第2章 ⑤
「……シスは、ネイさんが住んでられないほど酷いのですか?」
「あら、知らないの。この辺でもみんな噂しているわよ。ほら、ノーヴィエ様の問題があるでしょ? 公子の妨げになりそうな貴族たちがさ、軒並み追放されたりして、そのとばっちりで、関係ない庶民まで巻き添えになったりするのよ。まったくお偉方さんは困ったものよ」
「それはまた大変だ」
すんなりとセイルは相槌を打つ。エアリアはセイルを一瞥した。
……彼はすべて知っていたのだ。
引きこもっていたエアリアは、ここ数年のことを一切知らなかった。
「……とばっちりで、巻き添えなんて」
独り呟いた言葉の重みに、血の気がひいていくのが分かる。
(あの人は、……娘だけでは、気が済まなかったの?)
父・セディウスの狂気は、他の人間にまで及んでるいるのだ。
「でもさ、ここの領主様は就いたばかりで、勝手が分からないのか、益々大公殿下に睨まれているのよね」
「ネイさん。それは本当なんですか?」
「何よ。ちょっと。エアリア、どうしたのよ?」
「前領主は亡くなられた? もしや、今は……アリザスが領主をしている……とか?」
「あのねえ。エアリア」
ネイが不機嫌な顔を更に歪めた。
「アリザス「様」だよ。ちゃんと敬称つけなきゃ。しかし、あんた、ここに住んでいたのに、そのくらいのことも知らなかったわけ? 領主様が急に亡くなられて、ご子息のアリザス様が後を継がれてから、かれこれもう一年は経っているよ」
――一年。そんなに経っていたのか。
つまり、アリザスの父は、エアリアの母が死んだのと同時期に亡くなっていたということだ。
アリザスがルピスに帰ってきて、領主をやっているなんてエアリアにとっては想定外だった。放逐されたアリザスには権力など微塵もないと思っていたが……。
「セイル殿……。貴方、もしかして?」
(すべて、アリザスに繋がっているのか? ……だとすれば)
すべて合点がいく。
けれど、それは、エアリアにとっては、とてつもなく頭の痛いことだった。
すべての芋を洗い終えたエアリアは、ゆるゆると立ち上がる。
背伸びしたら、地平線の向こうまで、青い大地が続いているような気がした。
――見渡す限り果てしなく何もない田舎の風景。
ルピス領は、四方を小高い丘に囲まれていて、夏は盆地で暑く、冬は雪を含んだ冷たい風が山を越えて吹きつける。
シスの大都から距離はさほど離れていないが、人は住みにくい土地だ。
今が一年で一番過ごしやすい時期だが、その時間は短く、間もなく凍死してしまいそうなほど寒い冬がやって来るだろう。
交易にむかない場所だからと断定されて、美味しい野菜も、この地で盛んな毛織物も、流通させる術を獲得しようとしない。
せっかく都から近いのだから、もっと方法があるだろうと、子供の頃からアリザスは憂いていた。
青空の先に続いているような道の先に、街が広がっており、その中心に、アリザスが暮らす領主の館がある。
――ルピスの前領主に、その館から追い出されて五年。
エアリアは、街に出たことすらなかった。
「オージス……」
気が付くと、エアリアと同じ所をネイも眺めていた。
「どうしたのかしら。オージス。今日はやけに遅いわね」
彼女は、夫の身を案じているらしい。
オージスは、朝から街に野菜を卸しに出ている。
よく獲れた日は、朝・夕の二回に分けて街に出かけているのだ。
今日はその二回、街に出る日のようだった。
「何かあったのでしょうか?」
神妙な面持ちのセイルをネイが笑い飛ばした。
「大丈夫よ。ウチの旦那、ああ見えて結構強いから……」
しかし、長閑な雰囲気は唐突に凍り付いた。
何処からともなく、聞こえる馬の嘶きと、怒号。
「えっ。今のオージス?」
ネイが呆然と呟いた。
エアリアには分からなかったが、ネイにはオージスの声が聞こえたのだろう。
静かな畑の中に、似つかわしくない微かな血の香りが、不吉さを助長させてくれる。
「ネイさんの家の方で音がしましたね。俺、ちょっと見てきますよ」
「待って」
勇敢に踏み出したセイルの黒い外套を、エアリアは引っ張った。
「なっ、何を!?」
前のめりになるのを見越して、エアリアは先回りしてセイルと向かい合った。
「セイル殿の方こそ。こちらでネイさんを見ていてください」
「貴方は一体、何を言っているんですか?」
しかし、問答無用で、エアリアはセイルの腰の剣を抜いてしまう。
「はっ。ちょっ、ちょっと?」
「良い剣ですね。ちょっと拝借してもいいですか」
「いいも悪いも。貴方は何をする気なんですか?」
エアリアは苦情を受け付ける隙を与えず、その場から駆けだした。