第1章 ②
何も考えたくないから、セイルはサファライド公国に行こうと思った。
サファライド公国は、空気が綺麗で温暖な場所だと、昔、姉が言っていた。
……お前も一度行って来いと言っていたから。
――物見遊山の観光目的。
それが、どういうわけかこんなことになってしまった。
都は、観光どころの騒ぎではなかった。
仕方なく、ある青年の言いなりになって、足を伸ばしてルピス領まで来たら、夏は暑くて、冬は寒いというこれもまた観光どころじゃない不毛な土地だった。
何でこんなことになってしまったのだろう。
(冗談じゃない。何でこんな目に遭わなければならないんだ?)
セイルはただ……、気持ちを切り替えようと思っただけだった。
美しいものだけを見て、心地よい音を聞いて、優しい香りを感じれば、きっと千年の孤独も一人でもやり過ごしていけるのだと……。
(香り?)
しかし、香りなんて、そこにはなかった。
――血生臭いだけだった。甘美でいて、退廃的な危険な真紅の液体。蠱惑的だからこそ、本能的に避けているのに……。
―――いや、そうじゃなくて。
この香りは、セイルの本能を焚き付けるものではなく、もっと異質の……。
「……くさいっ!」
セイルが上体起こすと、積み上げられた何かに手が当たったのか、見事なまでの紙屑の山が頭上から降ってきた。
臭いと感じたのは、古くなってかびた紙の香りだったらしい。
「まったく、一体、何なんだ?」
ここは、化け物屋敷か何かか?
「あーあっ」
悲鳴とも、奇声ともつかない声が傍らから響く。
(この声……)
とっさに、気を失う前のことを思い出して、セイルはうろたえた。
「エアリア様っ!」
……そうだった。
髪の毛ボサボサの、とんでもない地味な衣装で、色気がないことより、血色が悪いことが気になってしまうような、そんな人間……。一応、女だが、いや女だから、彼女はサファライド公国の公女ということなのだろう。
一瞬、すべて夢だったのではないかと思い込もうとしたが、夕陽の逆光に照らされている娘は、間違いなく先ほどの化け物……もとい公女だった。
……世の中、絶対におかしい。
「エアリア……さま」
最後の方は、呂律が回っていなかった。
彼女の公女らしからぬ外見だけでも驚いていたのに、部屋の内部は更に驚愕の域を越えていた。やはり、彼女は公女でも、女でもない。……いや、人間でもないかもしれない。
「これは一体?」
「貴方が悪いんですよ」
エアリアは、悪びれるわけでもなく、さらりと言った。
「母が死んで以来、誰一人として中に入れたことはなかったのに」
「入れるも何も、人自体、入れないというか……なんというか。ね?」
――物の山だった。
塵山と形容した方が良いかもしれない。
元々、エアリアは広大な宮殿で豪華な調度品に囲まれて暮らしていたのだ。
それら一式を、このような小さな屋敷に、そのまま運び込めば、自ずと部屋の体裁を失うのは分からないでもない。
(だが……?)
なぜ、ここには、下女がいないのか?
仮にも公女であれば、たとえ放逐されたとしても、下女の一人くらいはいてもおかしくないはずだ。それに、エアリアの言葉遣いも変ではないか?
「どうして、貴方は俺なんかに丁寧語なんですか?」
「私には戸籍がないんです。長く独りでいたら、処世術の一つくらい身に付きますよ」
「それにしたって……」
セイルのような怪しい騎士にまで敬語だ。護衛だっていやしない。
「……あっ」
そこで、セイルはようやく本題を思い出した。
「そうだ。刺客は、どうしたんですか?」
エアリアが公女であることを忘れて、肩を揺さぶると、舌を噛みそうなぐらい早口でエアリアは言い放った。
「どうもしていませんよ。貴方が倒れて、すぐに退散しましたって」
「……まさか。そんなはず」
「嘘ではないですけど?」
「……うっ」
悔しい。まさか、あの程度の血を見ただけで、倒れるとは……。
証拠にエアリアの傷は何処についたのか分からないくらい、浅かったようで、今はもう何処を切られたのか分からない。
エアリアは、こちらの気を逆撫でするように、にっこりと笑った。
「ああ。でも気にしないでください。大の男でも貧血で倒れることがあるのですね。ここに来るまで食事をとってなかった……とか」
「……嫌味?」
「違いますよ」
イラッとした。こんなことなら、襲撃を受けるエアリアを傍観していれば良かった。
「……でも」
それにしたって、変だ。
刺客が依頼を果たさずに帰ったら、危険を冒した意味がない。自分の命を懸けても、エアリアを葬ろうと躍起になるはずだ。――しかし。エアリアは生きているのだ。
「…………分からないな」
「そうですよね」
エアリアは、ずれたところで納得しているようだった。
「何で私は狙われるんでしょうね。別に悪いことしてないし、する気もないのに」
「貴方が目障りなんでしょう。お妃様は、早く公子を大公の地位に就かせたい。貴方の生存は不安材料にしかならないはずです」
「五年もの間、刺客の一つも来なかったのに今更、どうして?」
「さあ……。ふとしたきっかけに思い出したとか? 俺にもよく分かりませんが……」
生返事をしながら、服の上から背中を掻いた。
何だか、全身が痒くなってきた。
一体、セイルを横たえていた床は、どのくらい掃除をしていないのだろうか?
(ああ、体中にダニとかノミとかわきそう……)
セイルは服についた埃を払いながら、立ち上がった。
上目遣いにエアリアが顔を上げるが、鬱蒼とした髪に覆われて目が合わないことが救いだった。いや、むしろ本物の化け物と対峙しているようで、薄気味悪いかもしれない。
「やはり、私が敵国エフェクトの血をひいているからですかね?」
「それは……。その」
エアリアは、セイルの困惑をよそに深い溜息を漏らした。
その横顔に、諦念の情が溢れている。
セイルはほんの少しだけ彼女に同情した。




