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稀人志篇 Rev  作者: Lynx097
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序章[Over the world wall]



 一歩踏み出せば届く距離だったのに。

 まるで最初から夢か幻だったかのように、そこにはもう誰も居ない。

 あまりにも唐突で、手を伸ばすことすらできなかった。


 そう。

 ナオの目と鼻の先で、あっけなく、彼女はこの世界から消滅したのだ。





 ◇◇◇





 放課後の廊下を歩いていると、校庭からは部活動に励む後輩達の喧噪が遠く聞こえてくる。残暑の日差しもようやくなりを潜めた今日この頃、運動の秋に大いに精を出していることだろう。

 あいにくと受験生であるナオにとって秋とは運動ではなく勉強の季節であり、鞄に詰め込んでいるのは運動着ではなく参考書で、放課後に向かうのは部室棟ではなく併設の図書館だ。まあ実態は図書室であるが、校舎棟からは独立した棟を占有しているため、もっぱら図書館と呼ばれる。渡り廊下など無いので一度屋外を経由しなくてはならないのが不便と言えば不便なのだが、校舎の喧噪から隔離されていると思えば、放課後の自習にはもってこいの空間であった。

 昇降口に辿り着いたナオはスチール製の下駄箱へと上履きを突っ込み、下履きのランニングシューズを取り出す。履き古しのシューズはあちこちに傷が目立つ。きっと卒業までは保たないだろう。もう部活動も引退したことだし下履きをローファーに変えてみるのも良いかもしれない、などと詮無いことを考えていたナオは、ふと横合いからの視線を感じた。顔を向けるのと、視線の主が声を掛けてくるのは殆ど同時だった。



「佐々木、ちょっと良いか?」


「……三崎くん」



 三崎ユーリ。

 クラスメートの男子生徒だ。

 背が高くて、あまり表情が変わらないタイプ。剣道をやっているせいなのか、常に泰然とした印象で、背筋がまっすぐに伸びている。クラスの女子に言わせればクール系とのことだが、ナオに言わせればただの無愛想だ。これでもうちょっと笑顔を見せるようになればイケメンと呼べなくもないのに。そんな三崎ユーリと佐々木ナオは幼馴染みの関係である。

 ただし、今となっては大して親密なわけではない。

 少し前まではとても仲が良かったのだ。今は互いを名字で呼び合っているが、小学生も低学年の頃は下の名前で呼び合っていて、一緒に遊ぶことも珍しくはなかった。成長して、中学校に進学し、周囲でも男女の棲み分けがされるようになってきて、それでもずっと一緒に居た気がする。だが、とある出来事をきっかけに徐々に疎遠になり、いつの間にか、今のような関係性に落ち着いていた。

 現状を表すならば『他人以上、友達未満』といったところか。

 だからこそ、彼が声を掛けてきた理由が思い至らず、ナオは首を傾げた。



「なにか用?」


「これ。長谷川から預かった」



 そう言ってユーリが差し出したのは一冊の大学ノートだった。無表情が板に付いたユーリには異常なまでにミスマッチの、淡い桃色の表紙がまぶしい。そこには油性の黒マジックで、ぶっきらぼうな字体で『古典』の文字が。達筆だけど壊滅的に可愛くない、と友人連中に評されて久しいナオの筆跡である。

 もしかしなくても、ナオが古典の授業の板書に使っているノートだった。



「あれ?」



 長谷川というのはナオの友人である長谷川シオリのことだろう。ナオは彼女にノートを貸した覚えはなかったので、どこかに置き忘れていたのを見付けてくれたのだろうか。とナオは勝手に納得していたのだが、瞳を丸くしたナオには説明が必要だと考えたのか、ユーリが面倒そうな様子で口を開く。



「それと伝言。『勝手に借りてた。ごめんね』らしいぞ」


「ハセぇ……」



 どうやらナオの机から勝手に拝借されていただけのようだ。思わず脱力しつつもノートを受け取る。シオリがノートを借りた理由は詮索するだけ無駄だろう。おおかた、メールの着信に気を取られていたら板書が間に合わなくなったとか、そんなところだろう。それに関してはもはやどうでも良いが、それを何故ユーリが返しに来てくれたのかは気になる。



「ありがと。けど、なんで三崎くんが?」


「スマホ持ってる? 長谷川が電話したらしいけど」


「あー、そっか」



 電池切れてるんだよね、と苦笑気味に告げると、それだけでユーリは大方を察した様子で「なるほど」と呟いた。たまたま、昨夜スマートフォンの充電をしないままに就寝してしまっただけのことなのだ。バッテリーを節約しつつなんとか半日は保たせたが、今現在は物言わぬ文鎮と化している。ポケットに入れておいても重いだけなので、参考書と一緒に鞄に押し込んでそれきりだった。バッテリーが劣化しているせいか、電池残量の減りが早くて困りものである。



「それで、三崎くんは運悪くハセに使われちゃったわけだ」


「まあ、そうなるな」



 何故ユーリなのか、というのは考えるまでもないだろう。幼馴染みであるナオとユーリは自宅が隣同士であり、それはシオリも知るところだからだ。



「でも、ここで会えて良かったよ。私、これから図書館で自習の予定だったから」


「そうか。じゃあ、俺はこれで」


「うん」



 役目は果たした、とばかりにユーリはそそくさと靴を履き替えると、そのままナオのことは一顧だにせず出口へと向かう。ナオもまた自習に向かうため、受け取ったノートを鞄に仕舞い、歩き出した。少し前を行くユーリの背中を見遣り、ふと思う。そういえば、彼とまともに会話したのは実は結構久し振りだったのではなかろうか。

 漠然とよぎるのは、果たしてこのままで良いのだろうか、という疑問であった。

 今は同じ高校に通い、同じクラスに居て、家も隣で。疎遠になってしまったとはいえ会えば互いを認識するし、おざなりでも一応挨拶くらいは交わす。でも、来年からはおそらく違う大学に進学して、もしかしたら一人暮らしを始めたりもして、地元から離れる可能性だって低くはない。

 そうなればきっと、滅多に会うことも無くなるだろう。

 彼との関係を表す言葉は『幼馴染みだ』から『幼馴染みだった』に変わるのだ。

 その時、自分は、今日のこの瞬間を後悔しないで居られるだろうか。彼が特別に気になるとか、あるいは特別な関係になりたいとか、そういう思いの有無は関係なくて。ただ事実としてナオの幼馴染みは後にも先にも彼だけなのだから、ひとつの関係性が失われた時、代わりなど存在しないのだ。

