第3章 ①
久々に全力で走ったら、足がつりそうになった。
息を吸うのもしんどいと思ってたのに、なぜ、こんなことをしているのだろうか?
(いや、でも、もしかしたら、私のせいかもしれないし)
悪い予感が、現在進行している現実なのだと、確信に変わったのは、エアリアがネイの自宅を発見してからだ。
刃と刃がかち合う衝撃音。 濃厚な血の香りがエアリアの鼻腔を掠めた。
本当に誰かが室内で争っているようだった。
ともかく、もっと間近で見なければ、応戦できるかも分からない。
「何をやっているんですかっ!」
「わっ!?」
いきなり隣にセイルが現れたので、エアリアは一瞬足が竦んだ。
その隙を利用して、セイルがエアリアを抜かして走る。
「ネイさんは? セイル殿に託したはずですが?」
「エアリア様の屋敷に向かわせましたよ。まだオージス殿と決まったわけではありませんし、ネイさんの幻聴かもしれない。屋敷にはリュファか、最悪、レグリスがいるから大丈夫でしょう?」
「大丈夫じゃないですよ。誰かが一緒にいなくちゃ。レグリスは優秀ですが、人の言葉まで分かりません」
「じゃあ、貴方が帰ればいい。俺にとっちゃ、今まで寝たきり生活していた人が、無茶をやる方が恐ろしいですよ。いい加減、剣を返して下さい」
「血を見ただけで倒れる人には、危なっかしくて返せませんよ……」
どのみち、ここまで来て引き返すわけにもいかなかった。
一足先に駆けて行ったセイルが、煉瓦造りの簡素な家の中に消えていった。
丸腰なのにこのままついて行って、平気なのか気になったが、声をかけたところで、もう遅い。
「お前達、何をしているんです!?」
セイルの別人のような怒声と共に、後に続いたエアリアは、薄暗い室内の床に残された靴跡を確認していた。
泥にまみれた靴を履いているのが侵入者だとすれば、相手は三人だ。
案の定、視界に入る人数は三人で、エアリアの目に狂いはなかった。
床に座りこんでいるオージスに、刃を向けている男が三人。赤髪の男と、長い黒髪。もう一人は茶髪の癖毛だ。身形はそれなりに良く、騎士然としているが、まだ若い。もしかしたら、エアリアよりも年下かもしれない。
(オージスの隣でうずくまっているのは……、あれは誰?)
「……エアリア様」
呆けていると、セイルの広い背中に激突した。
「由々しき問題が発生しました」
「分かっています」
エアリアは溜息を零した。この展開はエアリアの想像以上だった。
「エアリア?」
苦悶の表情を浮かべていた青年が、初めてエアリアを直視した。
「――――アリザス」
栗色の髪を一つに結いあげている青年。
白いシャツと灰色のベストの上に、体の線に合った黒い外套を纏っている。
外套には金色の飾り紐がついていて、少しだけ豪奢だったが、見た目は少し裕福な商人程度の格好だ。この青年がルピス領主だとは誰も思わないだろう。
――アリザスは、極秘裏にここに来たのだ。
そして、刺客に何処かを切られた……らしい。
呼吸が荒いのはそのために違いない。
今のところ、出血している様子は感じられないが、一刻も早い手当てが必要だった。
「久しぶりです。アリザス。あまり元気ではなさそうですが?」
棒読みで挨拶すると、しかしアリザスより刺客の方が反応してしまった。
「おや。これはこれは。公女殿下が待ちきれずに来てしまったみたいだな。噂に違わず凄まじい襤褸服だな。エアリア様はよ?」
「しかし、思っていたより顔はひどくはなかったな? まあ、これから死ぬんだから、容姿なんてどうだっていいけどよ」
こそこそと言い合っているだけだったが、その意味は十分に聞き取れた。彼らにとって、エアリアの抹殺は後回しにしても良いほど「ついで」の任務らしい。
「しかし、どうして、ここにアリザスがいて、オージスさんが狙われたのでしょうか?」
「貴方は、まだ分からないのですか?」
セイルは前を向いたまま、さも当然のように告げた。
「オージス殿は、アリザス殿の配下ですよ」
「はっ?」
「がたがたうるせえな。死ねよ!」
赤髪の男が実用性のなさそうな重そうな剣を向ける。
とっさにセイルが腰の剣に手をかけようとしたが、あいにく剣はエアリアの手中だった。
「エアリア様。とっとと返して下さい」
しかし、エアリアはそれには答えず、今、一番気になっていることを口にした。
「今のセイル殿の言葉が正しいのであれば、オージスさんはずっとここに? 私の監視役をしていたのですか?」
「監視役とは語弊がありそうですよ。本人はそういうつもりじゃなかったんですから」
淡々と話すセイルは隙を見て、エアリアから剣を取ろうとしているようだったが、エアリアは柄から手を放さなかった。
オージスは、剣を構えたまま、優しい声音で答えた。
「監視なんて、とんでもありません。私は、アリザス様の命令でネイと結婚して、ずっと秘密裏に貴方をこの地で護っていたのです」
「アリザスが?」
「すまない。エアリア」
アリザスが昔のように親愛の眼差しをエアリアに向ける。
……どうやら、そういうことらしい。
エアリアだけが知らなかった。知らされていなかったのだ。
余計なことをしてくれたと、盛大に罵ってやりたかったが、今それをするべきではないことくらい、エアリアとて分かっている。
まず、この刺客たちをどうにかしなければ……。
逃げるという選択肢もあったが、久々にエアリアは心底腹を立ていた。
(誰も彼も勝手なことをしてくれる……)
アリザスも、オージスも、セイルも、リュファも……。エアリアも愚かだった。
見破る材料はいくらだってあったのに、誰の正体にもまったく気づかなかった。
そもそも、オージスのことだって、セイルとリュファが野菜を盗んだと口にした時点で気づくべきだった。――朝食のパンは何処で調達したのか……と。
最初から、セイルはオージスの正体を知っていて、本当は、食材すべてオージスに分けて貰っていたのではないか?
