第四話裏[Re:Friends]
アルフレッド・S・グレンフェルは半人前の錬金術師である。
錬金術の総本山であるリヒティナリア精霊王国の王都レガリアで学び、若くして実力を認められ『称号』を得るほどの逸材だった。にもかかわらず、アルフレッドは自身を必ず半人前と称する。
決して一人前になることはない。
願わくば、永遠に。
アルフレッドが思うに、優れた錬金術師とは例外なく『知りたがり』だ。
かっこつけた言い方をするならば探究心。
逆に言えば、それがないならば錬金術師など志すべきではない。どうせ大成しないのだから。
錬金術師として名を挙げるのに必要なのは才能でも努力でもない。ただただ飽くなき探究心だ。むしろ、どんなくだらないことでも興味を示し、自分の人生を捨てるほどに探究に打ち込める熱意さえあれば、誰だってひとかどの錬金術師となれる。
要は、錬金術師とはまともに生きられなかった破綻者の言い換えだ。
と、アルフレッドはわりと本気で思っている。
だからこそ、アルフレッドは半人前であることを自身に課す。
飽くなき探究心こそが錬金術の深奥だと言うのであれば、自分には必要ない。そんなもののために人生を消費するつもりなど更々なかった。故に誰もに惜しまれながらも学究の徒であることを辞し、果てには王国すらも飛び出した。
およそ知的活動とは縁遠い探索者の世界に身を置き、自分なりの探究を続けている。
探究のために人生があるのではない。
人生のために探究があるのだ。
それがアルフレッドの錬金術であり、人生哲学だ。
結局、探究することからは逃れられない以上、根っからの錬金術師には違いないのだが。
◇◇◇
稀人志篇 第四話裏 [Re:Friends]
◇◇◇
「はてさて、どんなカラクリか……」
真鍮製の駒を手慰みに弄びながら、アルフレッドは独り言ちる。
滞在先のホテル『アーバン・ベルガミア』の一角、ささやかな図書室の更に隅、窓際の机。年季の入った古いチェスボードを前にして、椅子に腰掛け長い脚を優雅に組んだアルフレッドは、紅の瞳を細め、少し前の光景を幻視する。
実に面白い少女だった。
ほんの一週間ほど前にアグナムが保護した、佐々木ナオという少女。
あのアグナムが見ず知らずの少女に対して自分から保護を申し出たという時点で、一体どういう風の吹き回しだと訝しんだものだが、それ以上に興味があった。
見た目素朴なあの少女に、アグナムが手元に置きたがるほどの秘密があるのか。
あるいはそんなものはなくて、単にあの少女がアグナムの好みだったのか。
アルフレッド的にはどちらでも、それ以外でも構わなかった。
何故なら、どうあっても絶対面白いからだ。
同じホテルに宿泊しているので何度か見かける機会があったものの、遠目からの印象は率直に言えば『どこにでもいそうな少女』だ。容姿は可愛らしいが、凡庸の域を逸脱する程ではない。
ホテルの掃除に進んで協力を申し出て、献身的に作業するさまは好感に値したし、人格的には非常に好ましい人物ではあったが、やはり特筆する程ではない。アルフレッドの周囲には博愛主義の塊のような滅私奉公の鬼と、性別を超越した魔性の美貌の持ち主が生息しているので、それを思えばナオ嬢はどこまで行っても平凡な少女だった。
そうして趣味と実益を兼ねた観察を続けながらも、アルフレッドは自分から彼女に接触するつもりはなかった。
アグナムと一緒に活動していればそのうち自然と会うことになるだろうし、なにより興味があった。
自分から彼女に声を掛ければ、それはなんの面白みもない、それこそ平凡なファーストコンタクトとなるだろう。それでは興醒めだ。故に、敢えて偶然に身を任せ、彼女との出会いを待ってみることにした。
そして、今日。
何かに導かれるように彼女と出会ったのだ。
アルフレッドはこの図書室の存在を知ってはいたが、立ち入ったのは実は今日が初めてだった。
訪れた理由だって明確なものはなくて、ただ暇を持て余してホテル内を散歩していたら、たまたま通り掛かっただけだ。
アルフレッドの探索者としての活動は不定期であり、基本的にはパーティーのリーダーであるアグナムが行動方針を決定する。メンバーであるニコールとヨルハも含め、全員が納得ずくのことだが、このパーティーの方針は全てアグナムが一人で決定し、アルフレッド達は異を唱えない。
何故ならば、もともとはソロで活動しているアグナムに、アルフレッド達が勝手に付き纏うことで始まった付き合いだからだ。
アグナムは当初から一貫して来る者は拒まず、去る者は追わずの姿勢だった。つまりはアルフレッド達が着いてくるのならば勝手にすればいいし、飽きるか嫌になれば勝手に離れていくだろう、と。
結果的にはなんだかんだで馬が合って、この四人で一年以上一緒に活動しているわけであるが。
さて、何が言いたいかというと、アグナムが突然『今日はオフだ』と告げたので、いきなり暇になったのだ。
余暇を過ごす手段として、読書は有意義だ。
有意義だが、楽しくはない。
アルフレッドは読書家ではなく、本を読むのは専ら学ぶため。必要に迫られればというスタンスだ。なので、気まぐれに図書室に立ち寄っては見たものの、特に本棚に触れることもなく散策するだけのつもりだった。一通り練り歩き、一番奥の窓際で申し訳程度の読書スペースと、その机の上に乗った古びたチェスボードを見付けたのだ。
近寄ってみれば、誰かの読みさしなのか、チェスボードの傍らには関連の書籍が放ってある。表紙を見るに内容はチェス・プロブレム――要は詰めチェスだ。
アルフレッドは「ふむ」と呟き椅子を引いた。
チェスという遊戯に対する造詣は深くない。文字通りに『嗜み』程度に指したことがあるだけだ。好きでも嫌いでもないし、正直然程興味もない。ただ、チェス・プロブレムのような『頭の体操』は大好物である。これに限らず、知恵の輪でもジグソーパズルでも、ナンプレでもクロスワードでもなんでもいいが、発想力や柔軟性、教養ないし単純な計算能力等々、とにかく自分の思考能力の程度を試すのが好きなのだ。
そしてそれは、なるだけ独りで没頭できるものが望ましい。
「どれどれ……?」
だが、一つだけ気を付けなくてはならない。
アルフレッドが自覚している悪癖であったが、どうにも自分は思考に耽ると没頭し過ぎる。自分の腹の虫が鳴って正気に返れば、いつのまにか半日以上考え込んでいたなんてことも少なくないし、最初に終わりを決めておかないと、延々と取り組んでしまう。
故に、目の前の書籍を取り上げて、アルフレッドは『一問だけにしよう』と決めた。
見るからに、誰かが問題を解こうとして盤面だけを作って放置された状態だ。パラパラと書籍を捲って探せば、労せずにまったく同じ盤面の問題を見付けることができた。この書籍がどの層に向けたものかは定かでないが、少なくともこの書籍内では上から数えたほうが早い難度の問題だ。
この問題を解くだけにしよう、と決める。どうせ|駒に触れるつもりはない(・・・・・・・・・・・)のだし。
(…………おや?)