 それは、実感として、痛いほど理解していた。



「…………よし」



 だからナオは、行動することにした。気合いを入れるためにちょっとだけ両手を握ってみてから、そんな自分にちょっとだけ呆れる。幼馴染みと話すのに、なにを構える必要があるのか。きっとそういうことを考え始めるから、疎遠になってしまったのだというのに。



「三崎くん」



 後ろから呼び止めたナオに、ユーリは足を止め、肩越しに振り向く。視線で問うてくるユーリに、ナオは笑顔で返した。



「良ければ、一緒に帰らない?」


「……? 図書館で自習、じゃなかったのか」


「なんか、気分が乗らないから、今日はナシ」



 それで良いのか、とでも言いたげにユーリは眉を顰めていた。とはいえど、ナオがさっきの今で言動を翻したこと自体については然したる疑問も感じていないようだった。腐っても幼馴染みなので、ナオがそうであるように、ユーリもまたナオの性格をよく知っているのだろう。



「だから、一緒に帰ろう」



 これで素気なく『いやだよ』とか言われてしまったらナオは涙目になってやっぱり図書館に向かうことになるわけだが、ユーリは立ち止まって煮え切らない様子だった。たぶん、その躊躇の正体は気まずさだ。『あの出来事』以来、ユーリはナオをなんとなく避けている節がある。それゆえの後ろめたさがあるのだろう。もっとも、なんとなく避けていたのはナオも同じだったわけで、お互い様ではあるのだが。

 ナオとユーリでは歩く速度が、厳密には歩幅がぜんぜん違うので、たとえ一緒のタイミングで学校を出たところでナオがすぐに置いて行かれる羽目になる。一緒に帰ろう、とはつまり、歩幅を合わせて肩を並べて帰路に着こうという提案なのだ。



「占いのお姉さん曰く、今日の佐々木は『普段喋らない人と会話してみると吉』らしいから」



 朝のニュースの占いコーナーの話である。



「そのお姉さん曰く、今日の三崎は『予期せぬ面倒ごとに見舞われるかもしれないので注意』らしいんだが?」


「三崎くんって占いとか信じるたちだっけ?」


「人並みには」


「たいして信じてないってことだね。じゃあ大丈夫、一緒に帰ろう」



 訝しげなユーリと、にこにこと笑うナオの視線がしばし交錯する。ちなみに『訝しげ』というのはあくまでナオの主観の話であって、ユーリの表情自体は殆ど変化がない。思うに彼は地球温暖化の深刻さに想いを馳せている時も、今日の夕食の献立を吟味している時も、まったく同じ顔をしているに違いない。そんなわけでユーリがなにを考えているのかなど全然わからなかったのだが、ややあって、彼は嘆息するように「なるほど……」と呟いた。



「明日からは、もう少しだけ占いを信じてみても良いかもしれないな」


「あ、ひどい」





 ◇◇◇





 学校生活の他愛もない話をしながら歩く。疎遠だった筈なのに、あるいは疎遠だったからこそなのか、意外と話題が尽きることはなかった。こうして肩を並べて歩くことにも、やはり意外なくらいに違和感がない。もっとも、表情の読めないユーリがどう思っているのかは定かではない。



「そういえばさ」



 ふとした話題の節目にナオが呟くと、ユーリは「うん?」と返す。



「夏の大会。優勝おめでとう」


「あ? ああ……」


「お祝い言ってなかったもんね。だから」



 ナオの些か唐突な祝辞に、ユーリは刹那言葉に詰まったようだが、やはり特に表情を変えるでもなく、システマチックに「ありがとう」と応えた。既に引退しているが、ユーリは剣道部の副部長を務めていた。高校生活最後の公式戦となった夏の大会では、個人戦にて見事に優勝を果たしている。ちなみに団体戦にも中堅として出場していたらしいが、こちらは準決勝であえなく敗退したようだ。ユーリ自身は無敗だったようだが、団体戦である以上致し方ないことだろう。

 全校集会で表彰されている時もユーリは殆ど無表情だったが、ナオの目からはそこはかとなく誇らしげに見えたのが印象に残っている。



「すごかったらしいね。三崎くんだけ全試合圧勝だったとか」


「圧勝って言えるほどでは……ん?」


「なに?」


「いや、誰かに聞いたのか?」



 意外そうなユーリに対し、ナオは「そりゃもう」と応える。



「ハセから聞いたんだよ」



 ナオの友人にしてノート無断拝借魔のハセこと長谷川シオリは剣道部の元部長だ。ナオ達の高校の剣道部は伝統的に男女混合で、男女比は若干男子が多いくらい。それ自体は世間的にもさほど珍しくもないが、少なくともナオ達の高校の剣道部においては女子が部長を務めるのは少々稀なケースだ。部の伝統的に部長=大将なので、基本的にはその年次でもっとも腕の立つ生徒が推されるのだ。そこをいけば本来はユーリが部長をやるべきだったのだが、彼は固辞してシオリを推したのだとか。ナオはその経緯をシオリの口から愚痴混じりに聞いただけであるが、結果的には正解だったのではと思っている。シオリは面倒見が良くて後輩からも慕われるし、対するユーリはどう考えても取っつきにくい。



「頼んだわけじゃないけど、ハセが熱心に教えてくれたよ」


「なんで長谷川が、佐々木に俺の活躍を語るんだ」


「ほら。ハセってお節介焼きだからさ。私と三崎くんが仲直りするように、って気を回してくれてるみたい」


「……別に、仲違いしてるわけじゃないけどな」


「そだね。まあ、端から見たらそう見えるってことで」



 ユーリは非常に微妙な表情だった。たぶんナオもそんな顔をしていると思う。



「ハセの余計なお世話だって思ってる?」


「少しな」


「私は、教えてくれて良かったと思ってる」


「……そうか」


「うん。三崎くんとは全然喋らなくなっちゃったけど、ずっと気にはしてたから」



 特別な意味などない素朴な言葉だった。思っていたよりも抵抗なく言葉が出てきて、ナオは自分で意外に思ったくらいだった。ユーリはもう一度だけ「そうか」と繰り返した。相も変わらぬ無表情で彼の内心はよくわからないが、たぶん悪い気はしていないのではなかろうか。

 ナオはなんとなく、そう思った。



「佐々木のほうは、惜しい結果だったな」


「そうなのよ。がんばったんだけどなぁ」



 お返しのようにユーリが振ってきた話題に、ナオはがっくりと肩を落として見せた。

 ナオのほうは陸上部に所属していて、短距離走の選手だった。ユーリと同じく、高校生活最後の大会で有終の美を飾ろうと奮闘したが、結果はあえなく二番手であった。ナオを負かした選手は隣の市の高校の生徒で、同い年で、これまで幾度となく同じ大会に出場して鎬を削ってきたライバルであった。通算の戦績では結局ナオが若干勝ち越して居るのだが、心境的には最後の最後で逆転サヨナラ負けみたいな感じである。



