第4章 ④
「……そう……ですか」
「そんなに、驚いてませんよね?」
「いえ。驚いてるつもりですが、どう反応するべきか分からなくて」
むしろ、セイルに騙されているような気がしてならない。
「でも、セイル殿はここに来るために地道な裏工作までするくらいだから、特別な力はないのでしょう?」
「ええ。まあ。俺は、今現在は普通の人よりも無力です。でも悲しいことに魔法使いよりは、厄介なものだと思っています」
「はあ。厄介なものですか?」
―――やはり、夢かもしれない。
エアリアは寄りかかっていた出窓から離れ、セイルと向かい合った。
目を擦ってみるが、一応彼の姿は、透けてなければ、足がないわけでもない。
エアリアはまだ正常らしい。ならば、セイルの方だ。
――人ではない?
馬鹿馬鹿しい。それこそ、セイルの思い込みなのではないか?
しかし、セイルはそういうエアリアの心も見越していたのだろう。
先手を打ち「貴方は信じないかもしれませんが……」と前置きした。
「……実は、俺ももう百年以上は生きている。だから、貴方の言ったとおり、人の一生がどんなに意味のないものなのか、よく分かっているんです。素性を隠すため、騎士のような格好をして、いろんな所を旅してきました。もっと生きたいと言って死んだ人を沢山目にしてきました。何で俺だけ生き続けているのか……。いっそ、死んでしまいたいと思った頃もありましたよ」
「……セイル殿?」
「でも、結局死ねなかった。姉が生きているから、俺も生きている。そう割り切って流されるように生きてきました。少しだけ、貴方に似ているでしょう? エアリア様」
「そう……ですね」
もしも、その話が真実であれば、セイルとエアリアは状況が少しだけ似ている。
「でも、ある日突然、姉が結婚をする……と言ったんです。これからは一人で生きていけと言われましてね」
セイルは胸元から、首飾りにしていたのか指輪を引っ張り出し、冷たい眼差しで見入った。飾りも何もない質素な銀色の指輪だが、光沢は綺麗だった。
「それは、探し物の指輪ですか?」
「……貴方の予想通り、これは落としたわけではなかったのですが、心理面で落し物があったというか……」
何だか、あやふやに言っているが、やはり彼が言っていたことは嘘だったのだろう。
「この指輪は、ラファール家の当主の証です。指輪の中に、ラファールの印が刻まれている。俺はこの姓が大嫌いで、最初に貴方に姓で呼ばないで欲しいと言ったのは、そのためです」
「ラファール家?」
「化け物一家ですよ。でも、歴史は長いだけに、色々と隠し事はある。俺は姉の結婚相手、ただの人間である義兄が信用できなくて。姉の能力目当てだと思っていたんです」
セイルは深く頭を下げて、呟くように話した。
話すこと自体苦痛のようだ。こうして、エアリアの前で語るのも、やっとのことなのかもしれない。
――では、彼の話は本当なのか?
「義兄が家族三人で一緒に暮らそうと言ってきたんです。俺は義兄の企みか嫌がらせにしか思えませんでした。二人が仲良いところを見せ付けられるたび、自分ばかりが不幸な気がした。まっ、貴方の言うとおり、ここに来たのは単なる物見遊山。何処か遠くに逃げようと思ったら、たまたまアリザス殿に勧誘された。それだけです」
(じゃあ、リュファ君はセイルのお義兄さん側の縁者なのかしら?)
――でも、それって……。
「家出?」
「恥ずかしいので、あまり連呼しないでください」
セイルは本当に情けなさそうに、頭を抱えている。
耳まで真っ赤だと、いっそ可愛らしかった。……憎めない男だ。
すべては信じきれないが、セイルの姉の魔女もこの可愛い弟を心配しているのは分かる。
「では、家に帰らなければ……」
エアリアは自分にできる精いっぱいの笑みを浮かべた。
「貴方には、帰るところがあるってことじゃないですか。早くお姉さんを安心させて下さい。私は大丈夫ですから」
「…………大丈夫?」
セイルが調度品一つない牢部屋を見渡した。
あまり、大丈夫でないのは明白であるが……。でも、それはセイルとは関係のない話だ。
「私、ああいう別れ方をして、後悔してたんですよ。今日は、貴方の方から来てくれて良かった。だから、リュファ君には私は怒ってないのだと知らせて下さい。セイル殿にもリュファ君にも感謝しているのです」
捻くれてはいるが、それはエアリアの本音だった。
本心から、セイルに出会えたことに感謝している。
……しかし。
「まったく。ここまでしても、貴方は俺に頼りたくないんですね?」
「はっ?」
セイルは眉を寄せ、エアリアを睨んでいた。
怒らせることを言ったわけでもないのに、なぜそんな顔をされなければならないのか?
