第2章 ④
――落とし前というのは、たった一日や二日では落とせないことだったらしい。
エアリアはその日から七日も、突如現れた農家の女性に振り回される羽目になった。
(何で、私がこんな目に……)
幸いだったのは、彼女の夫のオージスだけは、最初からエアリアの主張を信じてくれたことだ。
オージスは彼女の名前が「ネイ」だということを教えてくれて、気は強いが、根はとても優しくて、悪い嫁じゃないとのろけて話してくれた。
事実、ネイは正義感が強く真っ直ぐなだけで、裏表のない女性だった。
エアリアが農作業を手伝いだして二日目には、聞いてもいないのに、いろんなことを話しかけてくるようになった。
たとえば、オージスとは夫婦二人暮らしで、老け顔だが、二十代前半だということ。
野菜の育て方や、料理の仕方についてなど、内容は様々だった。
エアリアの家から、森を一つ挟んだだけの、つまりは「お隣さん」なのに、エアリアはネイが住んでいたことなど知りもしなかった。
村長が来ても、レグリスを使って追い返してばかりいたような気がする。
元々、農業が盛んな土地なのだと聞いてはいたが、そこに住む家族のことなど知ろうともしなかったし、知りたくもなかったのだ。
「たまには外の空気も良いもんでしよう。エアリア様?」
「……セイル殿も、手馴れてきたようで、楽しそうですね?」
「いえいえ。俺はエアリア様ほど上手くないですよ」
今の言葉は、絶対に嫌味だろう。
リュファは服が汚れるだの理由をつけて、一緒に来ない。
エアリアなら汚れても良いってことなのかと、おそるおそる問いかけてみたら、元々汚れたような格好をしているから良いそうだ。
(まあ、確かに茶色の服着てるから、仕方ないんでしょうけど)
それにしたって過酷だ。水仕事は苦にならないが、中腰の姿勢で芋の山を洗っていると腰が痛くて仕方なかった。
樽に張った水の中に芋を沈めては、ひたすら洗う。
泥つきの芋とは別に、これらは調理して街で売るのだという。
つくづく元気な人たちだ。畑仕事だって重労働なのに……。
だけど、セイルもまたネイ達と同じく働き者だ。
(さすが騎士よね……)
体力が半端ないとエアリアは思う。
貧血で倒れたとは思えない程、手際良く獲れたての野菜を馬車の荷台に積みこんでいる。
だけど、家から出て行けと言うと、体調が悪いとか、探し物があるなどと言って、動こうとしない。彼がエアリアを殺すと言っていたのは、何だったのだろうか?
(私は、セイル殿のことを見誤ったのだろうか?)
暗殺者でなければ、一体何なのだろう。
セイルがしていることといったら、日々の食事作りだが、何だか日を追うごとに、豪華になっていくようでかえって怖かった。これでは、ただの同居人だ。
―――一体、誰の命令でここに来たのか?
「エアリア様は、外に出ること自体少なかったんじゃないですか?」
「……何で分かるんです?」
「肌が異様に白いので。違っていましたか?」
エアリアは作業の手を止めて、一瞬自分の腕を見た。――生白い。
セイルの言う通りだ。
「それに手が荒れている。もう少し手入れをしないと、これからの季節、痛みますよ」
「……一体どこで、私の手を見たんですか?」
そこまで観察されているとは思ってもいなかった。
……彼は、真正の変態ではないか?
顔を上げると、微笑みかけられて、ゾッとした。
「貴方を寝台に運んだ時に、うっかり見てしまいました」
「……あの。こう言っては何ですが、あまり良い気はしないので、私の身体部分を指摘してくるのは、やめてくれませんか?」
「見えてしまったのは、仕方ないでしょう」
「じゃあ、口には出さないで下さいよ」
顔を真っ赤にして、芋をごしごしと洗う。だが、セイルは懲りていなかった。
「ところで、その髪は邪魔じゃありませんか?」
「分かりません」
「なるほど。一応は、貴方も邪魔だと思っているようですね?」
「……何で」
確かに、一瞬そう思った。
(……思ったけど)
何故、エアリアが考えていることを、彼は当ててくるのだろう?