「誰かから聞いたの?」


「いや。会場で見てた」


「えぇ! 居たの!?」



 意趣返しのつもりの言葉に予想外の返答が返ってきて、ナオは素っ頓狂な声を上げてしまう。



「え。なんで居たの?」


「長谷川のパシリ」


「お、おう」



 またヤツか……、とナオは頭を抱えたくなった。

 確かに大会当日の昼頃にシオリが差し入れを持ってきてくれた覚えがある。たかがジュースとはいえ、会場に居た部員全員分の差し入れを一人で用意したのか、と問うと『暇な男子に手伝わせた』などと笑っていたが、どうやら暇な男子はナオのよく知る人物だったようだ。



「ちなみにヨシキと二人で用意したんだ。長谷川は基本的に何もしていない」


「ハセぇ……」



 ヨシキというのはシオリの恋人で、同級生の橘ヨシキのことだ。

 考えるまでもなく、シオリのお節介の一環だったのだろう。ナオにユーリの活躍を一方的に語ったように、ユーリには理由を付けてナオの勇姿を見せようと企んだのだ。なんだろうか、自分達はそこまで彼女をやきもきさせていたのだろうか。まあ、させていたのだろう。シオリはナオともユーリとも日常的に会話する近しい位置に居たわけで、ナオ達が互いに避け合っているのが余計に気になってしまったのかもしれない。

 シオリとは中学校から一緒なので、昔の仲が良かったナオ達の姿を知っているだけに、なおさら。

 同じことを考えていたらしいユーリが小さく鼻を鳴らす。



「こうなってくると、古典のノートの件も長谷川の策略な気がしてくるな」


「なら、見事に術中にはまってるね。私達」


「違いない」



 ナオのスマートフォンが死んでいることなどシオリには知る由もなかった筈なので、今日のアレは偶発的なアクシデントなのだろうが。こうしてナオとユーリが並び歩いている以上、シオリにしてみれば『しめしめ』といったところだろう。



「見てたなら、感想教えてよ」


「ん? なんの?」


「私が走る姿の!」



 特に思うところがあっての質問ではなかったが、ユーリは『ふむ……』とでもいうように顎に手をやって考え込んでしまう。そんなに真面目に考えなくてもいいのに、と思うが、答えが気になるので黙っておく。



「走りの良し悪しは俺にはわからんが……」



 その時の光景を思い返すように、少し目を細めて続ける。



「一生懸命だったな」



 言って、ユーリは笑顔を見せた。ほんのわずかに口元を緩めるだけの笑顔。普段から無表情な彼だけに結構な破壊力があって、ナオはちょっとだけ顔が熱くなるのを感じた。

 もちろん、一生懸命だった。一番にはなれなかったが一生懸命に走った。結果ではなく、その懸命さを彼が認めてくれただけですごく嬉しい。なんだかよくわからないが、急に恥ずかしくなってきた気がして、ナオは誤魔化すように口を開いた。



「小学生並の感想」


「うっせ」



 ユーリはどことなく憮然とした顔になった。

 それから思いついたように「感想と言えば……」と言葉を続ける。



「普段の佐々木には微塵も色気を感じないが」


「ひどっ!?」


「ああいうユニフォームを着ていると、エロく見えるな」


「うわ。すけべー」


「こう見えて、健全な男子高校生だからな」



 ユーリは少しだけ肩を竦める。彼の言う『ああいう』とは陸上部のユニフォームのことだろうが、技術の進歩だかスポーツ工学の発達だか知らないが、年々軽量化とかいって布が薄くなるし、面積は小さくなるし、空気抵抗がどうとかいって身体に密着し始めるし、そのうちには裸同然で走るようになるんじゃないかとナオはわりとマジで危惧していたりする。



「そかそか。三崎くんはあーゆうのが好きかぁ」


「まあな。てか、あれが敢えて嫌いな男子は居ないんじゃないかと個人的には思うが」



 からかってやるつもりでも、ユーリは飄々とした様子だ。こうなってくると、逆に女性としてまったく意識されてないようで、意味もなく悔しくなってくる。



「走りを追究した結果、ああなっていくのはわからないでもないけど。このまま行くと、たぶん最終的に裸になるよね」


「古代ローマに逆戻り、だな」


「残念。古代のオリンピックは男性のみの祭典です」


「現代人は先進的なので、そこに男女平等の概念を導入します」


「ちなみに、男子って走るときに邪魔に思ったりしないの? ナニがとは言わないけど」


「女子も別に、走る時に自分のが邪魔だとは思わないだろ。なにがとは言わないが」


「思うんだよなぁコレが!……まあ、サイズによるけど」


「その点、佐々木は安心だな」



 失礼きわまるユーリの脇腹を肘でどつく。

 ナオは決して貧しくはない。少し控えめなだけだ。ジト目で睨み付けるナオに対して、ユーリは「すまんかった」と全然反省していない謝罪を寄越すのだった。





 ◇◇◇





 ナオ達の自宅は学校からさほど遠くはないのだが、徒歩で通うには多少距離がある。自宅のある住宅街はちょっとした高台の立地なので、帰路を進むほどに上り坂が多くなる。自転車通学という選択肢もあったが、行きは楽でも帰りが非常にしんどいのだ。踏み出す足が殊更にゆったりとしたペースになるのは、きっと上り坂が続くからだろう。



「佐々木は、彩大を受験するつもりだと聞いたが」


「うん。よく知ってるね」



 彩大こと彩陵台大学はこの地方で最も偏差値の高い国公立大学である。『最大』と響きが紛らわしいので専ら『あやだい』という略称で呼ばれている。ナオ達が通う高校は偏差値的には『中の中』といったところだ。全国的に見れば『上の下』である彩大への進学者は年によって居たり居なかったりするらしいが、基本的には選択肢に入らない。



「合格の見込みはあるのか?」


「ん。そんなに無理ではないと思う」



 実のところ、単純な頭の出来を比較すればユーリのほうが優秀だろう。ナオとユーリは定期試験ではいつもだいたい同じような順位に居るようなのだが、ナオがそれなりに必死に勉強して順位を維持しているのに対して、ユーリが試験勉強という行為をしているのを、少なくともナオは一度も見たことがない。思えば、昔からずっとそうだった。根本的に記憶力が違うのだ。彼は勉強でも遊びでも大抵の物事を一度で覚えてしまう。最近は疎遠だったのでよく知らないが、きっと今でもそうなのだろう。



