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2.

 室内でお願いします、という彼女の言葉から推測する。室外では困ったことになるというのだから、この空気はもしや快楽剤のようなものではないか、と。私も一度だけ試したことがある。体の奥底からじわりと快感が芽生え、指先にまで興奮が拡がるのである。その際は呆けた顔になる。よだれが垂れ、体の力が抜ける、快楽に浸った卑しい顔になるのだ。室内でないと困ったことになる空気、そう聞くと、当時の苦い記憶が甦ってくるものである。

 私は出入り口にロックをかけた。壁と扉が同化する。通気口も塞ぎ、代わりに酸素濃度調節機をオンにした。これは費用がかかるので、あまり使いたくないのだが、もし音が外に漏れてはもっと困る。せっかくあるのだからたまには金を使うのも仕方ない。

 今、この家は密閉状態となった。気圧については心配することはない。空気を抜いてしまうようなことがあれば、あるいは体がばらばらになってしまうかもしれないが。

 私は袋にストローを突き刺した。空気の漏れる音。慌てて口に含んだ。

 眩暈。靄。視界が狭まる。暗く。暗く。意識が。

 空が異様に青い。あんな色、見たことがない。いつだったか、海にプランクトン性の油が流出する事故があった。上空に見える色は、あのときの海を思い起こさせる。不気味で、吐き気がする。あの色が循環すると考えるとおぞましい。その色が、空になんの用だというのだ。

 次に私は、強烈な活力を感じた。空は依然と気味悪いが、なにごとかが私に気力を与えている。……それは酸素のためであった。ここは異常に酸素濃度が高いのだ。私は深呼吸をした。酸素が毒となって私に襲い掛からないか、直後に心配に駆られた。今更遅かった。しかしどうやら、そこまで高い濃度というわけでもないようだった。

 ここはどこだろう。その疑問に辿り着くまで、けっこうの時間を要した。さきほどまで私は、家にいたはずだ、家で音楽を……いや……そうだ、少女が空気を売っていた。地球の空気を。ひとふくろの空気を買い、家に戻り、それを吸ったのだ……。そうだ。そして気付けばここにいた。

 あの空気が原因なのか。

 記憶をまさぐれど、それ以上の推測は思いつかない。とりあえず、「地球の空気」を吸うことでこの空間に来た、ということに落ち着かせておこう。私は高貴に振舞わなければならない。それは未知の世界に訪れても変わらない。

 あたりには見たこともない植物が――葉緑素が見受けられるから植物のはずだ――生い茂っていた。私の腰のあたりにまで伸びている。こんなに背の高い植物は初めて目にした。古い文献で、ヒトよりも大きな木があることを知識として取り入れていた。それには及ばないが、この植物は充分に私の興味をそそった。この不可解な状況下で、植物ひとつに気を紛らわせることができるのだから、私の高貴さは大したものである。と、自画自賛してみるが、未だ空は気色悪い。

 そもそも空というものは、曖昧なもので、上にある空気の一部の層だということは分かるのだが、定義付けるのは案外困難なものである。高貴とはいえない。私は空については見上げたことしかないが、空を尊ぶつもりは毛ほどもないのである。その上で気味が悪いのだから、それは嫌悪感に増幅していた。私は上を向いて唾を吐きかけてやった。

 するとなんということだろう、不思議なことに唾は、私の顔に戻ってきた! これはどういうことか……と、思ったと同時に、私は自分の愚かさに気付いた。上にあるものが重力によって下に落ちるのは、当然のことではないか。この空間に限ったことでもなければ、なんら不思議なことでもない。どうやら私は、現在のこの状況から、すべての物事が奇妙に見えてしまっているらしい。平静を欠いているのだ。私は頬を拭った。汚らしい唾だが、これが私に警鐘を鳴らしてくれた。この尋常ならざる事態、自我を見失ってはいけない。

 途端、足元が暗くなった。なにごとか! 私は左右を眺め回した。なにも不自然な点は――なにもかもが不自然だということを除けば――見つからなかった。しかし足元が、暗いのである。光を絞り出されたように……ああ、私はまた愚かなことをしてしまったらしい。私は空を仰いだ。忌々しい色をしている。雲が空と空間を共有していた。足元の光を奪ったのは、この太った雲だったのだ。

 私は怒りに身をまかせて走った。一秒もしないうちに考えを改めて足をとめた。膝がふるえる。まさか高貴なこの私が動揺しているのだろうか。そうに違いなかった。

 足を進めることにした。しかし走りはしない。走るのはいつだって危険がつきまとう。転べば怪我をする。歩いているときも転ぶこともあるが、その程度の衝撃なら地面の緩和剤がやわらげてくれる。……そこまで考えて、ここが家の近所でないことを思い出す。そしてまた走り出したい衝動に駆られるのだ。ここはどこだ。ここはどこだ。

 唸るような音が遠方から聞こえた。一定の音が揺れる。エルネス系第四惑星の羽虫どもがたてる音と似ている。聞き慣れないため、空気の振動を的確に感じ取るのは容易ではなかったが、私はどうにか音の発信源を突き止め、その方角を向いた。斜め後ろだった。

 巨大な物体が飛んでいた。私の体より大きいことが見て取れた。私が三人いてもその大きさには敵わないことが目算できた。あれは飛行する乗り物だ。形こそ奇怪だが、こちらに近づくにつれて揺れる草々の様子は、日常でもたまに見かける、布などの揺れと似ている。――こちらに近づいている!

