第2章 ②
――子供の頃に戻りたいと、エアリアは思っていた。
何も知らず、自分に与えられる恩恵を、当たり前として享受していたあの頃に……。
周囲の人は誰もがエアリアに羨望の眼差しを送り、父は頼もしく、母は優しかった。
――たとえば。朝の穏やかな日差しに、何となく覚醒したら、侍女が朝食の準備ができたと起こしてくれる。エアリアは毛布をかぶって暫く無視をするが、やがて香ばしい香りに抗えずに、ゆるゆると起き上がるのだ。
「起きて下さい。エアリア様……」
―――ほら。そう、こんなふうに……。
(…………えっ?)
「あれ?」
夢でないのなら、何なのか。ぱっちりと目が覚めた。
「な、な、何?」
ここは何処だろう?
固い寝心地と、ぼろぼろの毛布は自分の部屋の寝台に違いないだろうが……。
一体、自分はどうしたというのか?
掌を広げると、確かに指は五本あって、そのまま両手で頬に触れると温かった。
(私は、死んだんじゃないの?)
「朝食の準備ができました。温かいうちに召し上がらないと」
言われるまでもなく、食欲をそそるような香りがエアリアを誘惑している。
「天国にいても、食事ってあるのでしょうかって、あるわけないですよね。ははは」
一人毛布の中で、百面相をしていると、頭上から男の声が飛んできた。
「なに、一人で馬鹿なことを言っているのです。ほら。いつまでも寝てないで起きて下さい。目が覚めているのでしょう。エアリア様」
「うっ……」
知らないふりをして横を向いているエアリアを、大きな手が揺さぶり始めた。
「……どっ、どうして?」
激しくなっていく揺さぶりに耐え切れずに、エアリアは、寝台からひっくり返りそうになりながら、飛び起きた。
「何で、私はまだ生きているんですか?」
眩い朝日にはじけたように、曖昧だった記憶がよみがえってくる。
そして、太陽の日差しと同化した金色の髪が艶々と煌めいていた。
――そうだ。エアリアは、毒を飲んだのだ。
セイルの幇助で一気飲みしたはずだった。本当に毒薬だったら、とっくに死んでいるはずだ。何で、セイルが麗しい微笑を浮かべて、エアリアの目前に佇んでいるのか?
「失礼かと思いましたか、あれは眠り薬です。エアリア様には眠って頂きました」
「…………はっ?」
「申し訳ないとは思いましたが、それが宜しいかと思いまして」
「そんな。貴方は、私を騙したのですか?」
「騙すも何も、俺は試したことがないと言ったじゃないですか? 毒薬だと思っていたんですが、どうやら睡眠薬だったみたいですね。残念でした。でも、俺は嘘をついてはいませんよ」
「――屁理屈」
「それで結構」
「何で……」
――嵌めたられた。
セイルがあの時、楽しそうだったのは、そういうことなのだ。
眠り薬なんぞを用意して、それを口に含むことができないエアリアを、嘲笑していたのだろう。
「貴方は、私を殺す気がないのですか。殺す気がないのなら、一体何者なんですか。私と関わったって良いことないでしょう?」
「そうですね。だから、殺してさしあげてもいいですよ。大公の命令は、俺にとっちゃ渡りに船といったものでしたから」
「……ですよね? この領地の貴族であれば、私を殺せば、相応の出世は間違いなしだと思います」
「そりゃあ、そうですよ。もちろん出世も悪くないし、仕事は仕事ですけど。でも、死ぬことはいつでもできますから。綺麗に部屋の中を整頓して、身綺麗にしてからでも遅くないでしょう?」
「……セイル殿。貴方、何がしたいんですか?」
処刑日が延びて喜ぶ罪人もいないだろうに……。
この青年は、その方がよっぽど残酷だという自覚があるのだろうか?
