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目覚め、という名の漂流

はじめまして、またはお久しぶりです。

本作は、記憶を失った少女と、森の奥の館に住む謎めいた男との出会いから始まる、ゴシック調のダークファンタジーです。

目覚めた時、自分の名前も過去も思い出せない少女。

彼女を拾い、静かに保護する館の主。

薔薇の香りが満ちる閉ざされた館で、少しずつ紡がれていく二人の物語を描きました。

激しい戦いや派手な展開よりも、静かな会話や空気感、孤独を抱えた者同士が少しずつ距離を縮めていく過程を大切にしています。

どうぞ、薔薇の香る夜の館へお入りください。

---


【檻の中の午睡、あるいは薔薇の名前】


**第一話 目覚め、という名の漂流**


---


◆ 一


眠りとは何かを、わたしは知らなかった。


知らなかった、というよりも、忘れていた。眠りとは終わりではなく始まりでもなく、ただ時間の織物に生じる一枚の薄い穴であって、人はそこへ滑り落ちては、また引き戻される。しかしそのとき、目蓋の裏に広がっていたのは穴などではなく、果てのない水面だった。暗く、深く、体温を持たず、けれど不思議と溺れることのない、どこまでも均一な水の底。わたしはそこで、長い時間をかけてゆっくりと腐っていたのかもしれない。あるいは、最初から腐っていたのかもしれない。


目が覚めた、と言えるかどうか、わからない。


意識が戻ってきた、というほうが近い。縫い目のほつれた布のように、ばらばらだった何かが、ゆるゆると一か所へ集まってくる。わたしは天井を見ていた。石造りの、重く暗い天井を。蜘蛛の巣が一本、隅から隅へ渡されていて、その細い糸の上に埃が積もっている。風のないはずの室内で、糸がかすかに揺れていた。何かの呼吸に応えるように。


体が重かった。鉛を飲み込んだように、四肢が沈んでいる。指先から何かを感じようとするが、感覚はまだ水の底にある。シーツ、とわかるのに時間がかかった。触れているのはシーツだ。リネンだろうか、あるいは絹に近い何かだろうか、冷たく滑らかで、人間の眠りに慣れた布ではなく、もっと古い眠りのために作られた布のような気がした。


起き上がろうとして、できなかった。


腕に力が入らないのではなく、起き上がることの意味が、まだ理解できていなかった。ここにいる、という事実と、ここから離れなければならない、という衝動が、同じ場所で重なって、互いを消し合っていた。


わたしは、ここがどこかを知らなかった。

わたしは、なぜここにいるかを知らなかった。

そして。


わたしは、自分が誰であるかを、知らなかった。


---


◆ 二


部屋は広かった。


ようやく上半身を起こして、わたしは薄暗い空間を見渡した。石の壁、重い木製の扉、鉄で縁取られた窓。窓からは光が差し込んでいたが、その光は奇妙に抑制されていた。外が曇っているわけではない。布が、厚い布が何枚も重ねて垂らされているのだ。おかげで室内は昼と夜の中間のような色をしていて、どの時間帯にいるのかが判然としない。


匂いがした。


古い石の匂い、木材の油脂の匂い、そしてどこかから漂ってくる薔薇の匂い。生の薔薇ではなく、薔薇から抽出したなにかを、何十年もかけて壁に染み込ませたような、甘く重く乾いた匂い。嗅覚だけが妙に鮮明で、わたしはしばらくその匂いを吸い込みながら、自分が泣いているかどうかを確かめた。泣いてはいなかった。ただ、泣くべき何かが喉のあたりに詰まっている気がした。


寝台から足を下ろすと、石の床が素足に触れた。冷たい。骨まで冷える、と思う前に、ふと気づく。わたしは靴下を履いていない。靴も履いていない。ネグリジェのようなものを身に着けているが、それが自分のものかどうか、記憶がない。記憶そのものが、水底に沈んだままだった。


扉に近づいた。


ノブに手をかける。冷たい金属の感触。回してみると、あっけなく開いた。鍵はかかっていない。逃げることができる、とは思わなかった。どこへ逃げるのか、という問いが、逃げるという行為そのものを飲み込んでしまったからだ。


