第5章「街中大混乱」
私立大学のキャンパスは、莉花たちが想像していた以上の混乱状態にあった。
正門から続く並木道には、数百人の学生が集まっている。みんな同じ方向を向いて、何かを待っているようだった。その表情は異様に興奮していて、まるで宗教的な集会のような雰囲気があった。
「あれは何ですか?」
茉莉が不安そうに呟いた。
「トニックの配布を待ってるんでしょうね」
愛先輩が推測した。
三人は群衆の端を歩きながら、状況を把握しようとした。学生たちの会話が聞こえてくる。
「今日は特別な配合のトニックがもらえるらしいよ」 「前のより効果が強いって」 「早く飲みたい!人生変わるかも」
莉花は群衆を見回した。みんなの目が異様に輝いている。これは健全な期待ではなく、何かに憑かれたような状態だった。
「茉莉さん、あなたが作ってた時も、こんな風に人が集まったんですか?」
「いえ、私の時はもっと小規模で、個人的に渡してただけです。こんな大々的な配布は」
茉莉も困惑している。
その時、キャンパスの中央広場の方から歓声が上がった。群衆が一斉にその方向に向かって移動し始める。
「始まったみたいですね」
莉花は三人で群衆の後を追った。しかし、人数が多すぎて、広場の中央は見えない。
莉花は昨日覚醒した身体能力を使って、近くの建物の外階段を駆け上がった。二階のベランダから広場を見下ろすと、状況がよく見えた。
広場の中央に、大きなテーブルが設置されている。そこに小さな瓶がずらりと並んでいて、白衣を着た人物が学生たちに配布していた。
しかし、その人物の顔は見えない。深いフードを被っていて、性別も年齢も分からなかった。
「あの人、何者でしょう?」
莉花は階段を降りて、茉莉と愛先輩に報告した。
「白衣を着た謎の人物が、トニックを配布してます。でも顔が見えません」
「白衣?医学部の学生でしょうか?」
茉莉が推測したが、この大学に医学部はない。
「とにかく、近づいてみましょう」
三人は群衆の中を縫って、配布場所に近づこうとした。しかし、学生たちの勢いが激しく、なかなか前に進めない。
その時、莉花の目に新たな異変が映った。トニックを受け取った学生たちの様子がおかしいのだ。
瓶を受け取るとすぐにその場で飲む学生が多いのだが、飲んだ直後に奇妙な反応を示していた。突然踊り出す人、大声で笑い始める人、逆に地面に座り込んで泣き出す人。
「あれ、明らかにおかしいですよね」
愛先輩も異変に気づいた。
「はい。茉莉さんの作ったトニックでは、こんな即効性はなかったですよね?」
「全くありませんでした。私のトニックは、じわじわと効果が現れるものだったんです」
茉莉の答えを聞いて、莉花は確信した。これは茉莉の作ったトニックとは別物だ。
さらに観察を続けていると、もっと深刻な問題が発生した。トニックを飲んだ学生の中に、明らかに体調不良を起こしている人がいるのだ。
顔色が青ざめて倒れそうになっている女子学生、異常に汗をかいて震えている男子学生。これは副作用としては重すぎる。
「あの人たち、救急車を呼んだ方がいいんじゃないですか?」
愛先輩が心配そうに言った。
「そうですね。でも、まずはあの配布を止めないと」
莉花は決断した。群衆を突破して、配布している人物のところまで行く必要がある。
「二人とも、私についてきてください」
莉花は身体能力を最大限に活用して、群衆の隙間を縫って前進した。その動きは人間離れしていて、まるで流水のように滑らかだった。
ようやく配布テーブルの近くまで来ると、白衣の人物の正体が少し見えてきた。手の形から女性のようだが、やはり顔は深いフードで隠されている。
しかし、その時に莉花が見たものは衝撃的だった。配布されているトニックの瓶をよく見ると、中の液体が時々色を変えているのだ。透明から薄い金色、時には薄紫色に。
「あの液体、色が変わってます」
茉莉に報告すると、茉莉も驚いた。
「色が変わる?そんなことはありえません。茉莉花トニックは常に透明なはずです」
「じゃあ、あれは偽物?」
「偽物というより…」
茉莉は考え込んだ。
「もしかすると、レシピが大幅に改変されてるのかもしれません。私のノートに勝手に追記されたレシピを、さらに誰かが改造した」
