第2章「怪しい茉莉花トニック」
翌朝、莉花は普段より早くランニングコースに出た。昨夜はあまりよく眠れず、早朝の運動で頭をすっきりさせたかった。
走りながら考える。茉莉花トニックについて、もっと具体的な情報が必要だ。作っているのは大学生の女の子らしいが、どこの大学なのか、どんな人なのか。そして何より、本当に効果があるのか、それとも何かのトリックなのか。
寮に戻ってシャワーを浴びていると、愛先輩が声をかけてきた。
「莉花、面白い情報があるよ」
「え?何ですか?」
急いで着替えてリビングに行くと、愛先輩がスマートフォンを見せてくれた。SNSの画面が表示されている。
「昨夜、ちょっと調べてみたの。『茉莉花トニック』で検索したら、結構話題になってるのね」
画面には、茉莉花トニックに関する投稿がずらりと並んでいた。
『茉莉花トニック飲んだら彼氏ができた!』 『宝くじ当選!茉莉花トニック最高!』 『就職活動で内定GET!やっぱり茉莉花トニック!』
「すごい数の投稿ですね…でも、みんな同じようなことを」
「そうなの。で、気になるのがこれ」
愛先輩が指差した投稿には、茉莉花トニックの写真が添付されていた。透明で美しい液体が小さな瓶に入っている。昨日、佐藤さんが見せてくれたものと同じだった。
「この投稿者のプロフィールを見ると、近くの大学の学生みたい。私立の文学部って書いてある」
「私立の文学部…それなら、カフェから歩いて行ける距離ですね」
莉花の大学は国立の体育大学で、私立の文学部がある大学とは歩いて三十分ほどの距離だった。
「今日の午前中、時間あるなら行ってみる?私も興味出てきちゃった」
愛先輩の提案に、莉花は即座に頷いた。
「是非お願いします!一人より二人の方が心強いです」
朝食を済ませた二人は、私立大学のキャンパスに向かった。平日の朝ということもあって、多くの学生が通学している。
「でも、どうやって茉莉花トニックを作ってる人を見つけるんですか?」
「とりあえず、学生に聞いてみましょう。話題になってるなら、知ってる人もいるはず」
キャンパスに到着した二人は、図書館の前で勉強している学生たちに声をかけてみた。
「すみません、茉莉花トニックって知ってますか?」
最初の学生は首を振ったが、二人目の女子学生が反応した。
「ああ、あの話題のお茶ですね!私も飲んでみたいんですけど、作ってる人に直接連絡取るの難しいみたいで」
「作ってる人って、この大学の学生さんですか?」
「そうです!文学部の心理学科の二年生らしいです。茉莉さんって名前って聞きました」
愛先輩と莉花は顔を見合わせた。手がかりが得られた。
「心理学科ですか。ありがとうございます」
心理学科の棟に向かう途中、莉花は考えていた。茉莉さんという名前、茉莉花トニックという名前。何かしら関連があるのだろうか。
心理学科の棟に着くと、学生たちがちらほらと見えた。しかし、茉莉さんという人物を直接見つけるのは簡単ではない。
「どうしましょうか?」
「掲示板を見てみましょう。何か手がかりがあるかも」
愛先輩の提案で掲示板を確認していると、一人の女子学生が近づいてきた。
「すみません、何かお探しですか?」
振り返ると、明るい笑顔の女子学生が立っていた。茶色の髪を肩の長さで切り揃えて、人懐っこそうな印象だった。
「実は、茉莉さんという方を探してるんです。茉莉花トニックを作ってる」
その瞬間、女子学生の表情が変わった。
「あ、茉莉のことですね!私、茉莉の友達の美咲です。でも茉莉、最近あまり学校に来てないんです」
「来てない?どうしてですか?」
美咲と名乗った女子学生は困ったような表情を見せた。
「実は、茉莉花トニックのことで色々あって…最初はみんな喜んでくれてたんですけど、最近ちょっと問題になってて」
「問題?」
莉花の直感が的中した。やはり何かがおかしかったのだ。
「詳しくは言えないんですけど、トニックの効果が強すぎるみたいで。飲んだ人が依存的になっちゃったり、変な副作用が出たり」
愛先輩と莉花は再び顔を見合わせた。
「その茉莉さんに会うことはできませんか?とても重要なことなんです」
美咲は少し迷ったが、最終的に頷いた。
「茉莉のアパートの住所を教えます。でも、今すごく落ち込んでるので、優しく接してもらえますか?」
美咲からアパートの住所を聞いた二人は、すぐにそこに向かった。大学から徒歩十分ほどの、静かな住宅街にある小さなアパートだった。
二階の角部屋の前で、莉花はインターホンを押した。
「はい?」
か細い声が聞こえてきた。
「すみません、茉莉さんでしょうか?茉莉花トニックのことでお話ししたいことがあって」
