第4章 ⑥
正直なところ、セイルは貧血で倒れそうだった。
もう既に視界がぼやけているから、相当危ないのに、結構必死で足を動かしている。
ふとすると、遠くなりそうな意識を何とか奮い立たせた。
こんな厄介事になるのなら、昨夜あのままエアリアを自分のものにしてしまえば良かった。済し崩しは嫌だったし、自分の覚悟も定まらなかったから、断念することにしたが、勿体ないことをした。
――響き渡る悲鳴と爆音。立ち込める砂煙と微かに漂う血の香り。
何でまたセイルの一番苦手なものと対峙しなければならないのか?
(誰だ? 三十人もいないと言ったのは?)
少なくとも、その倍以上は、武装した兵士がいる。
『上手くことが運べば、エアリア姫を引き渡さないで済むし、アリザスも晴れて領主に戻ることが出来る。どうせ、企みが露見しているのなら、アリザスの生存を武器に他の領地にも訴えかけて、逆襲に転じるべきだ……』
――と。アリザスの家臣も含め、皆で考えた上での攻撃だった。
しかし、現実は甘くなかった。
本来、奇襲は優位なばすなのに、見事に劣勢に立たされている。
現時点で、リュファから報告一つないのは、彼が忙しいせいだとセイルも分かっている。問題なのは、セイルの姉が何も行動を起こさないことだ。
……彼女の場合は、わざとである確率が高い。きっと、付け焼刃で攻撃したのは良いが、逆に追い立てられ、森に潜む羽目になっているセイルのことを何処かでこっそり嘲笑しているのだ。
(あの魔女め。今回の作戦の犠牲者に呪わてしまえば良いんだ……)
セイルは這う這うの体で、オージスが見つけてくれた小屋に、飛び込んだ。
一緒にいたアリザスは、病み上がりのくせに、けろっとしている。
羨ましいというより憎らしかった。
「どうしました? セイルさん」
「どうしたもこうしたも、なくてですねえ……」
「はははっ。まさか、ただの新人領主を派遣するのに、一軍を割いて寄越すとは思わなかった。大公はよほど僕が嫌いと見える……」
呑気に笑っているアリザスを横目で睨んでみたが、傍らに寄り添うオージスの手前、大人げないことはやめた。
小屋は狙い撃ちにされそうな立地だったが、景色を見通せるので、敵味方共、動きを観察するには申し分なかった。
「ただ単にアリザス殿が嫌いなら良いんですけど。エアリア様も含めて、ルピス領の民を皆殺しにするつもりだったりしたら、とんでもないことですよ」
「だから、僕は焦っていたんですよ。大公がその気になれば、愚かなことでも平気でやらかすんですから……」
「しかし上手にやっていれば、エアリア様を宥めすかしたりして、貴方の大望は実現したんじゃないですか。隙があったから、大公に感づかれたんでしょう。やはり、何もかも時期尚早だったんです」
「分かっていますよ。でも、あんな状態のエアリアをあんまり長く放ってはおけないでしょう。セイルさんが行かなかったら、公女どころか、性別を超えて、人間ですらなくなっていたかもしれません」
「それは、まあ否定はできませんけど」
もしかしたら、苔でも生えていたかもしれない。
そんなことを容易に想像できてしまう自分が嫌だった。
「でも。セイルさんはそんなエアリアのことが好きなんですよね?」
「ごほっ!」
突然、とんでもないことを訊かれて、セイルは驚くというより咳き込んだ。ついでに吐いてしまいそうだったが、何とか堪えた。
「アリザス殿? 見えませんか? 貴方のために皆、戦っているんですよ。そういう時に不謹慎なんじゃないですか?」
「分かっていますよ。でも、退却命令も出しましたし、深追いはして来ないでしょう。我々は隙を見て撤退するだけです。見た所、派遣されたのは騎士団の一隊のようだ」
「えっ?」
「サファライドは内乱が多いので武闘派もいるんですよ。今回のはどうやら、そういう連中が主力になっているみたいだ。厄介ですよ」
「できたら、その辺をちゃんと計算に入れておいて欲しかったですね。エアリア様が一連の首謀者として都に連行なんてされてしまったり……、ましてや、ここで処刑なんてなってしまったら、俺達のしたことは何の意味もない。無駄な犠牲ばかり出すために、動いたわけじゃないでしょう」
かえってエアリアの立場を悪くしたなら、それこそ居た堪れない。
「それは大丈夫ですよ。今回はあくまで様子見です。そのことは、家臣にもちゃんと告げてある。まだ僕達は負けたわけじゃない。昨夜、貴方が丁度エアリアの所に行っているときに、リュファという少年が僕の所に来ましてね」
――何だと?