その時、白衣の人物が顔を上げた。フードの奥に、ぼんやりと顔が見える。
莉花は息を呑んだ。その顔は、茉莉にそっくりだったのだ。しかし、表情が全く違う。茉莉の優しい雰囲気とは正反対の、冷たく無表情な顔だった。
「茉莉さん、あの人」
「え?」
茉莉も白衣の人物を見て、驚愕した。
「私?でも、私はここにいるのに」
三人は困惑した。茉莉がここにいるのに、配布している人物も茉莉にそっくり。これは一体どういうことなのか。
その時、白衣の茉莉そっくりの人物が、こちらを見た。そして小さく笑みを浮かべた。それは不気味で、悪意に満ちた笑いだった。
「まずい…気づかれました」
莉花は直感的に危険を感じた。
「みんな、ここから離れましょう」
しかし、すでに遅かった。白衣の人物が何かを叫ぶと、周りの学生たちが一斉に莉花たちの方を向いた。その目は虚ろで、まるで操られているようだった。
「あの人たちが配布を邪魔しようとしてる!」 「トニックを奪おうとしてる!」 「止めろ!」
学生たちが莉花たちに向かって迫ってくる。その動きは統制が取れていて、まるで軍隊のようだった。
「これは洗脳…」
愛先輩が青ざめた。
「走りましょう!」
莉花は三人で群衆から逃げようとした。しかし、学生たちの追跡は執拗で、キャンパス中を追い回される状態になった。
その時、莉花の視界に空間の歪みが現れた。今度はキャンパスの至る所に、大小様々な歪みが発生している。そして、歪みの向こうから別の世界の光景が見えた。
ある歪みからは、同じキャンパスだが建物が炎に包まれている光景が見える。別の歪みからは、学生たちが倒れている悲惨な光景が見える。
「他の世界では、もっとひどいことが起こってる…」
莉花は悟った。この問題は、自分たちの世界だけの問題ではない。複数の世界で同時に起こっている大災害なのだ。
追跡から逃れるため、莉花は校舎の屋上に向かった。超人的な身体能力で外壁を駆け上がり、茉莉と愛先輩も引っ張り上げる。
屋上から見下ろすキャンパスは、もはや学校とは思えない状況になっていた。あちこちで騒動が起こり、救急車のサイレンが響いている。
「これ、本当に現実ですか?」
愛先輩が呆然と呟いた。
「現実です。でも、きっと解決方法があります」
莉花は諦めなかった。茉莉花から「あなたの行動力が世界を救う」と言われた言葉を思い出す。
その時、屋上の空中に大きな歪みが現れた。今度ははっきりと、茉莉花の姿が見える。
「莉花、無事だったのね」
「茉莉花さん!状況が予想以上に深刻です」
「分かってる。白衣の人物は、茉莉の『影』よ」
「影?」
「茉莉の心の奥に潜んでいた負の感情が、世界の歪みによって実体化したもの。依存されることへの快感、人をコントロールしたい欲望」
莉花は茉莉を見た。茉莉は青ざめて震えている。
「私の…負の部分が」
「そう。でも茉莉だけの責任じゃない。これは私たち三人全体の問題よ」
茉莉花の説明で、状況が少し整理できた。
「その『影』を止めるには、どうすればいいんですか?」
「まず、レシピノートを回収しなければならない。それから、三つの世界の境界を安定化させる必要がある」
「三つの世界?」
「世界A、世界B、世界C。私たちはそれぞれ別の世界にいるの。でも今、境界が崩壊しつつある」
莉花は混乱した。パラレルワールドという概念は理解できるが、実際に体験するとなると話は別だった。
「とにかく、今は目の前の問題を解決しましょう」
莉花は現実的な判断をした。
「あの『影』の茉莉を止めて、ノートを取り戻す。それから被害者を救護する」
「そうね。でも気をつけて。『影』は茉莉の能力を持ってるだけじゃなく、それを悪用する知恵も持ってる」
歪みが小さくなり始めた。
「莉花、あなたの正義感と行動力を信じてる。きっとできる」
茉莉花の励ましの声と共に、歪みが消失した。
莉花は屋上から下を見下ろした。混乱は続いているが、諦めるわけにはいかない。
「茉莉さん、愛先輩、覚悟はいいですか?」
二人は頷いた。
「これから大変な戦いになりそうですが、必ず勝ちましょう」
莉花の言葉に力があった。正義感に燃える彼女の表情は、頼もしく、そして美しかった。
三人は屋上から下り、再び混乱の中に向かった。戦いはここから始まる。