廊下に出ると、薔薇の匂いが濃くなった。


廊下は長く、暗く、両側に同じような扉が並んでいた。どれも閉じている。足音が石に反響して、自分が歩いていることを確認する。本当に歩いているのかどうかも、夢の続きである可能性を、まだ捨てられなかった。


廊下の突き当たりに、階段があった。上へ続いている。


わたしは、なぜか上ではなく下を選んだ。階段の横に、もう一本の狭い通路が伸びていて、そちらは下へと向かっていた。人間の本能というものは不思議で、危険なほうへ、暗いほうへ、論理が届かないほうへ、自然と足が向く。あるいは、本能ではなく、何かに引き寄せられていたのかもしれない。


---


◆ 三


地下室、と呼ぶには広すぎる空間だった。


ヴォールト天井が頭上に広がり、その要石のあたりに燭台がいくつか吊るされていた。蝋燭の火は小さく、けれど安定していて、その揺れない炎がかえって不自然な印象を与えた。壁際に本棚、本棚、本棚。天井まで届く本棚が、円周を描くように並んでいる。そこに詰め込まれた本は、どれも年代を経た背表紙を持ち、タイトルは見えない角度で差し込まれているか、金文字が剥落しているかのどちらかだった。


中央に、椅子と机があった。


机の向こうに、男が座っていた。


彼は本を読んでいた。ページに目を落としたまま、わたしが階段を下りてきたことも、部屋に入ったことも、気づいていないように見えた。あるいは、気づいていて、無視していた。


わたしはしばらく、その人物を観察した。


年齢が読めない。若い、とも言えるし、そうでない、とも言える。黒い服を着ている。シャツ、と呼べばいいのか、時代がかった意匠の上着、と呼べばいいのか、正確な名称がわからなかった。髪は暗い色、肌は白い。白いというより、光を反射しない、という表現のほうが正確かもしれなかった。蝋燭の炎が床に作る影は長いのに、彼だけが影を持っていないように見えた。


「目が覚めたか」


彼が言った。本から目を離さずに。声は低く、平坦で、感情の起伏がない。怒っているわけでも、喜んでいるわけでも、驚いているわけでもない。ただ、事実を述べているような声だった。


「……はい」


なぜそう答えたのか、わからない。目が覚めた、その事実は正しい。しかしなぜ「はい」という言葉が出てきたのか。敬意を示す必要があると、本能が判断したのかもしれない。


「喉が渇いているだろう」


彼はページをめくった。


「机の上に水差しがある。飲め」


確かに、机の端に銀の水差しと杯が置いてあった。わたしはゆっくりと近づき、杯に水を注いだ。口に含む。冷たい。よく冷えた水の味は、何の混じり気もなく、ただ水だった。しかし、その純粋さが、ひどく体に沁みた。三口、四口、五口。気づけば杯を空にしていた。


「ありがとうございます」


「礼はいらない」


彼はそこで初めて、本から顔を上げた。


目が、暗い色をしていた。瞳孔の形が判然としないほど深い色で、それが人間の目であることは理解できるのに、人間の目が持つ温度というものを、その瞳は欠いていた。敵意はない。恐怖もない。ただ、非常に長い時間を観察し続けてきたものが持つ、静かな評価の眼差し。


「自分の名前を言ってみろ」


わたしは口を開いた。そして、閉じた。


名前が、なかった。


記憶の水底を探ったが、名前という形をした何かが見当たらない。音の連なり、呼ばれた感覚、書いた記憶、どれもなかった。水の底は均一で、何も引っかかるものがなく、ただ無だった。


「ない」と、わたしは言った。「わかりません」


男は表情を変えなかった。予想していたとでも言うように。


「そうか」


それだけ言って、また本に目を落とした。


---


◆ 四


わたしは、自分が何者かを問いたかった。


しかし問いを形にする言葉が、まだ体の中で固まりきっていなかった。どこから来たのか、なぜここにいるのか、この男は誰なのか、ここはどこなのか。問いは無数にあるのに、どれも喉の手前で停滞した。


