第7章「パラレルワールドの兆候」
『影』の宣言と共に、広場を取り巻く空間の歪みが急激に拡大し始めた。莉花たち三人は、まるで万華鏡の中にいるような感覚に襲われた。
周囲の風景が次々と変化していく。同じキャンパスでありながら、建物の色や形が微妙に、時には劇的に違っている。ある瞬間は穏やかな緑の多いキャンパス、次の瞬間は近代的で無機質なキャンパス、さらには一部が廃墟と化したキャンパス。
「これは…三つの世界が混じり合ってる」
莉花が呟いた。茉莉花から聞いた「三つの世界」が、実際に目の前で重なり合っているのだ。
「莉花、見えるのね」
『影』が満足そうに言った。
「あなたの能力のおかげで、世界の境界が崩壊しやすくなったの。感謝してるわ」
「私の能力?」
「そう。あなたは生まれながらにして、世界をつなぐ特殊な力を持ってる。それが私の計画を加速させてくれた」
莉花は愕然とした。自分の能力が、この災害の原因の一つになっていたのか。
「でも、莉花のせいじゃありません!」
茉莉が前に出た。
「悪いのは私です。最初にトニックを作って、世界の均衡を崩したのは私なんです」
「あら、本体が出てきたのね」
『影』は茉莉を見つめた。その視線は冷たく、同時に複雑な感情も含んでいる。
「あなたは私を否定するけれど、私はあなたの一部よ。あなたの心の奥に眠っていた欲望そのもの」
「それは…」
茉莉は言葉に詰まった。確かに、人から感謝されることに快感を覚えた時期があった。人をコントロールしたいという欲望を感じたことも、一瞬だけれどあった。
「認めなさい、茉莉。あなたも人を支配したかった。自分が特別でありたかった。みんなに必要とされたかった」
『影』の言葉は的確で、茉莉の心の痛いところを突いてくる。
「そうかもしれません」
茉莉は小さな声で答えた。
「でも、私はそれが間違ってることを学びました。人を大切にするということは、その人の意志を尊重することだって」
「きれいごとよ!」
『影』が激昂した。
「結局、あなたも私も、誰からも本当には理解されない。だったら、理解してくれる世界を作ればいいのよ」
その時、空間の歪みがさらに激しくなった。三つの世界の境界が完全に破綻し始めている。
突然、歪みの中から人影が現れた。莉花によく似ているが、どこか知的で落ち着いた雰囲気の女性だった。
「茉莉花さん!」
莉花が声を上げた。ついに、歪みの向こうから話していた茉莉花が、実際にこちらの世界に現れたのだ。
「莉花、茉莉、愛さん。無事だったのね」
茉莉花は三人に微笑みかけた。しかし、その表情には深い疲労の色が浮かんでいる。
「私の世界でも大変なことになってる。でも、ここまで来ることができた」
「茉莉花、邪魔をしないで」
『影』が茉莉花を睨んだ。
「あなたも結局、完璧主義の固まりじゃない。自分が全てを解決しなければならないと思ってる」
茉莉花は静かに『影』を見つめた。
「確かに、私も完璧主義だった。でも、一人では何もできないことを学んだ」
「偽善よ!」
『影』がまた黒いトニックの瓶を取り出した。今度は複数の瓶を一度に投げつけてくる。
しかし、莉花の反応速度は『影』の予想を上回っていた。瓶をすべて空中で叩き落とし、茉莉と愛先輩を守る。
「すごい…」
茉莉花が感嘆した。
「莉花の身体能力、予想以上に発達してる」
「でも、なんで私にこんな力が?」
莉花は自分の手を見つめた。確かに、昨日から身体能力が異常に向上している。
「それは、あなたが『つなぐ人』だからよ」
茉莉花が説明した。
「三つに分かれた世界を再び統合するために、特別な能力を持つ人が必要だった。あなたはその役割を担うために選ばれたの」
「選ばれた?誰に?」
「世界そのものに、よ」
茉莉花の答えは神秘的だったが、莉花には何となく理解できた。自分が感じている使命感、正義感の強さ、そして仲間を守りたいという気持ち。それらが全て、この役割のために与えられたものなのかもしれない。
その時、空間の歪みの中から、もう一つの人影が現れた。茉莉にそっくりだが、表情がより穏やかで、母性的な印象を与える女性だった。
