18.胸に7つの傷……は無い
燦々と降り注ぐ太陽。
庭に置いてある物干しに掛けられて揺れる私の服……と下着。
「……犬さん」
『ワン!』
犬の魔獣は洗濯を終えるまでずっと庭に居て私のことを見ていた。今も物干しの傍に立つ私の隣りに座っている。……何度見ても大きい。
「私がおもらししたのは内密で」
『アオォーン』
言葉、通じているんでしょうか? わかりません。
……新しい服に着替えた清々しさ。干してある洗濯物を見ると湧き上がる虚無感。ああ、これが大人になるということなんでしょうか。
「……さて」
私は洗濯物から犬さんへ向き直る。
『 ? 』
犬さんは相変わらず『ハッハッハッハ』と息をしながら私を見ている。
つぶらな黒い目。茶色と白色の短めの体毛。太い四肢。巻き尾。
……ふむ。
「……触っても良いですか?」
『ワン!』
恐る恐る手を伸ばす。急に噛まれたりしませんよね? 信じますよ?
家畜化されていない、出来ない魔獣は討伐・撃退・逃亡が基本とされる。それを相手に信じるとは変だと思いますが。
―――果たして。私は無事に犬さんに触れることが出来た。
「……わぁ」
『ワフ』
柔らかい。
犬さんの首元に触れた手は毛皮にマフッと沈み込む。短めの体毛というのはあくまで犬さんの大きさ基準の話しで、私みたいな小さな人間からすれば十分に長い。
野生であることを思えば身を守る毛皮は硬いのが道理なのにその手触りは柔らかく温かい。
「すごい」
撫でるだけじゃなく顔を押し付けるようにして抱き付く。
すごい……気持ち良い。干したての布団からするようなお日様の匂いが私を包む。
『ワウ』
「……どうしてあんなに恐がってたんでしょう」
こんなに大人しくて可愛いのに。
「あなたはこの森に住む魔獣なんですよね? どうして私を襲わないんですか? あなたのお仲間らしい魔獣は馬車や人を襲ってましたよ」
『 ? 』
くてっと首を傾げる犬さん。
可愛い。
うん。どうでもいいですね理由なんて。この子は大人しくて無害な魔獣だった。それで良いじゃないですか。
「……ふふ。お目々の上の白い部分が眉毛みたいです」
『ワウ?』
両手で頬を挟んで撫で上げる。ぶにゅっと持ち上がった毛皮と頬肉で面白い顔になる。ふふふ。目が線になってる。
『ベフッ』
くしゃみ。
「あ、ごめんね。くすぐったかった?」
『……ァオー……ハッフ』
目が線になったまま犬さんは大きな欠伸をする。眠たいのかな?
……天気も良いですしこの子の傍で寝たらとっても気持ち良さそう。
『ワオ』
そんなことを考えていると犬さんは地面にゴロリと寝転がる。白いお腹が晒される。
「犬さん、やっぱり眠たいんですか?」
『ハッハッハッハ』
なんだかほにゃ~っとした表情で尻尾をふらふら揺らしてる犬さん。取り敢えずお腹を撫で撫で。……こうして頭から足先までの長さを見たら本当に大きいです。
まるでベッドですね。
「……ヘルベリス様にもあんまり疲れるようなことは駄目と言われてますし、お昼寝は悪いことではないはずです。ね、犬さん」
『ワッフ』
犬さんも同意してくれました。これは寝るしかありません。
私は上体を犬さんの胴の上にもたれ掛からせるようにして身を預ける。
「……温かい」
人と獣の体温の違いかとても温かい。それがより眠気を誘う。
ああ……このまま……。
―――ガサリ
「……?」
草むらを掻き分ける音。
突然聞こえてきたその音の出所を探すために私は上体を上げて辺りを見回す。
音の原因は直ぐに見つかった。この庭先から少し離れた木々の間で。
「―――グルルルル……」
「 ! 熊っ?」
それは熊だった。
大きさだけで見れば犬さんと遜色が無いかそれ以上の巨躯を持った熊。それが太い四肢で草木を掻き分けながらこの場所に向かって進んできていた。
た、大変です。あの熊は明らかにこっちを目指して進んできている。
獰猛で巨体を誇る熊は鍛えていない人間など容易く屠れる力を有している。
「犬さん! 逃げてください! 熊が来ています!」
『……ワホ?』
あー! 言葉が通じない!? 暢気に首を傾げてる!?