「佐々木の成績なら、確かに、わりといけるかもな」


「がんばる。三崎くんも一緒にどお?」


「俺はいいよ」



 ユーリのほうは近隣の工学系の公立大学が第一志望であることは知っている。もしナオが彩大に受かれば、地元からは少し離れることになるだろう。ナオとしても、別に地元の大学に進学する選択肢もありだとは思うのだが、



「高いところに手が届く可能性があるなら、挑戦したいよ」


「偏差値よりも、やりたいことで進路を決めるべきだと個人的には思う」


「いいとこに行ったほうが将来的に、やりたいことがやれる可能性は広がるかも。『もっと良い大学出とけばなー』とかって後悔したくないじゃん」


「大学で孤立して『友達と一緒の大学行っとけばなー』とかって後悔するかもしれない」



 揶揄のように言うユーリに、ナオは唇をとがらせて「大学でも友達はできるよ」と返した。別に、良い大学を出たからといって将来に後悔しないかというと、そんなことは今の時点でわかるわけがない。どんな選択をしてもどこかでなにかを後悔するかもしれないのだから、せめて『後悔したくない』方向で選択していくしかないのだ。

 ナオは『あの日』からずっとそうして生きてきたし、きっとこれからもそうやって生きていくのだ。

 そう。親友だった『彼女』を失ったあの日から。



「それに」


「ん?」



 少し俯いて、続ける。



「時津さんだったら、当然のように彩大だって受かっちゃうだろうから……」


「……それは、」


「もしかしたら、彩大行けば、あの子にまた会えるんじゃないかな、なんて」



 時津ミズホ。

 中学の頃、クラスメートだった女の子だ。そして、ナオにとってはかけがえのない、親友と呼べる存在だった女の子だ。

 わりと不真面目で適当なのに、当然のようになんでもできる。そんな『天才肌』を絵に描いたような少女だった。全てのテストで平均点を取ってみたり、かと思えば全て満点を取ってみたり、体力測定で50メートル走の校内最速記録を塗り替えてみたり、とにかくはちゃめちゃな存在だった。浮き世離れしすぎていて、周囲とまったく話が合わず、というか合わせる気もないみたいで、つまはじきみたいな扱いをされて、そんな扱いを歯牙にも掛けない。そんな少女だった。

 そう。過去形だ。

 彼女はもう居ない。

 14歳の夏、夢か幻のように彼女は姿を消した。



「時津は行方不明だろう。警察の捜索も打ち切られている」


「うん。でも……」


「佐々木に……いや、他の誰にも、なにかできたとは思えないけどな」



 ユーリのその言葉はナオへの慰めであると同時に、おそらく厳然たる事実だった。だが、そうだとしてもナオは思わずには居られない。

 あの日、あの時、自分が彼女の手を掴んでさえいれば……。

 そう、後悔し続けている。

 だって、時津ミズホが失踪する前、最後に彼女の姿を見たのは他でもない佐々木ナオであり、最後に会話したのもナオであったのだから。彼女の失踪を最後に食い止められる可能性があったのは、ナオだけだったのだと思わずには居られない。



「4年、か……」


「うん」


「そろそろ、思い出になってくれても良いと思うが」


「……無理だよ。だって」



 だって、なんなのか。その先は敢えて言葉にしなかったが、ユーリが追及してくることはなかった。きっと同じことを考えている。だって、ミズホは死んでしまったわけではなくて、ただ居なくなってしまっただけなのだから。そしてミズホは最後に、ナオに「帰ってくる」と言った。あのミズホがそう言ったのだから、絶対にそうなるのだ。と思い続けて、もう4年も経ってしまった。

 帰ってくると言った彼女を待ち続けている限り、思い出になんてできるわけがない。



「――――アナタを目印に帰ってくる、だったか」


「覚えてたんだね。それ」


「まあな」



 ミズホの行方がわからなくなった時、最後に会っていた人物であるナオは当然事情を聞かれた。だから、その時にナオが説明した『ミズホの最後の言葉』は周囲の人間も知るところだった。自発的な失踪であれば事件性は薄いと当時は言われていたが、中学生の家出で済ませるには些か、ミズホは忽然と消えすぎていた。それこそ、中学生の行動範囲や移動手段などたかが知れているはずだったのに、最終的には警察の捜索も行われたものの、それをもってしてもミズホの消息はついぞ僅かな手がかりすらも判明しなかったのだ。



「思うに、時津さんが帰ってこないのは、目印が頼りないから」


「佐々木の目印力不足か」


「そう。私には目印力が足りない」



 結局のところ、佐々木ナオの原動力はそれなのだ。時津ミズホがちゃんと見つけてくれるように、頑張り続けていたい。いつか帰ってきた彼女に、誇れる自分でありたい。ナオを親友と呼んでくれた彼女に、恥じない自分になりたい。

 ミズホのことを覚えている限り、自分はどれだけだって頑張り続けることができる。人によっては、その生き方を不幸と呼ぶだろう。報われない努力は不幸だとナオも思う。願わくば、頑張り続けた自分が報われる未来がいつか来てほしい。



「だから、早く帰ってきてね……――――ミズホ」



 祈るように呟く。聞こえていても、敢えてなにも言わないのはユーリなりの気遣いなのだろう。その降って湧いた静寂の中、微かな低い振動音に気付く。

 耳慣れたその音に、思わずユーリを見遣る。



「ん?」


「いや、俺じゃないぞ」


「じゃあ私か」



 その場に立ち止まり、鞄に手を突っ込んでガサゴソと漁る。参考書の隙間に埋没していたスマートフォンを取り出すと、案の定バイブレーションが作動していた。



「え。なにこれ」



 通話の着信だった。ただ、ディスプレイに表示されているのは無軌道な文字の羅列でしかなく、発信元の名前も番号も判然としない。なにがどうなれば、こんな表示になるのか。あまりにも異常だった。端末を凝視して硬直したナオの様子に尋常ではないものを感じたのか、ユーリが横から手元を覗き込んできて、やはり驚いたように息を呑んだ。



「出たほうがいいかな……?」



 戦々恐々と呟くナオの手の中では、変わらず端末が振動を続けている。問われたユーリは考えるように「いや、」と言いかけたものの、なにかに気付いたように眉を顰めた。



「というか、佐々木。そもそもスマホの充電は切れてるんじゃなかったか……?」


「あ」



 言われて、ディスプレイの右上の表示を見る。電池を模したアイコンはバッテリーがフル充電されていることを示している。わけがわからなかった。電池切れで鞄に突っ込んでおいた間に、勝手にバッテリーが充電されたというのか。仮に電池切れがただの誤作動で、本当は残量があったのだとしても、確かに電源は落ちていたのだから、着信する筈がないのだ。