男はわたしの沈黙を、急かさなかった。


ただ本を読み、ときおり蝋燭の火が揺れると、視線を一瞬上げ、また戻す。それだけだった。その静けさの中で、わたしはじりじりと自分を組み立て直すことを強いられた。


「あなたは」とわたしは言った。「何者ですか」


彼は今度は本を閉じた。机の上に置く。その動作が静かで丁寧で、大切なものを扱うような手つきだったので、わたしはしばらく彼の指先を見ていた。


「この館の主だ」


「……この館は」


「森の中にある。街からは遠い」


「わたしは、どうしてここに」


「連れてきた」


その三文字が、空気の中で粒子のようにゆっくり沈んだ。


連れてきた。主体は彼だ。わたしは連れてこられた。わたしは自分の意志でここへ来たのではない。ならば拉致だ、と思う前に、奇妙なことが起きた。怒りや恐怖が来るはずの場所に、何も来なかった。感情の回路が断線しているのか、あるいはそもそも、感情そのものが水底に沈んだままなのか。


「なぜ」


「お前が死にかけていたからだ」


男は、淡々と言った。


「路傍に倒れていた。凍える夜だった。放置すれば翌朝には死んでいた。私が拾った」


「拾った」


「そうだ」


わたしは、その言葉の選択を咀嚼した。拾った。人間に対して使う言葉ではない。しかし彼の口から出ると、それは侮辱でも嘲りでもなかった。単純に、もっとも正確な動詞として選ばれた言葉のように聞こえた。


「なぜ、わたしには記憶が」


「わからない」


彼は立ち上がった。思っていたより長身で、その身長が空間に与える圧力が、蝋燭の炎をわずかに押しやるように感じた。


「記憶のことは追い追い判るかもしれないし、永遠にわからないかもしれない。今は関係がない」


「関係が、ない」


「お前は生きている。ここにいる。それで十分だ、当面は」


彼は本棚のあいだをゆっくりと歩きながら、背中をわたしに向けた。


「腹が減っているだろう。上に食事を用意させてある。食べてから眠れ」


「……あなたは、食事をしないのですか」


問いは反射的に出た。彼が「食事を用意させてある」と言ったこと、自分はそこに含まれないこと、その小さなずれが引っかかった。


男は立ち止まった。


振り返らずに、肩越しに答えた。


「私の食事は、お前とは種類が違う」


---


◆ 五


その夜、あるいは昼、わたしにはどちらか分からないまま、食事をした。


用意されていたのは、白いスープと黒いパンと、乾いたチーズだった。豪勢でも粗末でもない。生きるための食事、という印象だった。ひとくち食べると、体が喜んだ。感情は依然として水底にあるのに、胃袋だけが正直で、次のひとくちを促す。わたしは静かに、しかし確実に、それらを平らげた。


食事のあいだ、男は現れなかった。


部屋には召使いの気配もなかった。にもかかわらず、食事は用意されていた。この館の構造が、わたしにはまだ掴めない。


食べ終えて、また寝台に戻った。眠れるとは思っていなかった。しかし横になると、体は正直で、すぐに意識の縁が溶け始めた。眠りの前の、思考がほつれていく感覚の中で、わたしはひとつのことを考えていた。


男は、何者か。


吸血鬼、という言葉が、水底からゆっくりと浮き上がってきた。その言葉がどこから来たのか、わからない。記憶のない自分が、なぜその言葉を知っているのか、それもわからない。ただその言葉は、彼に触れるように頭の中でそっと置かれると、妙な安定感を持って定着した。


吸血鬼。血を飲む者。不老の者。夜の主。


怖い、とは思わなかった。


それが奇妙だと、眠りに落ちる直前に気づいた。怖くない。怖いという感情を忘れたのか、あるいは最初から持っていなかったのか、それとも怖れるより先に、何か別のことが起きているのか。


眠りは優しく来た。


水底とは違う、ふかふかとした暖かい眠りが、蝋燭の溶ける匂いとともに、わたしを包んだ。


---


◆ 六


何日が経ったのかわからない。


この館には時計がなかった。あるいは、わたしの目が届く範囲にはなかった。窓の布は開けることができず、したがって外の光で時間を測ることもできない。食事は一日に一度か二度、気づくと用意されている。それを食べ、眠り、目が覚め、また館を探索する。そのくり返しの中で、わたしは少しずつ、この空間に馴染んでいった。


男と、わたしは毎晩、地下室で顔を合わせた。


彼はいつもそこにいた。本を読んでいるか、何かを書いているか、ただ椅子に座って目を閉じているか。わたしが現れても、大きく態度を変えることはない。ただ、わたしが近づくと、ページをめくる速度が少し落ちる。それだけを、わたしは観察していた。


