第4章 ③
エアリアは、速やかに捕えられた。
元々、母の我儘のせいで、アリザスの家族には嫌われていたのだ。
アリザスは無事だと説明したが、先に、後任領主が都から来ることを告げられたアリザスの家族は憤り、エアリアがアリザスを唆したのだと罵ってから、一番古くて人が近づかない館の楼閣に閉じ込めた。
……閉じ込めたということは、偽物扱いもしていないようだし、一応、牢ではなかったのだから、公女扱いもされているのだろう。思ったほど、待遇は悪くなかった。
むしろ、母が存命の頃よりは、マシかもしれない。
あの頃は、毎日が辛くて仕方なかった。
何しろ、この屋敷に厄介になっている頃の母といったら、目に見えるすべてのものを叩き壊しては回るほど、心が荒んでいたのだから……。
母が驕慢な行動をする度に、エアリアは方々に謝って回った。
子供ながらに、エアリアにも分かっていた。
ルピス領主が、渋々エアリアと母を受け入れたことを……。
自分たちの存在を好ましく思ってないから、臣下にも情報を漏らさず、秘密裏に幽閉していることも……。
ここから追い出されたら、他に行くあてがないことも、よく分かっていた。
毎日屋敷中の人に気を遣いながら暮らした。
そうしたら、いつの間にか侍女にすら敬語で接するようになってしまった。
どうして、自分はこんなことをしているのだろうと、何度も自ら命を絶とうとしたけど、駄目だった。
――結局、ルピス領主直々に追い出された。
エアリアが母の欠点を補おうとしても、アリザス以外には届かなかったのだ。
仕舞には、アリザスがエアリアを庇う度に、エアリアがアリザスを誘惑しているのだと噂された。まだお互い子供だというのに、悪意のある話ばかりが独り歩きをする。
(よく毎日、飽きもせずに泣き暮らしていたわね。私も……)
それは、わずか数年前のことなのに、はるかに遠い昔のことのように感じられた。
何の感慨も沸いては来なかった。今のエアリアの心は、冷めきっている。
昔のことを冷徹な目で振り返ることが出来るし、これから起こる未来も他人事のように、見送ることができる。
(感情なんて、いらないわ……)
そんなものがあるから、エアリアは疲れるのだ。
だから……。他人と関わるのは嫌いだ。
感情をぶつけられると、忘れかけていた何かを蒸し返してしまいそうで怖かった。
そっとしておいてほしかった。ようやく、体得したエアリアの生き方を壊さないで欲しかった。……なのに。セイルは、エアリアの生き方自体を真っ向から否定する。
―――――あの時だって。
セイルは、エアリアを抱きしめようとした。
まるで、エアリアのこれから先の人生を自分のものにでもするかのように……。
(冗談じゃない……)
エアリアは、セイルに寄りかかる気なんてなかった。
頼れとか、利用しろだとか、そんなことを言うけれど、そんな無様なこと自分に出来るはずがない。だから、エアリアはわざとセイルを怒らせようとした。
――でも、あれは大失敗だった。
芝居のつもりで彼を怒鳴っているうちに、なぜか涙が溢れ始めた。
泣いて、喚いて、心を大きく乱した。あれでは、ただの子供だ。
まるで、昔のようだった。まだあんな激しさが自分の中に残っていたなんて……。
(恥ずかしすぎる……)
もう、セイルに会いたくない。その一心で、屋敷を出た。
……あれから、一体幾日の月日が経ったのか?
明日にでも、都から父セディウスが寄越した新しい領主が来るはずだ。
とっととこの問題を片づけなければ、ノーヴィエの成人の儀に傷がつく。
だからこそ、エアリアはルピス領で自分が処刑されることはないと読んでいた。
せめて、都に連行してから、今度こそ確実に、ひっそりと命を絶つのが無難だろう。
エアリアが処刑されたと知れば、アリザスの件と共に、エアリアの存在を知っている一部の人間が怒るかもしれない。わざわざこの大切な時期に、事を大きくする必要はないはずだ。
父がそんな失敗をするとは、エアリアには思えなかった。
(早く、来ないかな?)
そして、このくだらない茶番劇を早々に打ち切って欲しかった。
――こんこん……。
その時、部屋の扉を誰かかが叩いた。
「はい?」
食事を持ってきたということだろうか?
返事をするでもなく、エアリアは小さな窓に凭れていた顔を上げた。
ーーと。
音もなく扉が全開して、すぐに閉まった。
(あれ?)
――いない。
今、確かに扉が開いたはずだ。いつも、屈強な衛兵が床に食事を置いていくのだ。そして、エアリアが眠っている間に回収していく。
……なのに、今日は床に何かが置かれた形跡は何一つない。室内は再び暗く閉ざされただけだ。
(……まぼろし?)
エアリアは目を擦った。空腹の余り、幻まで見るようになってしまったのだろうか?
