第1章 ①
「それで、ラファール殿」
「……いや。エアリア様。俺のことは姓で呼ばなくて結構」
「いきなり名前で呼びつけるのも失礼ではないですか?」
「失礼でいいんです……というか。その方が良いというか……」
「ああ、そちらの意味でしたか……」
彼が貴族というのは、本当のようだ。
姓は家名であり、先祖代々受け継いできた大切な物だ。
しょっちゅう変える名前より大切にしている貴族は、意外に多いらしい。
家名が穢れるからと、わざと名前の方で呼ばせたり、二つ名を持っている貴族もいるのだと遠い昔耳にしたことがある。セイルはラファール姓がエアリアに呼ばれて穢されることを警戒しているのだろう。
初対面ながら、随分と嫌われたものだ。
「それでは、遠慮なく。セイル殿。本題に入りましょうか。貴方はここに何をしに来たんですか? 大体、私は死んだことになっているはずなんですが?」
「……それは、そう……ですが。しかし、一部の人間には貴方が存命していることは周知の事実のようですよ」
セイルは、エアリアが「死んだ人間」扱いになった理由を知っているということなのか。
そのわりには、彼は明らかに、狼狽しているような気がする。
「一応、忠告にうかがったというか……」
「忠告?」
「ノーヴィエ公子の成人の儀が、一カ月後に王宮で執り行われる予定なのは、ご存じですか?」
―――ノーヴィエ?
遠い昔、何処かで耳にしたような名前だ。
「ええっと」
エアリアは、思い出そうとして……。放棄した。
「…………ノーヴィエって、誰でしたっけ?」
「貴方。いい加減。偽者なら、不敬罪で切りますよ」
やはり、セイルは怒った。元々罅が入っていた笑顔が見事に壊れている。
そういう傾向の人間だと第一印象から思ってはいたが、短気なのは間違いなさそうだった。綺麗な顔をしているのに、もったいない。
「ごめんなさい。ふざけていたわけではないんですが。一応、私がエアリアなんです」
「証拠はないのですか?」
「……残念ながら、みな売ってしまいました」
「売ったって……?」
セイルは戸口から屋敷の中に、それとなく視線を向けていたが、エアリアは嘘をついていないので、他に誰かいるはずがない。
セイルは苛々を隠すように、咳払いした。
「失礼しました」
彼は辛うじて、最低限の敬意と、敬語を維持しているようだった。
「ご記憶にないと仰るのなら仕方ない。貴方様の弟君ですよ。今年で十一歳になられる」
「…………そうでしたね。そんな人もいました」
この弟の誕生から、エアリアの人生は暗転したのだった。
記憶から抹消したい、思い出したくない名前には間違いなかった。
「その弟が成人して何か?」
「……分かりませんか?」
「よく育ったってことですか。めでたいと?」
はあ……と、 本当に、情けなさそうに溜息をもらしたセイルは、頭を抱えた。
「……エアリア様。…………失礼ながら、エアリア様の今の状態は、如何なものかと?
人間的な清潔さが欠如してらして、挙句少し呆けていらっしゃる」
「…………えっ」
「もはや限界を越えそうですよ。貴方が本当に公女なのかと思うわけですが。公女である証拠がないというのも、困りものですよね?」
早口で毒舌を叩く。
エアリアの身分を探し出して、訪ねてきたのは彼がはじめてだ。
確かに、母が死んでからのエアリアは、人間の体をなしていないような気もする。
自覚はあった。……けど。
「私が私である証拠……ですか」
別に信じてくれなくても良かった。必死になって身の証を立てようとする理由がエアリアにはない。公女だからって、何がある?