 音が空気に振動を強いる。激しく揺れる。どうやらその飛行物体は私の存在に気付いているらしかった。上空で停滞を始めたのが理解できた。あれはもうすぐ着陸するつもりなのだ。私を救いに来たのか、私に危害を加えに来たのか。どちらでもないかもしれない。私は逃げることを選択する勇気も、そこに立ちどまったままでいる勇気も持ち合わせずに、結局後者の勇気を持っているふりをするしかできなかった。しかし。

「こっちです!」

 手を掴まれた。突然のことに膝がかたまる。

「こっちですって!」

 掴んだ手を、声は揺さぶらした。私は無意識的に声の主を見遣った。それは記憶に新しい少女だった。腕を掴まれるほどの距離で見てみると、肌の色が私より幾分薄いことが分かる。その少女はまさしく、「地球の空気」を売っていたあの少女のことだった。

 彼女が私を引導する。私はそれに従った。少なくとも謎の飛行物体よりは華奢な少女のほうが安心だった。売買のとき彼女に飲料水を遣ったが、それは飲んだのだろうか。ふとそう疑問に思って、安定しない状況から気を紛らわせた。草の中を走る。彼女は呼吸を大きくおこないながら走っていた。腕を掴む手はゆるめない。その顔持ちが妙に真剣だったため、私は声をかけるのも憚られ、ただ周りの風景も知らずに走っていた。ともかくあの飛行物体から離れていることは明白だった。彼女は私に逃げる勇気を与えたのだ。

 どれだけ走っただろう。私は幼いころに肺の処置を受けていたので、息切れを起こすことはなかったが、彼女はそうではないらしく、不規則に乱れた呼吸とともに座り込んだ。汗をかいているようだった。

 それからやっと、私は風景を確認することを思い出した。どうやらここはトンネルらしい。点々と電灯が設置されているが、それらがなければ光は届かないだろうと容易に推測できた。上下左右同じ物質で覆われており、あの忌々しい空を見なくても済んだ。

「ここは?」

 と彼女に訊いた。彼女は疲れた顔をしていたが、言葉を発せないほどというわけでもなく、簡潔に「下水道」と答えた。下水道か。ウヌンカプタ系を旅したというマール・リ・リーの伝記に書いてあったのを記憶している。生活における水を循環させるうえで、大切な役割を果たすらしい。

「しかし、ここに水はないな」

「いまは使ってないんです」

 そう言って彼女が立ち上がった。休憩は終わったのか。呼吸はおとなしくなっていた。

 使い終えた下水道。なぜ撤去しないのか疑問に思ったが、私はそれを口に出さなかった。それよりももっと大きな疑問が頭を占めていた。

「どういうことなのだ」

 私は訊いた。青い空。高い草。生い茂る植物。巨大な雲。そしてあの飛行物体……。そもそもここはどこか。気付けばここにいた。この状況はどういうことなのだ。不可思議なこの様相をどう説明をつければいいのだ。彼女に訊いた。

 するとあっけなく彼女は答えたのだ。

「ここは地球です」と。

 空気はいかがですか、空気はいかがですか、地球の空気ですよ……。

 脳内に声が甦る。その声の主が目の前にいることに今更ながら驚いた。ここは地球です、彼女はまさしくそう言った。ここが地球。まさか。しかしひょっとしたら……。また混乱に陥る。高貴を望む私にとってこれは羞恥に他ならない。けれども私は混乱せざるを得なかった。地球という惑星は本来、物語に出てくる想像上の星でしかないはずだからだ。

「まさか、そんなはずがない」

「そんなはずがあるんです」

「だって地球は」

 しっ、彼女は口元に指を立てて、私の言葉を遮った。その顔は幼く、真剣な面持ちがむしろ不真面目に見えてしまう。私はなにか声に出そうとして、その曖昧さに断念した。言葉にならない気持ちで、その顔を見遣る。様々な思考が脳内で錯綜した。私はそれを他人事のように傍観していて、感想を抱きもせずに娯楽に徹していた。これが私の思う高貴なのかもしれない。そうでないのかもしれない。

「彼らがやってくる。説明は後で。こっち、こっちです」

 また腕を掴む。ぬくもりを感じる。今度は意志をもって走った。下水道を行くと、横手に大きな穴があった。それは上に続いているらしい。梯子がかけられていた。角度の関係か光は差していない。

 薄暗くも光は皆無ではなかった。上へゆくごとに光が増しているのを実感した。ざらついた粒子がまとわりつく。悪い心地ではなかった。彼女に続いて上りきる。

 その情景は強いていえば楽園だった。私よりも背の高い木。木の実。ぼうぼうに生えた草。ずっとずっと続く植物の行列。私はこのとき初めて、植物を綺麗だと感じた。色とりどりの景色が、視覚器官を否応無く刺激する。この地面となら空の色も違和感なかった。青と緑が調和していた。白い雲が映えていた。なにもかもが美しい。

「ここが……地球か……」

 自然と言葉が漏れた。一時期、地球ブームというものがあった。私の住む星系一帯で広まった流行だ。ある創作物で生まれた「地球」、作者が「地球」の著作権を棄てたのが流行のきっかけだったと思う。「地球」を扱った創作物が爆発的に増えた。低い水準の文明と、高品質の自然。それらが調和を保って時代を生きており、互いに侵食し合っている。ルイ・レ・テンリポーの戯曲『テラ』で感じとった「地球」が、もっとも鮮明に記憶に残っている。あの幻惑的な自然。淡い極彩色をゆく動物。これを超える「地球」は、きっと今後生まれ得ないだろうと私は確信していた。――しかし実際に目にしたこれは、それを遙かに上回っている。比にならなかった。ここが地球か、感動に揺れて言葉がこぼれる。

 しかし少女は感動する素振りも見せず、ぷいと言うのだった。

「さっきの場所も地球なのに」

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