第3章 ②
「良かったですね。ネイさんが感謝の印に大量の屑野菜をくれて」
飼い猫のレグリスに、ネイがくれた野菜を与えていると、セイルが背後で朗らかに言葉を放ってきた。ネイがくれた野菜をセイルが持って来てくれたのだが、礼はまだ言いたくなかった。
ネイはオージスの無事を聞き、アリザスを領主とも知らずに、旅の貴族として、従者共々もてなしているらしい。
オージスは追われているアリザスを見殺しに出来なかったのだと、ネイに説明していた。夫の言葉を信用して、彼女はエアリアが何者であるかも、アリザスが誰なのも分からないままだ。つくづく知らないとは怖いことである。
エアリアも、いろんなことに対して無知だった。だからこそ、腹が立ってしまう。
無駄に明るい調子で近づいて来るセイルが許せなかった。
しかし、そんなふうに、人に対して苛立ちを覚えている自分自身もまたエアリアには信じられなかったのだ。
「セイル殿」
「はい?」
「リュファ君は、何処に行ったんでしょう?」
「さあ。その辺りを散策しているんじゃないですか?」
「もしかして、あの子がアリザスとの繋ぎ役だったとか?」
「何のことです?」
凄まじい勢いで野菜を咀嚼しているレグリスを見ながら、いろんなことに疲れ果てていたエアリアは、その場にしゃがみこんだ。
背後に佇むセイルの長い影がエアリアの視界にまっすぐ伸びている。
「アリザスは、ネイさんの家に?」
「明日まで逗留するみたいです。さすがに貴方にフラれて落ち込んでましたけどね」
しかし、なぜかセイルの口振りは楽しげだった。
「……セイル殿。聞きたいことがありますけど」
「何ですか。急に改まって?」
「私、気づいたんです。そしたら、恥ずかしくなって。もっと早く気づくべきでした。いや、気づきたくなかったのかもしれませんが」
「だから。……何です?」
急き立てるわりには、セイルは怒っていない。のんきな口調だった。
多分、エアリアが言わんとしていることが分かっているのだろう。
分かっていて、セイルはエアリアの口から言わせようとしている。
「貴方の雇い主は、……アリザスですね?」
「……ええ。そうですけど。それで? それが真実だとしたら、貴方はどうなんです?」
セイルは否定をしない。否定ができないことは見越していたが、セイルの言うとおり、エアリア自身のことを何も考えていなかった。
「で、では、セイル殿。ネイさんの家にいるアリザスに伝えてくれますか。中途半端に手出しをすれば、アリザス自身の身が危ないのだと。父が私の命を狙っているのなら、放置しておけば良いのです。生け捕りにして、都に連行した方が良いのなら、そうしてください。私は逃げる気はないのですから」
「……逃げる気はない、ですか」
セイルは、呆れたように小さく息を吐いた。
「俺は、貴方とアリザス殿の繋ぎ役になる気はないんですよ。繋ぎ役として利用したいなら、せめてアリザス殿と貴方の関係性くらい聞かせてもらっても良いんじゃないですか?」
「別に特別お話することはありませんよ。ただ彼は、唯一私を公女として敬ってくれました。いつも優しくしてくれて……」
(駄目だ)
しどろもどろになって言葉を紡いだ。おずおずと振り返れば、やはりセイルが睨んでた。
「エアリア様? 貴方、一体、アリザス殿と何があったのです? アリザス殿も何も言いませんけど、直接会えない私的なことが二人にはあるのですか? そもそも、あの人が忍んででも直接貴方に会いに来ていれば、俺は最初から用無しだったんですよ。だから、俺だって、正直あまり良い気はしていないのです」
勝手な言い分には違いないが、ここで反駁したら、すぐにいろんなことがバレてしまう。エアリアは渋々頭を下げた。
「それは、すいませんでした。アリザスには貴方に謝罪するように手紙くらい書きますから。許してください」
「何で? 俺はただ二人が会えない理由を知りたいだけなのに。そんなに俺に話したくないんですか? まさか、貴方がアリザス殿に迫られたってわけでもないだろうし」
「…………っ!?」
突然、話を核心に向けられ、防御できなかったエアリアは、体を石のように硬直させた。
「……えっ?」
セイルもまたたじろいだのだろう。
――暫時、お互いに無言になってしまった。
わざとらしい咳払いで、沈黙を破ったのはセイルだった。
「えーっと……。その、もしかして、エアリア様、図星って感じですか?」
「違います」
エアリアは慌てて否定したが、もはや手遅れだった。
「へえ。つまり、母上とこの地に移った後も、アリザス殿はエアリア様を庇護していたのですね。世話というより、下心満載といったふうですが? 確か、アリザス殿は貴方より年下でしたよね。随分と生意気なガキですよね?」
「生意気って……」
