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美知恵

男は、雌の獅子に捕えられたインパラのようにじっとしていた。

ぼうっとしたまま、目の前でゆらゆらと揺れる美しい影を眺めていた。

わざと焦点をずらして、その美しい影を、まだ、見ないでおこうと思った。

見てしまうと、この幸せが終わってしまうから。男は目を閉じる。

「目を開けて」

すかさず美しい影がそう言って、男の瞼に指を這わせる。

男は、まだ、まだ、と思ったが、美しい影には逆らえない。

目をできるだけゆっくりと開くと、

だんだんと焦点を合わせて、目の前の美しい影の美しい顔を、今度はしっかりと捉える。

決して逃がすまい。決して目を離すまい。目の前のおまえを。ここは、蟻地獄だ。おれは、捕らえられた。おまえに。おまえの地獄に。

男は手に入れた美しい影を、この幸福の影を、決して見逃さないと決めると、美しい影にごつごつしていて、けれどしなやかな腕をまわした。


四月二日

「ケーキセットお待たせいたしました」

若いウエイターが妙に気取った動きでケーキを運んでくる。

美知恵みちえはモンブラン、母の善子よしこはシュークリームだ。

母は顔も上げず「はーい」とだけ答えて、スマートフォンをいじりつづけている。

私だって、本当はケーキどころではない。のっぴきならない事態なのである。

今、私は、自分に起きている地獄を如何にして天国に変えるかを考えなければならない。


人は腐る前が一番美しい、とは誰の言葉だろう。

本気でそう思っているのだろうか。

馬鹿じゃないの。笑える。

そんなの狂言だ。

若さへの嫉妬から目を背けるための、言い訳だ。

素敵な化粧をして、高価なドレスを身に纏った四十代の美しい女優が、テレビの中で言う。

「歳をとるのが楽しいです」

違う。違う。違う。違う。違う。若さは勝る。若いだけで輝くもの、女は。

太陽の下で瑞々しく光る若い肌に、わたしがどう太刀打ちできるというのだろうか。


こんなに早く“おばさん”という生きものになるとは、思っていなかった。

歳をとることがこんなに辛いこととは、思っていなかった。

気が付かないうちに皺は少しずつ増えていった。

外から内へ。内から外へ。蜘蛛の巣のようにじわじわと、あるいはぞっとするくらい早く。

幼い頃に見ていたドラマの中で、子供が母親に向かって

「皺が増えたんじゃない?」と言って母親を怒らせるシーンがあった。

嘘をつけ馬鹿者。

そんなにたやすく増えてたまるか。そう思っていた。

その言葉が、何故母親怒らせるのか理解できなかった。

当時は。当時のわたしにはそんなこと、異次元だったのだ。

想像もできない先の未来だったのだ。

今は、意味が理解できる。

「皺が増えたんじゃない?」

まだ完全に“おばさん”になりきれない者にとって

あの言葉の破壊力は相当なものだ。

当然、ドラマの中の母親は真っ赤になって怒る。

そしてほんとうにまた、皺が増えていく。

皺は容赦なく広がっていく。破れたストッキングのように。

もっとも、私にはそんな憎たらしいことを言ってくれる可愛い悪魔さえ、いないのだが。


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