………」
「アレだろうな…………」
示し合わせたように溜息を吐くナオ達に、イルマが叫ぶ。
「アレってなに!?なにしてたの!?大人の階段のぼっちゃったのぉ!!?」