セイルの非難の仕方は度を超えている。
エアリアもついむきになってしまった。
「違いますよ。アリザスが悪いわけではないんです。私がいけない。何から何までアリザスに縋っていたから。身内でもないのに、無条件で手を差し伸べてくれる人なんているはずがないのに。私は……」
「貴方が悪いわけじゃないでしょう?」
言下に、セイルは否定した。
「話を聞く限り、アリザス殿が貴方の立場を敬っているというわけではなさそうですね。……なるほど。だったら、俺はアリザス殿にエアリア様は、貴方の愛人に成り下がるくらいなら、死んでやると申していると、お伝えした方がいいんじゃないかな」
「なっ……、何てことを言うんですか?」
「アリザス殿は、貴方が思っているほど善人ではないと思いますよ」
「善人?」
……どういう意味なのか。
セイルの知ったかぶりがエアリアの鼻につく。
「私だって、善人じゃありませんよ」
「……えっ?」
「貴方は私にリュファ君という弱点まで晒してしまっている。もしも、私がどうしても貴方に言うことをきかせたくて、その気になれば、あの子を人質にだって取れるんですよ」
「リュファ……ね。まあ、残念ながら、あの小煩い弟は俺の弱点でも何でもないんですよ。貴方が望むなら、煮るなり焼くなり好きにしていただいて結構なんです」
「何ですかそれ? やっぱり、セイル殿とリュファ君は兄弟ではないんですね?」
「いや。兄弟ですよ。残念なことにね。この辺りの事情、知りたいですか?」
「いいえ」
本当は、知りたい。――が、エアリアはそれを認めたくなかった。
自分は何物にも興味を示さず、動かされない。
それが今までに、身に着けたエアリアの処世術だったはずだ。
「アリザスが何を企もうが、貴方が何者であろうが、私は別にどうだって良いんです。だから、私を巻き込まないで下さい。殺す気がないのなら、そっと出て言ってください。私はただ一人……静かに」
「死ねばいいと……?」
セイルがこつこつと音を立てて、近づいてきた。
「自分など一人孤独に死んでしまえば良いと、貴方はまだそう思っているのですか?」
(何で?)
さっきは全然怒っているように思えなかったのに、今はひどく彼が苛立っているような気がする。
間近に辿り着いたセイルに対して、エアリアは振り向きこそすれ、身動することもできなかった。
セイルはエアリアの顔を覆うほど鬱蒼と伸びた前髪に手を伸ばし、藍色の瞳を憐れむように細める。アリザスのことを散々言っているが、今のセイルだって、エアリアに同じような仕打ちをしているのではないか?
(……いや、この人の場合、私を人扱いしていないのかも)
でも。払いのけてしまうには、優しいすぎる手だった。
「それで? 女らしさを消し、生気すらなくし、虜囚のように振る舞う。まったく自分に非がないことに罪悪感を覚えて、独り死んでいく。それが貴方の生き方なんですか?」
「どうして……?」
そんなことを、ずけずけと言うのだろう。
エアリアは、意を決してセイルの手から、自分の髪を引っ張り抜いた。
物珍しい物を見たように、セイルが目を丸くする。
「へえ。反抗的な顔も出来るんですね。その方が俺は遥かに人間的で良いと思いますが。その目に、アリザス殿も惹かれたのかな?」
至近距離で覗き込まれて、エアリアは赤面してセイルを突き飛ばしたつもりだった。
――が、実際は自分が後ずさっていたらしい。
レグリスを隔離していた囲いを破壊し、気が付いたら、エアリアはレグリスの前に仰向けに倒れていた。
「何やっているんですか!? 貴方は」
セイルが怒鳴る。
「何って……」
お前のせいだとは言い出すことが出来ずに、エアリアは上体を起こした。
セイルが差し伸べた手を、渋々掴んでエアリアが立ち上がろうとする。
……その時だった。
―――――がぉぉぉっ!
レグリスが雄叫びをあげて、こちらに牙を剥いた。
「ちょっと、レグリス。どうしたの? 急に吠えだしたりして、ちゃんと鳴きなさい」
「……いや、あれは獅子ですからね。獅子は咆哮ですからね」
「いいえ。猫です」
言い争っているそばから、レグリスが金色の鬣を聳やかし、セイルに突進してきた。
「セイル殿!?」
庇おうとしたエアリアを突き放して、セイルはレグリスの巨体に押し倒された。
「レグリス、やめなさい!」
エアリアが腹の底から声を出して一喝すると、驚くほどあっけなく、レグリスは静かにセイルの上から退いた。
「……凄い。よく獅子をどうにか出来ますね」
「旅芸人の人に教えてもらったんです」
「それはまた、随分と親切な旅芸人もいたもんだ」
セイルは地べたに倒れたまま、なかなか起き上がって来なかった。
エアリアは段々心配になってくる。
(まさか、何処か打ちどころが悪かったんじゃ?)