没頭すること暫し、不意に現れた訪問者の気配にアルフレッドは『ちょうどいい』と思った。
アルフレッドの眼前のチェスボードは、彼が見つけた時の状態から何一つ変わっていない。アルフレッドはただ、書籍を片手に、ひたすら黙って椅子に腰掛けて駒を睨みつけていただけだ。
実のところ、問題は既にほぼ解けている。
真鍮製らしきチェスの駒には触れるべきでないので、解答を全て頭の中で導いただけだ。アルフレッドの記憶力をもってすれば造作もないことだし、頭の体操にはむしろちょうどいい。
予期せぬ訪問者もあったことだし、そろそろ引き上げようか、とアルフレッドが考えたときだった。
「――――Qc2じゃないですか?」
思考が止まる。
言葉が降ってきた。
クイーンの駒をcの2へ。
それはアルフレッドが導き出した解答の、その最初の一手である。
だがアルフレッドの思考が息を止めたのは、一目で解答を言い当てられたからではない。その声音にとても聞き覚えがあったからだ。未だにチェスボードを見遣ったままのアルフレッドからは、机の横に立った彼女の胸から下が横目に見えるだけだ。
しかし顔を見るまでもなく誰かわかった。
「…………なるほど」
溜息とともに吐き出された言葉は、深い納得の意味だ。
なるほど。ここで会うのか。
敢えて自分からは接触しなかった件の少女と、暇潰しに訪れた初めての場所で、偶然に巡り合うとは。あまりにも、出来過ぎているなと苦笑せざるを得ない。まるで、図ったような運命の出会いだ。
なんとも、面白い。
薄く笑んだアルフレッドは、これまで触らないようにしていたチェスの駒の一つを手に取る。
白のクイーン。
真鍮製の駒は白というよりも銀に近い色彩である。
先程までの思考をなぞるように、銀の駒と黒染めの駒を交互に動かし、辿り着いた盤面を描き、そしてアルフレッドはようやく顔を上げた。
「ありがとうお嬢さん。おかげで解けたよ」
そういう体で、改めて少女を見遣る。
ここのところ良く見かけた少女だが、至近で相対するのは勿論初めてだ。
言うまでもなく、アルフレッドが一方的に知っているだけで、彼女の側は初対面だろう。
大峰人らしい、良い意味で素朴な童顔の少女だ。はっきりと目鼻立ちの整った美少女には違いないのに、何故か美しさや華やかさよりも先に親しみやすさを覚える風貌。自然と相手の警戒を解かせるような、笑みを見せられたら釣られて頬が綻んでしまいそうな、そういうかんばせの持ち主。
これまた大峰人にお馴染みの黒髪は肩を超える程度の長さで、癖のない真っすぐな髪質だ。
彼女はアルフレッドの言葉に幼子のように瞳をまんまるにして、きょとんとしてしまった。
それから、動き方を思い出したように大慌てで両手をぶんぶんと振る。
「え、あいえ、ごめんなさい!余計な事言って」
弁明らしいその言葉は早口で、残念ながらアルフレッドには殆ど聞き取れなかった。
精霊王国出身のアルフレッドが扱える言語は、母国語である王国語と、それとよく似た帝国語の二つだけだ。そもそも語学に興味が無いので他の言語を身に着けようと思ったこともない。二大国家である精霊王国と帝国の言葉が喋れれば、大抵はどこでも意志疎通ができるからだ。
そうでなくとも最近は、長寿が故に多種多様の言語に精通しているアグナムと、病的な勤勉故に歳に見合わぬ多言語を修めるニコールが身近にいるので、ますます言葉には困らない。ついでに言っておくとヨルハはアルフレッドと似たようなもので、母国である大峰の言葉と帝国語がわかるだけだ。
「すまないが、そちらの言葉はあまり得意じゃないんだ。ゆっくり喋ってくれるかな?」
目の前の少女――ナオが、アグナムより『感応』の指輪を預かっていることは知っている。その片割れをイルマが持っていることも。なので、イルマと会話ができる以上、アルフレッドの言葉はナオに問題なく通じるはずだ。
こちらから話す分には問題ないが、そちらの言葉はわからないことを告げると、ナオは思い出したような顔になり、すぐにアルフレッドが聞き取れるように言い直してくれた。
今度はちゃんと聞き取れたナオの言葉に、アルフレッドは笑みを深めた。
「私はアルフレッド・S・グレンフェル。錬金術師だ」
実のところ、アルフレッドが名乗る際に錬金術師という肩書を述べることは少ない。
飽くまでも半人前であることを自負している以上、文字通り名乗るほどのものではないし、実際、アルフレッドが修めている技法は世間一般で言う錬金術師のそれとはいささか毛色が違うので、世間一般の人々が錬金術師に期待するようなことは殆どできないのだ。
だと言うのに今回名乗ってみる気になったのは、きっと目の前で「すごいっ」と瞳をキラキラさせる少女が、そういう反応をしてくれると期待していたからだろう。
なんかよくわかんないけどすごそう、と顔に書いてある。
「生憎と半人前だけどね。以後お見知りおきを、ナオ嬢」
「あれ、私の名前……」
アルフレッドが一方的に知っている彼女の名前を呼び掛けると、ナオは不思議そうに小首を傾げた。
訝しげ、ではなく不思議そう、という表現がぴったりの表情だ。
なんというか、感情表現が豊かで、根が素直なのだろうなと思う。
「キミのことは、アグニやニコールから聞いているよ」
それは嘘ではないが、アルフレッドがナオについて抱いている印象の大部分は、彼らから聞いた情報ではなく自分自身で勝手に観察して得たものである。
知っている名前が出てきて嬉しいのか、ナオの表情が目に見えて輝く。アルフレッドの一挙手一投足から一言に至るまで、全部に対して素直で可愛らしい反応をしてくれる。ある意味、打てば響くような少女だった。
「ときにナオ嬢はチェスが得意なのか?」
ひとたび思索に耽ると没頭してしまうのはアルフレッドの悪い癖だが、別にだからと言って注意力や警戒心が散漫になるわけではない。どれだけ深く考え込んでいようが至近に人が来れば気付くし、それ故に思索に耽る際にはひと気のない、誰にも邪魔されなさそうな場所を選ぶことが多い。
時間の経過を忘れるほどに考え込んでしまうのは困りものだが、だからと言って意図せぬタイミングで邪魔が入って欲しくもない。この自分勝手極まりない塩梅こそが一番の困りものではあるのだろう。
さておき、つまりはアルフレッドは詰めチェスの最中でもナオが近くに来ていたことには当然気付いていたし、なんなら彼女が傍らに立ってから口を開くまでの秒数だって覚えている。彼女が盤面を見て、それから最初の一手を導き出すまでに要した時間を考えれば、彼女はアルフレッドの百倍以上早く問題を解くことができると言える。別にアルフレッドはチェスが得意でもないし、時間がかかったのも単純にこういう問題を解く定石と思考法を身に着けていないからだ。逆に言えば、ナオがそういうものを身に着けていれば、即座に初手を導いたのもそれほどおかしい現象ではない。
と、それ故の質問だったのだが。
「いえっ、実はルールすら知らなくて」
とんでもないですっ、と何処かの誰かを彷彿とさせる所作で、ナオは首を振る。
この素直で純朴そうな印象の少女が実はチェスが強いのだ、というのもギャップがあって面白いと思ったが、現実に返ってきた答えはアルフレッドの想像を軽々と斜め上に飛んでいく。
「あの、さっきはごめんなさい。邪魔しちゃって」
ルールすら知らない、というのはもの凄く見た目の印象通りではある。
それが嘘でも謙遜でもないことは、内心が駄々洩れの表情を見ればわかる。しかも、そのあとに続いたセリフから判断するに、おそらく、彼女はあの時自身が呟いた言葉が寸分違わず正答であったことに気付いていない。
文字通り、適当なことを言ってアルフレッドの邪魔をしたとしか思っていないのだ。
アルフレッドは思う。
恐ろしいものに出会ってしまった。
話せば話すほど好感と興味を擽ってくるこの少女は、アルフレッドにとって毒薬みたいなものかもしれない。
こんなにも素直で、裏表がなくて、わかりやすい少女なのに、その最奥が見えないのだ。
だから、もっと、この少女を探究してみたくなる。
沸き立つ心のまま、アルフレッドが敢えて作ったものではない笑みを向けると、ナオはわかりやすく頬を染めて挙動不審になった。アルフレッドは客観的に自身の容姿が優れていることを理解しているし、それが異性に対する強力なカードであることも理解している。
故郷ではそれなりに良い育ちをしているアルフレッドにとっては、異性に微笑んで見せることは社交辞令のようなものでしかなかったが、今こうして自分の容姿を見て緊張を隠せない様子のナオがなんとも小気味良い。
もっと、色んな表情をさせてみたくなる。
チェス盤を前に思索しているよりも余程楽しい。
差し当りは、そう。彼女が正答を言い当てたカラクリを暴いてみようか。
とまあ、そんな流れで半ば無理くりナオを正面に座らせてチェスを打ってもらったのだが。