言葉を交わすことは、少しずつ増えた。


「これは何の本ですか」

「十六世紀の薬草誌だ」

「読めますか、その言語」

「お前には読めないだろうな」

「……どんなことが書かれているのですか」

「死の使い方についてだ」


わたしは黙った。彼も黙った。沈黙が、二者のあいだで落ち着くまでに、最初は時間がかかった。しかし日が経つにつれて、沈黙の形が変わっていった。何かを言わなければならない不安が薄れ、ただ同じ空気の中にいることが、不快でなくなっていった。


ある夜、彼が言った。


「名前をつけよう」


わたしは顔を上げた。


彼は本を置き、わたしをまっすぐに見ていた。その目の奥に、感情があるのかないのか、依然として読めない。


「記憶が戻るまでの仮のものでいい。ただ、呼び名がないと不便だ」


「どんな名前を」


薔薇ばら、と呼ぼう」


「薔薇」


「この館は薔薇の匂いがするだろう。建てた者が好んだのだ。それが染み付いている。お前もそれを嗅いで目が覚めた。なら薔薇でいい」


わたしは、その名前を口の中でころがした。薔薇。それはわたしの名前ではない。けれど、他に何もない今、わたしが持てる唯一の名前だった。


「……薔薇、と呼ばれるのは構いません」


「よし」


それだけで、彼は本に戻った。わたしもそれ以上は言わなかった。


しかし、その夜から何かが変わった。名前を持つ、ということの重みを、わたしはその日初めて知った。たとえ仮のものでも、たとえ本当のものでなくても、呼ばれることで輪郭が生まれる。輪郭が生まれると、存在が確かになる。薄く滲んでいた霧が、ほんの少し、形を持ち始めた。


---


◆ 七


ある朝、目が覚めると、部屋の扉の前に一輪の薔薇が置かれていた。


赤い薔薇ではなく、深い、ほとんど黒に近い赤の薔薇。茎には棘があり、それを誰かが丁寧に布で巻いて、棘が触れないようにしてあった。


わたしはそれを拾い上げた。


顔の近くに寄せると、薔薇の匂いが鼻腔を満たした。生の薔薇の匂いは、館に染み付いた乾いた薔薇の匂いとは違って、甘く湿っていて、どこか肉の匂いに近かった。


誰が置いたのか、わかっていた。


彼しかいない。この館に動く者は、彼とわたしだけだ。召使いの気配はあっても、姿を見せることは決してない。薔薇を拾えるような手を持つ者は、彼だけだ。


しかし、なぜ。


問いを携えて地下室へ行くと、彼はいつもの場所にいた。


「薔薇を」とわたしは言った。「ありがとうございます」


「庭に咲いていた」彼は本から目を離さずに言った。「捨てるには惜しい気がしたから、お前に渡すことにした」


「庭があるのですか」


「ある。夜にしか出られないが」


「夜に、庭が見たいです」


「……見せよう」


彼の声が、その瞬間だけ、ほんのわずかに変化した。変化した、と言えるほどの変化ではなかった。しかしわたしの耳が、確かにそれを捉えた。温度が、ほんの一分だけ、上がった。


---


◆ 八


夜の庭は、息を呑むほど美しかった。


月光が石畳に降り注ぎ、四方を石の壁に囲まれた中庭に、薔薇が咲き乱れていた。赤、白、黒に近い深紅。香りが壁に反射して、濃く、重く、逃げ場なく漂っている。わたしは裸足のまま石畳に立ち、その美しさの中で、何かが胸に刺さる感覚を覚えた。痛みではない。しかし痛みに近い、鋭い何かが、胸の内側をなぞった。


「美しい」とわたしは言った。


彼は少し離れた場所に立ち、月を見ていた。その横顔は、蝋燭の光で見るよりも鮮明で、同時に、月光の中では彫像に似ていた。動かない。呼吸しているのかどうかも定かでない。ただ立っている。


「お前が初めて言った言葉だ」


「え」


「美しい、という言葉。お前がそれを言ったのは初めてだ」


わたしは少し驚いた。確かに、今日まで美しいとは言わなかった。感情が水底にある限り、美しいという評価も水底にある。それがようやく、一本の細い糸になって浮き上がってきた。