しばらく沈黙があった後、ドアが静かに開いた。現れたのは、莉花よりも小柄で華奢な女性だった。肩まで伸びた黒髪、大きな瞳、優しそうな顔立ちだが、今は疲れ切った表情を浮かべている。
「私が茉莉です…でも、トニックのことは、もう」
「あ、私たち、批判しに来たわけじゃないんです!」
莉花は慌てて手を振った。
「体育大学の佐々木莉花です。こちらは先輩の愛さん。茉莉花トニックについて、ちょっと調べてることがあって」
茉莉は困惑した表情を見せたが、最終的に二人を部屋に招き入れてくれた。
部屋は清潔に整理されているが、どこか寂しい雰囲気があった。本棚には心理学の専門書や小説が並び、小さなテーブルには紅茶のカップが置かれている。
「すみません、散らかってて」
「いえいえ、とても素敵なお部屋ですね」
愛先輩が優しく言うと、茉莉は小さく微笑んだ。
「それで、トニックのことって?」
「実は、昨日から街中で茉莉花トニックの話題が出てて、みんなすごく効果があったって言ってるんです」
莉花が説明すると、茉莉の表情は暗くなった。
「そうですね…でも、それが問題なんです」
「問題?」
「最初は、本当に人の役に立てると思ってたんです。困ってる人を助けたくて、心理学で学んだことも活かして、優しい効果のあるお茶を作って」
茉莉は小さな声で話し始めた。レシピノートを偶然見つけたこと、最初の成功体験、そして次第に強くなっていく効果とその副作用について。
「最後の方は、もう制御できなくなってたんです。飲んだ人が『もっと作って』『もっと強いのを』って言うようになって」
「依存してしまったということですか?」
愛先輩の質問に、茉莉は頷いた。
「はい。そして私も、人から感謝されることに依存してしまって。本当は相手のためじゃなくて、自分のためだったんです」
茉莉の告白を聞いて、莉花は複雑な気持ちになった。確かに問題はあったが、茉莉の動機は純粋だったのだ。
「でも、茉莉さんはもう作るのをやめたんですよね?」
「はい、一週間前からやめました。でも」
茉莉は困惑した表情を見せた。
「でも、街では今でもトニックが出回ってるみたいで。私が作ったものじゃないと思うんですが」
その瞬間、莉花の背筋に寒気が走った。
「茉莉さんが作ったものじゃない?」
「はい。私のレシピノートには、作り方が書いてあるんですが、最後の重要な部分が破り取られてるんです。だから、完全なレシピは私以外知らないはずなんですが」
茉莉は本棚から古い羊皮紙のノートを取り出した。確かに最後の数ページが綺麗に破り取られている。
「このレシピノートを手に入れたのは、古道具屋『花想庵』でした。でも店主の方は、私が重要な部分を学んだ後で、いなくなってしまって」
「花想庵?」
莉花は聞いたことのある名前だった。商店街の古い店の一つだったと思う。
「もし茉莉さんが作ってないなら、誰が作ってるんでしょう?」
愛先輩の問いに、誰も答えられなかった。
その時、茉莉のスマートフォンが鳴った。メッセージの通知音だった。
「あ、すみません」
茉莉がスマートフォンを確認すると、顔が青ざめた。
「どうしたんですか?」
「トニックを飲んだ友達からです。『助けて』って」
茉莉は震える手でメッセージを見せてくれた。
『茉莉、助けて。トニック飲んでから彼氏ができたけど、その人が怖い。でも別れられない。どうしたらいい?』
続けて別の友達からもメッセージが届いた。
『昇進したけど、能力が追いつかない。でもトニックがないと不安で仕方がない。どこで手に入る?』
「これは…」
莉花は立ち上がった。事態は彼女が想像していたよりもはるかに深刻だった。
「茉莉さん、私たちも協力します。この問題、絶対に解決しましょう」
茉莉は驚いた表情で莉花を見上げた。
「でも、私が起こした問題なんです。皆さんには関係ないことで」
「関係ありますよ!」
莉花の声は力強かった。
「困ってる人がいるなら、放っておけません。それに、茉莉さん一人の責任じゃないと思います。誰かが茉莉さんのレシピを悪用してる可能性が高いですから」
愛先輩も頷いた。
「莉花の言う通りです。三人で力を合わせれば、きっと解決できますよ」
茉莉の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます…でも、どこから手をつければ」
「まず、花想庵に行ってみましょう」
莉花は即座に答えた。
「レシピノートを手に入れた場所なら、何か手がかりがあるかもしれません」
三人は茉莉のアパートを出て、商店街に向かった。莉花の正義感に火がついていた。この問題を放置すれば、被害者はさらに増える。絶対に阻止しなければならない。
しかし、彼女たちが直面することになる事態は、まだ想像もつかないほど巨大で複雑なものだった。




