第3章「暴走開始」
商店街の古い路地を歩きながら、莉花は辺りを見回していた。花想庵という店は確かに見覚えがあったが、正確な場所が思い出せない。
「確か、この辺りだったと思うんですが」
茉莉も記憶を辿っている。一週間前に訪れた時は、かなり動揺していたので、詳細な記憶が曖昧だった。
「あ、あそこです!」
愛先輩が指差した先に、古い看板が見えた。「花想庵」と書かれた木製の看板が、路地の奥にひっそりと掲げられている。
三人は小さな古道具屋の前に立った。外観は古いが趣のある建物で、ガラス戸の向こうに様々な古い品物が見える。
「入ってみましょう」
莉花がドアを開けると、古い木材の匂いと線香の香りが混じった独特の匂いが漂ってきた。店内は薄暗く、古い家具や食器、装飾品などがところ狭しと並んでいる。
「いらっしゃいませ」
奥から声がして、初老の女性が現れた。上品な和装を身に着けた、穏やかそうな印象の女性だった。茉莉が以前会った店主とは違う人のようだった。
「すみません、以前こちらでレシピノートを購入させていただいた茉莉と申します」
茉莉が前に出て挨拶すると、店主の女性は茉莉をじっと見つめた。
「ああ、茉莉花調合帖をお求めになった方ですね。その後、いかがでしたか?」
「実は、それで相談があって」
茉莉は事情を簡潔に説明した。トニックの予想以上の効果、依存問題の発生、そして自分が作るのをやめた後も街中に出回っていることについて。
店主は静かに聞いていたが、話が終わると深いため息をついた。
「やはり、そうなってしまいましたか」
「やはり、って?」
莉花が前に出た。
「あのレシピノート、最後のページが破り取られてましたよね?そこには何が書いてあったんですか?」
店主は莉花を見て、少し驚いたような表情を見せた。
「あなたは…茉莉さんとは違う方ですね。でも、どこか似ている気がします」
「似ている?」
莉花は首をかしげた。自分と茉莉では、体格も性格も全く違う。どこが似ているというのだろう。
「お名前を聞かせていただけますか?」
「佐々木莉花です」
「莉花…」
店主は何かを考え込むような表情になった。
「破り取られたページには、トニックの正しい終了方法と、使用上の重要な警告が記載されていました。『心をコントロールしてはならない』『相手の意志を尊重しなければならない』といった内容です」
「それが破り取られていたから、茉莉さんは知らずに危険な使い方をしてしまった」
愛先輩が状況を整理した。
「はい。しかし、もっと深刻な問題があります」
店主は三人を奥の部屋に案内した。そこには古い書物や巻物が整然と並んでいる。
「実は、茉莉花調合帖には特殊な性質があります。使用者の心の状態によって、ノートに新しい文字が現れることがあるのです」
「新しい文字?」
茉莉が驚いた。
「はい。特に、強い願望や執着がある時、より強力なレシピが自動的に追記されることがあります。それも、使用者の筆跡で」
茉莉は青ざめた。確かに、後半のレシピは自分の字に見えたが、書いた記憶がなかった。
「つまり、茉莉さんの無意識が、より強力なトニックのレシピを作り出していた?」
「その通りです。そして、そのレシピは茉莉さんだけでなく、ノートと何らかの関係を持つ他の人々にも影響を与えることがあります」
莉花は直感した。
「だから、茉莉さんが作るのをやめても、誰かが勝手にトニックを作り続けてる?」
「可能性は高いです。しかも、元のレシピよりもはるかに危険なものを」
その時、店の外から騒がしい声が聞こえてきた。三人は窓から外を覗いた。
商店街に、大勢の人が集まっている。みんな興奮した様子で、何かを探しているようだった。
「茉莉花トニックはどこ?」 「もっと強いのが欲しい!」 「作ってる人に会わせろ!」
群衆の声が聞こえてくる。
「まずい…」
莉花は窓から身を引いた。
「あの人たち、みんなトニックを求めてる」
「これは予想以上に広がってしまっています」
店主も困惑している。
「どうしましょう?このままだと、商店街が大混乱になってしまいます」
愛先輩が心配そうに言った時、莉花の体に異変が起こった。
突然、視界がぼやけ、めまいのような感覚に襲われた。そして次の瞬間、莉花の身体能力が劇的に向上していた。
「え?」
莉花は自分の手を見つめた。いつもより力が漲っている感覚があった。試しに近くの重い古家具を持ち上げてみると、驚くほど軽々と動かすことができた。
「莉花、どうしたの?」
「わからない…でも、なんだか力が」
その時、外の騒動がさらに激しくなった。群衆が店に向かって移動してきているようだった。