あまりにも心躍る一時であった。
彼女の表情はやっぱりこの上なく素直で、死んだ眼でチェスの駒を動かす様子からは、如実に『なんでこんなことしてるんだろう……?』という深い困惑と諦観が滲み出ていた。無理矢理に付き合わせたのは申し訳なかったが、アルフレッドの内心は歓喜に埋め尽くされてそれどころではなかった。
なにせ、手番が回るごとに凄まじい速度でアルフレッドが追い詰められていくのだ。
ルールも知らない筈の少女が、平然と数手先まで読んだようなえげつない手を指してくる。ナオの表情だけで判断すれば、誰がどう見ても『ヤケクソで適当に動かしてます』だ。だと言うのに、客観的に見ればそれは全て、最も有効な一手をノータイムで繰り出してくる完璧なプレイングでしかないのだ。尤も、アルフレッド自身の実力は大したことないので、チェスを打つことに慣れた実力者であればナオと同じことができるのかもしれない。
特段面白いのは彼女の手つきだ。
恐る恐る、おっかなびっくりな手つきでチェスの駒を持ち上げて動かす彼女の所作は、慣れているどころかチェスの駒なんて碌に触ったことありませんと言葉よりも雄弁に語っていた。
最早、頭の体操などと気取っている場合ではない。脳細胞をフル活用して起死回生の一手を模索するも、ナオの手はそれを次々に軽々と凌駕していく。自身が追い詰められるという状況を、アルフレッドはかつてないほどに楽しんでいた。この時間が永遠に続けばいいのにとすら思う。
だが、残念ながらアルフレッド程度の腕前ではナオの実力に拮抗することなど叶わないのだ。
アルフレッドの予想通りに勝敗が決した瞬間、それまで迷いなく動いていたナオの手が、次を逡巡するように彷徨った。ナオの様子を見れば、次にどの駒を適当に動かそうかと思案しているのが見て取れる。
つまり。
彼女は既に勝敗が決していて、自身が勝利していることすらもわかっていないのだ。
「なるほどなぁ……」
思わず、感嘆のため息が漏れた。
正面のナオが不思議そうに小首を傾げるので、そろそろ幕引きにしようと告げると、その表情があからさまに安堵の色に染まった。きっと、ナオはようやくアルフレッドの謎の趣味から解放されたとでも喜んでいるのだろう。
ほとんど聞くまでもないことであったが、一応ナオに現在の盤面がわかるかと問うてみると、案の定彼女は何も理解していなかった。
それどころか、アルフレッドがわざと勝ちを譲ったとすら思って居そうだ。
馬鹿を言っちゃいけない、と内心思う。ナオが真実チェスのルールすらも知らない素人だったとしたら、そんな相手を勝たせるようにプレイできるほどアルフレッドはこなれていないし、そもそもまともな勝負になっているはずがない。尤も、ナオは真面な勝負になっていたとすら思っていない様子だったが。
立ち去るナオを見送ったアルフレッドは独り考える。
結局彼女は何者なのだろうか。
どうやって、ルールも知らないチェスで完璧な勝利を収めたのか。
「最も妥当なところを考えれば……」
ナオの自己申告がすべて虚偽で、実は彼女はチェスに精通していて、凄腕の指し手で、素人の振りをしながらアルフレッドの相手をしていた可能性。現実的に考えればそれが最も妥当性の高い選択肢で、故にアルフレッドはその可能性を真っ先に思考から排した。
その可能性が存在しないことは前提条件だ。
ナオがアルフレッドの観察眼を以てして真実の影すら踏ませないほどの演技派だというのならそれはそれで面白いが、そうではないと判断したからこそアルフレッドは彼女に興味を持ったのだ。アルフレッドは自身の眼と直感を信用する。それすら信じられないというのは探究に対する敗北宣言に他ならない。
というわけで、敢えて突拍子もない予測から考えてみる。
「一つ、未来予知」
次に打つべき手が見えていたので、ルールを知らなくとも最適な手を打つことができた。
だが、そうであれば自身の勝利を理解できない道理が無い。
未来が見えるのであれば勝負が終わったことも見えてなくてはおかしいのだから、チェックメイトの状態から次の一手を探そうとするはずがない。
「二つ、読心」
アルフレッドの心を読んでいたので、常に上を行く手を打つことができた。
だが、だとすればアルフレッドに勝利することは出来ても、アルフレッド自身が予測もしない一手を打てるはずがない。少なくとも、対局した実感から言うと、アルフレッドとナオの実力差は歴然としたものがあり、たかだかアルフレッドの打つ手が文字通り読めた程度で生じる差ではなかった。
「三つ、記憶喪失」
本来のナオはチェスに慣れ親しんでいたのだが、何らかの理由で記憶を失い、自身がチェスを打てるという事実そのものを忘却している。知識すらないものと思い込んでいるが、実際は身体が覚えていて、無意識で最適な手を選択できる。
「…………ふむ」
まだまだ突拍子もないが、わりとしっくりくるのは何故だろう。
彼女の自己認識と実力の乖離を、彼女の心境含めて最も上手く説明している仮説だ。つまりは自己認識と実際の力量が乖離している可能性に、無理やり論理的な理由を与えるとすれば、という話だ。
この仮説がしっくりくるのは、そうだとすればナオは全く嘘を吐いていないからだ。
「四つ。あるいは、逆か」
もともと持っていた知識や技能を失ったのではなく。
持っていない筈の知識や技能を得たのだとすれば。
つまりは、ナオは彼女自身が気付かぬうちに、プロ顔負けのチェスの技能を身に着けていたのだ。
「五つ。もしくは、そもそも彼女ではなかった……?」
例えばナオの内面に彼女以外の何者かが存在して、実際にチェスを打っていたのはそちらだとしたら。
「これはなさそうか」
そんな存在が居たとして、それがまったくの別人でもナオのもう一つの人格でも構わないが、ナオの態度からして彼女はその存在を認識していない。となれば彼女の内面にこっそり存在しているだけの何者かが、敢えてチェスを打つためだけに顔を覗かせるというのは全く以て意味不明だ。
アルフレッドはなにもこの場で考えて答えが出るとは思っていない。仮説を並べたら、あとは彼女との触れ合いの中で検証していくだけである。あれほど興味をそそる少女との逢瀬をこれっきりにするつもりなどアルフレッドには更々なかった。
だからこそ、然程もこだわりのないチェスのリベンジがしたいなどと理由をつけてまで、再会を約束したのだから。
そうして独り思索に耽っていると、静寂を破って再びの訪問者があった。
「こんなところに居た!」
「ん?」
可愛らしい幼気な声が聞こえてアルフレッドが顔を向けると、図書室の出入り口のほうからヨルハが歩いてくるところだった。
アルフレッドがチェスの駒を持ったまま「やぁ」と暢気に挨拶すると、その間にも早足で近付いてきたヨルハはなにやら不機嫌そうだった。彼のブーツは先端が足袋のような構造になっていて隠密性が高く、殆ど足音がしないのだが、敢えて擬音を付けるのであれば間違いなく『ツカツカツカ!』であろう足取りだ。
なにか彼を怒らせるようなことをしただろうか、とアルフレッドは内心で首を傾げる。
あっという間に窓際の机までやってきたヨルハは、チェス盤の横にタン!と控えめに手をついた。本当は思いっきり叩きつけたかったのだろうが、年季の入った机の耐久性を考慮して手加減してしまうあたり、なんだかんだで気遣い屋のヨルハらしいと思う。
「どうしたんだ。えらくご立腹じゃないか」
「誰のせいだと思ってるのかな!」
「まあ、どうせ私が悪いのだろうけど」
生憎と心当たりがない、と正直に白状すると、彼は一転して呆れたように深々と溜息を吐いた。
頭の上でぴーんと立っていた獣耳が、力なくふにゃりと倒れた。
そして俯き加減の顔から恨めしそうに上目遣いで「あのさぁ」と口を開く。
「お昼一緒にどうだいって、誘ったのはアルのほうだよね?」
「ああ。なんだ、それでわざわざ探しに来てくれたのか?」
確かに、今朝会った時に彼を昼食に誘っていた。アグナムとニコールはそれぞれ所用で昼には不在なので、残った二人で親睦でも深めようかという魂胆だ。またヨルハと二人でのんびり美味しい食事処でも探すのも悪くないかと思っていたのだが。
どうやら、ヨルハはその約束のためにアルフレッドを探して方々を彷徨ったらしい。
「電話してくれれば良かったじゃないか」
「したよ!キミ出なかったけどね!」
ナオに夢中過ぎて気付かなかったのかな、と思いつつポケットを探ると、そもそもマナホが存在しなかった。
そういえば、と思い出す。今日はもともと急な休みで暇を持て余した挙句、ちょっとした散策のつもりでホテルの館内をぶらついていただけであり、適当に時間を潰したら部屋に戻るつもりでいたのでそもそもマナホを持ってきていなかった。
そりゃあ着信に気付くわけがない。
「すまない。部屋に忘れていたようだ」
「もうっ!もうっ!」
