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稀人志篇 Rev  作者: Lynx097
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第一話裏[Re:Encounter]




 音が、聴こえた。


 最初の記憶は歌だった。


 その時の『私』にとっては、それは意味のあるものではなくて、抑揚を有する音の羅列でしかなかった。


 『私』は魔素(マナ)の海に漂う欠片だった。


 思考とも呼べぬ、微かな揺らぎだけを持つ。


 意味など無く、そのまま散逸するだけの小さな欠片。



『んー……』



 次の記憶は声だった。


 言葉ではなく、間延びする思索が音になっただけのもの。


 『私』は無数に存在した。


 意味を持たぬが故に、海に揺蕩う小さな欠片は全てが『私』だった。



『そうねぇ……』



 思索を続けるその声が、魔素(マナ)の海を掻き混ぜた。


 無数の『私』は流されるままに集い、散り、思考とも呼べぬ揺らぎが共振し、重畳する。


 そして、寄り集まった無数の『私』が、偶然にして一つの解を得る。



『決めたっ!』



 パチンっ、と指を鳴らし『彼女』は『私』を見詰めた。



『アナタの名前はミコト!このあたし、時津ミズホの分身のミコトよ!』



 名前。


 存在を定義する、最も強力な『意味』。


 偶然に解を得た無数の『私』に、時津ミズホが名前を与えた。




 その瞬間、無数の『私』は唯一の『あたし』となった。



『いい?アナタの役目は、あたしの大切な親友を助けるための、お助けキャラよ』



 役目。


 あたしが生まれた意味。


 存在する意味。


 偶然に発生しただけのあたしに、存続し思考する意味が与えられた。



『アナタはあたしの分身だけど、あたしじゃない。あたしと同じようには出来ないけど、きっとあたしに出来ないことが出来る』



 その言葉が、あたしを強固に形作っていく。



『でもどうせ『あたし』のことだから、アナタもきっと彼らを気に入るわ』



 彼ら。


 親友。


 生まれたばかりのあたしにあるのは『知識』であって『経験』ではない。


 『好き』も『嫌い』も言葉でしかない。



『だからミコト。アナタの役目はお助けキャラ。ナオとユーリを助けるために、アナタが必要と考える全てのことを為しなさい』



 そうして最後に与えられたのが、身体。


 時津ミズホの宝物。


 妖精ネコ。




 身体を得て、あたしはようやく、そして初めて瞳を開く。


 目覚める。



「あたしは、ミコト」



 時津ミズホによって生み出された、彼女の親友のお助けキャラ。


 あたしの役目は、佐々木ナオと三崎ユーリを助けるために、必要と考えるありとあらゆることを実行すること。





 ◇◇◇



 稀人志篇 第一話裏 [Re:Encounter]



 ◇◇◇





 この状況はおかしい、とミコトは考えていた。


 異界にて目覚めた佐々木ナオの眼前に、お助けキャラとして現れたミコトであるが、その実、ミコト自身もあの場所で初めてこの世界を認識したのだ。

 状況としてはナオと然程も変わらない。違いは、ミコトのほうがナオよりも早く目覚めたこと。そして、ミコトにはオリジナルである時津ミズホから与えられた知識があったことだ。


 生まれたばかりのミコトにとっては、不明な状況に対する大きな情動もない。

 ゆえに、己の存在意義に従って、ナオを助けるために行動することを第一指針とした。



 この場所が『迷宮(メイズ)』と呼ばれる異空間であることは理解している。

 迷宮には『魔物(レギオン)』が徘徊している。

 現時点で戦闘能力も自衛能力も有さないナオが魔物に襲われれば、生存確率は非常に低い。


 まずは、この場を脱すること。

 この迷宮(メイズ)魔物(レギオン)は基本的に昼行性、現時刻ならば休息中だろう。こちらから不用意に接近しなければ襲われる可能性は低い。


 ミコトは自身の視界にフィルターを掛け、魔素(マナ)を知覚可能にする。

 迷宮(メイズ)内は大気中の魔素濃度が高いので、こうすれば光源に頼らず地形を把握できる。同時に、魔素の集合体である魔物(レギオン)が居れば、相当遠くからでも発見できる。

 外界に影響を及ぼすような術式――例えばエリアサーチなんかを使えばもっと確実だが、逆に魔物にこちらの存在を察知される可能性がある。万が一にも見つかるわけにはいかないので、ミコト自身の内界の強化のみで事を為さねばならない。


 ミズホの知識から迷宮(メイズ)内のマップは把握できている。

 出口の方角は判明している。

 だが、ミコトにあるのは知識であって経験ではない。


 初めて歩む道のりを、あたかも勝手知ったるかの如く進む必要がある。


 何故ならば、ミコトが不安な素振りを見せれば、ナオはもっと不安になるだろうから。




 そうして、時折ナオの疑問に応えつつ迷宮(メイズ)内を進むうちに、ミコトは疑問を抱く。


 この状況はおかしい、と。


 ミコトのオリジナルであるミズホは、親友のナオとユーリをこの世界に送り込むにあたって、因果律を演算し、両者にとって最良の状況を選択したはずだった。

 状況そのものを操作はできないので、無作為に発生する無数の状況の中から、最も望ましいものを選んだということだ。

 ミズホより知識を与えられているミコトには、それが事実であるとわかる。


 だとすれば、この状況はなんだ?


 あまりにも不明で、救いがない。

 今のこのペースで魔物(レギオン)を避けて進んだとして、夜明けまでに出口に辿り着く可能性は、ほぼゼロだ。ナオから出口までの距離を訊かれたとき、ミコトは『距離で言えば遠くない』と返した。それは事実だ。直線距離で言えば出口は決して遠くはない。だが、入り組んだ構造でしかも高低差がある遺跡の内部を、直線で進むことなど土台無理な話なのだ。

 しかも、その上、点在する魔物を迂回する必要すらあるのだから。

 そして周囲の魔物が目を覚まし始めたら、ナオは間違いなく死ぬ。

 敢えて言うまいが、ナオの余命は既にカウントダウンが始まっているといっても過言ではないのだ。



 これが、最良の因果律?


 ナオが辿り得る因果は、他の全てが現状よりも劣悪で過酷だったというのか。

 そんなはずはない。


 だとすれば、ミコトが出しゃばったのがいけなかったのか。

 ミズホが演算したのはあくまでもナオの因果律だ。ゆえに、支配因果律に影響を与えうるのはナオの行動だけ。


 そもそも、因果律を選択するというのは、要は、最も望ましい結末に至ることが可能な道筋を演算し、その起点を与えるということだ。

 そうしてミズホがナオに与えた起点があの場所での目覚めだというのであれば、そこから正しい道筋を進めば、望ましい結末に至るようにできているはずなのだ。ただし、それは佐々木ナオの因果なので、選択するのは常にナオでなくてはならない。ナオがこの迷宮(メイズ)を脱するという選択をするのだと判断して、それを助けるためにミコトは先導を買って出たわけだが、もしかすると、ミコトが道筋を選んでしまっているせいで、望ましい結末から遠ざかっているのではないか。