「……ここは美しい場所です」


「私にはもう、わからない」彼は月から目を離さずに言った。「長く見すぎると、美しさは消える。慣れることで美しさを失うのではなく、慣れることで美しさを必要としなくなる。それが問題だ」


「あなたは」とわたしは言った。「寂しいのですか」


彼がわたしを見た。


その眼差しの中に、初めて何かが揺れるのを、わたしは見た。怒りでも悲しみでもなく、揺れ、と呼ぶほかない、微細な動揺。それは一瞬だった。次の瞬間には消えていた。


「眠れ」と彼は言った。「薔薇」


わたしは、名前を呼ばれた。


たった二文字の、仮の名前。しかしそれは確かに、わたしを呼ぶ声だった。この世界でわたしを、わたしと知って呼ぶ声。


その声の温度が、水底に沈んでいた何かをわずかに溶かした、と感じた。感じた、だけかもしれない。しかしそれで十分だった。


---


◆ 九


部屋に戻る前に、わたしは一輪の薔薇を摘んだ。


棘で指が傷ついた。血の一滴が、月光の下で黒く光る。痛みはあった。しかし、その痛みが確かに体の内側から来る痛みだと知って、わたしはどこかで安堵した。体がある。痛みがある。名前がある。薔薇がある。


それだけが、今のわたしに確かなものだった。


部屋に戻ると、扉を閉める前に廊下を振り返った。


彼はまだ庭に残っていた。月を見ている。あの姿勢で、夜が終わるまで立っているのかもしれない。朝が来ても、ひとり、あの中庭に立っているのかもしれない。


わたしは扉を閉めた。


摘んだ薔薇を、枕元に置いた。


眠りにつく前に、わたしはひとつだけ問いを立てた。記憶がない。名前がない。過去がない。それはわたしが何者でもない、ということだろうか。それとも、まだ何者にもなっていない、ということだろうか。


答えは出なかった。


しかし問いが立った、ということ自体が、何かの始まりのように思えた。


---


◆ 十


翌朝、目が覚めると、薔薇はまだそこにあった。


一夜で少し萎れたが、香りは残っていた。わたしはその花を手のひらに乗せ、匂いを吸い込んだ。深く、甘く、肉の匂いに似た、生の薔薇の匂い。


わたしの名前は、薔薇。


本当の名前ではない。しかし今のわたしには、本当の名前より確かなものがあった。この館の薔薇の匂い、石の床の冷たさ、彼の声の低さ、地下室の蝋燭の揺れない炎。それらすべてが、今のわたしを作っている。記憶のない器に、少しずつ満たされていく液体のように。


その液体が何色なのかは、まだわからない。


透明かもしれない。あるいは、あの薔薇のような、黒に近い深紅かもしれない。


わたしは寝台から立ち上がった。


今日も地下室へ行こう、と思った。彼はいるだろう。本を読んでいるか、何かを書いているか、ただ目を閉じているか。わたしが現れると、ページをめくる速度が少し落ちる。その小さな変化を、今日も見に行こう。


それだけのことが、今のわたしには十分な理由だった。


廊下を歩きながら、わたしは薔薇の匂いを吸い込んだ。


まだ、本当のことは何も分からない。あの男が何者で、なぜわたしを拾い、何を望んでいるのか。わたし自身が何者で、どこから来て、水底で何を失ったのか。


でも今、わたしは歩いている。


それだけが、この漂流に宿る、かすかな光だった。


---


*次回、第二話「薔薇は夜に開く」——彼の食事の時間が、初めて訪れる。*


---

第一話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作は物語全体の導入にあたるお話です。

まだ主人公には名前も記憶もありません。

館の主についても、多くの謎が残されたままです。

しかし、何も持たなかった少女が「薔薇」という仮の名前を得たことで、少しだけ世界との繋がりを取り戻し始めました

次回以降は、

館の主の正体

彼が口にした「食事」の意味

少女が失った記憶

薔薇に囲まれた館の秘密

などが少しずつ明かされていきます。

孤独な吸血鬼と、記憶を失った少女。

二人の関係がどのように変化していくのか、見守っていただければ嬉しいです。

それでは、また次回に

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