たしたし!とご立腹に片脚で地団太を踏むヨルハに軽く詫びる。
普段は斜に構えたような態度を取ることが多いヨルハであるが、感情が昂ると割かし年相応の表情を見せてくれる。それ自体はなんとも微笑ましいことなのだが、アルフレッドにとっての問題は、彼がそういう有り体に言って『子供っぽい』所作をすると、いよいよ本当に女の子にしか見えなくなってくることである。
というか、たぶんヨルハ自身もそれを自覚していて普段はああいう態度を取っているのだろうが。
「部屋に行っても居ないし!ホテルのスタッフに訊いても誰も見てないって言うし!フロントに訊いたら外には出てないって言うから、あっちこっち探し回って、挙句こんな場所に隠れてるしぃ!!」
「隠れてたわけでは……いや、悪かったって」
というか、彼は何故そこまでしてアルフレッドを探していたのだろうか。
アルフレッドとて彼との約束を忘れていたわけではないので、それこそ昼時になったらこちらから彼を呼びに行くつもりでいたのだが。その疑問を伝えると、ヨルハからは「ばか!」という可愛い罵倒とともにマナホの画面を突きつけられた。
表示された時刻は、
「もうとっくにお昼だよ!」
「なんだって?」
「見ての通りだよ!!」
アルフレッドは天を仰ぐ。どうやらまたやらかしたようだ。
これはどう考えても全面的にアルフレッドが悪い。誘っておいてすっぽかすとか、ぶん殴られても文句は言えまい。流石に申し訳なくて深々と頭を下げると、ヨルハはようやく留飲を下げた様子で、最後に小さく溜息を吐いた。
「はぁ……もういいよ。アルがそういうヒトだって知ってるし。どうせどっかで油売ってるんだろうなとは思ってたし」
「いやはや、私のことなど放っておいてくれても良かったのだが」
全面的に非はこちらにあるのだから、ヨルハがアルフレッドのことを放置して昼食をとったとしても、文句を言う権利などあるはずもない。むしろ律儀に探してくれたのが意外ですらあったのだが。
「だって、」
ヨルハは少しだけ躊躇うように言葉を濁し、それから露骨に視線を逸らしつつ言う。
「ボクはこれでも、アルと出掛けるのは楽しみにしてるんだ」
「は…………?」
「ふんっ!どーせ他に友達いないよ!寂しい奴で悪かったね!」
アルフレッドの絶句をどう受け取ったのか、ヨルハは頬を紅潮させて言い訳がましく言い募る。
勿論、アルフレッドはそんなことは少しも考えていないし、というか友人の人数という意味では全く以て人様のことをどうこう言える立場ではないし。
そうではなくて、
この子はもしかして、私の理性の限界でも試しているのだろうか。
気恥ずかしそうに頬を染めて、視線を逸らしながら、蚊の鳴くような声で。
そんじょそこらの美少女よりも余程可憐な容姿と声音のヨルハがそれをやると、破壊力が尋常ではない。なんというか、性別とか年齢とかを超越した謎の背徳感で動悸が激しくなりそうだった。
ヨルハのこの意味深な態度が、彼自身は男同士の友情だと思っているが故の無頓着なのか、それとも彼が実は『彼女』であるが故の内面の発露なのか。ヨルハという人物はナオとは別ベクトルで劇物のような存在だ。
ヨルハが『彼』なのか、あるいは『彼女』なのか。
この謎だけは探究してはいけないパンドラボックスであるとアルフレッドの直感が囁いている。
もし、罷り間違ってヨルハが本当に女性だったりしたら、なんというか色々ととてもよろしくない。主に、アルフレッドの精神的な意味で。
故に、彼の自己申告を信じておくのが、きっと平穏なのだ。
「それで?」
ヨルハがようやくアルフレッドの眼前のチェス盤と、その手の中の駒の存在に気付いたように視線を向けた。
「一体なににそんなに熱中していたんだい?」
「ああ、実はね」
よくぞ訊いてくれたとばかりにアルフレッドも応じる。
「噂のナオ嬢と、チェスを打っていたんだ」
そう言うと、ヨルハは予想外の名前だったのかぱちぱちと瞬いた。
アルがチェスってのはわかるけど……、と呟く。
「彼女が、っていうのは全然イメージできないよ」
「だろうな。実際、ルールも知らないらしい」
「なにそれ。どーせアルが無理やり誘ったんでしょ」
確信めいたヨルハの言葉はほぼ正しい。見るからに人の良さそうなナオが、なんだかんだで断り切れずに付き合ってあげちゃったんだろうな、というヨルハの予想もまた正しい。おそらく彼の中ではアルフレッドがナオにルールを教えてあげながら一緒に遊ぶ光景が浮かんでいるのだろうが、生憎とその予想だけは正しくない。
「ちゃんと負けてあげたんだろうね?」
ルールも知らない相手に大人げない真似してないだろうな、と疑わしそうに瞳を細めたヨルハの問いかけに、アルフレッドは上機嫌に「それはもう!」と答えた。
アルフレッドはそれはもう大人げなく本気で臨んだし、それはもう爽快に惨敗したのだから。そもそも先行が圧倒的に有利と言われているチェスで、有無を言わせず先手を打った時点でアルフレッドの大人げなさ大爆発だし、そこまでして手も足も出なかったのだから笑うしかない。というような、詳しいことを話す気はあまりなかった。アルフレッドがいくら語ったところでたぶん客観的には嘘くさい内容だろうし、なにより、あんなに面白い体験をただで教えてやるのは勿体ない。
なにはともあれ昼食にしよう、とアルフレッドは席を立ち、手慰みに弄っていた駒をチェス盤の上に戻した。年代物の木製の盤の上で、アンバランスなまでにギラギラと輝く駒を見遣って、気まずげに口元を歪めた。
「……エルメンヒルデに謝らなくてはならないかな」
「なんで?」
「チェスの駒を台無しにしてしまった」
そう言うと、ヨルハもやや遅れて理解したようで、真鍮製の銀光りするキングを手に取ってしげしげと眺める。
「ああ。なんか違和感あると思ったら、金属製だったんだね」
「うむ。どうしても、ナオ嬢と対局してみたくてね。つい手に取ってしまった」
「ふぅん……?」
アルフレッドが最初に見た時、この駒は表面を細かい傷にびっしりと覆われて光沢を失っていたのだと説明して、一体どれほどの人間が信じるだろうか。年季の入った駒の歩んできた歴史も、培われた風格も、もしかしたら籠められていた思い出も、なにもかもアルフレッドが『なかったこと』にしてしまった。
これが誰の所有物かはわからないが、この図書室に置いてあるということは、おそらくはオーナーであるエリィか、年季を考えればその親の世代の持ち物だろう。
「ま。ほんとに思い出の品だったらこんな場所に置いとかないと思うよ」
「まあね」
「むしろ、チェスの駒が思いがけず新品になってラッキーなくらいじゃない?」
あっけらかんと言って、ヨルハは駒を戻した。
それから、少し思案気に呟く。
「ちょっと意外だな」
「うん?」
「アルって普段から不用意に触らないように気を付けてるじゃん。なのに、そんなにあのナオって人のことが気になったのかな、って」
それなりに付き合いのあるヨルハとて、アルフレッドの性格はよくわかっている。
彼が意外に思っているのは、ナオという少女にアルフレッドがそれほどまでに興味を向ける何かがあるのかということだ。美少女を眺めるのはアルフレッドの趣味みたいなものだが、そうであるがゆえに特定の人物に入れ込んだりもしないアルフレッドである。
ヨルハの言葉に、アルフレッドは「そうだなぁ」と考える。
「私の口から説明してしまうのは勿体ないので、ヨルハも自分で彼女と触れ合ってみるといい」
「意味が解らないよ」
「なに、きっとヨルハも虜になるぞ、というだけの話だ」
核心にはまったく触れずにそんなことを言われたところで、ヨルハは胡散臭そうに「ふーん」と言うだけだ。
「ボクはそうは思えないけどな」
アルフレッドに、というより自分自身に確認するみたいに呟くヨルハを、アルフレッドは微笑ましく見守る。
ヨルハという人物は他者と接するときに、必要以上に近付き過ぎないように一線を引くところがある。それは彼なりの自己防衛で、同時に処世術でもあるのだろう。ヨルハがそうしたがる理由はアルフレッドにも想像がつくのだが、それ故に思う。
感情が昂ると年相応の素顔が出てきてしまうように、いかに己を律しようが、彼はまだ十二歳の子供でしかないのだ。
年齢相応の愛情に飢えている一面があることは、ともに過ごす仲間達であれば皆が知っている。ある意味、どこか歪な精神を有しているニコールよりも、彼のほうが余程子供らしい感性だ。無論、悪い意味でなく。
そこに、そのニコールの歪みすら一撃で粉砕してぶち抜いたナオである。
少なくとも、アルフレッドは一年以上ニコールとともに活動していて、彼女が他者以外のために涙するところなど初めて見た。
思うに、ナオのド素直な性質が、その子供好きで可愛いもの好きらしい感性の、溢れ出んばかりの愛情をドストレートに届けたのだろう。