 ミコトは訊かれたことに答えるだけに徹して、ルート取りはナオの直感に任せるべきだったのだろうか。

 迷宮の出口を目指すことが、必ずしも最良の結果に繋がるとは限らないのだから。



 それは杞憂だと、理性は訴える。

 何故ならば、ミコトがここに存在するのはミズホの意図したことだからだ。だとすれば、彼女の演算にミコトの存在が加味されていないはずがない。

 ミコトの存在もまた、最良の結果に至るために必要な一つのファクターであるはずだ。


 それに、彼女はミコトにこう言った。



『ナオとユーリを助けるために、アナタが必要と考える全てのことを為しなさい』



 だからミコトは考えた。

 右も左もわからないナオには道標が必要だ。

 故にミコトはそれを実行する。

 創造主に望まれたとおりに。




 だが、状況は一向に好転せず、タイムリミットは刻一刻と迫る。

 極めつけは『奴ら』だ。



「最悪ね……あいつ等だわ」



 思わず吐き捨てる。


 だから、近くにヒトが居るとわかった時、接触するかの判断はナオに任せた。

 ナオもこの状況の閉塞感は薄々理解していた様子で、同時にミズホが選択したという最良の因果律を信じて、接触してみることを選んだ。


 その結果、目の当たりにしたのは残虐で悪辣な凌辱劇だった。

 ヒトを魔物(レギオン)に襲わせて、囃し立て、嘲笑う狂気の集団。


 彼らは『異失者(ブランカー)』と呼ばれるならず者達だ。その中でも飛び切りにタチの悪い、快楽殺人鬼(シリアルキラー)の集団だろう。

 いったいどういう凶運を引いたらピンポイントであんな奴らに遭遇するというのか。


 正しく、最悪だ。

 一刻も早くこの場を離れなければ。奴らが、あの憐れな犠牲者を『鑑賞』するのに夢中になっているうちに。

 このまま息を潜めてやり過ごす、という選択肢もなくはないが、おそらく悪手だろう。奴らはサイコパスの集団だろうが、少なくとも魔物(レギオン)が跋扈する迷宮(メイズ)の中で『遊び』に興じるくらいの実力があるのだ。そんな奴らが索敵能力に秀でていないわけがない。

 まだだいぶ離れているが、この距離でもいつ見付かるかわかったものではないのだ。



「ナオ。気をしっかり持って」


「あ、ああ……」



 ナオは顔面を蒼白にして、魔物(レギオン)に襲われた犠牲者の末路を凝視している。

 無理もない。

 腰が抜けていないだけ大したものだ。



「アイツら、こっちには気付いてない。今のうちに逃げるの、早く!」



 ナオを先導するために飛び出したミコトは、直後、背後から高密度の魔素(マナ)を感じて急制動を掛ける。

 飛び過ぎながら振り返ると同時、指向性を持った魔素に撃ち抜かれ、常駐させていた術式が破壊されたことを理解する。


 ステルスを破られたのだ。

 ミコトを睨む巨大な眼球と視線が交錯する。

 皮膜翼で飛行する眼球、としか形容しようがないそれは、『ウォッチャー』と呼ばれる種族の精霊だ。

 名前の通り、『視る』ことに特化した精霊で、視線を媒介にして様々な魔法を使う。


 あれに見られたせいでミコトのステルスが強制的に解除されたわけだ。



使い魔(ファミリア)……!」



 精霊は『自然』さえあればどこにでも存在するが、迷宮(メイズ)内では自然発生しない。

 状況的に見て、どう考えても異失者(ブランカー)達によって使役されている使い魔(ファミリア)だ。

 つまり、奴らに捕捉されたのだ。



「走って!!」



 叫びながら、ミコトは今度こそ飛び出した。

 魔物(レギオン)が存在しない方角を大雑把に確認しながら、全速力で飛行する。

 後ろに続くのはナオの足音と、それからウォッチャーの羽音だ。


 更に悪化した状況に、ミコトは歯噛みする。

 異失者(ブランカー)に追いつかれればナオが殺されてしまう。

 だから、追ってくるウォッチャーをなんとかして排除しなければならない。

 時津ミズホが分身として作成した人工の精霊であるミコトは、視ることしか能がない下級のウォッチャーなどよりも余程高度な存在だ。持てるポテンシャルを最大限に発揮できれば、あの程度の相手、即座に灰にできるだけの能力がある。


 発揮できれば、だが。


 最大の問題として、現状のミコトには自由に使える魔素(マナ)が殆どない。

 残りの魔素ではごく低級の魔法をいくつか使うのがやっとだろう。

 魔素が尽きれば実体化することもできなくなり、本体であるスマホの中に戻るしかない。


 そういう事情で現状のミコトの戦闘能力は決して高いとは言えないが、それでもおそらくあの下級のウォッチャーにはギリギリ負けない。余力を振り絞れば排除自体は可能だろう。

 だが、ミコトがウォッチャーを排除するために足を止めれば、ナオを先導する存在が居なくなる。

 この迷宮(メイズ)の中を闇雲に進めば、瞬く間に魔物(レギオン)とエンカウントしてしまうだろう。

 そうなれば、やはりナオは殺されてしまう。


 あえて魔物(レギオン)を誘引してウォッチャーにけしかけるか?

 それとも、ナオが闇雲に逃げても最終的に助かるように因果律が決まっているのか?

 どちらにしても確証なんてないし、あまりにも分が悪い賭けだ。


 生まれたばかりのミコトには、経験を根拠にした判断を下せない。

 そうして悩んでいるうちに、ついに状況は窮まる。


 振り向いてウォッチャーの位置を確認しようとしたミコトは、その更に後ろに鮮烈な輝きを見た。

 ミコトの視界にはフィルターが掛かっていて、魔素(マナ)を視認できる。強く輝くのは、それだけ高密度の魔素であるということだ。

 それが異失者(ブランカー)の攻撃であると気付いた瞬間、ミコトは叫んでいた。



「ダメっ!ナオ避けて!!」



 高速で飛来したそれは、おそらく誘導型の射撃魔法だ。

 高度な人工精霊であるミコトは、単純な魔法であれば一目で術式の構成まで看破できる。

 若干の誘導性能を有する代わりに弾速を犠牲にした術式構成。

 だが、ナオが必死に走る速度よりかは、圧倒的に速い。


 距離が遠過ぎて狙いが逸れたのか、あるいはミコトの警告のおかげでナオが間一髪で身を躱したのか、その射撃魔法はナオの右脚の脹脛の辺りを抉るにとどまった。骨までは達していないようだが、深々と肉を抉られ、ナオは鮮血を撒き散らしながら転倒してしまう。

 全力で走っている最中にバランスを崩したせいで、ナオは全身を強く地面に打ち付けながら転がり、10mほども進んだ位置でようやく止まった。

 激痛に苦悶しつつ傷口を押さえるナオの身体の下には、見る間に大きな血だまりが広がっていく。


 絶望感に身を焦がしながら、ミコトはとにかくナオの治療を試みる。

 術式を構築し、魔素(マナ)を走らせ、ナオへと発動した治療魔法はしかし、効果が薄い。

 ウォッチャーの視線に妨害されているのだ。

 視線を媒介にした術式妨害。下級のウォッチャーが視線だけで発動した、つまりはおまじない程度の威力しかない妨害行為が、この窮状では致命的なまでに忌々しい効果を発揮している。


 判断を誤ったのか。

 先にウォッチャーを排除するべきだったか。

 忌々しい目玉の精霊は、調子に乗ってミコトに飛び掛かってきた。

 身体に占める眼球の割合に対して、明らかに貧弱な(あしゆび)を振り回して、ミコトを徹底的に邪魔してやろうという魂胆なのか。


 治療魔法を破棄して反撃したいが、だがミコトがウォッチャーに構っているうちにナオが失血死してしまっては意味がない。

 妨害を受けているとはいえど、止血するくらいの効果はあるはずだ。


 結局のところ、どちらを選んでも大差はなかったのかもしれないが。



 ついに、異失者(ブランカー)の一人が追い付いてきたのだ。

 黒いローブにフードまで被って闇に溶け込む姿をしたその男は、もがき苦しむナオの姿を愉快そうに見下ろしていた。

 他の異失者達も続々と集まってきていた。

 完全に詰んでいる。



「ひひっ……手間かけさせやがって」



 男は、ゆっくりとナオに向かって手を伸ばす。

 ミコトが渾身の力でウォッチャーを振りほどこうともがく。


 どうなってんのよオリジナル!とミズホに対する罵倒までもが脳裏を駆け巡り、









「――まったくだ」



 次の瞬間。

 眩く輝く何かが飛来し、異失者(ブランカー)の男の胸部に直撃した。

 男は胴体を拉げながら吹き飛び、それと同時にもう一つ飛来した輝く何かが、ミコトと競り合っていたウォッチャーを両断する。


 ミコトは咄嗟に、その何かが飛来した方向を見遣る。

 そして、あまりの眩しさに瞳を細める。


 迷宮(メイズ)の闇を白く染めて、人型の炎が現れていた。

 すわ魔物(レギオン)か、と瞠目したミコトであったが、すぐに自身の視覚にフィルターを掛けていたことに思い至る。

 魔物の位置を把握するために、魔素(マナ)の密度と総量によって知覚するようにしたのだ。


 少しだけ感度を落とすと、人型の炎の正体は、若い男であることがわかる。

 闇より深い黒髪と、熾火の如き緋眼。

 屈強な体格の、長身の男だ。

 驚くべきは、その身が人型の炎に見えるほどの、莫大な魔素(マナ)


