第4章 ⑧
「……あんた。騎士さんじゃないの?」
ネイがエアリアの後ろに現れたセイルの存在に目を丸くしている。
(……今度こそ、幻だったりして?)
エアリアは怖くなって、凝視してみたが、彼はちゃんとそこに存在していた。
微風に揺れる金髪に、深い藍色の双眸と、高い鼻梁。……そして、柔らかな唇。
(……うっ!?)
エアリアは昨夜の記憶に耐えきれずに、顔を真っ赤にしてうつむいた。
こんな緊急時にどうして昨夜のことを思い出してしまうのか。
「お前は、イルミアの騎士か?」
立ち上がったキーナスが眉根を寄せた。
しかし、セイルはキーナスのことなど素知らぬ顔で、ネイとエアリアを交互に見やると、腹の底から溜息を吐いて、今度はエアリアの涼しすぎる足元から、血の滲んだ腕に視線を移動させた。
「エアリア様。アリザス殿が安全な所に移るよう手配していたはずですが、なぜここに? それに、腕から血が出てるじゃないですか。何て軽率な……」
エアリアは腕の傷より、自ら破って短くしてしまったドレスの裾を気にしていた。
精一杯、裾を引っ張ってみるが、もう伸びそうにない。冷や汗混じりに答える。
「ええ。まあ、色々思う所があって、来てみたら、こんなことに」
「自業自得に近いものがありますよね」
「それは……。そう……ですけど。否定はしませんけどね」
「まったく、貴方は本当、人の想像以上のことをする。昨夜は葡萄酒入りのパンで酔い潰れるし……」
「えっ!?」
「言いませんでしたっけ。あれは葡萄酒を練り込んだパンです。少しでも温まってもらおうと思いまして、用意しました」
――一言も、聞いてない。慌てて食べたので、葡萄酒だったなんてまったく気づかなかった。動揺するエアリアに、更に追い打ちをかけたのはキーナスだった。
「その騎士は前領主アリザスの配下の者でしょうか? エアリア様」
その一言で、一斉に兵士達が身構えた。いつの間にか、オージスも駆けつけていたらしい。エアリアと一緒に来た兵士たちと共に背後で剣を構えている。
嵐が来るような、一触即発の雰囲気が漂っていた。
「ここは俺が何とかしますよ。エアリア様」
「……何?」
(今、何て言った?)
安穏としたセイルの一言に、エアリアは自分の耳を疑った。
血を見て倒れてしまう男がおかしなことを口走らなかったか?
「いいですけどね。貴方が俺を信じようが、信じまいが、このまま貴方を行かせるつもりがないことは、絶対なんですから。今回、アリザス側で応戦してたなんてバレたら、確実に死刑は免れませんよ」
「分かっていますよ」
……分かっている。エアリアは完全に退路を断ってしまったのだ。最初から、逃げるつもりもなかったが、無罪と主張する手を自分で放棄してしまった。
エアリアとしては、明るい道を模索したつもりだったが、セイルにしてみれば、エアリアが後ろ向きな発想を強めたようにしか思えないのも無理がなかった。
「それに、俺だって、これ以上、犠牲者が出るのも嫌ですし、シスの都に貴方を助けに行くなんて、面倒なこともうんざりなんです」
一応、エアリアが連行されたら助けに来ようと思っているらしい。
(何て、奇特で酔狂な……?)
「だから、エアリア様」
威勢良く言ってから、突然セイルはその場に跪いた。
「えっ?」
(何……!?)
彼の謎の行動に、エアリアだけではない。周囲の人間が動じた。
しかし、悟りを開いたかのような、さっぱりとした表情を浮かべたセイルは、エアリアを見上げ、揺るぎなく告げた。
「これから、勝手に貴方のために生きる俺の我が儘をお許し下さい」
「ええっと? 何を言って」
まるで結婚の誓いのような台詞に、エアリアは立ちくらみを覚えた。
これは、騎士の叙任式の台詞か何かか?