――ろくなことはないのだ。
「サファライド公国、第一公女エアリア様とお見受けいたす!」
「…………ああ」
エアリアは心の底から溜息を吐いた。
……ほら。
来客というのは、一人来ると、立て続けに来るものだ。
狙われる心当たりは沢山あるので、考えるだけ無駄だった。
セイルの背後に恰幅の良い男達が五人、抜き身の刃を向けて佇んでいた。
(まさか、襲撃するのに名前を呼ばれるとは思ってもいなかったわ)
エアリアは、まるで狙いすましたかのような騒動にげんなりした。
「困りましたね」
「何をぼさっとしているんですか?」
セイルが叫んだ。
「あれ? セイル殿は、彼らのお仲間じゃないんですか?」
「どうして、俺が?」
「違うんですか? じゃあ、別々の指揮系統とか?」
「また、意味の分からないことを。貴方、正真正銘エアリア様なんですよね?」
「今更何を……?」
エアリアが眉を顰めると、セイルが小さくうなずいた。
「ならば、結構」
セイルは激しく溜息を吐きながら、腰の剣に手をかけた。
「えっ? 何をしているんですか。セイル殿?」
「決まっているでしょう。彼らをどうにかしなければ?」
言いながら、さも当然に剣を抜き放つ。
まさか、セイルがエアリアのために戦ってくれるとは、考えてもいなかった。
「ともかく。エアリア様」
「はい?」
「貴方の弟の公位を確実にするために、刺客が蠢いているという話なのです。俺はそれを伝えるためだけに、わざわざこんな田舎まで来たわけです」
「つまり、礼が欲しいと?」
「…………あまり可愛い性格ではないようですね。貴方」
それはそうだ。エアリアの屈折した性格といったら、年季が入り過ぎて、自分でも気持ち悪いほどだ。しかし、セイルだってその口の利き方は無礼ではないのか?
「サファイドの魔女! この国のため、し、死ねっ!」
男達がエアリアに剣を向け、かえって目立つ白のローブをはためかせて突進してくる。「公女」と呼ばれるより「魔女」と罵られる方が我ながらしっくりくるのが虚しかった。
「何、ぼやっと……してるんですかっ。危ないでしょう。エアリア様は、家の中に避難して下さい!」
刺客をまとめて三人相手にしながら、セイルが怒鳴った。
エアリアは本当に、困っていた。
どうせ家の中に避難したところで、セイルがやられたら、次はエアリアではないか……。
セイルはかなり強いようだが、たった一人で五人に勝てるはずがない。
エアリアを名指しで襲ってきたのだから、相手はただの暴漢ではなく、訓練された暗殺者であるはずだ。
「魔女エアリアーっ!」
「うわっ!?」
……驚いた。
セイルの目を盗み、暗殺者の一人がエアリアに突進してきた。本能的に後ろに下がったエアリアは、間一髪剣の切っ先をかわしたが、軽く頬は切られたらしい。痛みというより、熱さを感じて、手をやると、ぬるりとした血液が指先に滴った。
(ああ。やっちゃったわ)
下手に顔に傷つけられるくらいなら、上手い具合に殺された方が楽なのではないか。
後ろ向きな思いに浸っていると、玄関前の数段の階段を飛び上がってきたセイルが相手を撃退しつつ、エアリアの首根っこを掴んだ。
「だからっ! 言わんこっちゃない」
セイルが怒声を張り上げた。今の敵に対する切り返し方は素早く見事だった。
彼には剣才があるかもしれない。……などと、淡々と観察していたエアリアだったが、次の瞬間、エアリアの指先に付着した血を目にしたセイルは情けないほど、うろたえた。
「……ち、血がっ……!?」
それは、エアリアを気遣ってというより、心底調子を崩したような恐怖の顔だった。
「ああ、掠り傷ですよ。平気です」
「そういう問題じゃないんですよ」
エアリアを後ろに回して、男達に向き直ったセイルは、剣を振り回しながら叫んだ。
「お前たち。この娘を暗殺したいんでしよう? ならば、もっと上手く出来ないんですか。俺のいる時にのこのこやって来て、目に見えるところに出血させるなんて、このバカが!」
――目に見えないところを出血させるのなら良いのだろうか。
「俺は……。……血を見るのが苦手なんですよ」
(……なんだ)
憐れな公女のために、頑張って大立ち回りをしてくれるのかと、にわかに期待したエアリアだったが、それはとんだ思い違いだった。
彼は本当に血が苦手だったらしい。
次の瞬間、豪快な音を立ててセイルはその場に倒れた。
(うわあ……)
――貧血のようだった。