(寝るしかないわ……)
眠れば都合の悪いことはすべて忘れられる。
虚ろな目を閉じ、再び窓枠に突っ伏したエアリアを、しかし唐突に揺さぶる手があった。
「……ん?」
「エアリア様」
耳元で囁かれる甘い声は、悲しいほど聞き覚えのあるものだった。
(とうとう、私都合の良い妄想まで見ることになってしまったのね)
いよいよ、本当に自分も死ぬのかしもれない。
だったら、自ら壁を作る必要性も、わだかまりを残す必要もない。
「……セイル殿です……か?」
「ええ」
衣擦れの音がした。顔を上げないエアリアの隣に、セイルが座ったらしい。
「一応、お伝えしておきますが、みんな、無事です。もっとも、アリザス殿は仮死状態が長かったせいか、まだ眠ったままですけどね」
彼の低い囁きが、寝入り端の耳に心地よかった。
「……そうですか。アリザスはまた随分と長く寝たきりなんですね。でも、今ここで彼に目覚められると、更に大変なことになりそうだし、これはこれで悪くない気もしますけど」
「そうですね。貴方が大公の手に落ちれば、アリザス殿は出鼻を挫かれた格好となりますしね。生存を訴えれば、万に一つ、領主に復職することくらいは出来るかもしれませんが、貴方という駒が手元にないのなら、叛乱する大義名分は半減する。実に見事な判断でしたよ。エアリア様。おかげで犠牲者は、最小限に留められる」
殊更、優しい声音をしているのは、セイルがエアリアを皮肉っているからだろうか。段々、そんな気がしてきた。
「また痩せましたね。ちゃんと食べていないんでしょう?」
「セイル殿は、まるで母様みたいなことを言います」
「この状況においても、笑ってられる貴方が心底理解できませんよ」
「笑っているように見えましたか?」
「……自嘲しているようにも見えましたけど?」
セイルはエアリアが目を開けるのを見計ったように、パンを差し出してきた。
飢えていることは、予め予想していたのかもしれない。
エアリアの夢にしては、現実味溢れるセイルの美麗な容姿だ。
小さな窓から差し込む月光の眩い光を浴びて、金色の髪は一層艶めき、陰影がはっきりしたせいで、整った顔立ちが鮮明に際立っていた。
セイルの瞳の色が深い藍色から、金色に変化していくような気がしたが、きっとそれこそがエアリアの夢という証なのだろう。
(そこまで……。私はセイル殿に会いたかったのかしら?)
アリザスの時のように、ばつの悪い別れ方をしてしまったから、無意識のうちに気になっているのだろうか。
エアリアは拒むのも面倒で、流されるままパンを頬張った。
一口食べると忘れかけていた食欲がじわじわと蘇る。
飲み込むように嚥下したら、味なんて分からなかった。
微かに果物の味がしたような気がしたが、お腹に入ってしまえば分からない。
急に食べたせいか、目が回った。
しかし、食べた感覚があるということは、目前に存在しているセイルは本物ということになる。
(……あれ?)
セイルがこんな所まで、来られるはずがない。……だけど?
「あの。セイル殿。これは、私の夢ですよね?」
「今更、それを言いますか」
セイルは、額を押さえて肩を落とした。例によって、がっかりさせてしまったようだ。
しかし、夢ではないのなら、どうして?
羞恥心が込み上げてきて、エアリアはつい強い語調となってしまう。
「じゃあ、セイル殿も魔法使いってことなんですか? ここって、普通の人が来られるほど緩い警備はしていないはずですよ?」
「ええ。そうでしたね。ものすごい警備で大変でしたよ。ここに入るために、オージス殿と協力して、アリザス殿の部下に掛け合ってみたんです。それで、ここの衛兵たちを買収して、ようやく今日実行できたんです。断固として言わせてもらいますが、俺は、姉のようないかがわしい魔法系ではありませんからね?」
「へえ。……そうですか」
(魔法系って何なんだろう?)
だが「魔法」という非現実的な行為自体に怪しさを覚えているエアリアには、セイルが何者であろうが、どうだって良いことだった。
「……ということで、エアリア様。現在、貴方をここから出すことも出来ないのです。何しろ、衛兵たちにも生活があるみたいで、貴方を出したとバレたら、処分されてしまうそうですから」
「はあ。まあそれは良いんですけど」
もとより、脱出する気もないのだが……。
「では、一体何のために?」
わざわざ、パンを渡しに来たわけではないだろう。
「貴方に謝りたかったんです」
「セイル殿が私に? 散々なことを喚いたのは私じゃないですか」
「そう仕向けたのはリュファと俺の姉ですから。貴方はもっと怒った方が良いんです」
「はっ?」
エアリアには分からない。
リュファはレグリスと話をしているふうに見えたが、あれはただの独り言で、エアリアにわざと聞かせただけだったのか?
「でも、そろそろ都から父が寄越した後任の領主が来ているみたいですし、あの情報は嘘ではありませんでした。礼こそ言っても、決して怒るとか、そういう感情はありませんよ」
「たとえ嘘でなくても、あそこでバラす必要はないでしょう。それを聞いた貴方がどう動くのか、リュファなら分かっていたはずです」
「つまり、私が嵌められていると?」
「貴方だけではありません。俺がどう出るかも遊ばれているのです」
――遊ぶ? 何だ。それは?
「貴方はこんな所まで、俺が嫌がらせに来たのかと怒っているかもしれませんが……」
「……怒ってませんよ」
だけど、否定の割に、声が怒っているのが自分でも分かった。
セイルは微苦笑している。
「でも、残念ながら、姉は昔からそういう人なんです。一応、姉と言っていますが、血の繋がりがあるかどうかも分からない。少なくとも二百年以上は生きているはずなんですが」
「二百年?」
「俺も似たようなものです」
「…………えっ?」
セイルは、こうなることを予想していたのか、淡々と告白した。
「…………俺、人間じゃないんです」




