3.
穴に落ちる感覚というものが未だに体に刻み込まれている。あれは幼いころのことだったか、具体的にいつだったかよく覚えてないが、ともかく昔。私は暗い穴に落ちたことがあった。まるで虚数空間を感じとったような、観測できない領域に踏み入ったような、独特なものを幼いながらも抱いていた。
「あの人たちは、守ってるんですよ。この地球を」
少女が言う。地球は実在する。
「ずっと遠くに……」
「いいえ、ずっと近くに」
彼女の言葉に理解が及ばなかったが、彼女は私の困惑に気付かなかったようだ。彼女の説明は、突飛で、信じにくく、受け入れがたい。地球は実在する。あの飛行物体の中には地球人――私や彼女と同じ容姿をしているらしい――が乗っていて、確認した私を不審人物と看做したらしい。
「地球は、他の星との交流はもっていないんです」
それはなんとも奇妙な話だった。星ひとつだけで、孤独に繁栄してきたのだというのだろうか。それはまるで原始的だ、それがこれほどまで美しくなければ心から軽蔑しているところだった。高貴の心をもってして軽蔑するところだった。
「あなたは――きみは一体……だれなんだ」
疑問に突き当たるのは容易なことだった。軽蔑を取り除いたあとの意識内を、疑問というものが占めていたからだ。だれだ? だれなんだ? 空気はいかがですか、地球の空気ですよ……。突如現れ、私に空気を売った少女。そしてこの「地球」で、また突然現れて、腕をとった少女。
「だれだというんだ」
重ねるように問いかけた。これは私の高貴に反するのだと思う。私は私の未熟性をありありと痛感していた。『テラ』に感銘を受け、その主人公を目指した。そのころ抱いた夢は、いまださめぬのだ。その舞台の上で、私は問う。
「わたしは……」
表情を曇らせる。空に浮かぶあの白い雲とはうってかわって、顔面に広がるその雲は、暗く、深く。私はこの表情が好きではなかった。飲料水を渡したときの朗らかな笑顔こそこの少女の魅力なのだと助言をすべきだ。しかし私の口はいかようにも動かなかった。寒くもないのに唇がかじかんでいた。乾燥していた。私は自分の顔が曇っていくのを実感した。私は彼女に負けたのだ。私は私に負けたのだ。
「こっち」
また腕を掴むのは少女のほうだった。腕をひいて歩く。私は滑車のようについてゆくしかできなかった。それは恥ずかしいことであった。この不可解な状況の中で私はいまだに恥を重んじていた。相手、すなわち恥の対象、が彼女ただひとりであるにも関わらず。低い草が足元をくすぐった。私は笑うことができなかった。くすぐったいという感覚はあったがそれが笑いに変換できないのだ。感覚神経だけ働いているらしかった。運動神経はただ歩くということしか考えにないようだった。陽極、陰極、反転して電流が流れていく。刺激が私の体を駆けた。その刺激がどこから来ているのか私にはどうしても分からなかった。
自然が続く。緑が繁る。足元をくすぐる。木というものはいつ見ても高い。六本脚の生物……昆虫の類か。太陽の光がふりそそぐ。ここの光は私の星より幾分強い。調節できないのか、とさきほど訊いて、また恥をかいた。
森の中をゆく。木々が陽光を遮る。さりとて暗くはならなかった。木漏れ日が充分に明るいのだ。
そしてその先に、広がる。
視界が途切れる。……わけではなかった。ただ暗くなったのだ。さきほどまで明るかったというのに、ふいに暗くなったのだから、視覚器官に異常が起こる錯覚に陥ったのだ。すぐに気付いて良かった。また恥をかくところだった……。
よく見えないが彼女の様子を確認する。までもなく、彼女は歩き続けていた。腕をひかれている私もまた歩かねばならない。暗闇を歩くのは不安だった。