 ちら、と横を見ると、ユーリが神妙な顔で頷いた。

 ナオは震える指で受話のアイコンをフリックし、通話状態になったスマートフォンを耳に当てた。



「もしもし……?」



 数秒の沈黙の後、聞こえたのは、僅かに。





『あたしを、探して』





「え……?」


「佐々木……?」



 スマートフォンを耳に当てたまま呆然と瞳を見開いたナオを、ユーリが心配げに見遣るが、気にしている余裕はなかった。

 今、確かに聞こえた。記憶の中の彼女と、同じ声音で。聞こえたのは一言だけで、手の中のスマートフォンに視線を落とすと、当然のように電源の落ちた真っ黒なディスプレイに、ナオの顔が映り込んでいるだけだった。



「佐々木、いったい何が」


「……時津さんの声」


「なに?」



 スマートフォンを見下ろしたままのナオの言葉に、ユーリはなにがなんだかわからないといった様子だった。ナオもまた、混乱していた。だが時間とともにじわじわと理解が染み込んでくる。聞こえた声は確かにミズホの声だった。4年越しとはいえ、親友の声を聞き間違えるわけがないと、確信があった。

 彼女はなんと言ったか。



「探す……? どこを? ここで……?」



 物言わぬ端末をブレザーのポケットに雑に突っ込むと、ナオは凜然と顔を上げた。

 周囲を見回し始めたナオの様子があまりにも異様だったからだろう、ユーリが気遣わしげな様子で「佐々木……?」と声を掛けてくるが、それに反応するのももどかしい。周囲は閑静な住宅街だ。下校時、学生や主婦の一人や二人見かけても良いはずなのに、図ったように誰も居なかった。

 一度背後を振り返り、誰も居らず、前方へと視線を戻したナオは、少し離れたところに人影を認める。緩やかな傾斜の先、上り坂の終点に誰か居る。つい一瞬前に周囲を見回した時には間違いなく誰も居なかったのに。虚空から湧いて出たように。いつの間にか。



「あ…………」



 人影は、少女だった。

 ナオ達と同年代の、学生服じみたブレザーとプリーツスカートを身に纏った、長髪の少女だ。彩度の高い亜麻色の髪に、モデルみたいな脚線美、矢鱈と堂々とした立ち姿。服装と年齢以外は記憶の中の特徴と寸分違わす一致する。ナオの願望が見せた幻では決してない。

 時津ミズホが、そこに立っている。

 距離は遠いが、目が合ったことが不思議とはっきりわかった。

 あまりにも特徴的な彼女の、傲岸不遜で挑発的な眼差しを感じる。



「待って!!」



 ミズホらしき少女はふい、と視線を切ると踵を返して歩き去ってしまう。

 ナオは咄嗟に声を上げたが、届いていないようだった。

 状況に置いてけぼりになったユーリはナオのほうを見てどうしたものかと視線を彷徨わせていたようだが、そのナオがすさまじい剣幕で振り向いたので、驚いた様子でのけぞった。



「三崎くん!今!時津さんが!あそこに!!」


「は?」



 ナオの剣幕に押され、その指の先へとユーリが視線を移した時には、当然のように坂の上には誰も居なかった。



「見間違いじゃないのか」



 疑うというよりも念押しをするように確認してくるユーリに、ナオはずいと詰め寄った。鼻先が触れそうな距離に驚いて、ユーリがまたも大きくのけぞった。



「絶対時津さんだった! それに時津さんを誰かと見間違えるわけない! うまく言えないけど、ねえ、わかるでしょ!?」



 ミズホという少女には異様な存在感があった。ともすれば、カリスマ的とすら表現しても遜色ないほどの。ゆえに確信できる。他人を見て、それをミズホと誤認することなど不可能で、逆もまた然りなのだ。おそらく、ミズホと直接の面識がある人間であれば、誰もが同じ見解を持っていただろう。無論、ユーリも例外ではない。彼は表情を改めると、落ち着いた声音で「それで、」と切り出した。



「佐々木は、どうするんだ」


「もちろん、追いかける!!」



 ナオはポケットからヘアゴムを取り出すと、手早く頭髪を結い上げる。部活を引退するまではトレードマークだったポニーテール。ナオが走る時の、本気モードの自己暗示だ。



「ここで追わなきゃ、ゼッタイ後悔するでしょ!」



 言うが早いか、ナオは猛然と地面を蹴っていた。

 背後でユーリが「だよな」と呟きながら追走してくる足音が聞こえる。

 部活で鍛えた健脚でもって、あっという間に坂の上に到達したナオは、そこの十字路で立ち止まる。軽やかに足踏みをしつつ周囲をぐるりと見回すと、右手に伸びる道の先、亜麻色の背中が角を曲がって歩き去るのが見えた。

 追いついてきたユーリが息を切らせつつ「流石、スプリンター、はっや……!」と呟いているが、ナオはお構いなしだ。



「三崎くん、こっち!」


「ちょ、ま……ああくそっ!」



 参考書のつまった鞄が邪魔で仕方がない。ので、ナオはそれをぽいと道ばたに放り出す。そんなのは後で回収すれば良いのだ。そんなことより、とにもかくにもミズホを見失ってなるものか。ミズホが曲がった角の先は路地だ。少しばかり古びた家が建ち並ぶ細い道だ。部分的な補修を繰り返されてでこぼこのアスファルトを踏みしめて必死に走るナオをもてあそぶように、視線の先の亜麻色の背中はまたもや曲がり角に消えていくところだった。

 ミズホの背中は高台の上の方へと向かっていた。畢竟、追いかけるナオ達は上り坂を全力疾走する羽目になり、走ることに慣れているナオはともかく、追いすがるユーリはだいぶ苦しそうだ。



「三崎くん!こっちこっち!」


「ぜぇ、はぁ、ま、まじか……」



 息も絶え絶えなユーリが見上げる先は、長い長い石段であった。この住宅街の中で一番高いところ。展望台へと続く道のうちの一つだった。だが、ユーリの言葉は石段の傾斜と長さに絶望したがゆえのものではない。

 長い石段の頂点で、少女がこちらを見下ろしていたのだ。彼女が立ち止まっていたのは一瞬だった。ニヤリと挑発的に笑うと、また、ふいと背中を向けて歩き去ってしまう。



「あれは、たしかに……」



 今度はユーリにもしっかりと見えたらしい。瞠目した彼をよそに、ナオは「行くよっ!」と威勢良く声を掛け、猛然と石段を駆け上がる。一拍遅れてユーリが続く。ミズホの姿をその眼で認識したからか、彼の走る足音にも俄然勢いが増したようだった。