「あ、もう一人の私…」
茉莉が驚いた。
「世界Aの茉莉ね。私は世界Cの茉莉花」
現れた女性——世界Aの茉莉——は、困惑した表情でしたが、すぐに状況を把握したようだった。
「ここは世界Bなのね。莉花の世界」
「はい、そうです」
莉花が答えた。
「でも、なぜ世界Aの茉莉さんがここに?」
「世界の境界が完全に崩壊しつつあるの」
茉莉花が深刻な表情で言った。
「このままだと、三つの世界が混乱したまま融合してしまう。それは破滅を意味する」
「だから私が新しい世界を作るのよ」
『影』が割り込んできた。
「混乱ではなく、秩序ある統合を。そして私がその世界の支配者になる」
「支配者?」
世界Aの茉莉が眉をひそめた。
「人は支配されるためにあるのではありません。一人一人が自分の意志で幸せを選ぶべきです」
「甘い考えね」
『影』は嘲笑した。
「人間に自由意志なんて必要ない。私が全てを決めてあげる方が、みんな幸せになれる」
「それは愛ではありません」
世界Aの茉莉の声は優しいが、芯が強かった。
「本当の愛は、相手の選択を尊重することです。たとえその選択が間違いだとしても」
「きれいごとよ!」
『影』が再び激昂した。今度は手から直接、黒いエネルギーのようなものを放射し始めた。それに触れた学生たちが、さらに異常な行動を取り始める。
完全に意識を失ったような状態で、ロボットのように動き回る学生たち。その光景は、もはやホラー映画のようだった。
「これは…完全な洗脳」
愛先輩が青ざめた。
「あの学生たち、もう人間じゃないみたい」
「まだ間に合います」
茉莉花が言った。
「でも、『影』を止めなければ、被害はさらに拡大する」
「どうやって止めるんですか?」
莉花が尋ねた。
「『影』は茉莉の一部。茉莉が受け入れて統合しなければ、消えることはない」
「統合?」
世界Bの茉莉(混乱を避けるため、以後「茉莉B」と表記)が震えた。
「でも、あんな恐ろしい部分を自分の中に受け入れるなんて」
「大丈夫」
世界Aの茉莉(以後「茉莉A」と表記)が茉莉Bの手を握った。
「私たちがいます。一人で背負う必要はありません」
「そうよ」
茉莉花も頷いた。
「私たちは本来一つの存在。力を合わせれば、『影』も含めて全てを受け入れることができる」
莉花は三人の茉莉を見回した。同じ顔でありながら、それぞれ異なる個性を持っている。茉莉Aの優しさ、茉莉Bの等身大の悩み、茉莉花の統合的な視点。
「私も協力します」
莉花は決意を固めた。
「『つなぐ人』としての役割を果たします」
「ありがとう、莉花」
茉莉花が微笑んだ。
「それでは、始めましょう」
四人は『影』に向き合った。『影』は怒りと恐怖で表情を歪めている。
「やめなさい!私を消すつもり?」
「消すんじゃありません」
茉莉Aが静かに言った。
「受け入れるんです。あなたも私たちの大切な一部だから」
「嘘よ!あなたたちは私を嫌ってる!否定してる!」
『影』の声に、深い孤独感が滲んでいた。
「嫌ってません」
今度は茉莉Bが前に出た。
「確かに、あなたの行動は間違ってた。でも、あなたの気持ちは理解できます」
「理解?」
「誰かに必要とされたい、認められたい。そういう気持ち、私にもあります」
茉莉Bの言葉に、『影』の表情が少し和らいだ。
「でも…私は人を傷つけた」
「それも含めて、私たちの一部です」
茉莉花が言った。
「完璧じゃない自分も受け入れる。それが本当の成長です」
莉花は見守っていた。三人の茉莉が、時間をかけて『影』と向き合っている。これは戦いではなく、和解の過程なのだ。
そして徐々に、『影』の周りを取り巻いていた黒いエネルギーが薄くなっていく。表情も、冷たく計算高いものから、普通の人間らしい感情を示すものに変わっていく。
「私…怖かった」
『影』が小さな声で言った。
「誰からも愛されない、必要とされない。そんな自分が怖くて」
「大丈夫」
茉莉A、茉莉B、茉莉花が同時に言った。
「私たちがいます」
四人の茉莉が手を繋いだ瞬間、空間全体が光に包まれた。