長い髪は目に入って、前が見にくいし、撥ねた水で髪の先端が濡れてしまって寒い。
だけど、セイルに指摘されるのは居心地が悪かった。
エアリアはわざとらしく話題を変えた。
「セイル殿、貴方は一体どうしたいのです。私を殺すという話は何だったんですか?」
「だから落し物をしたんですよ。それが貴方の所に居座っている理由です。指輪を首飾りにしたものなんですが、貴方、知りませんか?」
「…………まったく知りませんが」
「じゃあ、貴方が倒れた俺を引きずって室内に運んだ時に落ちたのかもしれないな」
「私は倒れたセイル殿を、引きずってなんかいませんよ」
「へっ?」
「頑張って、担ぎました」
「嘘でしょう?」
セイルが作業の手を止めて、目を見開いた。
しかし、沈黙しているエアリアの様子に本当だということに気づいたのだろう。次の一言には、笑いが混じっていた。
「違う意味で尊敬しましたよ。普段動いていない割には、お元気のようですね?」
「…………う」
(怪力で、悪かったわね)
エアリアは、派手に咳払いをして誤魔化した。
「じゃあ、セイル殿。こんな所で農作業してないで、その落し物とやらを探した方が良いのではないですか?」
さすがに、セイルが自分を暗闇から救ってくれる救世主……なんて思うほど、エアリアは現実に夢なんて見てはいなかった。
(首飾り?)
自分で身に着けているのか、お守りのようなものなのか。
―――それとも、恋人の持ち物なのか?
「エアリアっ!」
「わっ!」
ネイの一喝に、思わず手が滑ってしまったエアリアは、洗っていた芋を樽の中に落としてしまった。慌てて拾い上げる。
「何、さぼってんの。手を動かしなさいよね」
「はっ、はい」
とっさに、エアリアは姿勢を正して、再びばしゃばしゃと芋を洗い始めた。
エアリアの視界の真正面に立ち塞がったネイは、収穫したばかりの泥つきの赤い野菜を振り回しながら、しばらく不審な顔でエアリアを見下ろしていたが、やがて満面の笑みに表情を変えた。
「しかし、エアリアって。格好はともかく、怖くはないわよね。魔女って話は嘘だったのかしら?」
ネイが必死で働いているエアリアを観察しながら、小首を傾げた。
――一緒にいて、七日。
ようやく、エアリアが魔女でないことに気づいたらしい。
(遅いというか、仕方ないというか……)
そこまで、魔女と信じられていたのかと思うと、エアリアもまた複雑な気分だった。
「ネイさん。よく言われますが、私には何の力もないんですよ」
「人を浚っては、食べているとか?」
「人を浚うほどの元気もないです」
「うん。まあね。あんた、見てれば分かるけどさ……」
ネイは、豪胆な女性だ。
そんな噂の立っているエアリアの家に、単身乗り込んで来たのだから……。
(いや、そんなことよりも……)
セイルが大笑いしているのが気に入らなかった。
「そうですね。このように軟弱な魔女では、本物の魔女に失礼だ」
「うーん。まあね。私もそうじゃないかとは思って、オージスには話したんだけどね。魔女なんて実在してないってさ」
「いやいや。ネイさん。そうでもないですよ。俺はイルミア王国の南にいるって聞いたことがあります」
「騎士さん、あんた魔女を見たことあるの?」
「さあ、どうでしょう。エアリア様が強烈すぎて忘れてしまったな」
(どうせ、私は魔女より強烈な悪臭持ちですよ……)
エアリアは溜息を吐いた。馬鹿馬鹿しかった。そんな非現実的なものが実在しているのなら、母の病だって治せただろう。
「それで、魔女でないのなら、エアリア。あんたは、何者なの?」
「……私は。その……」
「ほら。畑を介してはいるけど、せっかく隣同士になったんだ。別に、あんたが答えられないなら、それでも良いけど。あの屋敷が誰のものなのか、あんたは分かってるのかって思ってさ?」
「……まあ。一応、持ち主の許可は取っていますが」
