第1章 ④
「……俺は」
もとより、素性を話す気のないセイルは、黙り込むしかなかった。
(なかなか、鋭い洞察力をしてらっしゃる)
もう少し外見をどうにかすれば、せめて普通の娘には見えるかもしれない。
(そうだな。見た目がなあ。もう終わっているというか、何というか)
寝間着らしきワンピースは茶色で、まるで囚人服のようだった。
(……いいのだろうか。これで?)
エアリアは自分の意志で、こんな格好をしているらしい。誰かに強制されたわけでもなさそうだ。一体、どうしたら、こんなになってしまうのだろう?
今後のことより、彼女の容姿ばかりに気を取られていると、エアリアが痺れを切らして、口を開いた。
「まあ、正直私にとっては、貴方が何者であろうが、どうだって良いのですが、暗殺というのが一番無難だと思って?」
「無難って理由で、殺し屋扱いされるのも最悪ですけどね?」
「じゃあ貴方の目的は? やましいことがないのなら話せるはずでしょう?」
「それは……」
(どうする?)
しかし、セイルの葛藤をよそに、エアリアはのんきだった。
「さっき倒れたのは、セイル殿の芝居でしょうか? 先ほどの刺客とは別口での依頼ということだから、 倒れて私を油断させて、部屋に入ったところでぐさっと」
「いや……あの。大変素晴らしい想像力ですけどね?」
素で倒れました……とは告白できず、セイルが弱り切っていると、エアリアはおもむろに席を立った。
「ただ、私の息の根を早々に止めたいという申し出なら、その前に、ちょっと困ったことがあるので、ついて来てもらっていいですか?」
「――え、いや。息の根って。ちょっと待って下さい。エアリア様」
エアリアが部屋を出て行く。その歩みはとても鈍かったが、呆けていた分、セイルはすっかり出遅れてしまった。急いで追いかけると、エアリアは裸足で外に出て、屋敷のすぐ横のぼろぼろの馬舎に入って行った。正確には元馬舎があったらしい場所だ。
敷地の中は荒れ果て、馬を仕切っていたらしい木板は散乱していた。
「エアリア様?」
こんなところに誘い出して、何をするつもりなのだろうか?
もしや、ここにセイルを返り討ちにする武器を隠しているとか?
――魔女……と、刺客から呼ばれていたことを、セイルは思い出していた。
見た目だけなら魔女そのものだが、まさか中身までも魔女なのか?
セイルは、魔女の恐怖に関しては、身を持って知っている。
(用心しといて、損はないか?)
そんなことを本気で思案しながら、エアリアに続いて、馬舎の奥に進んでいくと、強烈な獣臭がして、鼻をつまんだ。
「ここは、一体?」
……と。突如、地の底からわき上がるような咆哮があった。
「何?」
飛び退きそうになったところで、その腕をエアリアが捕えた。
「セイル殿、見て下さい」
目を凝らすまでもなく、馬舎の中には有り得ない豪奢な金の鬣をそびえかした大型動物が入っていた。
「見ての通り、猫です」
「獅子ですね」
肉食で、人を食い殺すこともあるという、恐ろしい動物……と聞いたことがある。
実際、セイルも間近で見るのは初めてだが、それ以外考えられなかった。
(どうして、こんなものがここにいるのだろう?)
よくも、こんな薄い木板の仕切りで、逃げ出さなかったものだ。
「名前はレグリスと言います。ちなみにオスです」
「あの。まさか。貴方は獅子を飼っているのではないですよね?」
「レグリスは猫ですよ」
「いや、よく見て下さい。猫にしては巨大でしょう。確かに猫の種類かもしれませんが、牙が鋭いじゃないですか。ほら」
「そうでしょうか」
エアリアは平然と、獅子の顎に右手をやった。――すると。恐ろしいほど自然の動きで、獅子はその小さな手を、かぽっと口の中に入れてしまった。
「ああああああっ!! 何やってんですかっ! まったく!!」
思わずセイルは駆け寄ったが、エアリアは小首をかしげる程度だ。
この少女は長い軟禁生活で、感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
大いに、そんな気がしてならない。
「大丈夫です。甘噛みですから。でも、ほら、獅子だったら、食べられちゃってるでしょう? だから、レグリスは猫」
「猫でも獅子でもどうでもいい。早く手をひいて下さい! 早く!」
「セイル殿って、本当に血が苦手のようですね?」
「わっ、分かってんなら、やらないでください。この牙は危険なんですから。甘噛みでも死にますからね。本当に死ぬんですよ!」
「死にますかね?」
「―――あっ」
そうだった。その言葉は……至極、変だ。
少なくとも、セイルがエアリアに対して放って良い言葉ではないような気がする。
とっさに黙りこむと、エアリアは緩慢な動きで、レグリスの口内から手を出した。
セイルはすかさず彼女の腕をさらい、右手を見る。
一応、薄ら血が滲んでいるものの、幸い、指は五本。一本も欠けていなかった。
「危ないなあ。もう」
こんな至近距離で女が獅子に食われる所を見たら、心に深い傷を負いそうだった。
セイルが放心していると、再びレグリスが吼えた。やっぱり怖い。
「ああ、そうだ。ご飯がまだでしたね。ごめんなさい。レグリス」
エアリアは、ぽんと手を叩くと、壁に立てかけてあった葉っぱつきの枝をパキバキと割り始めた。
「えっ?」
何をするのかと目を瞠っていると、細かく砕いたそれを、手際よく馬舎に放り投げた。レグリスが枝ごと葉をむさぼり食べ始める。
――一体、今何が起こったのか?
