第3章 ⑥
「さすがに、サファライド公の娘と名乗るのに、髪がぼさぼさで汚い格好で行ったら、信じて貰えないかなって思いまして。少しばかり小奇麗にしてみようかと。久々の外出すぎて緊張しているんです」
「いや、もう何て声をかけて良いものか……」
セイルは、上の空で答えた。
(さて、どうやってこの娘を引き留めたら良いのか……)
頭の中は、そればかりだった。
「エアリア様、まず、貴方はどうして、アリザス殿の屋敷に行こうなんて思ったんですか?」
「リュファ君がレグリスに話していました。父は新しい領主を派遣するという名目で、ルピス領に兵を送って来るのではないかって。数は明らかではないみたいですけど」
「何ですって?」
セイルは驚きのあまり、目の前が真っ暗になった。
真偽はともかく、リュファがうかつにもエアリアが聞いているところで、そんな話をしていたのが気に入らなかった。
「まあ。レグリス相手にそんな話をして、どうするのかは分かりませんが、それはあり得ることだろうなって、私も思ったんですよ」
エアリアは、いつものように抑揚なく語った。
「父は、アリザスが死んだものと確信しているのでしょう。アリザスと共に叛乱を起こそうと企てた臣下たちを粛清するつもりなのです。他領への見せしめとしての行為もあるかもしれません。アリザスの行動は幼稚すぎました。誰がアリザスに入れ知恵をしたのかは分かりませんが、父が気づかないはずない」
「……それで、どうして貴方が?」
問うまでもなかった。セイルには、その問いの答えが十分すぎるほど分かっていた。
だからこそ、エアリアが答えないのも分かっていた。
「……つまり。一人で罪を被ろうというのですか? 自分が死ねば犠牲者は少なくて済むんだと、貴方は本気でお思いなんですか?」
「そこまで、うぬぼれてはいません」
エアリアは苦笑しながら、だけど鋭い眼差しできっぱりと告げた。
「でも、利用されるのはまっぴらごめんです。ここで逃げても必ず、誰かが追いかけてくるのなら、私は大人しく父の思惑に従いますよ」
「……死ねなかったくせに?」
「貴方がしっかり殺さないからです」
何でもないふうに言って、黒髪を掻きわける。その仕草に、セイルはどきりとした。
「死は、そんなに易しいものじゃない。もう少し視野を広くした方が良い。方法は一つじゃないはずですよ。第一、信憑性のない情報に踊らされてどうするんですか。エアリア様」
「セイル殿、貴方だって、まだ父が私を殺すと決まったわけじゃないのに、どうしてそんなことを言うのです?」
「殺そうとしていたのは、周知の事実ではないですか?」
「パトリシアの言いなりになっていることは分かりますが、真相は分かりません。子供の時だって追放で済んだんですから、今回だって分かりませんよ。死刑はないかもしれません」
「貴方が重い腰を上げる理由が見当たらない。どうせ後ろ向きに、この辺りで終わりに出来ないかと模索してるんでしょう?」
エアリアは諦めたふうに、目をつむった。
「さあ、どうでしょう。でも、父は最低な人ですが、私が剣を覚えるまでは、何でも我が儘をきいてくれる優しい父だったんですよ」
「エアリア様」
――エアリアは、遠い過去に生きている。
その瞳が求めているのは、優しかった父母と、幼馴染みのアリザスだ。
彼女はセイルのことなど、これっぽちも見ていない。
だけど……。セイルだって、人のことは言えない。
長い年月、ずっと魔女の姉と二人でいた。
みんな、通り過ぎて行くだけの人間だと思って、まともに向き合おうともしなかった。いつしか、それが当たり前で、気持ちが揺れることなどなかったのだ。
……なのに。今どうして、自分はこんなに苛々しているのだろう。
「さっきも言ったはずです。俺を頼れば良い。貴方の好きなように利用すれば良いじゃないですか?」
「ここまで話が大きくなってしまったんです。魔女っていったって、薬草の一つ調合できる程度で、この事態を解決なんてできないでしょう」
――やっぱり。エアリアは魔女を信じていないのだ。
そうだろう。そんなものが存在していれば、彼女の母も救えたはずなのだから……。
彼女は何も信じない。セイルの言っていることは、ただの絵空事だ。
それでも、セイルは黙ってなんかいられなかった。
「解決できなくったって、話し合えば良い。二人でじっくりと」
「……一体、貴方と何を話すと言うんです?」
エアリアは、本当に分からないといったふうに頭を振った。
「私は貴方に、アリザスとレグリスを頼もうと思っただけです。レグリスはリュファ君とも友達になれたみたいですし、大丈夫でしょう。アリザスは領主には戻れないかもしれませんが、結構図太いので何処でも生きていけると思います。もし可能なら、イルミアに連れて行ってあげてください。留学してたのなら、生活基盤くらい残っているでしょう」
「エアリア様。俺は貴方とイルミアに行こうかと、考えてたんです」
「どうして、私と?」
言ってるそばから、エアリアが派手にくしゃみをした。
セイルは、無言で重い外套を脱ぐと、強引にエアリアを覆った。
「とりあえず、俺ので恐縮ですが、羽織っておいてください」