「何のために、こんな寒々しい所まで出向いて、こんな恥ずかしい話をしたと思ってるんです。人じゃない俺だから、少しは貴方の役に立てると思ったからでしょう。俺の言ったことが信用できないならそれでもいい。でも、たった一言、助かりたいって言えないんですか? それとも、まだ死にたいとでも思ってるとか?」
「……そ、それは。その……」
エアリアは、冷たい床に視線を落とした。
「自分でも、よく分からないのです。でも、元々消えてしまいたいと思ってたんだから、今が絶好の機会じゃないかなあ……とか」
「はっ。呆れた。心底、頑なな人だな。不幸体質というんじゃなくて、自ら不幸になるのを歓迎しているんですよね。言っておきますが、俺は貴方が公女だからって、尊崇の念を抱いているわけでも、同情しているわけでもない」
セイルの心は、怒りから、呆れに落ち着いたようだった。
「俺は貴方に会って、自分を見ているような気がしました。でも、俺は、そんな後ろ向きで、気力がなくて、死ばかりに憧れている貴方がいるから、自分が死のうとは思わなくなったんです。……もう少し生きていても良いと思えた。だから、貴方も変わってくれれば良いと思ったんです。もう少し生きていても良いと思えるように」
「セイル殿?」
前にずいとセイルが出てきたので、エアリアはいつかのように腰を浮かせて、後ろに退こうとした。だが、途端にセイルがエアリアの腕を掴んだ。ゾッとするほど冷たい手は、怖いほど強引だった。
「分かっていますよ。貴方はただ変に真面目で捻くれているだけだ。演技も出来ないほど素直で純粋だ。……しかし」
顎をとられて、無理やり顔を上げさせられた。
どくんと心臓が跳ねる。強く引かれた手から、セイルの激情が伝わってくるようだった。
「どうしようもなく、腹が立つことがあります。貴方は俺も、何も見てなんかいない。終わりにすることばかり考えている。そんなに死にたいのなら、……貴方を下さいよ。俺に」
「ひっ」
もう片方の手で、首筋を撫でられてエアリアは混乱した。
……さすがに、これはまずい。
しかし、抵抗しようにも、体が言うことをきいてくれなかった。
頭がぼうっとする。パンに薬でも盛られたのだろうか……。
「一応ドレスで来たんですね。年代物だから、お妃様のですかね?」
顔を逸らそうにも、しっかり手で固定されているので出来ない。
エアリアは、仕方なく小さくうなずいた。
母の形見のドレスだった。淡い水色のドレスには、精緻な刺繍が施されていて、所々に小さな宝石が縫い込まれている。
残したのはこの一着だけで、あとは全部処分してしまったが、胸元が開けたものだったのは後悔だった。もっと露出の少ないものを残すべきだったのだ。
「そうしていると、愛らしい公女殿下なのに……ね?」
「放して下さい」
拒絶しているつもりなのに、エアリアは、その手を振り解くことが出来ない。
アリザスとは、何もなかった。
愛を告白され、エアリアはそれを拒絶しただけで、それ以外、清々しいほど何もなかった。しかし、セイルは違っていた。あそこまで散々悪態をついたのに、彼はここまでエアリアを追ってきた。こんな小娘を助けて、彼に一体、何の利点があるのか?
「エアリア様」
激しくなる心臓の鼓動に気を取られていたら、あっという間に唇が重なった。
触れる程度の口づけには名残なんてものはなかったが、セイルの乾いた唇の感触だけは、色濃くエアリアの中に刻まれた。
「どうして……?」
エアリアの額に、自分の額を押し付けて、セイルが言う。
「したいと思ったから。貴方も言っていたじゃないですか。減るもんじゃないって」
「……そんなこと忘れました」
「酷い人ですね。自分の見目が良いことを分かってて、そんなことを言うのだから。前髪を伸ばして隠してたのも、自分の価値が分かってたからでしょう……。わざと自分を貶めて満足していたんだ?」
「そんなつもり……」
……なかった。でも、誰も自分に近寄って来てくれるなと思ったのは、事実だった。
(それって、そういうことなの?)
エアリアが悩んでいるのを良いことに、セイルが顎に置いていた手を背中に回して、ゆっくりと床に押し倒す。
「まっ、待って下さい。一体、何を……?」
まさか、ここまでセイルが実力行使に出るとは……。
同じ家に暮らしていても、何もなかったのに……。
「良いじゃないですか。屍になる前に一度くらい。嫌なら、俺を恨めば良い。むしろ、それで、生きぬく意欲が沸いてくるっていうのなら、喜んで手伝いますよ。俺は」
…………本気だ。セイルは、我を失っているようだ。
いや、もしかして、これが最初から彼の本性だったのか?
「セイル殿は、人間じゃないんですよね? だったら、こんなこと」
「ええ。俺は人じゃない。だから、貴方に信じさせてあげますよ。今の話が真実であることを。たっぷりね。今から人間にあらざる行為をして、その体に刻みつけてあげましょう」
――人間にあらざることって?
(……何? 獣? 魔物? どんなことよ?)
恐すぎて、訊くに訊けない。エアリアの両腕を、セイルが両手でしっかり封じ込めている。剣があれば、応戦できるのに、あいにく、セイルは丸腰だ。
騎士の格好しているくせに、この男は何をしてるんだろう?
「待って下さい。そういえば、私、ちゃんとお風呂入ってませんから近づかない方が」
苦肉の策で叫んだエアリアだ。屋敷にいた頃より人間的な暮らしをしていて、ちゃんと、体も拭かせてもらっているが、風呂に入っていないことは事実だ。
だが、清潔好きなくせして、セイルは怯むこともない。
「大丈夫です。ちゃんと美味しそうな香りがしていますから」
「いっ……」
セイルがエアリアの頬を撫で、美麗な顔がエアリアのもとに下りてくる。
首筋にぎこちなく唇が触れた。仄かに温かいのは、先程の口づけの名残のせいだろうか。
「駄目っ……」
ざらついた舌を首筋に這わされて、エアリアはとうとう声を張り上げた。
何がなんだか分からない。緊張で息が乱れて、呼吸が苦しくなる。
次第に頭に霞がかかっていくのは、酸欠のせいだろうか。
――やがて。エアリアは何も考えられなくなって意識を手放した。