 背後の、厳密にはちょっと下方のユーリが迫真っぽい声を上げた。



「佐々木! すまん!」


「なにがっ!?」


「パンツ見えてるっ!」


「それ今言う必要あったかなぁ!?」



 脱力しそうなやりとりに、何故か、もう姿も見えない筈の彼女が少し笑った気がした。

 必死に足を踏み出す。今止まったら、きっと一歩も動けなくなる。立ち止まってなるものかと、喘ぐように石段を駆け上がりきったナオの視線の先で、彼女は――――





 ◇◇◇





「おひさしぶり」



 展望台の端、木製の柵の前に立った少女は、いたって気軽にそう言った。

 取るに足らないものとはいえ展望台だ。景色は良い。街が一望できるロケーションは、しかしながら見慣れた街並みでしかなく、面白みもない。空模様は晴天。ちょっと雲がある。やはり、何の変哲もないよくある天気だった。

 だが、そこに時津ミズホの姿があるだけで、まるで異世界に迷い込んだかの如く、現実感が希薄になる。



「時津、さん……だよね?」


「ん」



 ためらいがちに問いかけたナオに、ミズホは小さく顎を引くように頷いた。まるで『それ以外のなにかに見えるのか』とでも言わんばかりの態度だった。

 記憶の中の彼女よりも、当然だが背が伸びていた。成長は控えめだったらしく、ナオよりもちょっと小柄だ。腰まで伸びる亜麻色の頭髪は相変わらず冗談みたいに艶やかな光沢を放っている。身に纏うブレザーは遠目には学生服のように見えたが、近くで見ると明らかに高級そうなブランド品のようだ。プリーツスカートは近頃の女子高生にありがちな超ミニで、健康的な脚線美を惜しげもなく晒している。

 そして、浮き世離れした美貌。

 間違いなく、時津ミズホの姿だった。



「ナオ、と……ユーリも」



 立ち尽くすナオの背後に、追いついてきていたユーリの姿を認め、ミズホはよく通る声でひとりごちた。中学生の頃、ナオとユーリは今のように疎遠ではなくて、男女の差など感じさせないくらいにとても仲が良かった。だから中学からナオの友人となり、後に親友と呼ぶようになったミズホも含めた三人で良く連んでいた。逆に言えば、だからこそ、三人で居るのが自然になりすぎていたのだ。二人で会えばミズホが居なくなってしまったことを意識せざるを得なくなるから、きっとナオ達は互いを避けるようになっていた。

 信じられないのか、あるいは信じたいのか。ユーリ視線は睨むように鋭く、まるで眼前のミズホの正体が蜃気楼ではないかと疑っているかのようだった。



「そんな睨まなくてもいいじゃん」


「生憎と、こういう顔なんだ」


「うそ。昔はもっと可愛い顔してたわ。んで、ガキっぽく見えるのが嫌でわざとしかめっ面してたのよね」


「……よく覚えてるな」


「あたしが忘れるわけないでしょ」



 当然、といった口ぶりがいかにも『らしい』。

 流れる汗を拭うことも忘れて、息を整えるのもそこそこに、堰を切ったように言葉が溢れ出した。



「時津さん!今までどこに居たの!なんで居なくなっちゃったの!なにをしてたの!私達ずっと――」


「ちょい待ち」



 す、とミズホが片手を挙げただけで、ナオは二の句が継げなくなった。と、同時にあれだけ荒れ狂っていた呼吸と鼓動が嘘のように静まり、流れる汗も跡形もなく消えていた。背後でユーリの荒い息が聞こえなくなり、あれ、と困惑する呟きが聞こえた。

 順を追って言うわね、と告げたミズホが指折り数える。



「今までは遠いところに居たわ。居なくなったのはそこでやることがあったから。やることって言うのは」



 そこまで言ってミズホは意味深に言葉を句切り、ニヒルな笑みを浮かべて続けた。



「実はあたし、世界を救おうとしてたのよね」



 世界。 と止まった思考で反芻する。

 どうやらミズホは世界とやらを救うために遠いところに行っていたらしい。

 ナオは自分なりに精一杯ミズホの言葉を真剣に聞き、吟味して、



「す、すごいね?」


「小学生並みの感想をどうもありがと」



 そう言われても、ナオにはどう反応して良いかわからなかったのだ。だって、『世界を救う』なんて映画みたいな台詞を前に、ただの高校生でしかないナオになにが言えるというのか。ついでに、ミズホのどこかで聞いたような台詞を受けて、ユーリがナオを小さく鼻で笑ったようだった。

 ただ、ミズホの『世界を救う』という言葉が文字通りの意味で、比喩でも冗談でもないことを微塵も疑っていない自分を、ナオは微塵も疑問には思わなかった。



「つまり」



 徐に口を開いたのは、いつの間にかナオの隣まで歩み寄っていたユーリだった。全く以て彼らしい平然とした口調である。混乱も驚きも既に処理済みといった雰囲気に見える。いよいよもってどういう神経をしてるのかわからない彼ではあるが、少なくともこの状況では頼もしい限りだ。



「今こうして居られる以上、世界は救われたわけか」



 だから戻ってきたってことか、と問いかけるユーリに、ミズホが返したのは深い溜息だった。



「だったら良かったんだけど」


「違うのか」


「そもそも、あたしが『ここ』に居る以上、事態は継続中なのよね、これが」


「……まあ、そんな気はしてたが」



 ユーリの声が聞こえているのかいないのか。ミズホはブレザーのポケットからスマートフォンを取り出し、眉根を寄せて画面を睨み付けていた。ナオがまったく見たことのないタイプの端末だった。純白の外装で、メーカーのロゴも見当たらない。



「時間がないから、手短にね」



 ミズホはスマホを仕舞うと、その場で腕を組んだ。たしたし、と靴の踵で地面を叩く。



「当初の予定では、あたしはさくっと事態を解決して、すぐに戻るつもりだったのよ」


「居なくなった時の話だな」



 ミズホは「ん」と頷く。



「そのために、その場に居たナオをわざわざ『目印』にしといたんだけど、予想外のことが起きちゃって、世界が救われてくれないのよね」


「だから、帰ってこれなかったの?」


「そ」



 あまりにも普通に肯定されてしまったが、それはつまり、



「てことはなにか。やっぱり現在進行形で世界の危機、ということか」


「そゆこと。ユーリは相変わらず話が早いわね。助かるわ」


「そりゃどうも」



 ミズホの賞賛に対し、ユーリは儀礼のように返す。さほど理解力を求められる内容ではなかったと考えているからだろう。なにせ、ナオでも話の流れは理解できたくらいだから。無論、理解できたからといってその情報を元に現状を分析できるとは限らない。少なくとも、ナオ一人だったら混乱を収拾できずに「え?え?」と呟き続けるのが関の山だっただろう。