 男は歩きながら軽く手を振り、ナオの右脚の傷口を覆うように魔法を展開する。

 止血や鎮痛の効果がある応急手当て用の『メディカルシール』系統の魔法だ。

 ナオの傍らに立った男の背に、『キキキキッ!』と硬質な刃鳴りを連続して響かせて、輝く何かが折り重なった。まるで片翼のように連なったそれらの正体は、緋色の魔素(マナ)で編まれた光の剣だった。

 術者が描いた魔法陣そのものを刀剣や盾、陣地等として運用する、『紋章術(シグニア)』と呼ばれる魔法技能だ。

 紋章術(シグニア)において複数の魔法陣を複合させて一つの術式と為す技法を『ヴァリアント・サイン』と呼ぶ。

 飛翔する刀剣は風に舞う花弁に例えて『ペタル』と分類されるので、彼の背に連なる刃は差し詰め『ヴァリアント・ペタル』と呼ぶべきか。


 美しい文様を描く緋色のヴァリアント・ペタルは、表面を見ただけでも『切断』『飛翔』『防汚』『硬化』『鋭化』etc.――と編み込まれた層の数が尋常でない。

 ミコトの目を以てしても見通すことの叶わない複雑怪奇で強固な術式。

 それが、6枚。


 彼はナオの傍らまでやってくると、その掌に魔素(マナ)の炎を燈らせる。

 膨れ上がった炎を握り潰すようにすると、爆ぜる火の粉が波紋の如く虚空へと広がっていく。

 魔素を用いた探知術式――つまりはアクティブソナーだ。

 対抗術式を走らせていない限りは、一定以上の魔素密度を持つ存在はすべて反応する。

 おそらく、周辺の異失者(ブランカー)および魔物(レギオン)の数と所在を確認したのだ。


 彼は無表情にミコトを一瞥すると、低い声で問うてきた。



「……この子の使い魔(ファミリア)か?」


「ミコトよ。まあ、似たようなものね」



 彼はミコトが流暢に言葉を話したことに少しだけ驚いたようだ。

 そのまま、ふむ、と一拍。



「……アグナムだ。ではミコト、主を守るといい」



 ミコトはその言葉に従い、高度を落として、倒れ伏すナオの肩の上にふわりと降り立った。

 ナオは気を失っているようだ。

 血を流しすぎたのか顔色は若干青白いが、呼吸は安定していて、即座に命の危険はなさそうだった。もちろん、アグナムが使った応急手当て用の術式はあくまでも応急なので、できるだけ早急に然るべき治療を施す必要があるだろうが。

 ミコトはなけなしの魔素(マナ)を振り絞って、球状の障壁魔法を展開する。

 物理的な防御力はほとんどないが、呪詛(カース)の類にはそれなりに強い。今のナオが呪いなんて食らったら即死だから、それだけは防がなくては。



「んににににっ、な、長くはもたないからねっ!?」



 歯を剥いて魔素(マナ)を振り絞るミコトの姿に、アグナムは薄く笑って「上出来だ」と呟いて寄越した。

 そして、彼の背のヴァリアント・ペタルが涼やかな音を立てて展開する。



「時間を掛ける気はない」



 宣言とともに緋色の六花が燦然と輝き、閃光となって飛翔した。

 どうやら、先程ミコト達を助けてくれた際のそれは、ミコト達が巻き添えを受けないように、だいぶ手加減してくれていたらしい。

 周囲を取り囲むように展開していた異失者(ブランカー)達を標的に放たれた今回の攻撃は、その速度が先程の比ではなかった。

 正しく、光だ。


 剣や障壁で防ごうとした異失者(ブランカー)も居たようだが、無意味な抵抗だった。

 ミコトの目にははっきりと認識できていたのだ。奴らの展開する障壁魔法もそれなりの強度のようだが、緋色のヴァリアント・ペタルは術式構成の強度の次元が違う。

 木の盾で機銃掃射を防ごうとするようなものだ。

 防御に使った剣は砕け折れ、障壁は容易く貫通し、熱したナイフでバターを斬るが如く、微塵の抵抗もなく『スッ』と異失者の首や四肢を飛ばして飛翔する。


 だが、どれほど速くとも数は6つだ。

 ざっと見える範囲だけでも20人近く存在する異失者(ブランカー)全員を一斉に射程に捉えることはできない。

 運よく最初の標的を免れていた異失者の一人が、魔法で強化した短剣を片手に距離を詰めてくる。誘導操作系の魔法に対する定石の一つ。操作に気を取られて無防備な術者を直接潰すつもりだ。


 アグナムはミコトとナオを守る位置に、気負いなく一歩を踏み出す。



「死ねヤァ!!」



 口汚いセリフとともに突き出された短刀の切っ先を、アグナムは平坦に一瞥し、するりと半身を躱しつつ片手で軽く弾いた。

 相手の手首を内側から叩くようにして、その切っ先を逸らせたのだ。

 あまりにも無造作で、完全に見切った動きだった。


 間抜け面を晒す異失者(ブランカー)の男の輪郭を舐めるように、緋色の閃光が奔り抜ける。

 返す刃で飛翔したヴァリアント・ペタルだ。

 3枚のペタルが紙一重の軌道で交錯し、男の四肢を飛ばす。

 緋色のペタルには強力な『燃焼』の術式まで含んでいるらしく、斬り飛ばされた傷口は炭化していて、血の一滴も流れない。

 一瞬にして達磨になった男の首を、アグナムが片手で鷲掴みにした。

 至近で叫び声など聞きたくないとばかりに、尋常ではない握力で締め上げる。



「あ、あが……」


「一丁前に怯えているのか?」



 気道を圧迫され顔面を引き攣らせる男に対し、アグナムは冷淡な無表情を崩さない。彼はゴミでも捨てるかのように、四肢を失った男を片手で放り投げる。

 男が落ちた先は、周囲で屯しておこぼれを狙っていた魔物(レギオン)の群れの真っ只中だ。

 放り込まれた『新鮮な餌』に、瞬く間に魔物が群がり、生きたまま咀嚼される男の絶叫が響き渡る。


 その凄惨な死に様に動揺を走らせる異失者(ブランカー)達に、アグナムは冷笑を向けた。



「貴様等の大好きな『遊び』だろう」



 俺は微塵も楽しいとは思わんが、と吐き捨てながらアグナムは踏み出し、再び攻勢に出た。

 一方的で、圧倒的な光景だった。

 アグナム本人は悠然と歩いているだけだった。

 6枚のペタルが縦横無尽に飛翔し、彼を中心とした光のアートを描く。異失者(ブランカー)魔物(レギオン)も区別なく、全ての敵性体を蹂躙する。殺意に満ち満ちているのに、いっそ鮮やかですらある。


 時間にして10秒も経っていなかっただろう。

 光景に圧倒されていたミコトが我を取り戻したときには、既に立っている敵は居なかった。

 少し離れた場所で脚を止めたアグナムが見下ろしているのは、一人の男だ。

 立ち位置的に、おそらく異失者(ブランカー)のリーダーだった人物だろう。

 アグナムは倒れ伏す男に向かって右手を翳す。

 その手が、茫と輝く。

 そのまま手首を返すと、見えない糸に釣られたように男の身体が浮き上がった。


 おそらくは念動系の術式。

 手を触れずに物体に干渉する『フォースグリップ』の類だろうか。

 簡単な魔法ではない筈なのだが、多芸なことだ。


 ヴァリアント・ペタルによって念入りに滅多切りにされたらしい男には、既に抵抗する体力も、そのための四肢もない。だが、傷口は焼き切られているので出血は少なく、致命傷を負っている様子でもなかった。