意識が巡る。眩暈がする。暗闇のせいだけでないことはかろうじて分かった。しかしそれがなんのためなのかはまったく見当がつかなかった。意識が攪拌される。脳内を掻き乱された。実際そうでなくともそんな感覚が体にとりついた。空気は、空気はいかがですか。地球の空気ですよ……。脳内が音響ホール。声が混ざる。意識が混ざる。だれだ? だれなんだ?……こちらの案件についてですが……きみ、茶を持ってきてくれないか……まいどありー……十円足りない!……。複数の声が流れ込んでくる。眩暈とともに吐き気がした。脳の容量というものを明らかに超えていた。ここにいてはいけない。ここにいては身が持たない。
足が止まった。彼女が歩みをやめたのだ。
暗闇の中。だというのにぴかぴかと脳内で光が弾けていた。頭が痛い。
「ここからは機密空間です。先ほどの革命思想の人々には、特定できない周波で成り立っています。エーテルに準ずる物質の消滅により、光の届かない空間になっていますから、ちょっと不便ではありますけどね」
彼女の言葉はよく分からなかった。ただ、ここが暗闇であるということはよく分かった。暗闇の限界。光が届かない場所。だというのに温度は、ひんやりとはしていたが、凍えるほどではなかった。熱源が光の他にあるに違いない。その答えに辿り着くのは容易なことだった。少女が言う。
「人の心、人の記憶、人の感情……それがこんなに温かいなんて、知っていましたか」
ねえ十円貸してよ! 声が脳内に響く。その「円」という情報が、通貨のひとつであると私は理解できた。「十円」というのは些細な金額で、しかしそれが足りないゆえに目的の品物が買えないのだそうだ。瞬時にそれを理解していた。ここには。
「ここには、人類があるんですよ」
「地球人……」
「そう。そして――」
情動が流れ込む。脳細胞が新生する。意識の改革。保守的であるのに改革的だ。情報。地球の情報。それが望むシナプス。偽造された情報が風景を描き、実感を抱かせる。古臭い言葉、新しい概念。なにもかもすべて。よみがえる。保存。保存。これは人類の保守的な放棄なのだ。生き残ることを求めて発展を破棄した――臆病な生物。永遠の現生。私は分かってしまったのだ。なにもかも。高貴を捨てて。我々は地球人の見る夢でしかなかったのだ。
光の及ばない空間。地球上の死滅空間。時間を制御する装置。暗闇の装置。暗黒に溶ける、成長を捨てた人類。人々の記憶。記憶が紡ぎだす情報。私が感動したあの『テラ』も、ブリンギー第四惑星系も、すべて夢の中の出来事なのだとしたら。
私の人生もすべてただの情報に過ぎないのだとしたら。
そこに、私がいた。
*
意識が回復する。どうやら眠ってしまっていたようだ。どうしたものか、家の中が密閉されている。酸素濃度調節器が働いているので、体になんの支障もなかったが、冷や汗物だ。機械がとまったらどうするんだ。
なぜ密閉などしたのか思い出す……そうだ、「地球の空気」だ。私は袋入りの空気を吸って……。
袋は床にあった。中身は抜けきっている。どうやら、この空気の正体は睡眠薬の類らしい。気付けば眠ってしまっていた。だから屋外での使用を控えさせたのか。
なにか、とんでもない夢を見た気がする。しかし思い出せない。そもそも夢なんてものはそんなものだ。怖い夢を見た、楽しい夢を見た、その感覚だけがたいてい残る。……しかし、なにか、こう……。
ふと、壁を可視性に変えてみた。ちょうど外を、反重力性の車が走る。
反重力? あれはどんな原理なんだ?
疑問がよぎった。いままでなんの疑問も感じていなかったというのに。……宇宙の膨張と関係がありそうだが、詳しいことは分からない。
原理の分からぬまま応用化されたもの、まるでお話の中みたいだ。
なにかを忘れている。夢のことがまだ気になっているんだろう。私としたことが、高貴を心得るはずが、なにをそう細かいことを考えねばならないのだ。
あ、このまえの少女だ。容器の中の袋はまったく減っていない。私の他に買ってくれる人がいないらしい。
空気はいかがですか、空気はいかがですか、地球の空気です……。窒素に酸素が八対二。空気はいかがですか、地球の空気ですよ……地球の気分を堪能できる、夢のような空気ですよ――。