ネイが怒ってやって来たのは、夫婦の間で連絡が行き届いてなかったか、セイルがオージスにそう仕向けるよう伝えたからか……。
「エアリア様!?」
セイルが痺れを切らして叫んだ。
しかし、エアリアは、彼に護られる気なんてさらさらなかった。
「セイル殿。私はむしゃくしゃしているのです。貴方こそ、下がっていてください」
「いくらなんでも無理です。たとえ、貴方が剣の腕を磨いていたとしても……」
(何だ……)
やはり、セイルは知っていたのだ。
あれだけ手のことを観察しているのだから、バレているとは思っていたが……。
エアリアが秘密裏に剣の腕を磨いていたことに気づいていた。
――しかし、彼はすべてを知らない。
エアリアの腕は、にわか仕込みではない。
エアリアがただ母を護るためたけに、剣を振り回していたと思っているのなら、勘違いも甚だしい。
電光石火、エアリアは猛然と駆け出すと、セイルの剣を横に振り、身構えているだけの長髪の男の剣を弾いた。ついでに茶髪の男の腕を切りつける。そこでようやく、赤髪の男が現状を察知したらしい。
「…………何っ。どうして?」
青ざめながら、赤髪の男が切りかかってくる。
しかし、エアリアは冷静だった。
実用性のない大剣を振り回しているこの男が、三人の中で一番弱い。だから、動揺を誘ったのだ。男の動きは、分かりきっていた。想像するより先に、直感で体が動く。
男は叫声と共に、剣を大きく振り下ろしたが、エアリアはすっと横に避けた。
そして、身軽に机の上に飛び上がると、一気に男の肩口目がけて剣を振り下ろした。
一筋、赤い線が男の肩にひかれる。
エアリアに言わせれば、些細な怪我。力加減はしたつもりだ。
しかし、たったそれだけの傷で、男は目を丸くした。
「う、嘘……だろ」
ようやく回ってきた痛みに、男は狼狽して、その場にへなへなと座りこんだ。
その横で、先ほど飛ばした得物を手に入れようと長髪の男が床を這っていたが、そこにはすでにセイルが駆け付けていた。男の手が伸びる前に、勢いよく剣を踏みつけたセイルは、言葉によって彼らに留めをさした。
「もう、勝負はついていますよ」
それは男に対しての宣告だったが、セイルの視線はエアリアに向かっていた。
「ははあ。圧倒的ですね。エアリア様。……つまり、そういうことだったんですか」
「どういうことだか、分かりませんが、そういうことだと思います」
エアリアの投げやりな答えが面白かったのか、セイルが苦笑した。
「貴方が「魔女」と呼ばれているのは、そういう意味だったんですね。魔女とはサファライド公がつけた綽名ですか? 能力の差はあれど、オージス殿が苦戦していた男をあっさり倒してしまったんです、たいした腕ですよ」
「やめて下さいよ。かえって馬鹿にされている気がしますから」
しかし、セイルはエアリアの主張など素知らぬふりで訊ねてくる。
「確か、アリザス殿が放った刺客を貴方は「逃げた」と言いましたが、実際のところは貴方が撃退したのですね?」
「……追い出しただけですよ」
すげなく答えると、小さく溜息をこぼされた。
「肝心な部分が抜けている、怪我を負わせて……追い出したのでしょう?」
そこまで深手を負わせた記憶はないが、怪我をさせたのは確かなので、否定はできない。
アリザスがオージスに肩を借りながら立ち上がった。
「だから、大丈夫だと言ったでしょう、セイル殿。僕が放った刺客たちは、命に別状ありません。いまだに寝込んでますけどね」
「それは、気の毒なことを……」
勝手なことをしたくせに、二人して言いたい放題だ。
知らなかったのだから、仕方ないではないか。
――あの時、エアリア一人だったら、刺されても良かったのかもしれないが、セイルが心配だったから応戦するしかなかったのだ。
「知りませんでしたよ。アリザス殿。エアリア様は、ちょっと、剣を嗜む程度だと思っていました。まったく、これじゃあ、俺の方が殺されるところじゃないですか」
「結果的に死ななかったんだから、良いじゃないですか」
何だか、散々な言われようだ。
うなだれていると、アリザスがじっとエアリアをうかがっていた。
「エアリア。久しぶりだね。会えて良かった。僕は君に会いに来たんだ。君の時間が欲しい。少し良いかな?」
有無をも言わさない気迫があったが、エアリアはそのまま流されたくなかった。なぜ、アリザスは、今更ひょっこり現れて、刺客なんかに襲われているのだろうか?
「エアリア……。頼む。どうしても君に話したいことがあるんだ」
「わ、私は……」
セイルが鋭い眼差しでエアリアを見守っている。
それが何だか気恥ずかしいような感じがして、落ち着かなかった。
「君の未来のことについてなんだ。エアリア」
――未来?
そんなもの、あってないようなものではないか。
いつだって、エアリアの人生は真っ暗だった。
「私には、時間なんてありません……」
エアリアは叫ぶと、脱兎のごとくその場から逃げ出した。




