第1章 ⑤
塵の集積場と化していた机の上のものを下に落として、ようやく空間を確保してから、セイルが茶色の瓶を机上に置いた。エアリアは、興味津々にそれを見る。
薄明かりの差し込むそこで、硝子の瓶は宝石のような輝きを放っていた。
「これが毒……?」
「試したことは、ありませんけどね」
「これ……。水に入れて飲んだ方が良いですかね?」
言いながら、エアリアは瓶の蓋を取る。
(ああ。いい香り)
近年お目にかかったことのない果物の甘い香りが鼻腔を擽る。
美味しそうな匂いだ。こういう毒なら悪くはないかもしれない。
「いえ。水はいりません。その瓶全部で一人分です。味は分かりませんが。製造者からは自信作と聞きました。どうぞ、一気に呷ってお召し上がり下さい」
「では、お言葉に甘えて」
淡々と言いながら、瓶を口元にあてがう。
しかし、どうしてか、なかなかそれ以上のことが出来なかった。
(あれ?)
まるで、魔法にかけられたかのように、手が動かない。
「おや。どうしました。エアリア様?」
「あ、すいません。ちょっと。少しだけ待って下さいね」
「すぐに死にたいのでは?」
「その予定です」
思い残すことなどないはずだ。
この凄惨な屋敷の内部は、今更どうにもならないだろうし、レグリスのことは、セイルに託した。幼馴染とは喧嘩別れしてしまったが、そういうこともあるだろうと腹を括った。父にも疎まれたままだったが、元々愛されてもいないのだから、邪魔と思ってもらえるだけマシなのかもしれない。
(あとは……)
自分でも、痛々しい外見だったが、死んだら肉と骨の塊になるだけのことなのだから、どうだっていい。
……全部、何だっていいではないか?
分かっているのに、手が止まってしまった。
「私が死んだら、お墓はこの近くの教会に眠っている母と同じ場所に葬って下さいね」
「承知しました」
「レグリスはたまに夜泣きをするので、そういう時は様子を見に行って下さいね」
「できるかどうか分かりませんが、覚えていたらやりましょう」
「……それと」
「どうしたんでしょうね。エアリア様」
セイルがなぜか楽しそうだった。
心底、分からない男だ。人が死のうとしているのに、笑顔である。
でも、それでいい。しょせん、世の中なんて、そんなものなのだ。
人が死ぬなんて、瑣末なこと。母が死んだって、何もなかった。
だから、覚悟は、とっくの昔にできていたはずなのに。
……なのに。どうして手が動かないのだろう。
想像の中の自分は、もっとあっさり毒杯を仰ぐことが出来たはずだった。
「エアリア様。迷いがあるのなら、俺が手助けいたしましょうか?」
「迷いは、ないはずなんですが……」
「エアリア様」
……なんとか手に力を込め、エアリアが瓶を斜めに傾けた刹那、セイルがエアリアの手に両手を添えた。
「俺がお手伝いしましょう」
「えっ? んぐっ……!」
セイルは、一気に瓶の中の毒薬をエアリアの口の中に流し込む。
手助けしてくれたのは幸いだった。あのまま毒杯と見つめあっている方が辛い。
「ごほっ。ごほっ」
毒薬が胃に通過したのを、確かめるようにエアリアは激しく咽た。
「ありが……と」
「礼を言われるのは、かなり不本意なんですけど?」
「そう……」
それなら悪いことをした。
何にしても、これでようやく終われる。
――楽になれる?
強烈な睡魔がエアリアの意識を奪おうとしていた。
(これが、死?)
幼い時のように、抗う術もなく、本能のまま、深い眠りの世界におちていく。
悪くない。 天国に行けば、母に会える。みんなの迷惑にもならない。
(これでいいんですよね……)
エアリアは、満足げに意識を手放した。