 しかも、驚くべきことに口をきいて見せた。



「……い、イカれ野郎、が」


「貴様に言われちゃ終いだな」



 男の憎まれ口を、アグナムは鼻で嗤う。



「貴様には懸賞金が掛かっている。一応訊いてやるが、大人しく縛に付く気はあるか?」



 十中八九死罪だろうが、と続けるアグナムの言葉に男は答えず、意趣返しのように鼻で嗤った。

 アグナムは「だろうな」と呟いて肩を竦めた。

 ちなみにミコトは呆れていた。普通、そういうのは最初に勧告するものじゃないのか。配下を皆殺しにして、当人を達磨にした後で訊くことではないのは確かだ。

 文字通り、一応の確認でしかないのだろう。



「『シュベールエアーデ』という魔物(レギオン)は食欲旺盛かつ雑食でな。なんでも食べるらしい」


「……あ?」



 突然何を言い出したのか、と男は怪訝な顔をする。



「もっとも貴様にとっては説明するまでもないことかもしれんが……まあ冥土の土産に聞いておけ」



 シュベールエアーデは甲殻獣系大型種、クラスBに分類される魔物(レギオン)だ。

 先程、ナオに魔物の見本として寝ている姿を見せた。

 クラスBというのは要するに、それなり以上に強力で注意すべき魔物という意味だ。



「奴らの歯は殆どが臼歯で、噛み切るよりも磨り潰すことに特化している。だが咬合力が低く、硬い物は殆ど噛み砕けず、大抵は丸飲みにする」



 魔物(レギオン)というのは環境に適応進化した存在ではなく、発生した瞬間からずっと同じ姿だ。

 その見た目や構造も、合理性を無視した理不尽な生態であることが珍しくない。まあその辺りは精霊に関しても同じことが言えるのだが。

 ミコトが周囲を警戒しながら探りを入れると、緩慢な速度で徐々に近付いてくる巨大な魔素(マナ)を感じ取る。



「なんでも溶かす強力な胃酸を持っているので……小一時間もすれば楽になれるだろう」


「て、テメェ、まさか……」


「ではな。存分に楽しんでくれ」



 そう告げてアグナムは再び手首を返し、宙吊りにされていた男はやはり見えない糸に繰られたように後方へと吹っ飛んでいった。

 近付いてくる、巨大な魔素(マナ)の方角へと。

 それきり興味を失った様子で、アグナムは踵を返してミコト達のほうへと戻ってきた。

 ヴァリアント・ペタルはまだ周辺に散っていて、寄ってくる魔物(レギオン)を牽制しているようだ。


 幸いなことに出番のなかった障壁魔法を解除して、ミコトは一息吐いた。



「ありがとう、と言えばいいのかしら。一応、助けてくれた、のよね?」


「結果的にはな」


「アイツ、魔物(レギオン)に食べさせちゃったら、懸賞金が貰えないんじゃないの?」


「どうせ大した額じゃない」



 アグナムは屈むと、肩に俵でも担ぐかのようにナオの身体を抱え上げた。

 女の子に対してその抱え方はどうなのよ、と思わないでもないが、魔物(レギオン)を警戒する必要もある以上両手を塞ぐわけにはいかないのだと無理矢理に納得する。

 そのまま揺ぎ無い足取りで歩き始めたアグナムに置いて行かれないよう、ミコトも小さな羽を動かして追従する。


 ねえ、と彼を呼ぶ。



「アイツがもし、大人しく捕まるって言ってたら、どうしたの?」


「同じようにしただろうな」


「…………そう」


「ヤツにその気があろうと、俺がヤツの希望に沿ってやる理由など無い」


「もしアイツが本当に反省していて、罪を償う気があったのだとしても……?」



 今更で、意味のない仮定だとミコト自身が思っていても質問したのは、言ってしまえばただの興味だ。

 生まれたばかりのミコトには知識があっても経験がなく、突然に邂逅したアグナムという男の在り方は知識だけでは判断できず、訊かずには居られなかったのだ。



「俺が思うに、ヤツに値する贖罪など存在しない」


「それはアナタが決めることじゃないわ」


「神様に決めてもらうか?」


「そのための法ではないの?」


「残念だが、迷宮(メイズ)に法は無い」



 なんとなくだが理解する。

 魔物(レギオン)のテリトリーである迷宮の中にヒトの定めた法は通用しない。

 ここでは異失者(ブランカー)探索者(シーカー)も等しく、モノを言うのは単純明快に『力』のみだ。


 善悪正邪ではなく、力学だ。

 数という暴力のために徒党を組んで非道を行っていた異失者(ブランカー)が、より強大な探索者(シーカー)に暴力で捻じ伏せられただけ。



「外道は凄惨に死ねばいい。それが犠牲者に対する、俺なりの鎮魂だ」



 なるほど、この男は善人とは言えないのかもしれない。

 彼は彼なりの力学に従って外道(ブランカー)を殲滅し、結果的にミコト達は助かったのだ。

 ただ、それでも変わらないことはある。


 彼はナオの命を救ってくれたということだ。



「…………ねぇ」


「ん?」


「助けてくれて、ありがとう」


「さっき聞いたが」


「もう一度言いたくなったのよ」



 少なくとも、ミコトにとっては意味のあることだ。

 アグナムは少し怪訝な表情を見せたが、「そうか」とだけ返した。


 ミコトが自分なりの納得を得たところで、ついに限界が来た。

 魔素(マナ)を消費し過ぎて実体を維持するのが難しくなり、ミコトの身体が淡く透け始めた。



「魔素を使い過ぎたみたい。ちょっと眠るわ」



 アグナムに担がれてだらりと脱力したナオの頬を、ミコトは小さな手で優しく撫でる。



「この子のこと、お願いね」


「悪いようにはしない」



 この男の実力であれば、ナオというお荷物を抱えていても楽勝で出口まで辿り着けることだろう。

 出会ったばかりの得体の知れない男にナオの身柄を任せることに不安が無いとは言えないが、ミコトの理性はもう九割がたアグナムのことを信用していた。

 オリジナルである時津ミズホが選択した最良の因果。

 それがアグナムだと、そう確信していたからだ。


 迷宮(メイズ)内に放り出され、異失者(ブランカー)の集団に襲われるという、一歩間違えば即死級の逆境を妥協してでも、このアグナムという男に出会える因果律を選択したのだ。

 それだけ、この男の存在がナオにとって、ひいてはミズホにとって必要なのだ。


 なのでミコトは、安心してスマホの中で休むことにした。





 ◇◇◇





 最低限の魔素(マナ)を回復し、次にミコトが目を覚ました時、周囲の景色は一変していた。


 屋内だった。

 アンティーク調の木造建築で、小ぢんまりとした部屋だった。

 洒落たデザインだが華美過ぎない内装で、綺麗に整然と整頓されていて生活感はあまり無い。

 ホテルか、ペンションの一室といった風情だ。


 扉が一箇所。対面にモザイクガラスの窓が一箇所。窓の外は夜の闇だ。

 壁際の寝台には下着姿のナオが仰向けに寝かされており、枕元に置かれたスマホから実体化したミコトは、ベッドサイドの椅子に腰かけていた人物と目が合う。



 幼い少女だ。

 上に見積もってもローティーンの域は出ないだろう。

 白を基調としたローブ状の衣服と、大きなマシュマロを頭に乗せたみたいにふんわりしたシルエットの帽子。

 帽子の下には鮮やかな桜色の頭髪に、翡翠色のつぶらな瞳。

 幼気なまあるい輪郭に、白皙の中ほのかに色づいた頬が愛らしい。


 少女はナオの右脚の傷口に両手を翳して、治療のための魔法を使っていた。

 翡翠色の魔素(マナ)が描く精緻な魔法陣がチキチキと回転し、溢れる光の粒子が傷口を癒していく。

 幼い外見にそぐわない、非常に高度な治療術式だった。

 かなり深く抉られていたはずのナオの傷は、既に新しい肉が盛り上がって塞がりつつあった。


 少女が口を開く。



「こんばんは」


「え?あ、うん、こんばんわ?」



 にっこりと笑った少女に突然挨拶をされて、ミコトは挙動不審になりながらもとりあえず返事をした。

 少女からすればそれこそミコトが突然目の前に現れたはずなのだが、少しも驚いた気配はなかった。



「ええと、アナタ誰?あのヒト……アグナムは?」


「私はニコール・ヴァレンタイン。アグニさんのお仲間です。彼ならロビーに居ますよ」



 アグニとは、アグナムの愛称かなにかだろう。


 ニコールと名乗った少女の説明によると。

 ミコトが休眠に入ったあの後、アグナムはナオを抱えたまま余裕綽々で迷宮(メイズ)を脱出し、そのまま彼が拠点にしている宿泊施設まで帰ってきたんだそうな。つまり、ここのことだが。

