自分のことが嫌いだ
ある日、彼は自分の顔が嫌いだとつぶやいた。
俺は整ってると思うけどな、といいかけてやめた。
またある日、彼は自分の声が嫌いだから死にたいといった。
俺はお前のその透き通っているような声いいと思うけどな、といいかけてやめた。
彼は来る日も来る日も自分のことが嫌いだという。
俺は、なんでそんなこと言うのだろうと心底不思議で仕方がない。
いつもどこか遠い目をしていて、まるで世界に自分ひとりだけが仲間外れにされているかのような顔をしている。そんな彼にもたまにとても楽しそうな顔をするものがある。
音楽だ。適当に弾いているだけだよ、と誤魔化すがとても楽しそうな顔でワクワクしながら楽譜をかいていることを知っている。
俺の隣にいるときもそんな顔しないのにな、と少し悲しくなる。
そのまたある日、彼はぽつりとつぶやいた。
自分のほとんどの部分は嫌いだけど、自分の弾く音楽は好きなのだ、と。
それはもしかしたら彼から聞く初めての自分の肯定の言葉だったかもしれない。
俺はうれしくて仕方がなかった。
次の日、彼はそっと俺にイヤホンを差し出した。
何も聞かずに耳にさすと、明るく聞こえるような切なく聞こえるようなメロディーに乗せて彼が歌っていた。
どうかな、と目を伏せたまま聞いてくる。
俺はお世辞抜きに感動した。すごくいい音楽だった。インターネット上に投稿すれば流行するのではないか、とも思ったが言わなかった。
俺はうれしかった。彼が自分で音楽を作って、楽器を弾いて、歌って、それを残そうとしたことが、自分のなにかを残そうとしてくれたことがうれしくて仕方がなかった。
きれいな音楽だね、とだけ言ってイヤホンを彼に返した。
他にもたくさん曲を作っていたらしかった彼は自分の作った曲でオーディションに応募したんだ、といった。
ある日、テレビに出ているキラキラしたアイドルの曲を聞いてこの曲僕が作ったんだ、ともいった。
いつのまに、と思った。オーディションの合否も知らなかったから驚いた。正直落ちたのだと思っていた。もっと早く伝えてほしかった。
すごいな、とだけいった。
ある日、彼は引っ越しをするといった。音楽を作るのに機材をもっと搬入したい、それから防音環境を整えたいかららしい。
実はもう引っ越し先は決めてあるんだ、といった。
どうして勝手に決めてしまったのだろう。二人でもっと広い部屋に引っ越して、防音部屋を作って、そこに機材も搬入すればいいじゃないか。
引っ越しの日、俺は彼に気をつけろよ、といった。
彼は作曲の才能はあったらしい。信じられないくらい彼の作った曲は売れた。曲のおかげで売れたアイドルが何組も現れた。
その影響か、プロデューサーのようなこともはじめた。
彼のプロデュースしたアイドルは思うように人気が上がらなかった。周りの期待値だけが異様に上がっていた。
俺も何度か目にしたが魅力的だと思わなかった。
そしてある日、テレビで彼の名前が全く出ていないことに気が付いた。彼は今何をしているのだろう。
とてつもなく彼に会いたくなった。会いたくて会いたくて我慢できなかった。連絡手段はなかった。
俺は彼のことをなにも知らないのだ。
何を考えていたのだろう。何を見ていたのだろう。
連絡先だって教えてほしかった。彼が作った曲は俺が全部最初に知りたかった。オーディションに合格したことも、仕事をしていたことも。
引っ越すといったときの彼の気持ちも。
でも俺は何も口に出せなかった。彼にとっての音楽が、俺にとっての彼だったのだから、彼のように俺も何かを残そうとしなければいけなかった。
お前は綺麗だ、曲を聞かせてくれてうれしい、もっと早く言え、なんで勝手に決めるんだ、行かないでくれ、全部全部言えなかった。
彼の理解者である自分を手放すことが怖かった。
俺はもしかしたら彼の隣にいて、自分のことを卑下する彼を肯定している、そんな自分のことが好きだったのかもしれない。そんな自分を投影できる彼でなかったら俺は彼のことをどう思ったのだろう。理解者に囲まれて、名声を浴びていた彼のことは忘れるくらいどうでもよかったのだから、答えはでている。
自分だけが、自分しか、そのひとりよがりは自己顕示欲を増大させた。特別な優越感に浸ることができた。彼ではなく、その優越感に浸らせてくれる彼のことを求めていたのかもしれない。
そう気づいた。絶望した。
彼を探しに行こうとして、やめた。
なにをしてもいまさらだと思ったからだ。
ある日、ニュースで彼の訃報が流れた。
驚いた。
とても残念だと思った。
そしてそれ以上に安心した。
これで、連絡先も、彼のことを何も知らなくても、会いに行けると思った自分に驚いた。そして自分がこんなに残念な人間だったことを思い知った。また彼の隣にいられるんだ、と安心した自分にひどく失望した。
わくわくしながら台所へ行った。彼が音楽を作っているときもこんな気持ちだったのだろうか。
包丁を首に当てながら彼が俺に聞かせてくれた音楽を思い出す。あの瞬間の、あの曲だけは、きっと俺だけのものだった。