エアリアは騎士を叙任したことがないから、作法を知らないだけかもしれない。
だが、自分は「騎士」ではないと、セイルは断言してなかったか?
呆然としているエアリアを現実に戻したのは、手の甲に触れたセイルの濃厚な唇の感触だった。
「セイル殿。…………これは、主従の誓いとかそういう?」
「いいえ、違いますよ。昨夜の続きです」
――昨夜のって、何?
「ちょっと、待って下さい」
(それが、この人の作戦だっていうの?)
公衆の面前でいかがわしいことをして、敵の目を逸らすというのか?
そこまで彼が好色で変態だとは知らなかった。しかし、エアリアはセイルを引き離すことが出来ない。いつの間にか変化していた彼の金色の瞳がエアリアを絡めて放さない。
見つめられるだけで、気持ちがざわめいた。セイルは、普段の彼とは思えないほど、荒っぽくエアリアの腕をひいて立ち上がると、貪るようにエアリアの左腕に舌を這わせた。
「―――つっ!?」
甘美な痛みと、生温かい舌の感触に身震いする。今になって、エアリアは自分が腕に傷を負っていたことを思い出していた。そして、それをセイルが舐めていることも……。
呼吸が乱れそうになって、何とか歯を食いしばって耐えた。
満面の笑みを浮かべたセイルがエアリアの腕からようやく顔を放す。
「有難うございます。おかげさまで少しだけ満たされました」
「はっ?」
「残念ながら、もう後戻りはできませんからね。エアリア様」
セイルは、まるで自分に言い聞かせるようにして言うと、悪戯っぽく口角を上げた。
――そして。いきなり飛翔した。
「セイル殿!?」
エアリアの声が届かないほどセイルは上昇する。……と、頭上の太陽をその姿で覆い、やがて急降下した。もう信じるとか信じないとかそういう問題ではなかった。
――すべてが一瞬のことだった。
何が起こったのかさえ認識できないほどの素早さでセイルはネイを抱き、エアリアの背後で待機していたオージスに手渡した。
「さて、人質は解放しました。もう気遣いは無用ですね?」
両肩を軽く回して準備運動しながら、余裕たっぷりに笑っている。
セイルは唇をぺろりと舐めると、片手を軽く振った。途端に、道のど真ん中に竜巻が発生し、狙い定めたように大公の兵士達をなぎ倒していく。
「……一体、何が起こってるのよ?」
ネイが零した一言に、エアリアは答える言葉がなかった。
弑逆的な笑みを浮かべているセイル。中性的に見える顔つきも、優美な物腰も今はない。今は本能で暴れているようだった。
「貴様、化け物か!?」
既に謎の竜巻によって地面に転がされていたキーナスだが、騎士団の一隊を任されているだけあって、気力は残っているようだった。
「久々ですね。人からそう言われるのは……」
「くそっ」
震える手でキーナスは剣を抜こうとする。しかし、それは虚しい抵抗だった。
セイルは、その時すでにキーナスの喉に剣先を突き付けていたのだ。
――ひっ……と、短い悲鳴を上げて、キーナスが両手を挙げた。
「そうですよ。俺は化け物です」
金色の瞳が殺気で染まっていた。
「……血を好む厄介な化け物なんですよ」
「セイル殿っ!」
まさか本気で殺すつもりかと、エアリアが駆け出そうとした時。
「……えっ?」
頭上を横断した生き物があった。その生き物はエアリアを飛び越え、ひっくり返った馬車の上に降り立つと、ぶるりと身繕いして、セイルを恫喝するように咆哮した。
王者と思しき金色の鬣がさわさわと微風に揺れている。
長く一緒にいたエアリアが、その姿を見間違えるはずもなかった。
「イグリス?」
まさか遥々村からエアリアを迎えに来てくれたのか?
しかし、ハッとして剣を腰に収めたセイルは、とんでもないことを口にした。
「…………姉さん」