 その際、アグナムは探索者(シーカー)仲間であり治療魔法の使い手でもあるニコールを呼び出し、ナオの治療を依頼した。

 ナオが下着姿なのは血まみれの衣服でベッドに寝かせるわけにはいかないので脱がせただけで、アグナムは気を遣って席を外しているようだ。

 ちなみにミコトのことはアグナムから聞いているとのことで、ナオの使い魔(ファミリア)という認識らしい。

 厳密にはミコトはまだ(・・)ナオの使い魔ではないのだが、敢えて認識を是正する必要性も感じないので、そういうことにしておく。



「ナオの傷はどうなの?」


「治りますよ。表面まで一気に塞ぐと痕が残っちゃうので、出血を抑えたら以降は少し時間を掛けて治療したほうが良いと思います。それでよろしかったですか?」


「ええ。そうしてあげて。ありがとうね」


「とんでもない。こんなに綺麗なヒトですから、傷痕が残ったりしたらかわいそうです。しばらくは不自由すると思いますけど、歩く程度なら問題ないハズなので、ぜったい、そのほうが良いです」



 これほど高度な治療魔法、使うのも楽じゃないだろうに、ニコールは少しも苦にした様子も見せず微笑んでいる。

 なんというか、全身全霊から溢れる『いい子オーラ』を幻視した気がする。

 ついでに言えば、ニコール自身もかなりの美少女っぷりであり、ナオの名誉のために明言はしないが、どちらかというとナオよりも……。

 ともかく、将来大層な罪作りになりそうな予感のする少女だ。


 ミコトが呆れと感嘆が綯交ぜになったような心持ちで居ると、部屋の扉の外から声が聞こえた。



『ニコちゃん?はいるよー』



 そう言って部屋に入ってきたのは、これまた可愛らしい感じの金髪の少女だった。

 室内着っぽいカジュアルなシャツとロングスカートを身に纏い、片手にはちょっとした小荷物を抱えている。

 年の頃は十代半ば、ちょうどニコールとナオの中間くらいに見える。ただし、シャツを下から押し上げる二つの果実の破壊力はなかなかのものだ。

 余談だが、ミコトはミズホのパーソナリティを継承しているので、デカい乳を見ると劣等感を感じるらしい。ミコト的には別に気付きたくもなかった新事実である。



「あ!精霊さん、起きたんだねっ」



 金髪の少女はミコトを見て瞳を輝かせた。

 精霊というのは自然があればどこにでもいる存在なのだが、とある事情によりこの国では少しだけ珍しい。故にミコトのことが物珍しいのかとも思ったが、どうやら単純にミコトの『妖精ネコ』の容姿が琴線に触れただけっぽい。



「初めまして精霊さん!わたしはイルムヒルデ・クラナッハ。イルマって呼んでね!」


「ミコトよ。そこで寝てる子……ナオの使い魔(ファミリア)みたいなものよ」


「うんうん!よろしくね!」



 元気な子だな、というのが素直な感想だった。

 イルマはこのホテルのオーナーの娘、兼従業員とのことだ。

 彼女は軽やかに歩いてくると、部屋の真ん中の机の上に、抱えていた荷物を置いた。どうやら着替えのようなものと、小さな桶だ。桶の中身は湯のようで、微かに湯気がくゆっている。

 イルマは持ってきた布を湯に浸すと、慣れた手つきで固く絞った。



「ニコちゃん。身体を拭いてあげたいんだけど、いいかな?」


「あっはい。どうぞ」



 イルマは治療中のニコールを邪魔しないように、だけどてきぱきと手際良く、ナオの身体を拭き始めた。

 ミコトは特にできることもないので、ちょっと上のほうに飛んで邪魔にならない位置に移動する。

 意識のない人間の世話というのは結構な重労働だ。完全に力の抜けた肉体は、例え片腕だけでもそれなりに重い。だというのにイルマは苦も無くナオの下着を脱がせ、お湯を絞った布で肌を拭い、そして寝巻代わりのシャツを着せるところまで一人でやってしまった。



「慣れたもんね」


「まあねー。わたしのママも良く寝込んじゃうから、こうやってお世話するの慣れてるんだ」


「ふーん……その下着は洗うの?」


「もちろん、お洗濯するよ!」


「なにからなにまで、悪いわね」



 穏やかな顔で寝息を立てるナオを見下ろし、ミコトはしばし考える。

 この様子だと、おそらく朝まで起きはしないだろう。



「ねえイルマ」


「なぁに?」


「アグナムと話したいんだけど」


「ロビーに居ると思うよ。あ、場所がわからない?」



 ぽふっと両手を合わせたイルマの問いに「そーね」と肯定する。



「ついでに言うと、あたしの本体ってそこのスマホ……――アナタ達風に言えば『マナホ』なんだけど、自分で動けないから彼のところまで持ってってくれると嬉しい」


「あ、そーなんだ」



 マナホというのは『魔素(マナ)基質のプロトコルを用いた通信端末』の総称で、この国ではそこそこ一般的なガジェットだ。

 原理が違うだけで、要するにほぼほぼスマホである。

 ついでに言えば、本体であるスマホをわざわざ運んでもらわなくては移動できないのはミコトが劇的に消耗しているからで、コンディションが平常であればもう少し融通が利く。



「どの道わたしもロビーに戻るから、ついでに持って行ってあげるね!」


「悪いわね」


「ニコちゃんは?」


「もう少し治療を続けます。たぶん、半刻もあれば一段落するかと」


「ん!りょーかい」





 ◇◇◇





 イルマに運ばれて訪れたロビーでは、アグナムが窓際のソファに腰掛けて本を読んでいた。

 既に深夜と言っていい時刻らしく、他の宿泊客は皆就寝中のようで、夜の静寂の中に項を捲る音だけが微かに響く。


 迷宮では苛烈な攻撃性を見せた彼だが、こうして黙して読書する姿を見ると、哲人めいた風情すらある。

 ただ、読んでいる本が若者向けの恋愛小説なので色々と台無しなのだが。


 余談だが、それが若者向けの恋愛小説であるとわかるのは、ミコトのオリジナルである時津ミズホもそういう読み物が結構好きなので、彼女から与えられた知識の中に存在するためだ。つまりは、ミコト自身も恋愛モノの物語が結構好きである。



「そーゆー本、好きなの?」



 ソファと一揃いのローテーブルの上に立ったミコトが、本の表題を見上げながら問うと、彼は少しおかしそうに答える。



「イルマのおすすめでな。借りて読み始めたんだが、なかなかどうして悪くない」


「人殺ししたあとに恋愛小説って、落差で頭おかしくならない?」


「そんな繊細なメンタルでは生き残れないぞ……『こちらの世界』ではな」



 アグナムの言葉に込められた微妙なニュアンスをミコトは敏感に感じ取った。



「気付いてたのね」


「あの子が『稀人(まれびと)』であることか?」





 ――稀人(まれびと)