「この店にいるんじゃないか!」 「茉莉花トニックの秘密を知ってるはず!」
「みんな、裏口から出ましょう」
店主が慌てて案内してくれた。四人は店の裏口から外に出た。
しかし、外に出ても安心できなかった。商店街のあちこちで、トニックを求める人々が騒いでいる。中には明らかに正常な状態ではない人もいた。
「あの人たち、目つきがおかしくないですか?」
愛先輩が指差した先では、三十代くらいの男性が一人でぶつぶつと呟いている。
「トニック…トニックがないと…ダメになる…」
男性の目は虚ろで、まるで何かに憑かれたような状態だった。
「完全に依存症ですね」
茉莉が小さな声で言った。
「私が…私のせいで」
「茉莉さん、今は自分を責めてる場合じゃありません」
莉花は茉莉の肩を掴んだ。
「今必要なのは、この状況を何とかすることです」
その時、莉花の目に奇妙な光景が映った。商店街の一角で、空間が歪んで見えるのだ。まるで水の中を覗いているような、ゆらゆらとした歪み。
「あれ、何?」
莉花が指差した方向を見ても、他の三人には何も見えないようだった。
「何が見えるの?」
「空間が歪んでる…あそこだけ」
莉花は歪みに近づいた。近づくにつれて、歪みはより鮮明になった。そして、歪みの向こうに別の風景が見えるような気がした。
同じ商店街だが、微妙に違う。建物の色が少し違い、看板の文字も微妙に異なる。そして、そこにも同じように騒いでいる人々がいた。
「これは…パラレルワールド?」
莉花が呟いた瞬間、歪みの向こうから声が聞こえてきた。
「莉花…?」
それは莉花自身の声だった。しかし、話し方が少し違う。より落ち着いていて、知的な印象の声だった。
「誰?私の名前を呼んでるのは誰?」
莉花が歪みに向かって話しかけると、向こうからも返事があった。
「私は…茉莉花。あなたは莉花?世界Bの?」
「世界B?何それ?」
会話は続いたが、周りの騒動が激しくなってきた。トニックを求める群衆が、莉花たちを見つけたようだった。
「あそこにいる!若い女の子たち!」 「きっとトニックのことを知ってる!」
群衆が向かってくる。莉花は反射的に身構えた。その瞬間、彼女の身体能力がさらに向上した。
「みんな、私についてきて!」
莉花は三人を引き連れて走り出した。その速度は人間離れしていた。まるで風のように商店街を駆け抜け、群衆を一気に引き離した。
「莉花、速すぎる!」
愛先輩が息を切らしながら叫んだが、莉花は止まらなかった。直感的に、安全な場所に向かっている。
五分ほど走って、ようやく大学の近くまで来たところで止まった。四人とも息を切らしている。
「莉花、今のは何?人間の走る速度じゃなかったよ」
愛先輩が驚愕の表情で言った。
「わからない…でも、体が勝手に」
莉花も自分の変化に困惑していた。明らかに普通の状態ではない。
「それに、さっき見えた歪み…あれは一体何だったの?」
茉莉と店主も、莉花の話を信じられずにいた。
「もしかして」
店主が口を開いた。
「莉花さんにも、特別な能力が覚醒したのかもしれません」
「特別な能力?」
「茉莉花調合帖は、単なるレシピ本ではありません。これは、パラレルワールドをつなぐ媒体でもあるのです」
店主の説明に、三人は言葉を失った。
「パラレルワールド…それって」
「そうです。茉莉さんがトニックを作ったことで、世界の境界が曖昧になった。そして莉花さんは、その境界を感知できる特殊な能力を持っているようです」
莉花は頭が混乱してきた。パラレルワールド、特殊能力、世界の境界。どれも現実味がない話だった。
しかし、確実に言えることがあった。商店街の混乱は現実だし、トニックの問題も現実だ。そして、自分の身体に起こっている変化も現実だった。
「とにかく、今は人々を助けることが先決です」
莉花は決断した。
「詳しい事情は後で聞きます。今は、あの混乱を何とかしましょう」
「でも、どうやって?」
茉莉が不安そうに聞いた。
「私にはわからないけど、きっと方法があるはずです」
莉花の目には、強い決意の光が宿っていた。正義感の強い彼女にとって、困っている人を放っておくことはできなかった。
しかし、この時点で莉花は知らなかった。これから彼女が直面することになる事態は、単なる薬物依存問題ではなく、三つのパラレルワールドの存亡をかけた壮大な冒険の始まりだということを。
そして、歪みの向こうで彼女の名前を呼んだ「茉莉花」という存在が、この冒険の鍵を握る重要な人物だということも。
夕日が商店街を染める中、四人の運命は大きく動き始めていた。