「あの……。大丈夫ですか?」
警戒心を抱きつつ、エアリアは、隣に跪いてセイルを覗き込んだ。
しかし、それは失敗だった。
「まあ……。一応、大丈夫ですよ」
あっさり答えた彼の藍色の瞳に、エアリアは我知らず惹きこまれてしまった。
セイルの瞳は美しい深い海の色をしている。
(……海……か)
子供の頃、王宮の近くに港があることを知っていて、いつか行ってみたいと願いながら、ついに行くことはなかった。もし、行く機会があったのなら、彼の瞳の色のような海を見ることが出来たのだろうか……。
感傷を込めて口元を歪めると、しかしセイルは瞬き一つせずエアリアを見上げていた。
「やっぱり……。綺麗な顔をしているじゃないですか。エアリア様」
「はっ?」
「もったいない」
エアリアは、ようやく我に返った。
(見られている……)
エアリアがセイルに見惚れていたのと同時に、セイルもまたエアリアを見ていたのだ。下を向いているエアリアなので、髪の間から無防備な自分の相貌を、晒してしまっているらしい。何たることだろうか……。エアリアを覆って隠してくれている髪がその役目を果たしていない。これでは、まるで、裸で歩いているようなものだ。
セイルはいまだに澄んだ双眸をエアリアに向けたままだ。
無意識に、心臓が高鳴ってしまう。
(どうして、私なんかを見てるの?)
まさか、ゴミ女を網膜に焼き付けるという奇抜な作戦に出たというのだろうか?
それをアリザスに命じられているとしたら、エアリアはセイルの言う通り、アリザスを悪人と思い込むだろう、
「ああ、不躾に顔を見るのも酷いかもしれませんね。すいません」
「いえ、別に。私も見ていたので……。その」
「お互いさまというやつですか」
「お互い様ですが、でも、もう見ないで下さい。私も見ませんから」
頬を膨らませて、立ち上がろうとすると、セイルがエアリアのローブのようなドレスを引っ張った。
「あの獅子は、どうして俺を襲ってきたんでしょうかね。嫉妬でもするんですか?」
「まさか。そんなことは有り得ないと思いますが。でも……。今まで一度もこんなことなかったのに、一体レグリスに何があったのか」
呟きながらも、間近にいるセイルに気を取られていた。――しかし。
「…………二人で、何してるの?」
「うわっ!」
やましいことなど何もないのに、エアリアは飛びのいた。
気づけば、エアリアのすぐ脇にリュファが突っ立っていた。いくら小さいからとはいえ、どうして、今まで彼の存在に気が付かなかったのだろう。
「……いや、そのレグリスが?」
狼狽しながら、レグリスを指差すと、レグリスは大人しくお座りをしていた。
「レグリス? ……これがエアリアさんの獅子か?」
初めてレグリスの存在を知ったリュファが目を丸くしている。
「獅子ではありませんよ。……猫です」
「……そう。貴方にとっては猫なんだね?」
しかし、セイルのように間髪入れず否定することはなく、リュファは背伸びしてレグリスの鬣を撫でた。
「よしよし。可愛い猫だな」
「……可愛いですか?」
あまりの溺愛ぶりに、エアリアの方が怪訝になった。
「セイル殿は獅子だと言うのですが、リュファ君は猫だと認めてくれるんですか?」
「認めるも何も、貴方がそう言うのなら猫なんでしょう」
「そうですよね。レグリスは人懐っこいもの。ほら、セイル殿。やっぱり、レグリスは猫なんですよ!」
嬉しくなってセイルに向き直ったものの……。
「あのーー。セイル殿?」
「絶賛気絶中だな……」
リュファが駆け寄ってすかさずセイルの脈を取り、呆れ口調で言った。
―――早くも失神してしまったらしい。
「ああ……。また血を見たんですね?」
エアリアは苦笑した。よくよく見やれば、セイルは少しだけ頭から出血していた。
彼の指先には薄ら血が滲んでいる。それを知って、セイルは気を失ったのだ。
「でも、さっきだって斬り合いで血を見たはずなのに?」
「斬り合いがあったのは、初耳だけど、きっと気力で立ってたんだろうね。それで、今、限界に達してしまったと……」
しかし、毎回、その程度の血を見て失神していたら、仕事なんか出来ないのではないか? 戦わない騎士なんて聞いたことがない。
「まったく情けない。レグリス。君もそう思うだろう? セイル兄さんって、庇護欲そそるよね? 幾つになっても心配になる」
リュファは言葉とは裏腹に、にやにやしながら、レグリスの頭を撫でていた。
一度会っただけで、ここまで打ち解けてしまうなんて、一見すると冷たい印象からは意外だった。
「まったく、もう。今日にも出て行って欲しかったのに……」
渋々、エアリアがセイルを運ぼうと、彼を肩に担いだ時だった。
「エアリア……」
アリザスに呼ばれて、エアリアはその場にセイルを落としかけた。




