第2章 ①
セイルは気を失ったエアリアを抱き上げ、私室の寝台に運んだ。
くったりと力を失い、自分に身を寄せる少女は公女でも魔女でもなかった。
温かい感触と規則正しい心音が布越しに伝わってくる。
(前髪を切れば良いのに……)
髪の隙間から見える素顔は、悪くない。前髪を整え、目を開けたら、大公の一人娘。
相応の気品を持ち合わせているに違いなかった。
ごくりと、セイルは無意識に喉を鳴らす。彼女の細い首筋に視線が奪われた。
寒気がするほどに、上質な血の香りがする。
……が、慢性的な貧血なのだろう。エアリアの肌の色は、純白を通り越して、青白くなっていた。
(不健康すぎる。痩せすぎだ……)
本当に今自分は、人間を抱いているのかと疑うほどだ。
(やはり、ちゃんと食べていないんだろうな)
――一人では何も出来ない。
彼女の手に出来ているマメを見て、セイルは確信していた。
――――エアリアが必死に足掻いていた証拠。
だけど、必死になっても彼女は報われなかった。
(何で、この子もこんなことになってしまっているのだろう?)
この土地で一番偉い大公の娘だ。何一つ不自由ない生活を送っていて然るべきはずなのに、何で辺境のゴミ屋敷で独り生きているのか?
(まあ、片づけができないのは、本当困りものだけど……)
居間に戻ると、ゴミ山が広がっているので、セイルは階段からまっすぐ外に出た。
まだ臭いまでは屋外に流出していないようだ。
陽が暮れて、すっかり暗くなった空を仰いでいると、向こう側から見覚えのある青年がやって来た。
月光のおかげで、黒ずくめの格好でも認識することができる。
――ようやく依頼主の登場らしい。
「……もしかして、俺を見張ってたんですか?」
「臣下から、ゴミ屋敷と聞いて、足が向かなかったんです。貴方に先陣を切ってもらってよかった」
「あのねえ。……もっと早く教えて下さいよ。ゴミ屋敷で公女が一人暮らししているって」
微笑みかけたら、青年も硬い笑みを浮かべたようだった。
「それで、エアリアは、今どうしていますか?」
「睡眠薬を飲ませたので寝てます。貴方が伝言だけ言ったら、好きにして良いと言ったので、本気で殺そうかと思いましたが、両手を広げて殺せと詰め寄られたので、やめました」
「では、生かすのですね。良かった。そうなると思っていましたよ。元々、貴方に彼女が殺せるとは思っていなかったので」
「嬉しそうですね。……貴方は貴方で、エアリア様を殺そうとしたくせに? 昼間の刺客は何だったのですか? アレを送ってきたのは貴方でしょう?」
普通に考えて、セイルとエアリアが出会ってすぐに刺客が登場するなんて有り得ない。
エアリアにセイルが刺客と誤解されても仕方ないことなのだ。この青年が計算したのでなければ……。
しかし、思いがけないほどあっさりと青年はそれを認めた。
「ええ。そうです。だからこそ、貴方にはその場にいてもらいたかったのですよ。今回の依頼は、元々、それが目的だったのですから。万に一つでも、エアリアに怪我をさせたくなかったんです」
「ええっと……?」
意味が分からなくて、おもいっきり首を傾げると、青年は物憂げにうつむいた。
「仕方ないんです。僕は大公に疑われているのです。一応、やる気を見せとかなければ、こちらの身が危ない。刺客達は無事に帰ってきましたよ。結果的には、成功の部類です」
「えーっと、そういう大切なこともね。最初にちゃんと話してもらいたかったですけどね」
「貴方には色々黙っていて、申し訳ないことをしました。だけど、僕も、予想外でした。まさか貴方があんなにあっけなく倒れてしまうなんて……。これじゃ、何のために貴方をエアリアのもとに送ったのか意味不明というか、かえって足手まといというか……」
「…………あの。今、俺はものすごく腹が立ったのですが? エアリア様には、貴方が会うべきでしょう?」
「まだ駄目です」
青年は、几帳面に告げる。
「来る日まで、僕は彼女には会いません。まったくの部外者である貴方だからこそ、今回のことは、お願い出来たんですよ。ただ、僕は僕が会う前に一度、誰かに彼女の様子を、ちゃんと見て来て欲しかったんです」
断固とした口調に、セイルは青年の決意を知った。……これで、十七歳だ。
何だか自分が小さく見えて仕方ない。
セイルは、仏頂面のまま、小声で告げた。
「じゃあ、ちゃんと今日見てきたことを伝えなければなりませんね。エアリア様は辛うじて生きていますよ。生気は抜けて、体重も骸骨のように軽くなっていますが……」
「……では、言葉は、話せていましたか?」
「はっ?」
「僕のもとに入った報告によると、彼女は数カ月ほど、誰かと話していません」
(……うわあ)
「魔女」らしい話だ。しかも、それを知っている青年もまた青年である。
「結構、舌は回ってました。たまに毒も吐きます」
「なら、良かった」
「良くはないでしょう。このままじゃ、あの人、近い未来に化石になりますよ。一体、貴方は何を企んでいるんですか?」
「まあまあ。今日の件は謝りますから、許して下さい。条件通り、サファライドを観光するというのなら、家臣に責任を取って案内させますし、帰ると仰るのなら、ご自宅までお送り致しますよ」
「俺は帰りませんよ。……まだ」
むきになって口を尖らせてから、しかし、すぐさまセイルは後悔した。
どうせ、セイルは現実から逃げているだけなのだ。
「まあ……。僕としては貴方が帰ろうが、ここに留まろうが、どちらでも良いのですが。こうなっては、貴方も帰れないかもしれませんね」
「何……ですか?」
含みのある言動を訝んでいると、見計らったかのように、青年の背後から、小さな子供と長身の男の二人が前に出てきた。
小さな子供が陽気に手を振りながら、現れる。
途端に、セイルの呼吸は停止し、冷や汗が背中を伝った。
「どうして、貴方がここに……?」
「どうしてって……、そりゃあ」
少年が余裕綽々で答えようとした矢先……
「セイル=ラファール殿!」
少年の前に、転がるようにして出てきた男が、セイルの前で深々と頭を下げた。
「えっ?」
「……お願いします。どうか、しばらくここにいて下さいませんか。セイル殿!」
面食らっているセイルに、男は更に土下座までして、痛切な声音で訴えた。