「だから、申し上げた通り、エアリア様が疲れていらっしゃるように見えたので、眠って頂いた方が冷静に話も出来るのではと思いました。案の定、丸一日眠っておられましたね」
窓から差し込む柔らかな明かりは、一晩明けてのことだったらしい。
「寝室に私を運んだのは貴方ですか?」
「女性の寝室にしては、汚すぎる。もう少し、片づけた方が宜しいのでは?」
言われるまでもなかった。
寝室は居間よりは荒れていないが、それは物が少ないだけで、床にはすっかり埃が積もってしまっている。
味もそっけもない、狭くて汚い部屋だが、それでもエアリアの部屋には違いない。今まで誰一人として上げたことはなかったのに。
エアリアを運んだことを考えると、セイルは、最低二回不法侵入をしている。
これこそ、不敬罪と思えるのだが……。
(それにしたって、酷い)
エアリアは、セイルを応援していたのだ。
最期に出会ったのが美形の青年で良かったと……。
エアリアを殺して、偉くなればいいと……。……そんなふうに思っていた。
王室の暗部に関わったセイルを、上層部は無碍には出来ないだろう。
セイルを口封じするにしても、セイルが実行犯だということを知っている人間がいるのだから、面倒だ。ならば、ある程度出世させた方が良い。それが、貴族の腹黒い考え方のはずだ。
……だから、エアリアはセイルの背中を押してあげたのだ。
それなのに、エアリアに手を下さないどころか、部屋まで運ぶなんて、一体どういう了見なのだろうか?
「セイル殿。貴方は一晩、ここに泊まってたわけですか?」
「大陸中のすべての神々に誓って、貴方様には指一本触れていないので大丈夫です」
「大丈夫って……」
エアリアは、自分の貞操を心配したわけではなかった。
自分が男だったら、こんな化け物をも見るのも嫌だろう。いや、それより何より。
「この家に貴方を泊められる場所なんて、なかったはずですが?」
「おかげさまで、休んでいません」
「はあ。それは、大変でしたね。でも、どうせなら出て行っても平気だったんですよ。私はどうせ逃げませんから」
「昨日、倒れた時に、私、大切な私物を落としてしまったみたいで。それを一晩中探していたんですよ」
「それは大変でしたね。……で、結局見つかったんですか?」
「…………残念ながら」
「では、探すしかないですね」
――て。
(あれ?)
エアリアは首を捻った。
セイルと自分は、こんな呑気な日常を繰り広げられる間柄ではなかったはずだ。
「あの。……でも、セイル殿。どう考えても昨日の時点で殺しておくのが後々のためだったと思いますよ。こうなってくると、貴方だって殺しにくくなるんじゃないですか? いっそ、私が寝ているうちに、池に沈めておくとか、首を絞めておいた方が楽だったと思うんですけど?」
「朝から、物騒な話をしないでくださいよ」
「はい?」
――今、何と言った?
これ以外、セイルとエアリアの共通の話題なんてないではないか?
(これは、やっぱり夢なのでは?)
ならば、もう一度目を瞑るしかない。
「申し訳ありません。もう一眠りします」
「駄目です」
再び、毛布の中に入り込もうとしたエアリアをセイルは毛布ごと抱き上げた。
「うわっ!」
あまりのセイルの突飛な行動に、エアリアは悲鳴を上げようとして、舌を噛みそうになった。
「な、な、何?」
ぎしぎしと木の軋む音。セイルは、階段を下りているらしい。
――もしかして、毛布にくるんだまま川に落とすとか?
――それとも、顔が見えないことを良いことに撲殺とか?
エアリアが真剣に考えていると、そっと割れ物を扱うように、下ろされた。
まさかの椅子の上だった。
おそるおそる毛布から顔を出すと、意味不明なもので溢れていた円卓が元の姿を取り戻し、しかも綺麗に磨き上げられている。
そして、本人の言う通り温かい食事が整っていた。
王宮にいた頃しか見たことがない、丸いパンがバケットに積まれていて、野菜たっぷりのスープからは、食欲をそそる香りと湯気が立ちのぼっていた。