序章
――早く終わってしまえば良いのに。
それは、エアリアが目覚めて、最初に思い浮かべる言葉だった。
寝台からようやく上体を起こせば、溜息しか漏れない。
すでに、太陽は中天を越えている頃だろう。窓から差し込む光は抜けるほど明るい。
しかし、乱れた生活を送っているエアリアには、そんなことどうだって良かった。
飼い猫の餌があるので、何としても起きなければならないが、それでも、変化のない一日が今日も始まろうとしているのだと思うと、憂鬱で仕方なかった。
(早く、終わらないかな……)
太陽に祈るでもなしに、カーテンを開けようとする。――と、しかし、今日は何だかいつもと違っていることに気が付いた。
屋敷の外で、馬の嘶きが聞こえた。
誰かがこの屋敷の敷地に足を踏み入れたのだ。元々狭い場所なので、馬を置いてから入口に到着するまでは、数分とかからない。
ぼうっとしているわけにもいかなかった。
(……またレグリスのこと……かしら?)
老いた村長がごく稀に、飼い猫の鳴き声について、聞きに来ることがあった。
でも、エアリアは、周囲の村では人を食らう「魔女」という噂が立っているらしく、村長も、一言二言尋ねるだけで、足早に立ち去っていくのが恒例だった。
(ともかく、顔は出さないと。無人と思って家探しされたら困るわ)
長髪がばさっと顔にかかったが、エアリアは構わず部屋を出る。
エアリアは十八歳。本来であれば、ちゃんと着替えて、髪を整え、化粧を施してから、人前に出るのが常識なのだろうが、余計なことに労力を使うのは疲れるので、重々承知しつつも無視をしている。
屋敷の玄関の扉を叩かれる前に、エアリアは自分で開け放った。
『…………あっ』
ほぼ同時に驚いた。
今まさに、ノックしようとした手を止めた青年は、深い藍色の瞳を大きく見開いている。髪色は、目が眩むほどの金髪。落ち着いた紺色のチュニックと黒のローブ。そんなに背
は高くないが、肩幅は広く堂々としていた。
鬱陶しい黒髪を引きずって来たエアリアとは対照的な、清潔感溢れる容姿をしている。意外なまでに美形の若者だった。エアリアより幾つか年上のようだが、多分そんなに離れていない。しかし、ただの村長の遣いではなさそうだ。
腰にはさりげなく、実用的な大剣がぶらさがっていた。
身形といい、所作といい、貴族の子息に近いものがあった。
無論、エアリアはこのような男前に見覚えはない。
「――――貴方、誰ですか?」
「貴方の方こそ」
初対面なのに不遜な青年だ。人間、外見と中身は違うものらしい。
「この辺りにエアリアという名の女性が暮らしているそうなんですが、貴方、心当たりはありませんか?」
青年はエアリアのことを、小間使いとも思っていないようだった。
ここに住み着いている家のない小娘と決めつけている感じもする。
「その……。エアリア公女に何か御用で?」
「あっ。これは失礼」
エアリアが訳知り顔をすると、セイルも己の非礼に気づいたのか、軽く頭を下げた。
「俺はセイル=ラファール。至急、エアリア様にお会いしたいのですが、貴方はエアリア様をご存知でしょうか?」
――ラファール? 聞いたこともない姓だったが、やはり貴族だったようだ。滑らかな発音は、育ちの良さを物語っている。大方、貴族の騎士が道楽程度に騎士団に所属しているという程度の話だろう。問題は国家の騎士団か、領主の私兵かということだ。
セイルはまだ正式に名乗ってない。エアリアを信用してないに違いない。
「ラファール殿。とりあえず、ご用件は?」
「残念ですが、貴方に用はない。エアリア様ご本人にしか伝えられないことなのです」
セイルと名乗った青年は、きょろきょろと辺りを見渡している。
元々、部屋数は三つしかない、小さな屋敷だ。二人暮らしであれば、目の届く範囲に人がいてもおかしくはなかった。……だが、彼は大いなる勘違いをしている。
「あの……?」
「はい?」
「貴殿のおっしゃる公女というのは、私なんですけど?」
「えっ。サファライドの?」
「…………はい」
「第一公女であらせられる、エアリア様?」
「そうです」
「………………そう、なのですか?」
疑問符だらけの青年の顔を堪能しながら、仕方なく、エアリアは一言だけ補足した。
「エアリアは私。母は昨年死んで、ここには私しかいないですから」
「…………エアリア様は、その。独り……、暮らしをされていると?」
こくりと頷いてやると、セイル=ラファールは今度こそ絶句した。