そして、愛に飢える子供であるヨルハがナオに触れたらどうなってしまうのか。いやむしろ、そんなヨルハという子供を知ったナオがどうしようとするのか、といったほうが表現としては正しいか。
「いい加減お腹すいたんだけど?」
「ん、ああ。行こうか」
「もちろんアルの奢りだね?」
「今日ばかりは、仕方ないな」
前を行く小さな背中を苦笑気味に眺めつつ、アルフレッドは予想した。
「…………まあ、イチコロだろうな」
◇◇◇
『アーバン・ベルガミア』が誇る巨大露天風呂、その男湯側の一角にて。
肩を並べて湯船に身を沈めたアルフレッドとアグナムは、示し合わせたように長く息を吐き出した。
「くぁ~……たまらんな」
アルフレッドが濡れた髪を掻き上げながら呟くと、アグナムも同じく「ああ」と呟いた。
「この一時のために生きていると言っても過言ではない」
「お前が言うとまったく冗談に聞こえないな」
普段の岩のような無表情が嘘のように気の抜けた顔を晒すアグナムに、慣れたものとはいえアルフレッドも苦笑を禁じえない。ちなみに、恐らく冗談ではないのだろうと理解もしている。このアグナムという男の温泉好きはちょっとしたものだ。彼がこのホテルを常宿としている理由の九割は温泉にあるだろう。アグナムの日常生活のルーチンは、迷宮と温泉の往復であるとすら言える。
本当に奇妙な男だと思う。
少なくとも百年以上の時を生きる古い竜人で、それに見合った実力を有するSランクの探索者で、そして実は無類の温泉好き。知り合ってすぐの頃はなんとも面白みのない男だと思ったものだが、親交を深めて知れば知るほど変な奴だった。
アグナム個人はこの『アーバン・ベルガミア』と契約を交わしている探索者なのだが、その契約内容は一般の専属契約とは趣を異にしており、実態は出資者と表現したほうが正しい。アグナムが迷宮採掘で稼いだ報酬の内、一定割合をこのホテルの経営のための出資金としているのだ。そしてその対価としてアグナムはホテル側から色々と便宜を図ってもらっている、と。
たかが一個人の稼ぎだと侮ることは出来ない。
何故ならばアグナムはSランクの探索者であり、つまりは世界中の探索者人口から言えばほんの1%にも満たない割合の実力者なのだ。Sランクの魔物が現れれば、当然Sランクの討伐依頼が発生する。迷宮攻略が世界的な要請である以上、強力な魔物が出てきたので諦めましょうとはならない。例え、どれほど莫大な報酬を掛けようとも、何人の探索者を投入して犠牲にしようとも、討伐せざるを得ないのだ。
故に、Sランクの討伐依頼の報酬は基本的に法外な額となる。一般の探索者が徒党を組んで、数十人がかりのローテーションで数日掛けて討伐するような強大な魔物を、一回の探索で単身殲滅してしまうのがアグナムという男だ。一口にSランクと言っても探索者も魔物もピンキリであり、一個下のAランクの探索者でも条件次第で危なげなく討伐できる魔物の場合もあれば、Sランクの探索者でも数人がかりでいかないと厳しい場合も居る。
勿論、周囲のAランク以下の探索者にしてもできることならばSランクの魔物となど戦いたくないので、都合よくSランクの探索者が出てきて片付けてくれるなら報酬を掻っ攫っていってもむしろ歓迎される。何故って、そのSランクの魔物を退かさなくては自分達も迷宮採掘が続けられないからだ。
逆に言えば、Sランクの魔物の出現が確認されれば、あるいはSランク相当の困難な事態が発生すれば、近隣で活動しているSランクの探索者には協力要請が来る。要請と言っても実態はほとんど強制の徴兵に近いのだが。
そんなわけでアグナムは普段はアルフレッド達と組んで活動しつつ、協力要請があれば帝国中の迷宮に飛んで行って、単身で魔物を叩き潰して帰ってくるのだ。そうして得た莫大な報酬の殆どは、この温泉の維持費として消えるわけだが。
「竜人のお前なら、溶岩に浸かっても平気なんじゃないのか?」
「平気じゃないが、火傷もしないだろうな」
「そしたら、この温泉なんて微温湯もいいところなのでは?」
「……この湯より遥かに高温でも耐えられるが、耐えられるというだけで、微塵も心地良くはないぞ」
結局、熱々の温泉を気持ち良いと感じるのはヒトも竜も同じということか。
露天からの夜空を見上げ、隣のアグナムと適当に会話しながら、ぼんやりと思考をふやけさせる。
そもそも、強大な竜人であるこの男が何故、ヒトに交じって探索者などやっているのかも定かではない。ヒトならざる彼は、その価値観も根底からしてヒトのそれとは異なる。ヒトが重きを置くことを無意識に踏み躙ったり、逆にヒトにとっては取るに足らないことに異常な執着を見せたりもする。
金銭に対する価値観などがその最たるものだろう。
彼がこのホテルに出資する金額と、ホテル側が彼に与える対価は明らかに釣り合っていない。アグナムの行為はほぼほぼ無償奉仕の慈善活動で、言い方は悪いがホテル側からの一方的な搾取に近い。オーナーであるエリィはそのことに対して死ぬほど心苦しく思っている節があるが、アグナムはその機微を理解すらしないのだ。
彼にとってこの温泉は間違いなく価値があるが、金銭には然程価値を見出していない。
ならば、この温泉を守るために惜しみなく金銭を投じるのは彼にとって自明のことであり、アグナム目線では対等な取引なのである。
言うまでもないが、『この温泉』というのは源泉そのものを指すのではなく、エルメンヒルデが、ひいてはクラナッハ家がオーナーとして経営するホテル『アーバン・ベルガミア』が提供する温泉のことを示している。
言い換えれば、アグナムの行為は『俺のために温泉宿を恙無く経営し続けろ』という独善的な脅迫なのである。尤も、脅しに使われるのは凶器ではなく金銭だ。万が一アグナムの要求をエリィが拒めばその時は、彼は更なる脅迫として莫大な金銭を上乗せしてくることだろう。
言うなれば『言うこと聞かないならもっとお金払っちゃうぞ』っていう。
もしこれ以上アグナムの出資額が増えたりしたら、ただでさえ病弱なエリィが間違いなく自責の念で死んでしまう。
「なあアグニ」
「あー?」
温泉以外では絶対にありえない間延びした返事がくる。
アルフレッド自身も似たような状態だし、端から見たら大の男が二人して温泉でふやけている情けない光景となっていることだろう。
「ナオ嬢のことだが」
彼女は面白いな、とアルフレッドが言うと、アグナムは「そうか」とだけ返す。
なんとなく、この男は何か知っているんだろうなと思いつつも、今日の午前中のナオとの邂逅について端的に説明する。ルールすらも知らないと本人が言うチェスで、アルフレッド相手を完膚なきまでに打ち負かしたという現象について告げると、アグナムは無言で少し考えたようだった。
「彼女は、普通じゃないな」
「……そうか」
「お前は、カラクリを知っているのか?」
ナオという少女が普通でない力を持っていて、それ故に保護することを決めたのかという言外の問いかけに、アグナムは「いや」と答える。
「知らん…………が、予想はある」
「そうかい」
ならばその予想とやらを確かめるために、掛け金を上乗せすることにしよう。
先程の説明で意図的に伏せていた部分を改めて開示する。
「面白いことはもう一つある」
「ああ?」
「お前も知っての通り、私は語学にはそれほど堪能ではない。母国語と帝国語以外はからっきしだ」
さらに言えば、ナオとヨルハの故郷である大峰連邦の公用語である大峰言葉はこの世界中で見ても一二を争う程度には難解で特異な言語体系だ。まともに学ぼうと思ったこともないが、アルフレッドが大峰言葉に関して持っている知識と言えば、ごくごく標準的な一部の単語の発音と意味くらいである。
「その私が、ナオ嬢とどうやって意思疎通できていたと思う?」
少なくとも、アルフレッドは何も特別なことはしていない。
特別だったのは最初から最後まで、すべてナオのほうだった。
「私が『わかるように喋ってくれ』と告げたら、」
あくまでも、ゆっくり発音してくれれば単語で聞き取ってニュアンスくらいは把握できるだろうと思ってのことだったのだが。
「彼女は、途端に流暢な帝国語を話し始めたよ」
「なに……?」
流石のアグナムも訝しげな声を漏らした。
「お前が持たせた『感応』のアミュレットの弊害だろうが、彼女は自分自身が喋っている言語を自覚できていないようだったね」
なにせ、大峰言葉が得意でないアルフレッドが聞き取れるように気を遣って、かなりゆっくり喋ってくれていたのだ。ナオ自身はあくまで大峰言葉で喋っているつもりだったのだろう。その実態は端から聞いても完成度の高い帝国語だったわけだが。当然ながら大峰言葉と帝国語では互いに特有の発音などもあるので、ナオが喋るのは文字通り『大峰人が無理に喋る帝国語』であった。
だからこそ、異様であった。