「あの、質問……」



 控えめに、小さく挙手。



「ん」


「そもそも、なんで世界が、その……ピンチなの?」


「それを説明し始めるとめっちゃ長くなるから、割愛」


「根本的なところだと思うんだが」


「どのみち説明したところで今のアナタ達には理解できないわ。馬鹿にしてるわけじゃなくて、単純に知識の問題でね」



 たぶんフォローなのだろう。ミズホが付け足した説明に、ユーリは「成程」と呟き、ナオは曖昧に笑っておいた。要するに、わからないということがわかっただけである。

 見ての通り時間がないのよ、とミズホが大仰に片腕を広げてみせる。釣られて彼女の背後、展望台から見下ろす街並みに目を向けたナオ達は、明らかな異変に気付いた。



「うそ……」



 景色から、色が消えていく。

 今更ながらに気付けば、先程から一切の環境音がしていない。景色の中では、いつものように自動車が走る姿が見える。だが音がしないのだ。鳥の声も、虫の声も、葉擦れの音も、なにもかも。

 あまりの異様さにナオは思わず一歩後ずさる。しかし、展望台の土を踏む感触があるのに、音は聞こえなかった。



「ねえ、三崎くん」


「なんだ。佐々木」



 お互いの声は普通に聞こえる。その事実がむしろ異常さを際立たせる。



「すごくベタなこと言ってもいい?」


「言わなくていいぞ」



 ぎゅむっ、とユーリがナオの頬を思いっきり引っ張ってきた。



「いたたたたたたたたあぁいっ!?」


「夢じゃないようだな」


「ようだな……じゃないでしょっ!?いったいどういう神経してるのかなキミはぁ!!こともあろうに、女子のほっぺをいきなり思いっっきり抓るなんて!」


「でもどうせ『ちょっとほっぺた抓ってみてくれないかな?』とか言うつもりだっただろ」


「ちがう!『ちょっとほっぺた抓らせてくれないかな?』って言うつもりだったの!」


「じゃあ先制攻撃した俺の勝ちだな」


「くそ、負けた!」



 と、そんなやりとりをミズホがものすごく微妙な表情で眺めていることに気付く。



「余裕あるわね、アナタ達」


「てんぱってるだけだと思う。まじで」


「マジな話、どうなっているんだこれは」


「ほんとはあたしはここに居られないのよ。別に、世界がおかしくなってるわけじゃないわ。異物を無理くりぶっこんだせいで、反動が出てるだけ」


「異物……?」


「そ。『居ないはずの存在』っていう意味でね。ちなみにアナタ達と接触するためにあんな回りくどい追いかけっこをしたのも、アナタ達にあたしを認識して貰う必要があったからよ」



 なるほど、わからん。

 空の色は完全に抜け落ち、青空と雲の区別もつかなくなっていた。最早濃淡が残るだけで、空が無くなってしまったかの如き光景だった。なんだか意味もなく笑えてきたナオを余所に、ユーリはいたって真面目な顔で思案気に顎へと手をやっている。



「つまり、時津の都合で、俺達に接触する必要があったってことだな。俺達になにをさせたいんだ?」


「ほんとに話が早いのは嬉しいけど。アナタほんとに冷静ね」


「佐々木が既に現実逃避を始めているからな。俺が喋らないと話が進まないだろ」



 確かに、と言いながらミズホは緩く首を振る。揃いも揃ってポンコツ扱いされているのが流石に面白くなくて、ナオは周囲の異様な光景を努めて意識の外へと押しやって、気を取り直してミズホを見詰める。その視線を受けてなのか、ミズホが「さて、」と仕切り直す。



「端的に言うと、助けてほしいのよね」


「時津さんを?それとも、世界さんを?」


「とりあえず、あたしを」


「ちなみに、なんで私達なのかな?」



 もう一つ根本的なところを問うてみると、ミズホは亜麻色の髪の毛先を指でくるくるしながら、憮然とした様子で応えた。



「他に選択肢がなかったから。あたしは『居ないはずの存在』だから、助けを求めようにも誰もあたしを認識できなくなってた」


「先程もそんなこと言っていたな」



 ん、とミズホは頷く。



「居ないはずの存在、てのはつまり、誰にとってもあたしは既に思い出の中の存在でしかないってこと」


「……故人には会えない、というようなものか」


「まあ、大差ないわ」


「だが何故そうなった」


「そういう修正がされたからよ。世界にね」



 ミズホはどうでもよさそうに言う。



「あたしが居なくなった後、大して騒ぎにならなかったでしょ?」


「そんなことない。警察だって動いたんだから」



 殆ど反射的に否定したナオとは対照的に、ユーリはどこか思い当たる節がありそうな表情を見せた。



「確かに当時、違和感はあったな。あまりにも早く、周囲が日常に戻りすぎていた気がして」


「それが修正。あたしは居ないものとされた。矛盾を避けるためにあたしのことは皆ちゃんと覚えている。でも、居ないのが自然、という認識を誰も疑わない」


「家族も……?」


「ん。あたしに対する強い感情は全て、即座に長期記憶へと置換された」



 つまり、思い出になったのだ。

 だが、そうだとすれば何故なのか。少なくとも、今日の今日までナオの中でミズホが思い出になったことなど一度もなかったと断言できる。恐らくはユーリも同様だろう。家族ですら修正されたのだというならば、ミズホに対する思いの強さが云々の話ではないのだろう。



「あ……そっか。そのための『目印』だったんだね」


「そ。こうなるのを予想してたわけじゃないけど、結果的には正解だったわね」



 音が消え、色彩が抜け落ちた世界から、ついには輪郭の濃淡までもが失われようとしていた。気付けばほとんど白いだけの空間にナオ達三人だけが浮かんでいるようだった。根拠なんてないけど、この目に映る景色が完全に白一色になった時、それがミズホが存在できるタイムリミットなのだろうとナオは思った。



「アナタ達には拒否権がある」



 そう言って、ミズホはまっすぐにナオの目を見た。



「流石のあたしでもこれが荒唐無稽な話だとわかっているし、世界の命運なんて言われても実感できないのもわかる。無論、安全ではない。当然、命の危険もある。だから、アナタ達は別に断ってくれても構わない」


「だが、そうすると世界が滅びる……だろう?」


「それはアナタ達の責任ではないし、すぐに起きるわけでもない。少なくとも、アナタ達が天寿を全うするまでは、世界は全うにあるでしょう」



 ミズホの言葉は冷たいが、正論だ。確かに、義務も責任も無い。



「時津はどうなるんだ。俺達以外に頼る当てはないんだろう?」


「あたしは居なくなる。アナタ達は日常に戻る。そのことを含めて、アナタ達が気に病むことはない。できない。そうなれば今のこの会話を覚えていられないし、あたしの存在は今度こそ、ちゃんと、思い出になるから」