「レグリスの好物です」
「いやいや、普通は肉でしょう」
「肉をどうにかするほど、金銭的余裕は我が家にありません」
怖いほど、きっぱりと告げると、エアリアもためらいなく青い葉を己の口に入れた。
むしゃむしゃ食べている。
――美味しい?
質問しようとして、セイルは頭を振った。そういう問題ではない。
「エアリア様」
「そういうことなので、セイル殿。レグリスをどうにか頼みます」
「はっ?」
「昔、この家に流れてくる前に、通りすがりの旅芸人がこの子を置いていったんですけど、今では、私の家族はこの子だけなんです。だから、私が死んだあと、この子のことだけが気がかりだったんですよ」
「ちょっと、勘弁して下さいよ。俺にどうしろって言うんですか」
「生きていれば、何とかなりますよ」
――何だ。それ?
(その台詞は、そっくりそのまま返した方が良いのではないか?)
もっさりした髪と、暗い馬舎にいるせいで、表情こそ分からないが、彼女はにっこり笑っているらしい。ある意味、不気味だった。
「……で。セイル殿」
「今度は何ですか?」
「やはり、毒殺でしょうか? 本当に血が苦手なら、その剣でグサッというわけにはいきませんよね?」
「いやいやいや」
「じゃあ、何なんですか? 「お前は狙われている」と言いに来ただけってわけではないですよね?」
「…………いや、実は」
――そうなんだけど。
――それ以外、ないんだけど。
大きな理由はそれしかない。
エアリアと直接会うよう指示したのも、名を明かさないで欲しいと頼んできたのも、依頼主だ。しかし、セイルと依頼主は、主従関係があるわけでもないのだ。セイルがその気になれば、いつだってエアリアにすべてを打ち明けることができる。
――すべて、話したら……。
(俺は解放される)
だけど、セイルは何となく、この少女を放っておけなかった。
明るいほど後ろ向きな発言の中に、計り知れない暗い闇が横たわっているのが分かる。好奇心なのか、怖い物見たさなのか自分でも分からないのだが、もう少し、付き合ってみたいと思う何かがあるのだ。
「じゃあ。よろしくお願いします。でも、私は痛いのは駄目なので、お手間を取らせてしまうかもしれませんが、まあ頑張りますので」
――何を頑張るんだろう?
……とはいえ、彼女の話に合わせていたら、段々腹が立ってくるのも事実だった。
「エアリア様。貴方は俺の依頼主のことすら聞かないんですか?」
「そんなこと知ったところで、意味のないことではないですか」
「……そうですか。貴方は諦めているというわけですね」
「えっ?」
自覚なく、目を丸くする少女が恨めしかった。セイルは何とか言葉を絞り出す。
「そうですよ。確かに俺は貴方を殺した方が良い方の立場にいる」
「それは、……まあ良かった」
「良かった?」
「いくら何でも、あんな啖呵を切っておいて、勘違いでは恥ずかしいじゃないですか」
「エアリア様」
「はい」
セイルは、自身の苛立ちを何とか敬語でもみ消した。
「そうですね。エアリア様の仰るとおり、俺も仕事とはいえ、婦女子が苦しむのを見るのは趣味ではありません。出来れば、こんなこと一瞬で終わらせて差し上げたい」
「……それは有難いことです。私、病で苦しむ母を看ていましたから。やはりちょっと痛いのは嫌だったんです」
「では……、仕方ありません。俺、数種類の薬物は持参してきましたから、そちらで試してみますか。眠るように死ねるとは聞いているんで、痛みなく逝けると思うんですが……。まあ、試したことがないので、何とも言えませんけど……」
「いいですね。セイル殿。さすが、準備が良い。じゃあ、それでお願います」
……駄目だ。
揺さぶりをかけてみたが、彼女は少しも動じない。
「――つまり。エアリア様は、死にたいんですか?」
「さあ。どうなんでしょう。分かりません。いつか、こんな日が来ることは分かっていましたから。最期に意外に真面目そうな貴方のような人に会えたのは、ある意味、幸運だったのかもしれません」
セイルは涼しげに語る少女の横顔を見やった。
死はそんなに、生優しいものではない。
けれども、彼女の吹っ切れたような表情は、セイル自身を彷彿とさせているようにも思えた。
ためらいがちに、セイルは外套のポケットから、小指ほどの大きさの小瓶を取り出した。
――さて、エアリアがどうでるか……。
セイルは、見事なまでに面倒事に巻き込まれている自分を呪った。