 それはこの世界における『他世界からの来訪者』を示す言葉だ。

 珍しい存在ではあるが、それなりに前例がある。

 言葉としてはそれなりに知られているが、直接関わったことがあるヒトは少ない、そんな感じだ。



「これは興味本位だけど、なんでわかったの?」


「……そもそも迷宮(メイズ)の奥地に、あの子のような少女がなんの装備も無しに存在することがまずおかしい」



 確かに不可解な状況だろうが、ならば異世界から来たに違いない、とは流石に飛躍し過ぎである。

 もう少し現実味のある妥当な理由を挙げるとすれば、



「転移事故に巻き込まれたのよ」


「魔法のない世界で転移事故が起こるのか?」


「なんで魔法がないところから来たと?」


「あの子、『魔虹(アーク)』が無いだろう」



 あっ、と思わず零したミコトの反応に、アグナムは口元だけで笑った。


 魔虹(アーク)とは『魔に染まる虹彩』のことだ。字面は仰々しいが、その実態は至って普通の魔素代謝反応であり、生物であれば誰もが発現し得る。

 外界の魔素(マナ)に内界の魔素が呼応し、肉体を適応させようとする働きだ。

 最も顕著に表れるのが眼球であり、要するに魔素を視認し続けることで、光彩が魔素の色に染まるのだ。この時、色は個人の潜在魔素の色彩に応じ、潜在魔素の保有量が多いほど鮮やかに発色する。目の前のアグナムの瞳が深々と燃えるような緋色であるのも、先程会ったニコールの瞳が美麗な翡翠色であるのも、そういう理由だ。

 魔素は大気中にも存在するので、魔法に関わっていなくとも、普通に暮らしているだけで普通は発現する。魔虹が発現しない理由としては、イルマのように殆ど潜在魔素を持っていないか、あるいはまったく魔素の存在しない空間で生活していたか、だ。潜在魔素を持たない生物は存在しないが、魔虹が発現しない程に潜在魔素が少ない、というパターンはそれほど珍しくない。個人差レベルで普通にあることだ。

 そこをいくと、ナオの潜在魔素はかなり大したものなので、アグナムくらいに魔法に長けた人物であれば見ただけで解っても不思議ではないし、そんなナオに魔虹が発現していないのはどう考えても不思議だ。

 ちなみに通常の黒眼と黒色の魔虹は明らかに違うので、黒い魔素なので魔虹が発現していないように見えた、とはならない。



「アナタ、稀人の知り合いでも居るの?」



 ミコトがそう思ったのは勘のようなものだったが、そもそもナオの瞳に魔虹(アーク)が現れていないことに気付いても普通は不思議に思うだけだろう。そこで稀人の可能性に即座に結び付けられるのは、彼にとって稀人という存在は身近なものなのでないか、そんな気がしたのだ。

 アグナムは書物に視線を落としたまま、あっさりと肯定した。



「居た、だな」


「それって……」


「ああ。死んだ」



 アグナムがあまりにも平然と言うものだから、ミコトは二の句が継げなくなる。

 無神経なことを訊いてしまったと詫びるべきだろうか。

 でも本人気にしていないっぽいし……、とミコトが悩んでいると、当のアグナムから「気にするな」と言われた。



「『稀人』というのは可能性の塊だ」


「…………」


「特にこの『死にゆく世界』で、稀人の存在そのものに希望の可能性を見ている者は少なくない』



 そもそも異世界の知識というのは、どんな些細なことでもそれだけで価値がある。

 経済、軍事、インフラ、教育――異なる世界という土壌で熟成されプルーフされた知識・技能の価値は計り知れない。


 そしてさらに言えば、そのような世界が存在するという事実。

 実在する『異世界』という希望。

 死に瀕したこの世界(・・・・・・・・・)の窮状を憂う者達にとっては、異世界の存在は正しく希望の可能性なのだ。


 つまりは異なる世界にアクセスするための鍵。

 それこそが稀人だ。



「故に、どこの国でも稀人という存在は丁重に保護される対象だ」



 100人の稀人を公的に保護して、そのうち99人が有用な知識を持たないごく潰しだったとしても、残りの1人が有用な異世界の知識を持っていれば、それだけでお釣りがくる。

 そういうメソッドで、国家は稀人を集める。

 事実として、世界的に認められた技術のブレイクスルーに稀人が関与したことも歴史上、一度や二度ではない。

 ナオだって、この国の政府に稀人であると認められれば、公的なお金で何不自由ない暮らしを送ることができるだろう。



「そして、公的に保護された稀人の、およそ100%が、二年以内に死亡している」


「…………ええ」



 もちろん、知っている。

 国、時代を問わず、公的に記録が残る稀人は、その誰もが異様に短命だった。

 理由は様々。

 最も多いのは偶発的な事故。次いで他殺。それから病死。あるいは生存が絶望視される行方不明。



「アナタの知り合いだった稀人は」


「友人でな。国に保護された四日後に事故で死んだ」



 アグナムは書面から顔を上げ、その緋色の視線をロビーの窓へと向けた。

 そのまま、闇を見据えながら話す。



「俺は、アイツの死の真相を調べている」


「真相って、事故ではなくて?」


「事故は手段だ。偶然の事故、抗いざる病気、誰かの殺意――そういう手段を用いて稀人を消している『なにか』が居る。俺はソイツの正体を突き止めたい」



 一部の有識者の間ではそういう噂がまことしやかに囁かれているのも事実だ。

 いくらなんでも、偶然で片付けるには常軌を逸している、と。

 無論、各国政府だって無能ではないのだから、稀人を保護するにあたっては厳重な警護を行ったり、情報規制をしたり、様々な対策を講じている。だというのに、少なくとも記録上ではいまだに二年以内の死亡率100%なのだ。

 まったく情報を公開せず、秘密裏に保護した稀人が実はやっぱり死んでしまいました、と後になって公開された事例もある。



「正体がわかったら、仇討でもするの?」


「それが、殺せる相手であればな」



 再び恋愛小説に目を落としながら適当そうに告げるが、その緋色の瞳には本気の色があった。



「ナオを利用する気ね?」


「ああ。この好機を逃す手はない」



 要するに、ナオは『餌』なのだ。

 世界中で稀人を消してまわっている存在が本当に居るのであれば、それはいつか必ずナオの元にも現れるであろう。おそらくは、二年以内に。もしかしたら、すぐにでも。



「だからナオを手元に置いておいて、その『なにか』――さしづめ『稀人狩り』が出てくるのを待つつもり?」


「無論、あの子がこの世界で生きていけるように援助はするつもりだ。キミにとっても、別に悪い話ではないだろう」



 確かに悪い話ではない。

 というのも、これからどのように身を振るのだとしても、絶対に後ろ盾は必要だからだ。

 ミコトには知識はあっても実行力が無いし、ナオに至っては知識すらない。

 そもそもお金を持っていないのだから、今アグナムに放り出されたら即座に路頭に迷うしかないのだ。間違っても、ナオに身体を売るような真似をさせたくはない。そうならないようにミズホはミコトを遣わしたのだろうし、それがミコトの居る意味だ。


 だがしかし、である。


 ミコトはアグナムが因果律的な意味で重要な存在であることを既に疑っていなかった。

 彼のバックボーンからして、このタイミングで稀人に因縁がある存在が出てきたというのは話が出来過ぎである。出来過ぎているということは、つまりはミズホが組んだ『因果律フローチャート』とでも言うべきものに従って正しい選択肢を選べているということだ。

 だが、だからと言って彼が人間的に信用できるかどうかは別問題だ。

 良識とか常識とかは別に疑っていない。


 気懸かりはつまるところ、アグナムが男性で、ナオが女の子という一点である。

 だって、ここで彼の援助を受けることを選択すれば、それはナオの生殺与奪を彼に握られるということだ。

 そんな相手に身体を求められたら、ナオが断れるわけがないではないか。

 アグナムの嗜好とか良識がどうあれ、性欲があればムラッと来ることもあるだろうし、



「むむむむむむ……!」


「なにか、失礼なことを考えていないか?」



 アグナムが呆れ顔で何か言っているが、生憎とミコトは大真面目である。



「確認だけど、アナタの提案を受けるということは、ナオが『稀人』であると公表しないということよね」


「そうなるな」



 ナオを狙って現れるだろう『稀人狩り』と相対するのが目的であれば、アグナム自身はナオの傍に居なくては意味がない。ナオが稀人であると公に知られれば、保護するために『国』が出張ってくるだろう。そうなればアグナムはナオから引き離されるだろうから、彼がその選択肢を厭うことは想像できる。