本当に発音以外は文法も語彙も完ぺきだったのだ。その習熟度と発音の稚拙さに明らかに齟齬がある。
「まるで、あの場でいきなり帝国語を喋れるようになったかの如く、ね」
チェスの件と合わせて考えれば、おそらくアルフレッドの四番目の仮説が正しい。
ナオは間違いなくチェスの知識も帝国語の知識も持っていなかったが、あの場で、本人が自覚することなく、唐突にそれらの技能を身に着けたのだ。もしかすると、自覚が無いからこそできたことなのかもしれない。
アグナムの反応から、自分の仮説がそれほど的外れでもないらしいと当たりを付けたアルフレッドは、あっさりと話題を変えることにする。別に答え合わせをしてもらう必要はない。それは自分で探究すればいいのだから。
「そういえば、先程外でナオ嬢達と会った時のことだが」
その時の光景を思い出して、アルフレッドの頬が緩む。
ナオに掛かればヨルハなどイチコロだろうなと予想していたアルフレッドであるが、まさかその予想から半日もせずに現実のものとなっているとは思わなかった。そういう意味では、予想外の展開ではあった。
それだけヨルハの心に寂しさがあったということだし、ナオに抱き締められて真っ赤になりながらも嬉しそうに緩む顔を思い出せば、まるで幸せをおすそ分けしてもらったかのようなこそばゆい気分になってくる。
ただ――――
「思うのだが、ヨルハはやはり女性なのではなかろうか」
重々しくそう告げると、アグナムはあからさまに『その話、俺が聞かなきゃダメか?』というめんどくさそうな顔になった。
「ニコールの話はお前も聞いていただろう」
「ああ…………皆で風呂に入ったとかいうやつか」
それだ、と頷く。
にこにこと嬉しそうに話すニコールの姿は良い目の保養になったが、問題はその内容である。どういう経緯でそうなったのか定かでないが、どうやらあの場に居た三人――ナオとニコール、ヨルハとついでにミコト、それからエリィを含めた四人と一匹で裸の付き合いをしたとかなんとか。
おそらくその過程で文字通りゼロ距離の触れ合いの結果、ヨルハがナオにころりと落とされたのだろうが。
「おかしいとは思わなかったか?」
「ナオの奇行は今更だぞ」
「あれはあれで魅力的だと思うが――ではなくて、」
アルフレッドが引っかかったのは、彼女らがヨルハと一緒に露天風呂に入ったということだ。
この『アーバン・ベルガミア』には多種多様な浴場が存在しており、一口に露天風呂と言っても色々とある。混浴の風呂も存在しているのだが、アルフレッドの記憶が確かであれば、混浴の露天風呂はどれもが夜間のみの営業だったはずだ。
つまり、あの時間にナオ達が入れる混浴の露天風呂などなかったはずなのだ。
経営者であるエリィが一緒なのだからある程度は融通が利いたのだとも考えられるが、そもそも件の露天が夜間のみの営業なのは、それまでの時間に清掃を行っているからだ。浴場の数が多いため、時間をずらして順番に片付けていかないと回らないからタイムスケジュールが決まっているのだとイルマから聞いたことがあるので、確かな情報だ。
「ヨルハを女湯に引きずり込んだだけじゃないのか。エリィならそのくらいやりかねんぞ」
「エルメンヒルデも経営者である以上、それはないだろう」
この施設では幼い男児または女児は異性の浴場に入っても良いことになっている。だが、それは児童が五歳以下で、保護者同伴の場合に限るのだ。いかにヨルハが女顔で、実年齢よりも幼く見える容姿をしていようが、自称では十二歳の男児のはずなのだ。
性に対する意識というのは温泉宿を経営するうえで非常にセンシティブな問題なので、エリィがそれを軽視した横紙破りをするとは思えない。
「つまり、彼女達が入浴したのは普通に女湯の露天で、そこにヨルハが居たのはあの子もまた女性だからではなかろうか」
アルフレッドの結論に、アグナムは夜空を見上げて「なるほど」と呟いた。
まあ、実際のところは混浴の露天の掃除がたまたま早く終わったとかで、そこをエリィの権限で使わせただけ、とかそういうオチなのだろうが。
要するに、ふやけた脳みそで碌に検討もせずに垂れ流しているだけの与太話である。
「そんなに気になるものか」
ぼんやりと、アグナムが言う。
なにが、と言うとヨルハの性別のことだろう。
「これでも育ちが良いのでね。相手が女性であるならば、それ相応の扱いをしなければならないと仕込まれているんだ」
「なら、本人に訊いてみればよかろう」
「それは主義に反する」
それで男性だったならば笑い話で済むが、もし女性だった場合、正真正銘の女性に『貴方は女性ですか』と問うなど失礼極まりないではないか。そうでなくともヨルハは自身を男だと言っているのだから、女性が敢えてそう言うならばそれは訊いてくれるなという暗黙の拒否である。
アルフレッドはそういう面倒くさいマナーとか空気を読まなくてはならない社会で生まれ育ったので、これはもう錬金術師の探究心と同じく魂に刻み込まれた性分みたいなものだ。
「それこそ、混浴の風呂にでも誘え。はっきりする」
「お前、それで本当に女性だったらどうするつもりだ」
「……どうにかせねばならんのか?」
アグナムの理解を得られるとは最初から思っていないが、アルフレッドの常識から言えば異性の裸体など目にしたならば、それはもう男として責任を取るのが当然のことである。故に、故郷では家族か、家族になるつもりの相手以外の異性と混浴することなどまずありえない。無論、文化の違いは理解しているので、もしかしたら温泉大国である大峰連邦の出身であるヨルハやナオにとっては、そこまで構えるような問題ではないのかもしれないが。
ちなみにセフィロト聖教国の出身であるニコールにとってはまた少し話が違って、あの国の文化では性別を問わず赤の他人に肌を晒すことは恥ずべき事とされているが、逆に恥を隠す間柄でない相手にはフルオープンな気風がある。要は、仲良くなったなら裸の付き合いとかむしろ当然じゃん、的な。それは言うまでもなく、セフィロト聖教の教義がそういうものであるからだ。
「なんなら、全員で風呂にでも入るか」
「は?」
「お前が気が引けるのであれば、俺が声を掛けてくるが」
平然とそんなことを言い出したアグナムは、きっと自身は温泉に入れればなんでもいいのだろう。
皆で入れば余計に楽しいはずだ、とらしからぬくらいに無邪気な思考回路で喋っているに違いない。
「その全員の中に、私やエルメンヒルデやナオ嬢も含んでいるとは言わないよな?」
「?……敢えて省く理由もあるまい」
案の定だよ、と頭を抱えたアルフレッドは、この温泉馬鹿が悲劇を起こす前に釘を刺しておくことにする。
このノリで罷り間違ってナオやエリィを風呂にでも誘おうものなら、どう考えてもとんでもないことになる。無論、最も避けるべき事態は乙女であるナオを誘うこと――ではなく肉食系未亡人であるエリィに間違ってもそんな誘いをさせないことである。
ほぼ間違いなくイルマに弟か妹ができる事態に発展してしまう。そうなったところでイルマとエリィはむしろバッチコイなのだろうが、イルマの姉は間違いなくブチ切れるだろう。
「アグニ。お前がヒトの営みに疎いのは無理からぬことだが」
「ム……?」
アルフレッドの語り口の変化を察したアグナムが低く唸る。
「お前自身の意志でヒトの中で暮らすことを選んだのであれば、少なくとも理解する努力はするべきだ」
「ああ。そうだな」
「そして理解できずとも、尊重はしてくれ」
なにも温泉云々に限った話ではない。これまではアグナムはあくまでもソロで活動していて、アルフレッド達が勝手に付き纏っているというスタンスであり、今となってもそれは変わらない。だからアルフレッド達がアグナムの在り方に口を挟む権利はない。お互いに勝手にやっているだけなのだから。
だが、そのスタンスが通用しない相手が一人、できてしまった。
ならば、アグナムは彼自身の行動を改める必要があるだろう。
アルフレッドが諭すように告げると、アグナムは思案気に呟く。
「…………俺は、なにかやらかしたか?」
「いや、まだ未遂で済んでいると思うよ」
だからこそアルフレッドは今言うのだ。
「これはただのお節介で、言うなれば、つまり友としての忠告だよ」
アグナムは少しだけ意外そうに、天を仰いでいた視線を横目にしてアルフレッドを見た。
「お前は自覚するべきだ。お前が拾ってきたのは犬猫ではなく、泣きもすれば傷付き落ち込みもする一人の少女なのだと」
寝床を提供して、食事を与えておけば万事恙無く、というわけにはいかないのだ。
間違いなく、アグナムが自分自身の意志でナオの身元を引き受けることを選択した以上、彼には義務と責任があるはずだ。ナオという少女が結局どこから来た何者なのかは知らないが、この場においてミコト以外の寄る辺を持たない孤独な少女であるのは事実だ。
アグナムは、そんな彼女の寄る辺となることを選んだのだ。