「別に良いですよ。とりあえず屋敷に戻りましょう。私もさすがにこの格好じゃ行きませんから」
「行かせない!」
そのまま成り行きにまかせて、抱き寄せようとしたら、見事に突っぱねられた。
「いっ、いい加減にしてください」
エアリアは外套を脱いで、セイルに突き返した。
「私が全力で寄りかかったら、貴方なんて簡単に潰れますよ」
「これでも、俺は結構頑丈なんです」
「その割には、あまり顔色も良くないようですが」
「俺は、本気で言っているんですよ」
「じゃあ言いますが。私はね。貴方に腹を立てているのですよ。セイル殿。一体、何なのですか? 貴方は、ただ物見遊山にここに来ただけでしょう?」
「それは……」
「貴方はイルミアの人間のようですね。ならば、エフェクトの血を引く私は敵に等しい。違いますか? 貴方の立場としては、私が死のうが生きようがどうでも良いのでしょう。だから、アリザスの誘いに詳細も聞かず、簡単に乗ってしまった」
セイルが口を挟めないほど、エアリアは鋭く捲し立てた。
(……怖いほど当たっている)
セイルは今更ながら、この公女の洞察力に舌を巻いた。
「それで共にいるうちに、私を不憫に思いましたか? 自分の命を犠牲にして領民を救おうとしている憐れな娘だと思いましたか?」
いつも人形のようにぼーっとしているエアリアが、まるで切れ味の良い剣の切っ先を、セイルの首筋にあてがうように声を荒げた。
「……エアリア様」
セイルは、その迫力に圧倒されるだけだった。
「私はそんなお人好しではありません。正直、うんざりしているのですよ。唯一、生活面でも頼れる存在の幼馴染に、一方的に好きだの何だの自分の気持ちを押し付けられて、拒否したら、雲隠れされて、母は治療費も払えずに死んだんです」
エアリアは涙を浮かべながら、言った。
「それで、今度は自分の預かり知らないところで、勝手に叛乱だの企てられて、父には刺客を立てられるんですよ。今度こそ楽になれると思ったら、睡眠薬だなんて。貴方に私の何が分かるんですか?」
「エア……リア様」
「挙句の果てに、私を一方的に巻き込んだ幼馴染は勝手に殺されかかかるんです。しかも私の目の前で? 一体何の喜劇でしょうか」
エアリアの手を掴もうとしたら、あっけなく払いのけられた。
――止めることができない。
(俺では駄目なのか……)
「そして? 貴方は一緒にイルミアに逃げろと私に言うのですね? それは私に対する同情ですか? 共に旅することで命の大切さを説こうとでも言うのですか? 救えないんですよ。誰も。人の一生なんて、意味のあるものじゃないんです。貴方も、私の人生だって」
はあはあと肩を震わせ、涙を手の甲で拭ったエアリアは、毅然と顔を上げると、何事もなかったかのようにきびすを返した。
「もう、全部忘れて下さい。私はすべてに関わりたくないんです」
(救えない……)
セイルは言い返せなかった。エアリアは、間違ったことを口にしていないのだから。
でも、とてつもなく彼女は独りだ。――たった独りで、闇に向かって歩いて行く。
その手を掴むことがセイルには出来ない。……けど。
セイルはエアリアを恐れてはいなかった。
同様の深い闇なら、セイルだって持っているのだ。
(さて、どうしたものか……)
すぐさま追いかけたところで、拒絶されるだけだろう。
アリザスの館で、エアリアがどういう扱いを受けるのか分からないが、アリザスの家臣がいるうちは、彼女の命が脅かされる心配は低いはずだ。
――問題は、大公の判断である。
(一体、俺はどうするべきなのか?)
おもむろに首からぶら下げた銀の指輪を取り出したセイルは、その鈍い輝きを凝視した。エアリアに無くしたと嘘をついた指輪。
その無機質な指輪は、ラファール家の長の証だった。
裏にはラファールの名がイルミアの古代文字で彫られている。
――セイルが嫌って、憎悪までしたラファール家の……。
「良いものが見られた。ありがとう」
嫌がらせのように、リュファがセイルの傍らに立っていた。
「彼女の本音を聞くことが出来て、君も良かったはずだ」
やはり、わざとエアリアに情報を流したのか。
「俺に彼女を襲わせようとしたり、ここに軍が来るなんて怪情報を流したり、一体何がしたんいですか?」
「怪情報ではないさ。これから起こる本当のことさ。私はそうなると踏んでいる。パトリシアは馬鹿だけど、大公は愚かなんだよ。彼は一人娘の価値が分かってなかった」
「いや、大公より、むしろ貴方達の目的の方を、俺は知りたいんですけどね?」
リュファは腕組みして、頭の中で考えながら言葉にした。
「すべては君次第だということを、ラーナは教えたいみたいだね」
「はっ?」
「要は、出会ってからの時間は関係ないってことだよ。自分を動かす何かが彼女にあるか否かということだ。……で、そこまでの覚悟は、君には、まだないということなのかな。セイル君」
その通りだ。まだ一生を託すには、早すぎる。
けれども、彼女の傍にいたいと思うのなら……。
セイルが何かを懸けなければ、おそらく彼女はずっと気づかない。
そんなセイルの葛藤を、とっくにラーナもリュファも気づいているのだ。
――まったくもって、厄介な姉夫婦たちだった。




