5.かわるせかい
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逃げてきた。私は逃げてきた。
黒髪黒目が珍しいからと、私は何処か遠い場所に住む顔も知らないような人に売られることになっていた。
生まれ育った場所では私は忌み子であると周囲からいじめられた。父も私をよくぶったし、母は私がぶたれることに無関心だった。食べ物は両親と同じ物だった時など記憶にない。空腹を紛らわせる為に、倒れている私の目の前を通り過ぎる虫や鼠などを口にしたこともある。
そうした日々を過ごしながら私は考える。自分以外の皆が笑って過ごす光景を見ながら。
―――私は何の為に生まれてきたの?
ひどい言葉を浴びせられる為? 叩かれる為? 指を指されて笑われる為?
わからない。
どれだけ考えてもわからなかった。両親が私を数ヶ月遊んで暮らせるだけのお金で売り払った時にも答えは出なかった。
ただ……私には両親なんていなかったのだと、私は人ではなく売り買いできる物だったのだと。それを冷たさと共に実感した。
無理矢理言うことを聞かせさせる首輪を嵌められ、狭くて暗くて汚い箱に押し込められた私は馬車で運ばれた。
馬車が何処へ向かっているのか、私にはわからない。私に出来たのは体を痛め付ける馬車の揺れから身を護る為に丸まることと、唯一外のことを知る手段である音を拾う為に耳を澄ませることだけ。
だから馬車を操る商人がドジを踏んだのはわかった。
近道をしようとしたらしい。それが失敗だった。……でもそれは私にとっては幸運だった。
風の噂で聞いていた。恐ろしい魔獣が棲み奇々怪々な植物が根を伸ばす『魔女の森』。目的地の近道になるからと商人はその森の傍を通った。
そこで魔獣に襲われた。
馬車は転がされ、馬は魔獣のご飯になった。
私を押し込めていた箱は転がった時に壊れ、外に出られるようになっていた。
魔獣の口から出る身が竦むような声。馬の嘶き。商人が私を呼び寄せようとする声。―――それら全てを振り切るように私は森の奥へと駆けていった。
何か考えがあったわけではない。ただ逃げただけ。もうここに居るのは嫌だと、それだけが胸の奥にこびり付いていた。だから後先も考えずに私は逃げ出した。どうしてかその時だけ首輪の効果は表れなかった。ただ何時までも魔獣の咆吼だけがこの冷たい世界を震わせていた。
―――そこから先はよく覚えていない。
ろくな物を食べてこなかった痩せっぽちの私がどうやって森の奥深くまで来れたのか、どうしてそこに辿り着くまで森の獣に襲われなかったのか、何一つわからない。道中目に付いた草花や木の実に茸など、どうしてか手にして口にするという考えすら浮かばなかった。
今にして思えば何時何処で死んでいてもおかしくなかった。
そして私は空腹や疲労が限界を迎えて倒れた。
ああ、このまま私は1人、冷たいまま死ぬ。
それで良いと思った。この何もかもが冷たい世界から解き放たれるのなら。このまま眠ってしまっても。
――――――
「おはよう。目覚めはいかが?」
目が覚めた時、目の前に居る人を見て背筋が震えた。怖かった。
この世にこんな、……こんな綺麗な人が居るなんて考えたこともなかった。
とんがり帽子から零れる黄金を紡いだような長い髪。輝く白磁のような肌。何処までも続く青空のような瞳。背はこれまで見た誰よりも高く、きっと平均的だった私の父の背よりも高い。そして不思議な何かを感じる黒を基調としたローブに収まる肉体はどんな女性よりも艶めいて見えた。
この人は『人』ではない。私はそれを頭ではなくもっと深い場所で感じた。
――――――
「私は『魔女』! この森の奥深くに住み着く魔女なのです!」
魔女。
曰く、その身に定命なし
曰く、禁忌のまじないを繰り返す異端
曰く、人の世の理を踏み躙る者
曰く、―――……魔女とは人ではなく、魔が形を成した化生である。
ヘルベリスと名乗った綺麗な女性は自身をそう呼んだ。
『悪さをすれば魔女がやって来て連れ去ってしまう』……言い付けを守らない我が子を叱るのによく使われる文言。魔女に攫われたが最後、その者が『人の姿』を保ったまま帰ってくることはない。
―――納得した。ヘルベリスさん……ヘルベリス様はやはり人ではなかったのだと。
……ヘルベリス様。貴女は私をこの冷たい世界から解き放ってくれますか? ―――終わらせてくれますか、私という存在を。
ヘルベリス様が噂に聞く魔女様ならば、それはとても容易いことだと思うのです。
――――――
「感情ある生き物は皆その時の気分で生きてるの!」
「笑いたければ笑いなさい!? 私のこの壊滅的な料理スキルを!?」
「料理作るのが上手いからってドヤ顔する奴全員死ねっ!!」
「びゃあ゛ぁ゛゛ぁうまひぃ゛ぃぃ゛!?」
…………。魔女とか関係無くヤバい人だった。
え? 何この人? こんな滅茶苦茶な人今まで見たことない。
突然奇声を上げたりオーバー過ぎる挙動をしたり、はっきり言って狂人の類い。平素なら絶対にお近づきにならないタイプ。好き好んで肥だめに飛び込む人なんていない。
こ、これが魔女……。そんな感じでおののいていた私。
―――だけど不思議と、それは冷たくなかった。
あれだけ身が震えそうなほど凍えていたのに、じわじわと熱が生まれてきた気がした。
その理由は―――
「貴女―――今日からうちの子だから」
「メイ。良い名前だね! 可愛いよ! それじゃあ改めまして……メイちゃん! 今日からよろしくね!」
「嬉しいよメイちゃん! ありがとう~!
「ご飯ありがとう! とっても嬉しかったわ!」
自分の名前なんて今の今まで忘れてた。
褒めてもらった覚えなんてない。
お礼なんて初めて言われた。
熱い。
熱い。熱くて熱くて熱くて……
「おかえりなさいメイちゃん。ここが貴女のお家で、私は貴女の家族よ」
「よしよし。可愛いメイちゃん。私と沢山笑い合いましょうねぇ。きっとこれからは楽しいことがいっぱいあるのだから」
―――私はこの日、この瞬間、今までとは違う意味で死んでも良いと思えた。
この人の、ヘルベリス様の為なら死んでも良いと心の底から思えた。
もう冷たさは感じない。
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