彼自身にそこまでの自覚が無かったとしても、現在、疑いようもなくナオの精神を支える役割の一角を担っている以上、彼はそうであるように努力をするべきだ。
アルフレッドの忠告に思うところがあったのか、アグナムは暫く黙った後、一言だけ。
「考えてみよう」
そう答えたのだった。
◇◇◇
「ナオ、そろそろ寝なさい」
椅子に座ってうつらうつらと舟を漕いでいたナオに声を掛ける。
図書室で借りてきた本を読みながら帝国語の勉強をしていたようだが、そろそろ眠気が限界まで来ているらしい。ミコトの呼び掛けにハッと目を開いたナオは、そのまま大きく伸びをして、ついでに欠伸を一つ。
「ふぁぁ…………これ読み終わるくらいまでは、いけると思ったんだけどな」
「別に急ぐことはないわ。そんな状態では効率悪いだけよ」
「そだね……今日は、ちょっと色々あったし、疲れてるのかも」
間延びした声で喋りつつ、ナオはよたよたとベッドに向かい、ぼすりと俯せに倒れ込んだ。
「まあ、あんだけ燥げば疲れもするわよ」
「ん~……」
今日の出来事と言えばアグナムの仕事仲間であるアルフレッドとヨルハと知り合ったことだろう。アルフレッドとの邂逅は結局ナオにとってはよくわからない出来事で終わっているようだが、その後のヨルハとの出会いでのナオのテンションの上がりっぷりと言ったら、ちょっとばかし引いてしまうレベルであった。
可愛い子供が大好きなのはよくわかったが、この子は一体何人まで妹と弟を増やすつもりなのだろうか。
たった一週間で三人も誑し込んで、先が思い遣られるというか、末恐ろしいというか。
ごろん、と仰向けになったナオも同じくヨルハのことを考えていたのか、そのただでさえ暢気な顔が、締まりなく緩みまくっていた。ベッドサイドに置かれた本体の上に着地したミコトは、半眼でその様を見遣る。
「にへへ……ヨルハくん、超かわいかったよねぇ」
「そうね。今のアナタは超きもいけど」
ミコトの嫌味など聞いちゃいない。平常運転ではあるが。
露天の掃除をした後そのまま入浴して、それまでの衣服をスタッフに預けてしまったため、ナオは珍しく貸し出しの浴衣姿だった。
本人曰く『最後に着たのは中学の修学旅行かな』らしいので、浴衣という衣服そのものに慣れていないのだろう。その格好でベッドの上をごろごろするものだから。
「ちょっとナオ、色々見えてるわよ」
「あらま。でもどうせ寝相でこうなると思うなぁ」
「それでも!女の子なんだから気を付けないと」
修学旅行の時も朝になったら殆ど着てなかったもん、と何故か開き直ったように宣言するナオ。
確かに、ナオの寝相は決して良いとは言えないので、その可能性は高い。寝相が悪いというか、例えばベッドから転げ落ちるとか、あるいは大股開いて寝るとか、そういうはしたないことにはならないのだけど、とにかくナオは寝返りの数が多いのだ。寝返りは睡眠の質を高める動作と言われるし、ショートスリーパーで尚且つ快眠できるナオにとってはくるくる寝返り打ちまくるのも必要な動作なのだろうけど。
とりあえず、浴衣との相性は悪そうである。
「そんなこと言って、アグナムが部屋に戻ってきたらどうすんのよ」
「ちゃんと、おふとんに包まって寝るからだいじょーぶ」
「暑いとか言ってシーツ蹴っ飛ばしたのはどこの誰だったかしら?」
寝ながら運動しているので血行が良いからか、ナオが朝までちゃんと布団を被っている確率は半々くらいだ。当然のことながら、高級ホテルである『アーバン・ベルガミア』の室内温度調節は完璧なので、平均よりも体温高めなナオにとっては少し暑いくらいなのだろう。
仰向けから横向きになって、枕を抱え込んで丸くなったナオは、ミコトに背を向けたままもごもごと呟く。
「それに、アグナムさんはたぶん戻ってこないだろうし」
枕に顔を押し付けたままの言葉は少し聞き取り辛い。
ミコトはナオの小さな背中を見つつ、鼻を鳴らす。
「せっかく部屋も移ったのにね」
ナオが使っているベッドの隣にはまったく同じものがもう一つ。ベッドメイクされたままの状態で、皴一つない表情で宿主の帰りを待っていた。ナオは使われないであろうベッドに背を向けたまま、枕をぎゅっと抱き締めて小さくなる。
その姿にミコトは不安を覚え、伺うように尋ねた。
「ねえナオ」
「…………なに?」
「アナタ、無理していない?」
その問いには無言が返ってきた。
ミコトのその不安は、こちらで過ごし始めてからずっと抱いていたものだ。ナオという少女が子供好きで、可愛いもの好きで、自分より他人を優先しがちな性質であるのは確かで、きっとニコールやヘレーネ、ヨルハに慕って貰えて引くほど喜んでいたのは本心からなのだろうけど。
ただ、それを無理に自分に強いているように見えてしまって。
誰かのために立つことで、無理やり自分を立たせ続けているような。
ミコトはそれを訊いてから後悔した。
だって、こんなに馬鹿な質問はない。
無理をしていないはずがないのだから。
ごく普通の高校生だった彼女が、言葉も常識も通じない世界に一人で放り出されたのだ。友人とも家族とも会えず、自分の脚で立ち続けなければ、倒れてしまえば立たせてくれる者は居ない。唯一のお助けキャラであるミコトはこの通り、頼りになるとは言い難い。
ミコトは自問する。
自分はナオに何をしてあげられるのだ。彼女の辛さを和らげるにはどうすればいい。自分は果たして存在意義を全うできていると言えるのだろうか。
自分の存在がまったく無意味とは思わない。だけど、
「無理は、してないよ」
「!」
ナオがぽつりと呟く。
「寂しくないとは言えない。お父さんとお母さんに会いたい。三崎くんに会いたい。……時津さんに、会いたい」
「ナオ……」
語るナオの肩が少しだけ震えるが、声は震えていなかった。
「本当は不安でいっぱいだよ。だからミコトや、イルマちゃんやニコールちゃん達が居なければ、笑うことすらできなかったかもしれない」
ぽつぽつ、と小雨のように呟かれるナオの心境に、ミコトは表情を暗くして俯く。
そこで不意に「だから、」とナオが声音を明るくした。
「だから、大丈夫だよ」
ころん、と寝返りを打ったナオがミコトを正面から見る。
不安を吐露し、肩を震わせた彼女の顔には、しかし穏やかな柔らかい微笑があった。
「私が笑えてるうちは大丈夫。無理なんかないよ」
ナオはそのままの体勢で片腕を伸ばし、ミコトの小さな頭を指先で撫でた。
「私、時津さんに教えてもらったんだ」
「オリジナルに……?」
「そう」
悪戯っぽく笑んで、ミコトの鼻先をちょんと突く。
「笑顔って最強。笑ってれば、大抵のことはどうにかなっちゃうって」
ミコトのオリジナルこと時津ミズホは、そりゃあ常にニヤニヤと笑ってるような少女だが。自信満々で不敵に笑うあの顔が、作られたポーズであることはミコトが一番よく知っている。何故ならミコトはミズホのパーソナリティを受け継いでいるし、そのはずのミコトは笑顔とは縁遠い性格なのだから。
実のところ、外面と内実の印象は、ミズホとナオで正反対だったりするのだ。
「ミコトも一緒に笑って居よう?ミコトが笑ってくれれば、私も元気になれるから」
ね?と優しく瞳を細めるナオに、ミコトは言葉が出ない。
まただ、と思った。
不安を吐露したその口で、ミコトを励ますための言葉を紡ぐ。結局他人のことを最優先してしまうのだ。違うでしょう、とミコトは言いたくなる。ミコトがお助けキャラなのだ。だから他人を優先してしまうナオのことを、ミコトだけは優先してあげなくてはならないのに。
これでは立場が逆だ。
「ナオっ――」
咄嗟に言い募ろうとしたミコトを遮るタイミングで、部屋のドアが音を立てた。
カチャリ、と開錠する音だった。
この部屋の鍵を持っている人物はホテルのスタッフを除けば一人しか居ないので、ノックもせずに入ってくるのが誰なのかは考えるまでもない。出入口へと続く廊下の先から現れたのは、案の定アグナムであった。
「あれ?アグナムさんだ」
枕を抱いて寝転がったまま、ナオが瞳を丸くした。
ミコトはとりあえず翅を振るわせて浮かび、ナオの浴衣の裾をこっそり直してあげた。
ナオ達とは入れ替わりのタイミングで温泉に浸かりに行っていたアグナムは、その後そのまま夕食をとって、そして部屋に戻ってきたらしい。てっきり、食事をしたらそのまま迷宮にでも向かうものだとばかり思っていたので、ミコトも予想外に思う。
ちなみにナオはニコールとヨルハと三人で夕食を取り、それからは部屋に戻って勉強を始めて今に至る。
アグナムはいつもの探索者装備は一纏めにして脇に抱えていて、身に纏っているのはシンプルな黒いシャツとジーンズだけだ。その軽装の姿も初めて見るので、ナオは余計にきょとんとしているのだ。
アグナムはミコト達の視線を受けたまま室内を歩き、私物のザックが置いてある横に、抱えていた装備を下ろした。