い、いや。諦めては駄目です私。まだ慌てるような時間じゃない。
熊との距離……私の脚でも走れば追い付かれる前に家に逃げ込めるかも、といったぐらい。最悪なりふり構わず家まで逃げればいい。
だけど。
「犬さんあっち!? あっちから危ない動物が来てます!?」
犬さんをこのまま置いて逃げるわけにはいかない。こんなほんわかを絵に描いたような犬さんが熊に襲われるところなんて見たくない。
「グゥウオオオオオオ!」
「っ!? き、来たっ」
背筋が震える吠え声を上げた熊は駆け出してこちらへ向かってくる。
遠かった距離がぐんぐんと近付いてくる。きっと私の走る何倍も早い速度で熊は駆けてくる。
このままでは私も犬さんもあの熊の餌になってしまう。―――その時、私の脳裏に過ぎったのはヘルベリス様の言葉だった。
―――もし何かあったら助けを呼んだら良いよ!―――
それを思い出した瞬間、反射的に私の口から言葉が出た。
「―――助けて!!」
誰に向けたかもわからない言葉。
心の中に思い浮かべたのはヘルベリス様の顔。……しかし違和感があった。
何か……まったく違う何かへ声が届いたような……どう言葉にしていいかわからない感覚。
これまで空回りしていた『何か』が噛み合ったような感覚を覚えた時―――
『ワン!』
「……え?」
立った。―――犬さんが……2足で。人間のように立ち上がった。
『ワォオオオオン!』
2足で走り出す犬さん。
向かってくる熊へと一直線に。
『ワー、オー……』
右の前脚を振りかぶり……
『ン!!』
ボゴンッ!! と鈍い音を立てて熊の側頭部を殴り抜いた。
「ッ!? ガッ!?」
『ワオン!』
続く左前脚の振り上げ。それが熊の顎を打ってかち上げる。
「ゴォッ!?」
熊の体が打ち上げられた頭部に引っ張られるように浮き上がり、無防備な上体を晒す。
『ウーッ……』
犬さんは両拳? を構え―――
『ワッ!!』
拳の連打。
連打連打連打連打連打連打。
『ワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワッ!!』
凄まじい連打が熊の体を打ち抜いていく。心なしか拳を繰り出す犬さんの顔の陰影が濃くなってる気がする。
「―――ッ!? ―――ッ!?」
悲鳴を上げることさえ許さぬ拳の嵐。それを受ける熊の体は徐々に持ち上げられていき、遂にはその足裏を地面から浮き上がらせる。
数十発ではきかない拳を犬さんは繰り出し、そして―――
『ワワワワワワ―――オワッワァアア!!』
ズドンッ!!
正拳。それが宙に浮いた熊の中心を打ち抜く。
そのまま熊は飛んでいく。バギン! ベギン! と森の木々をへし折りながら、奥へ、奥へと……。そして……音が収まっても熊は戻ってくることはなかった。
「――――――」
そんな光景を見届けた私は言葉を失う。それほど衝撃的な出来事だった。
『ワォオオーン!』
犬さんは両腕を天高く突き出し遠吠えを上げる。顔は濃いままである。
それはまさに戦士がする勝利の咆吼。
一通り遠吠えをすると今度は相手もいないのにシュッシュッと虚空へ拳を打ち続ける。まるで自身の打ち出す拳のキレを誇示するように。
…………。
犬さんはやはりただの犬ではなかったようです。
『ワン』
濃い顔で凜々しい表情をする犬さん。
……えっと……何と言えば良いのでしょうか。……私は可愛い方が好みですかね。