セイルは目を剥いた。アリザスの前ではあの姿で現れるなと、散々釘をさしたのに。
それとも、姉と共謀して、二人で高みの見物をしているのか?
「何だか、協力してくれるらしいです。なぜかあの方からの一筆も頂きました。今まで、あの方からは口返事くらいしかもらえず、諦めていましたが、これで怖いものなしになりました。エアリアには決定的にふられたけど、貴方には感謝します。有難う」
「ちょっと待って下さい。貴方はそれを信じるのですか?」
「可愛い義弟のためだと言っていたので、信じるしかないでしょう。だから、貴方にもエアリアのために、一層頑張ってもらわなければ」
「…………何て面倒なことを。リュファのやつ」
「まあ。セイル殿。気が付けば、動いてしまうということもありますからね。恋愛感情ばかりは理屈じゃ割り切れないものでしょう」
共感されているのか、馬鹿にされてるのか分からない、絶妙な言い回しだった。
「…………貴方まで、そんなことを言うんですか。オージス殿?」
セイルは、じろっとオージスを一瞥する。
土に汚れたシャツに吊りズボン姿も悪くなかったが、やはり騎士姿の方が凛然としている。さすが、エアリアを護るという極秘任務を命じられた騎士だ。アリザスが彼を選んだことは正解だと思える。
「私だってきつかったんです。ずっと、エアリア様を陰で見守っているだけで、表立ってお助けすることも、話すことも出来なかった。先日、すべてを話した時、ネイに怒られましたよ。魔女だなんて酷いことを言って、エアリアから遠ざけるなんて最低だって」
「オージス。お前には、すまないことをしたね。ネイは大丈夫か?」
「エアリア様に会いたいと、文句は言っていましたが、近所の農家に置いてきました。あちらの方がまだ安心でしょうから」
長い間ずっと、彼らなりに葛藤があったのだろう。みんなエアリアのために、動いていた。けれど、それは本人には伝わっていなかった。きっと、セイルだったら無理にでもエアリアに分かららせようとしたはずだ。今だって、そうするつもりでいる。
「俺は、オージス殿に言われたからとか、同情でもないですからね」
エアリアのことを可哀想とは思わない。
もし、それを口に出して、彼女に近づけば逆効果だろう。
絶対に拒絶されるのが分かっている。
「同情でなくて、彼女に惹かれるっていうのは、元々そういうのが好きだということですかね? 正直、僕としては面食らったというか、予想外というか、やられたというか……」
「貴方は彼女を貶めてるのか、好いているのか分かりませんね?」
「ええ。それ、僕にも分からないんですよ。エアリアとは生まれた時からの付き合いで、家族のようなものですから。いっそのこと、家族になった方が援助しやすいと考えたんですけど。エアリアは、それを打算と思ったみたいです」
「……思うでしょうね。あの人の性格なら」
「結果的に、僕は病気のイリア様を抱えて大変な時に、彼女の前から逃げた。恋人どころか、友人にもなれなかった。だから、好かれようなんて、これっぽっちも思っていない。でもね。正直、横から掻っ攫われるのには腹が立ちます。貴方なら大丈夫だと思ったのに」
「何が分からないって。未練たらたらじゃないですか。そのくせ、酷い言い方をして」
「セイルさんだって、ゴミ屋敷だの、散々言ってるじゃないですか。一体何処が気に入りました? 気に入らないなら、僕に返品して下さい」
「返品って、貴方は何てことを……」
『男二人で、みっともない』
「………えっ?」
セイルとアリザスは、二人で声を合わせた。
今の声は、オージスではない。アリザスの従者でもなさそうだ。艶めいた女の声だった。だが、女なんて、ここにいるはずがない。
「―――あっ」
背筋に冷や汗をかきながら、下を見たら、長い鬣の動物が赤い舌を覗かせて、当然のように欠伸をしていた。
「……これは、もしかしてエアリアの愛玩動物?」
さすがのアリザスも驚愕していた。
「…………喋るの?」
振り返ってオージスに尋ねたが、オージスは激しく頭を振るだけだった。
『馬鹿二人。いいから、窓の下を見なさい。大切なお姫様が大変な目に遭っているわよ』
セイルとアリザスは慌てて、窓の外に目を向けた。