そしてベッドのほうまで歩いてくると、彼のために空けてあるほうのベッドに無造作に腰を下ろす。
スプリングを沈み込ませ、ちょうど隣り合わせに置かれたベッドの合間に脚を下ろした状態で。つまりはそちらを向いて寝転がっていたナオの真正面に座る形だ。
別のベッドとはいえかなりの至近距離にアグナムが現れて、ナオはやっと正気に戻ったように飛び上がり、いそいそと脚を畳んで座り込んだ。抱き締めていた枕は持ったままだ。家族以外の男性の寛いだ姿というのは男に免疫のないナオには些か刺激が強いようで、微かに赤くなった顔でナオが上目にアグナムを見る。
「あの……」
「アルフレッドに説教されてな」
いきなり口火を切った彼の言葉に、ナオがますます混乱気味に瞳を瞬く。
「お説教……?」
ああ、とアグナムは頷く。
「要約すれば、ナオの身元を引き受けた責任を果たせ、という内容だ」
「責任って、アグナムさんは充分に果たしてると思いますけど」
ナオの言葉にミコトも同意する。このホテルの立派な一室でのびのびと過ごせているのも、ニコールに足の傷の治療をしてもらえているのも、もっと言えば今こうして生きているのも、なにもかもアグナムのおかげだ。
これで不充分だなどと言ったら罰が当たるというものだ。
だが、アグナムは首を横に振る。
「金銭を負担し衣食住を与えれば良いというものではない、と言われ、俺もその通りだと思う」
「いえっそんな!今でもすごい良くしてもらってるし、私なんにも返せてないし、これ以上してもらったらむしろ申し訳なさ過ぎてですね!」
大事に抱えていた枕をぽーんと放り出して、ナオがわたわたと両手を振る。
アルフレッドが彼に何を言い、アグナムが何を思ってここに居るのかはわからないが、なんとなく邪魔をすべきでないと理解して、ミコトは口を噤んでおく。
「ナオ、俺はヒトではない」
「えと……はい」
彼は竜人、いかに外見が同じに見えようと只人とは明確に異なる生命体だし、こうして見えている姿も擬態したものでしかない。
「ヒトとは考え方が異なるし、価値観も異なる。ヒトが大切に思うことを、知らず踏み躙ってしまうこともあった」
「…………はい」
「故に俺はキミの不安や不満を理解できないし、察してやることすら叶わないだろう」
淡々と告げるアグナムの言葉に、しかしナオの瞳が一瞬だけ動揺に震えた。
ナオの不安――寂しさや、心細さ。
彼が部屋に戻ってくる前に、まさにミコトと語っていた内容であった。だけど、それを理解できて察することも出来るミコトでも、どうしてあげることも出来なかったのだ。
理解すら叶わないと告げるアグナムは、それでどうするつもりなのだろうか。だから、不安や不満があれば遠慮なく言って欲しいということだろうか。
ミコトは俯く。
きっとそれではダメなのだ。
彼女は不安も不満も無自覚で隠してしまう。
だってナオは自分が傷つくことよりも、他人の負担になることを厭う少女だ。ただでさえ、周囲の人達になにもかも頼らなければ生きていけない現状を、ナオがどれほど気に病んでいることか。
不安も不満も全部自分の胸の内に抱え込んで、きっと彼女は笑って見せる。
何でもないことのように朗らかに。
そう。笑顔が作れなくなるその日まで。
動揺するナオ達に構わず、アグナムは言葉を続けた。
「というわけで、俺は俺なりに出来ることからやってみようと思う」
え、とナオとミコトは全く同じ顔で瞳をぱちくり。
「差し当っては――」
ぼん、とアグナムは自分が腰掛けたベッドを軽く叩いた。
そして、まっすぐにナオを見詰めながら、クソ真面目な顔で言った。
「夜はちゃんとこのベッドで眠ることにする」
「「…………はい?」」
なに言ってんの、と素で突っ込みそうになった。
一瞬で暗鬱な気分が吹っ飛んでしまった。
一緒になって呆然とするナオ達を前に、アグナムは淡々とした調子を崩さない。
「俺がベッドで睡眠をとらないことが、ナオの憂いの一つだったのだろう?」
「あ…………」
「俺がベッドで眠れば、ナオの心配が一つ減る」
真面目な顔のまま言い切ったアグナムの独特過ぎる決意表明に、ナオは呆然としたまま固まってしまった。その大きな瞳だけがしぱしぱと瞬き続けている。
そして、たっぷり十秒くらい経ってアグナムがようやく怪訝そうに眉を顰めた瞬間、
「ふっ」
くしゃり、とナオの顔が笑み崩れた。
「あははははっ、あはっ、ははははははは!」
「急にどうした」
「ど、どうしたも、こうし、あはははははっ」
目じりに涙すら浮かべて爆笑するナオに、今度はアグナムが困惑していく。
その『げせぬ』とでも言いたげな表情がまたまたツボにはまったのか、ナオはお腹を抱えて笑い続ける。
「何故笑うのか」
「ご、ごめっ、だって、あんなまじめな顔で、そんな」
笑い過ぎて碌に喋れても居ないナオから、ミコトへと緋色の視線が移る。
「ミコト、俺はなにか間違ったか?」
あくまでも真剣にそう問い掛けてくるアグナムに、ミコトは苦笑を返す。
「いいえ。アナタはこの上なく正しいわ」
「そう、なのか?」
しっくりきていない様子のアグナムに、ミコトは「だって――」と笑い転げる少女を見遣って続けた。
「こんなにもナオが笑ってるんだもの」
「俺が滑稽だったということか」
「ナオを安心させてくれたってことよ」
ミコトの言葉を受けたアグナムは難しい顔をして考え込み、ややあって納得したのか、それとも理解することを諦めたのか、よくわからないが良しとすることにしたらしい。
ひーひーとちょっと呼吸困難に陥っているナオは、いつの間にか座ってることすらできなくなったようで、ベッドの上に蹲って肩を震わせていた。たぶん、ミコトとの会話でナイーブな気持ちになって、でもミコトを元気づけようとして自身の不安に頑張って蓋をして、からのアグナムのあの宣言で緊張の糸が切れ飛んでしまったのだろう。
「ほらナオ、いつまでそんな格好してんのよ」
「うわっぎゃあああ!?」
ミコトに言われて自分の有様に気付いたナオが、あまりにも色気のない悲鳴を上げてシーツに包まった。真っ白な団子と化したナオの上に着地し、ミコトは深々と溜息を吐いた。
ちなみにナオがどんな醜態を晒していたのかは彼女の名誉のために伏せておくことにする。
「だから気を付けなさいって言ったでしょうに」
「ぅぅぅ、だってぇ……」
まあ今のは流石に仕方がないかなと思わないでもないが。
アグナムが『俺は何か言ったほうがいいのだろうか』という顔をしているので、ミコトは視線で『何も言わないであげて』と返しておいた。
「どうするナオ?いっそ着替える?」
ぽんぽん、と背中(らしき部分)を軽く叩きながら訊くと、ナオからはくぐもった声で「このまま寝てやるぅ」と返ってきた。
もともとそのつもりだったし、それはそれでいいかと納得し、ミコトはじっとアグナムのほうを見詰めた。その視線を浴びたアグナムは口角を上げて「流石の俺でもそれはわかる」と呟いた。
それから、真っ白な団子に向かって、
「ナオ」
ぷるぷるしていた団子がびくりと固まる。
「おやすみ」
低く、穏やかな声音だった。
シーツに包まったナオはもごもごと動き、少し梃子摺って頭だけをぴょこんと覗かせた。
羞恥で真っ赤に染まった顔に、うっすらと涙すら浮かべて、
「うん……おやすみ」
とても嬉しそうに、無防備に笑った。
◇◇◇
稀人志篇 第四話裏 [Re:Friends] 了
◇◇◇
ところで、竜というのは本来性別を持たない種族であり、それは竜人も同様だ。しかし竜人のアグナムが歴とした男性であるように、ヒトに擬態している状態であればその肉体通りの性別と感性と機能を有するものであり、それは竜も同様だ。
さらに言えば、擬態した状態でならヒトと交合することだって可能で、子を為すことだってできる。
なにが言いたいのかというと、ナオが寝静まった後にアグナムが彼女に変なことをしないかと、ミコトは少しだけ心配だった。
「では俺達も寝るか」
「そうね」
淡々と床に就くアグナムに相槌を打ち、ミコトも本体の寝床に戻る。
アグナムが贅沢にも魔素を使って遠隔で照明を落とし、暗くなった部屋の中、ミコトは本体の中からこっそりと様子を伺った。
ちなみにナオは既に熟睡中である。なんだかんだあって疲れていたのは事実なので、シーツに包まって横になっていたらあっという間に寝息を立て始めた。
そしてアグナムはというと。
「え、もう寝てる!」
音で表現するならば、『バタン、すー』である。
ベッドに横になって明かりを落とした瞬間には既に寝ていたと言っても過言ではない。
どうやら、竜人にとって睡眠とは嗜好品であるが故に、好きなタイミングでスイッチを切り替えるように眠れるようだ。
「…………この人、もしかして立ったままでも眠れるんじゃないの?」
思わずぼやき、なんかどうでもよくなってしまったミコトも寝ることにした。




