#十三 昔桜亭(二)
いきなり脱げと言われて驚きの声をあげるコガネに、小波は火鉢の炭をおこしながら続ける。
「そんな泥だらけの格好でずっといるわけにもいかねえだろ。部屋も汚れるし」
「そりゃそうだけど……」
口ごもりながら、部屋の中を見回すコガネ。
八畳敷きの和室は尋常でない量の和綴じ本や洋書が散乱して、少しくらい汚れたところでわからないように見える。
「今洗っとけば、朝には乾くだろ。ほら脱げ脱げ」
「きゃああ!」
女の子みたいな悲鳴をあげて、部屋の中を逃げまどうコガネ。
小波が無理やり帯に手をかけると、ぼんっと音を立てて貉の姿へと戻った。
「何を恥ずかしがってやがるんだ、こいつは」
手の中に残された着物を見ながら、ひとりつぶやく小波。
「布団に入るか?」
「……」
敷きっぱなしの万年床を示して尋ねても、コガネはふるふると首を振る。火鉢のそばに手ぬぐいで簡単な寝床を作ってやると、脱兎の勢いで潜りこんだ。
表で着物を洗ってから部屋に戻れば、手ぬぐいの中から寝息が聞こえる。
着物を外に干すと寒さで凍ってしまうから、衣紋かけ(※十一)で窓際に吊るしてようやく一息ついた。
「……そういえば、部屋に人を入れるなんてひさしぶりだな」
人ではないのだが、それはさておき。
自分ではない、誰かの寝息を感じる。そのことに妙な安堵を感じつつ、小波は布団に入った。
〒
小波は午砲(※十二)で目を覚ました。
「……」
部屋を見回してもコガネの姿はない。小波が寝てる間に出て行った模様。
だが文机の上に、置き手紙を見つけた。
『あにきありがとお』
「……へっ」
苦笑する小波。
いつもは上野公園で寝てると言ってたし、停車場へ行けばいつでも会えるだろう。
そのうち、また飯でもおごってやろう。そんなことを思う小波だった。
部屋の靴は、全部ピカピカに磨いてあった。
※十一 衣紋かけ…要するにハンガー。
※十二 午砲…毎日、正午を知らせるために鳴らされる大砲。東京では明磁四年に始まった。その音から「どん」とも呼ばれる。