「ふむ……」



 ユーリは思案気に呟くと、徐にナオの肩をぽんと叩いた。



「だそうだ。どうする佐々木?」



 問いかけるユーリの声音は凪いでいて、きっとナオの内心などお見通しなのだろう。あるいは、彼も同じ結論に至っているがゆえなのか。

 そんなの、決まっている。



「時津さんを助けるよ」



 義務も責任もないけれど、義務や責任でミズホの親友をやっているわけではないのだ。たった一人の親友が困っているのに、助けないなんて嘘である。この判断を浅慮だと嗤う人は可哀相な人だとナオは思う。それはきっと親友と呼べる相手を得られなかった人なのだから。



「……後悔するかもしれないわよ。おとなしく、日常に戻っておけば良かったって」


「なにを選んでも後悔する時はするよ。だから私は、いつだって『後悔したくない』ほうを選ぶって決めてるんだ。ここで時津さんを見捨てる選択をしたら、きっと一生分後悔するからね」



 例え一瞬後にはその後悔そのものを忘れてしまうのだとしても。いや、だからこそ。親友を思い出にしてしまう選択をできるはずがないのだ。

 ね、と傍らのユーリを振り仰ぐと、彼は声に出さずに「だな」と応えた。



「だいたい、らしくないぞ」


「だよねぇ」



 ユーリとナオがわざとらしく示し合わせたようにミズホを見遣ると、彼女は「あによ……」と小さく呟いて鼻白む。



「『あの』時津が助けて欲しい、などと言ってきた瞬間に俺は耳を疑ったぞ」


「しかも、断っても構わないなんて言うんだもんね。『あの』時津さんが」


「……そんなにおかしいかしら」



 憮然としたミズホの言葉に異口同音に「おかしい」と応えると、彼女は唇をひん曲げて「じゃあどう言えば良かったのよ」と聞いてきた。



「いつもどおりに言えばいい」


「『あたしに手を貸しなさい!』ってね」



 三人で一緒に居た頃はいつだってそうだった。ミズホはなんでも自分自身の全会一致で決めてしまうのだ。ナオ達にそれを伝える時だって、提案でもお願いでもなく、ただただ意志だけを告げるのだ。そのたびにナオは振り回され、ユーリは頭を抱える羽目になっていたわけだが、不思議とそんな関係性が楽しくて仕方がなかったのだ。



「そしたら、私達もいつもどおりに応えるよ」


「……しょうがないなぁ、ってな」



 ミズホは暫し呆気にとられた様子で、大粒の瞳を丸くした。ぱちぱちと瞬いた後、破顔してふっと小さく笑った。諦めたような、開き直ったような、力の抜けた良い笑顔だった。

 そして、肩幅より広くがっと脚を開き、胸を反らしふんぞり返って、傲岸不遜に両腕を組んで、自信満々に高らかに告げた。



「そこまで言うなら特別に! あたしの手伝いをさせてあげるわ!!」



 眩しいくらいに輝く笑顔は、ナオの見慣れたソレで。大好きで大切な時津ミズホに漸く再会できたような気がして、ナオは滲む視界で精一杯の笑顔を作った。



「しょうがないから、手伝ってあげる!」



 ユーリも小さく嘆息しながらも「しゃーない」と応えた。ミズホが自信満々に笑い、ナオが困ったように笑い、ユーリが諦めたように笑う。始まりはいつもそうだったけど、これで上手くいかなかった試しがないのだ。だから、今回だってきっと大丈夫だ。

 すっかり調子を取り戻したミズホは、びしりとナオ達に指を突きつけた。



「そうと決まれば方針を伝えるわ! アナタ達はまず――――――あ。」



 流れるようなミズホの言葉が不自然に途切れ、





「「あ」」





 プツッ、とまるでテレビの電源を落としたように唐突に、その姿が消えた。

 絶望的な沈黙がその場に落ちる。

 ナオもユーリもなにも言わなかった。半ば現実逃避気味に少し待ってみる。たっぷり十秒くらい数えてから、ナオは「あー……」と呻き、ユーリは眉間を揉みほぐすような仕草をした。



「三崎くん、これって……」


「みなまで言うな。佐々木」



 タイムリミット、である。




 一歩踏み出せば届く距離だったのに。

 まるで最初から夢か幻だったかのように、そこにはもう誰も居ない。

 あまりにも唐突で、手を伸ばすことすらできなかった。


 そう。

 ナオの目と鼻の先で、あっけなく、彼女はこの世界から消滅したのだ。





 …………。





「一番重要なこと言う前に消えやがったぁ!」


「時津さぁーん!私達なにすればいいのー!?」



 非常に珍しい三崎ユーリの絶叫シーン、などと言っている場合ではないことは明らかだった。なにせ周囲の景観は既に白一色で、空も地面もなにも無い。ミズホは消えてしまったが、ナオ達は元の空間に戻ることもなく、白一色の中にふたりぼっちなのだ。



「三崎くんが余計なことばっかり訊くからだよっ!」


「ほ、ほう? 俺が悪いってか?」


「いやごめん!私の理解力の無さが一番ダメだったよね!」


「それは仕方ないだろう。俺も訊くべきを先に訊いておくべきだった」


「いやいや、それを言うなら時津さんがちゃんと最初に説明するべきだったよ!」


「確かに。つまり時津が悪いな」


「うん。時津さんが悪い」



 ふぅ、と二人で息を吐く。



「……で。どうしよっか」



 今のところ息はできるし、会話もできる。地面は無いけど、何故か歩ける。動くことはできても、壁も地面も空も無いので進んでいる感覚も無い。方向感覚も無いし、たった今ついに上下の感覚も消えた。

 物理法則が消え去っていくような感覚。つまりはこの空間そのものが消え去ろうとしているのだ。ナオ達を内部に残したままで。

 音も、色も、法則も、果てにはきっと記憶や想いまで、全てが光となって解けていく。終わりの光がどうしようもなく白いから、こんなにも眩しいのだ。

 きっと、最期(おわり)は全部光になるのだろう。

 無重力に浮き上がってくるスカートを押さえつつ、縋る思いでユーリを見上げると、彼は前方の一点を指さして見せた。



「これって……」



 指の先を視線で追うと、先程までミズホが立っていた位置辺りになにかが浮かんでいた。白い景色の中にほとんど溶け込むそれは、ミズホの純白のスマートフォンだ。

 ナオがソレを手に取ると同時、見計らったタイミングで端末がメールの着信を告げる。

 差出人は時津ミズホ。件名は『first step』。本文は――




「あたしを見付けて……?」




 そう呟くと同時に、ナオの視界は真っ白になった。





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