「嘘。あの屋敷は、元は領主様の別荘だったんだ。不法占拠してるのなら、早めに出て行った方がいいよ。相手が庶民ならいざ知らず、領主様の別荘だもん。ばれたら殺されたって文句は言えないよ」
「……へえ。ネイさん。よく知っていますね。そんなこと」
逆に、びっくりした。ネイは意外と物知りのようだ。
エアリアの父、大公セディウスから、ほとんど無視されていた西の田舎ルピス領。
しかし、諸事情はさておき、ルピス領主の息子アリザスと、エアリアの年が近く仲が良かったことから、何とかエアリアはこの土地に置いてもらうことが出来たのだ。
(領主との同居は、うまくいかなかったけど……)
エアリアの母は自尊心が強く、誰に対しても感謝の情など持たなかった。
結果……領主の家族から疎まれ、追い出されて、母娘二人は、使わなくなった別荘をアリザスから提供してもらった。
だけど、まさか、周囲の住民がルピス領主の別荘の存在を知っているとは思ってもいなかった。
「……まーったく。私には分からないわ」
ぶつぶつ言いながら、ネイは収穫した赤い野菜を、セイルが野菜を積みこんでいた荷馬車に乗せた。
「だって領主様の別荘に、魔女が住み着いてるって聞いて警戒してたらさ、身形の良い騎士が「様」づけで呼んでるんだよ?」
「俺は、この方の従者ですよ」
あっさりセイルが答えたので、エアリアの方が仰天してしまった。
「セイル殿?」
「どうかしましたか? エアリア様」
とぼけているのか、嫌がらせなのか……。
そもそもこの青年は一体何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
額面通り受け取ったネイがセイルを睨みつける。
「何だよ。騎士様も人が悪い。この子の伸び放題の髪と汚い服は何? 従者だって言うなら、主の格好くらいどうにかしてあげなよ。せっかく亡くなった公女様と同じ名前なんだ。もう少し小奇麗にしなきゃ」
「…………ですって。エアリア様?」
「はい?」
「少しくらい、まともに見える容姿をしてみれば宜しいのでは? 俺まで変な誤解を受けるじゃないですか」
「私は別に不自由していませんよ」
むきになって言い放つと、ネイに軽く頭を叩かれた。
「バッカだねえ。……あんた」
手持ちの野菜を荷台に積み終わったネイは、手があいたようだ。
「女に生まれたなら綺麗にしなきゃ損だよ。私だって、まさか農家の嫁になるなんて思ってもいなかったからさ、ここに移り住んでから、日焼けやら、虫刺されやらで苦しんだけど、でも、オージスのためだから。色々とやってるよ」
「…………色々……ですか?」
それはおかしい。農家の嫁らしく、動きやすそうなワンピースにエプロン。
ついでに長靴まで履いているのは、一体何処の誰なのか……。
しかし、よくよく見てみれば、ネイは薄らと頬紅を落としてたり、口紅も塗っている。彼女なりにおしゃれをしているのだろう。
(あれ?)
そういえば、今ネイは気になることを言わなかったか?
「あれ? ネイさんってここに移り住んだんですか?」
「うん。そう。旦那を追って三年ほど前にここに来たの。シスの都で花売りしてたんだけど、あの人に一目ぼれしてね。親には反対されるし、もう大変だったけど」
ネイの恋愛話はどうでも良かったが、三年前という単語には引っかかっていた。
その頃は、ちょうど領主の息子、幼馴染のアリザスとエアリアは絶縁した頃だった。
「でもね。都もあの状態じゃ、長くは住んでいられなかったから。ルピス領は比較的落ち着いているし、治安は悪くはないわよ。都は物騒だから、いつか家の親も呼んで一緒に住もうと思っているのよ」
「えっ?」
エアリアは、目を瞠った。
――シスは大都だ。エアリアがかつて住んでいた宮殿も存在している。
サファライドで最も栄えている都市のはずだった。