「あたしはナオの安全を最優先する。アナタと居れば、国に保護されるよりも安全?」


「というよりも、国に保護されるのだけは避けたほうがいい、というのが個人的な意見だな」



 どういうこと?と視線で問うと、アグナムは小説を閉じ、居住まいを正してミコトに向き合った。



「俺の知り合いにとあるジャーナリストが居てな。彼女は、俺と同じ目的で活動している」


「……『稀人狩り』の正体を追っている?」


「そうだ。ジャーナリストの情報網を駆使して稀人の情報を集めている。その一環で潜伏している稀人を探し出し、数人をマークしているようだ。まあ、俺の情報源の一つだな」


「秘密裏に、ってことよね?」


「ああ。マークしている稀人のうち一人はあの子と同年代の少女だ。その子はこちらに来てから五年が経つが、今でもちゃんと生きている」


「…………そうなんだ」


「その子が稀人であると知っているのは、俺と彼女を含め、この世界に十人も居ない」



 要するに、稀人であることを周囲に広く知られなければ、少なくとも二年以内に死んでしまうことは避けられた実績があるのだ。

 もちろん、彼と、そのジャーナリストの女性が本当のことを言っているのであれば、だが。

 そこでふと疑問に思う。存在が公になった稀人は、およそ100%が二年以内に死んでしまう。

 存在が公になったことと、二年という数字には因果関係があるのか?



「アナタの友人だったヒトって、こちらに来て何年だったの?」


「十三年だ」


「!!」



 ということは、つまり。



「わかるか。この世界で十三年間生きてきたのに、国の保護を受けた途端、僅か四日で死んだんだ」


「なるほどね……」


「原理はわからんが、公的機関に知られることは、キミの言う『稀人狩り』に知られることと同義と思ったほうがいい」



 ちなみに、アグナムの友人だったという稀人の場合は、自分から国に保護を申し出たわけでは勿論なく、別の事情で公的機関に関わらざるを得なくなった際に素性を調査され、そこから稀人であることが発覚し、なし崩しに保護されることになり――という顛末だったらしい。

 ミコトがミズホから与えられている知識と照合すれば、今のところアグナムの話に矛盾はない。



「少し頭の中を整理させて」



 意外と嵌っているのか、いそいそと読書を再開するアグナムを尻目に、ミコトは考える。

 ミコトの目的は佐々木ナオと三崎ユーリの手助けをすること。

 そのナオとユーリの当面の目的はオリジナル――時津ミズホを見付けること。

 現状、ナオとユーリが別離してしまっているので、さしあたりは合流を目指すのが第一目標か。


 そして、選び得る選択肢は大まかに3つ。


 一つ。国家の保護を受ける。

 生活基盤を築くだけなら最も確実だ。

 ただし、自由に活動できなくなる可能性が高いので、ミズホを探す活動に支障が出るかもしれない。

 なにより、『稀人狩り』に狙われる可能性も高いし、その場合は十中八九死ぬだろう。


 二つ。アグナムの保護を受ける。

 迷宮(メイズ)での戦闘を見る限りは相当な実力者なので、少なくとも魔物(レギオン)異失者(ブランカー)が相手であればナオの身の安全は保障してくれそうだ。稀人に関する独自の情報網を持っているらしいので、もしかしたらミズホを探す活動にも有益かもしれない。

 ただし、彼の目的はあくまでもナオを囮にして『稀人狩り』をおびき寄せることだ。国ですら『稀人狩り』から稀人を守り通すことはできていないのだ。いくら彼の実力が高かろうと、彼一人でナオを『稀人狩り』から守り切れるとは思えない。


 三つ。誰の保護も受けずに独自に生活基盤を築く。

 『稀人狩り』を警戒するのであればこれが最も妥当な選択だろう。

 ただし、これは容易な道ではない。『稀人狩り』とか関係なく、普通に野垂れ死ぬ可能性が否定できない。



「……そんなとこかしら」



 ミコト的には少なくとも国に頼ることはナシだ。だが、だからと言って素直にアグナムの援助を受けていいものか。なにせ、彼はナオの存在を『餌』として利用することを肯定しているのだから。

 ミズホが仕組んだ因果律的に彼という存在と関わることが必要だったのは疑いないが、それが即ち彼と行動を共にすることが正解であるとは意味しないのだ。あくまでも、状況を見て、最適な選択肢を選んでいく必要がある。もっとも、選ぶのはミコトではなくナオだが、ナオが正しい選択をできるための材料を仕入れるのはミコトの仕事に違いない。



「考えは纏まったか?」


「ざっくりね。ただ、あたしは使い魔(ファミリア)だから」


「決めるのはあの子、だろう」



 そゆこと、と返してミコトはローテーブルからふわりと浮き上がる。

 アグナムも別になんらかのアクションを期待しているわけではなさそうで、単に訊かれたことに答えただけなのだろう。その興味の対象は既に恋愛小説へと戻っていた。



「さて、と。ナオが起きるまでもう一眠りしようかしら」


「ああ」



 そのためには、テーブルの上の本体(スマホ)を部屋まで持って帰ってもらわなくてはならないのだが。

 イルマはどこに行ってしまったのだろう。

 アグナムに頼む手もあるが、ナオのありさまを思えば、今あの部屋に男性を入れたくはない。



「ていうか、あれ?」


「ん?」


「アグナム。アナタもここに滞在してるのよね?」


「ああ」



 それは先程ニコールが説明してくれたことだ。

 となると、この男は何故ロビーで小説など読んでいるのか。

 自分が使っている部屋に戻ればいいではないか。


 いやまあ、なんとなく理由はわかっているのだが。



「ちなみにアナタの部屋って……」


「あの子が寝ている部屋だが」


「……アナタ、今日どこで寝るの?」


「一晩くらいはどうとでもなる」



 それは別の寝床を探すのが、だろうか。あるいは眠らなくても、だろうか。

 まあ、この男のような存在であれば、その気になればそもそも眠る必要すらないのだろうが。

 人間とは違う(・・・・・・)のだから。



「なんか、悪いわね」


「気にするな。殆ど荷物置き場にしか使っていない部屋だからな」



 なんとも勿体ない話だ。

 結構いい部屋だったのに。

 それならば、とミコトは期待半分冗談半分で言ってみる。



「なら、しばらくナオの寝床にしてもいいかしら?」


「いいぞ」


「………………訊いといてなんだけど、いいの?」


「いいぞ」



 本当に何でもないことのように言う。

 呆れと困惑が混ざったミコトの姿を一瞥して、アグナムは言葉を続ける。



「少なくとも、脚の怪我が治るまではここに滞在することになるだろう?」


「……まあそうね。最短でも半月くらいかしら」


「そんなところだろう。最初から、その間の滞在費くらいは出すつもりだから、気にしなくていいぞ」



 何故そこまでしてくれるのか、と問うと、アグナムは「打算ゆえだ」と答える。

 彼としてはナオには『稀人狩り』を呼ぶ餌になってもらわないと困るので、それ以前の問題で野垂れ死んでもらうわけにはいかないのだろう。

 それはわからないでもない、のだが。

 だとすれば。



「もし、あたし達が国にもアナタにも援助を受けず、行方を晦ます選択をしたら、アナタはどうするの?」



 そうなればアグナムは目的を達成できなくなる。

 稀人とは希少な存在だ。

 潜伏している人数がどれほど居るのかはわからないが、アグナムにとってナオとの遭遇は千載一遇の好機であることは想像に難くない。となれば、もしミコト達が行方を晦まそうとすれば、彼は例えばミコト達の存在を公的機関にリークするのではなかろうか。

