第1章 ③
エアリアの正式な姓名は、サファライド=ノーブル=エアリアだ。
「ノーブル」とは王に忠誠を誓う騎士という称号である。
サファライド家は、イルミア王に代々仕えてきた臣の出だった。
――かつて。サファライド公国は、イルミア王国の一部であった。
三百年以上昔の話である。
当時のイルミア国王は、エアリアの遠い先祖であるサファライド公爵を敬慕していたようで、海に近く、交易も盛んな重要地を与えた。
王は終生、サファライドと仲が良く、王の死後も友愛の印として、末永く一族間で婚姻を結んだ。
実際、今までサファライド家は王に刃向かったことはない。
血のつながりがあり、外戚でもあるサファライド家を、王は常に気にかけてくれていたし、領地は安泰で収入も莫大だった。
――しかし、時が経てば、いろんなことが変わる。
次第に、イルミア王国の権威は失墜し、周辺国から脅かされるようになってきた。
逆に、サファライド家は貿易で儲けた金で力をつけ、自然な形で領は、公国となり独立していた。
サファライド領主は、大公と名乗るようになり、妻の敬称は妃となった。
エアリアの父サファライド=ノーブル=セディウスの婚姻が決まったのは、更に時代が下りイルミア王国が存亡の危機にあった頃だ。
相手の姫君は、イルミア王国にとっては敵である、エフェクト王国の第一王女イリア。つまり、エアリアの母だった。
その頃、エフェクト王国は、恐ろしいほど短期間で、周辺国を併呑していく絶大な軍事力を持っていた。
エアリアの父であるセディウスは、イルミアを捨て、エフェクトについたことになる。
―――が、その選択は間違っていた。
「確か……。母様の父様が家臣に殺されたんですよねえ……」
エアリアは、夢の中を漂っているかのように、ぼけっと言った。
「あれからだったような気がします。こう……、するするっと坂を転げ落ちるように、見事な落下人生が訪れたのは」
ふとすれば、おぼろげになりそうな自分の記憶を辿り寄せて、独り言のように語る。
その時、エアリアは、八歳だった。
公位継承権一位の一人娘。
両親が仲は悪かったが、娘であるエアリアにはあまり関係なく、蝶よ花よと甘やかされて育てられた。
しかし、その叛乱により、すべてが狂ってしまった。
母には後ろ盾がなくなり、また家族もいなくなってしまったので、帰る故郷もなくなってしまった。
更に、最悪なことに、イルミアで国王が新しくなってから、王国の力が盛り返してきたのである。
サファライドは元々、後ろ盾がないと、軍事力すら発揮できない小さな国である。
父は掌を返したようにイルミア王国に接近し、イルミア直轄領の領主の娘を側室に迎えた。――そして、その側室に王子が生まれた。
それがエアリアの弟・ノーヴィエであった。
「まあ、それだけなら城から追放されることはなかったのでしょうが、母様がね」
まるで他人事のように、エアリアは思い出していた。
「その公子を殺そうとしたから、さあ大変というか、何というか」
「俺は、そんなこと聞いたこともないんですけど」
セイルは興奮して身を乗り出すが、部屋の埃を吸い込んで、盛大にむせてしまった。
「……でしょうね。おおやけにはされていませんから。もし、おおやけになっていたら、母はその場で処刑でしたし。もっとも、事故扱いで、母娘共々死んだことにされるくらいなら、あっさり処刑された方が母としては良かったのかもしれません」
実際、王はエアリア諸共、母を処刑するつもりだったようだ。しかし、家臣のとりなしによって、それだけは避けられた。
「それで、お妃様とエアリア様は?」
「ええ。城から追い出されまして、ここに辿り着いたんですよ」
「そんな……」
セイルはエアリアが勧めた椅子に座ることなく、興奮を鎮めるように額を押さえた。
「俺は……。お妃様のお体が弱く、公務に耐えられないということで、亡くなったことにしたのだと聞いていたんですが?」
「あの人も面子があるから、表沙汰にしなかったんだと思います。いくら箝口令をひいても、噂は流れますからね。いずれ本気で処分したくなった時、いかにも自分が犯人では外聞が悪いですし。それに、実際母は心が病んでいました」
「つまり?」
顔色を益々蒼くしてセイルが呻く。
「母君を見送られたエアリア様は、お一人になってしまったと?」
「ええ。後年、母は伝染病にもかかったので、侍女や護衛はおろか、近所との関係も断ちました」
「こんな家に住んでいたら、病気にもなりそうですけどね?」
「母の存命中は、綺麗なものでしたよ」
「そうですか。では、お妃様が亡くなれらたれ後、部屋は汚れ、それで貴方は……」
――こんなふうに、成り果ててしまったのです……と、自ら言い足せば良かったのだろうが、エアリアは、別にどうでも良かったので、認めてしまうのも変な気がした。
「……で、セイル殿」
「はい?」
「長い状況確認をしてしまいましたが、貴方は一体何者なんです?」
「俺は先程申し上げた通り、さる御方から今申し上げた伝言を託されただけです。だから、その……。公女殿下がこのような状況にあることは、皆目知りませんでした」
「なるほど。本当に貴方は何も聞かされてないんですね。しかし、私には、むしろここまで貴方が知らない方が意外なんですけど?」
「それは……」
「そのような事情であれば、侍女と思しき私に一言「命を狙われていると、公女に伝えてくれ」で事足りたはず。なのに、貴方は私本人と会いたいとおっしゃってました」
「……エアリア様」
「たとえば……。暗殺を狙うなら、犠牲は最小限にとどめるのが一番でしょう。屋敷内を皆殺しにするのではなく、確実に公女を炙り出したいと、貴方は考えた。私の事情を何も知らなかったのは、知る必要もないことだったから。違いますか?」
一歩、セイルが後退った。
――そう。エアリアがこの青年から聞き出したかったのは、たった一言だったのだ。
「セイル殿。貴方も私を殺しに来たのではないのですか?」