 そうなればナオは保護され、おそらくは『稀人狩り』の餌食になる。

 アグナムにとっても理想の展開ではなかろうが、『稀人狩り』と称する『なにか』の手掛かりがつかめるかもしれない以上、利のある選択だと思える。



「別にどうもしない」


「へ?」


「キミが疑う気持ちはわかるが、俺とてあの子を生贄にしてまで目的を果たそうとは思っていない」


「そうなの?」


「俺の助力が必要ないのであれば、それは好きにするといい。俺としては傍に居てくれたほうが都合がいいので、精々自分を売り込んで、恩を売っておくだけだ」



 アグナムの視線は書物に落ちたままだが、その表情は『心外だ』とでも言うように僅かに歪んでいた。

 その顔を見て、ミコトにふと、別種の発想が浮かぶ。

 迷宮(メイズ)での苛烈な攻撃性と、友人の仇討という重いバックストーリーから、ミコトが勝手に思い込んでしまっていただけで。

 もしかして、この男――



「ナオのこと、心配してるの?」



 逆にそう考えても、しっくりくるのだ。

 要するに、ナオを心配して護衛を買って出てくれているだけなのだ。

 国の保護を受けると十中八九死んでしまうことは過去の経緯が証明しているので、そうしなくても済むように資金援助をして。

 ナオを使って『稀人狩り』を誘き寄せて討伐するつもり、というのは見方を変えればナオが『稀人狩り』に襲われた際に排撃してくれるつもりということだ。だって結局、よく考えてみればナオを餌にするつもりがあろうとなかろうと、『稀人狩り』の出現条件――というかそもそもの正体がわからないのだから、アグナムから起こせるアクションはなく、精々がナオの近くに張り付いているくらいしかできないのだから。

 ここに稀人が居ますよ、と喧伝したところでまず飛んでくるのは『稀人狩り』ではなく公僕だろう。



「別に、あの子を心配することと、俺の目的は相容れないわけじゃないからな」



 つまり、心配しているということか。



「アナタ、よく『素直じゃない』って言われない?」


「いや?初めて言われた」



 飄々と肩を竦める姿に、ミコトはなんだか毒気を抜かれて脱力してしまった。


 その時、とんとんとん、と軽い足音がして、ロビーの奥の階段からニコールが降りてきた。

 先程は椅子に腰掛けていたのでわからなかったが、こうして歩いてくる姿を見ると、かなり小柄なことがわかる。巡礼者を思わせる屋外用の白いローブを身に纏っているのだが、正直服に着られている感が否めない。



「もういいのか」



 アグナムが声を掛けると、彼女はにっこりと笑った。



「はい。今日のところは、ですけど」


「すまなかったな。こんな時間に呼び出して」


「とんでもない。私の魔法がお役に立てるのであれば、こんなに嬉しいことはありません」



 少なからず消耗した感のある笑顔で、それでも朗らかに笑う。

 アグナムはと言うと僅かに苦み走ったような笑みをみせて「すまないな」ともう一度言った。

 たぶんミコトも彼と同じような顔をしていることだろう。助かるし、ありがたいし、嬉しいのだけど、なんかニコールの『いい子オーラ』が眩しすぎて、意味もなく申し訳ない気分になってくるのだ。



「イルマさんはどちらに?」


「はいはーい!呼んだ?」



 周りを見回したニコールの問いかけに、ロビーの奥の廊下からひょっこりと顔を出したイルマが答える。

 彼女の腕には一抱えのタオルケットのようなもの。

 察するに、ホテルの備品の補充やら何やらをしていたのだろう。



「傷口は塞いで、治癒効果のある護符(シール)を貼っておきました。護符が剥がれてしまわないように包帯等で固定してあげてください」


「はいよー!」



 あっちへぱたぱた。



「あ。あの部屋行くならあたしを持っていってくれる?」


「はいよー!」



 こっちへぱたぱた。

 実に忙しない。

 他の宿泊客に配慮してか、元気よく高らかに小声で返事をするという器用な真似をしつつ、ぱたぱたと擬音が付きそうな足取りなのに殆ど無音で廊下を行き来するイルマの所作には、熟練の貫禄を感じさせられる。

 タオルをどこかに片付けて、代わりに救急箱らしきものを持ってロビーに戻ってきたイルマが、ミコトの本体をひょいっと取り上げる。



「そーえば、アグ(にい)どこで寝るの?ありがたいことに満室だから、空き無いよ?」


「でしたら、私の部屋のベッドを使っていただければ」


「えっ!そしたらニコちゃんどこで寝るの?」


「え?一緒に……」


「ノンノン!それは流石にダメだよっ。歳が離れてるとはいえ、家族でもない男女なんだから!」


「?……なにがいけないんです?」



 めちゃめちゃ純粋な瞳で小首を傾げたニコールに、イルマは言葉に詰まって「あー」とか「うー」とか唸っている。

 ミコト的にはイルマの言うことはわかるのだが、そういう機微を気にするには、流石にニコールは幼過ぎる気がする。見るからに、父親か、それか歳の離れた兄と同衾するくらいにしか意識していないように思える。

 これまでの少ない邂逅でミコトはニコールに対して『もの凄く大人びた善良な少女』という印象を抱いていたのだが、初めて外見相応の幼さが見えたような気がしてむしろ若干の安堵を覚えたのだった。

 ちなみに、それならニコールのベッドをアグナムに使わせて、ニコールはイルマと一緒に寝れば全部解決するんじゃないかなぁ、とは思うがアグナムがどう収めるのか気になるので黙っておくことにした。


 アグナムはおもむろにソファから立ち上がると、手に持っていた小説をイルマの救急箱の上に置いた。



「俺は『ギルド』に戻る。寝床はいらない」



 どうやら、戦略的撤退らしい。



「まさか、これから迷宮(メイズ)に潜られるのですか?」


「ああ。ゴミは掃除したが、犠牲者の遺品くらいは回収してやりたいからな」


「でしたら、私も一緒に――」


「そんな眠そうな顔で、か?」


「ふぁっ」



 当然のようにともに行こうとしたニコールの小さな額を、アグナムがちょんと突く。

 ニコールは恥じ入るように頬を染め、しょぼつく目を両手でこしこしと擦る。

 そして、赤くなってしまった目元で凛とアグナムを見上げた。



「大丈夫です。まだ眠くありませんっ」


「嘘つけ」


「あぅっ」



 流石に無理がある、とミコトやイルマが言うまでもなく、アグナムに再度小突かれて撃沈した。



「充分助かったよ。今日はもう休め」


「むぅ……わかりました」



 見るからに渋々、といった風情であったがニコールは頷いて見せた。

 アグナムはその様子を苦笑気味に見守ると、「朝には戻る」と言って玄関口から夜の闇の中に出て行った。

 玄関の扉は魔法的なオートロックらしく、微かな魔素(マナ)の気配とともに錠が下りる音が聞こえてきた。



「さてと!それじゃあわたしたちも休もっか」


「はい」


「わたしこれやってから寝るから、ニコちゃんは先に休んでて」



 これ、と言ってイルマが救急箱を持ち上げて見せると、ニコールは一つ頷いて「では、お先に」と礼儀正しくお辞儀をして奥の廊下へと向かって行った。彼女の部屋は一階にあるようだ。

 それからイルマはミコトに向き直り、にぱっと笑って見せる。



「じゃ、行こっか!」


「ええ」



 結構いい時間だと思うのだが、イルマが微塵も眠そうに見えないのは何故だろうか。元気だからだろうか。



「アナタは眠くないの?」


「今日ね、ちょっとお昼寝のつもりで横になったら夕方まで寝ちゃったんだ!だから今ぜんぜん眠くない!」


「自由ねぇ……」



 まあ、その結果こうしてナオの面倒を見てもらえたのだから、こちらにとっては幸運なのかもしれないが。

 部屋に戻り、てきぱきとナオの脚に包帯を巻くイルマを横目に眺めながら、ミコトは一息つく。


 なかなかに綱渡りの連続だったが、なんとか一歩は踏み出せそうだ。

 まずは明日、起きたらナオと相談することにしよう。

 自分はお助けキャラなのだから、ちゃんとナオの道標にならなくては。


 そんなことを思いながらミコトは眠りに就き、安心してぐっすりと熟睡し、そして翌朝見事に寝坊するのだった。





 ◇◇◇



 稀人志篇 第一話裏 [Re:Encounter] 了



 ◇◇◇






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