第1章「普通じゃない朝」
朝の五時半。まだ薄暗い空の下を、莉花は軽やかに走っていた。
体育大学二年生の佐々木莉花は、毎朝欠かさずランニングをする。今日も大学周辺の馴染みのコースを、一定のリズムで駆け抜けていく。息は整い、足音は軽やか。昨日の疲れなど微塵も感じさせない、生来の体力と持久力の持ち主だった。
「今日もいい天気になりそう!」
空を見上げて小さく声に出す。雲ひとつない青空が広がっていて、絶好のランニング日和だ。莉花の足取りは自然と弾む。
大学の寮に戻り、シャワーを浴びて朝食を済ませた後、莉花は午前中のアルバイト先であるスポーツカフェ「アクティブ」に向かった。商店街の一角にある、アスリートや運動好きの人たちが集まる人気店だ。
「おはようございます!」
元気よく店に入ると、先に来ていた店長の田村さんが苦笑いを浮かべて振り返った。
「莉花ちゃん、今日もエネルギー全開だね。でも今日はちょっと変な一日になりそうだよ」
「変って、どんな風にですか?」
エプロンを着けながら尋ねる莉花に、田村さんは困ったような表情を見せた。
「さっきから常連客が次々と電話してきてね。『今日は絶対に店に行く』『特別な日だから』って、みんな妙にテンション高いんだ。何かあったのかな?」
莉花は首をかしげた。確かに、普段の常連客たちはもっと落ち着いている人が多い。特に平日の朝から、そんなにハイテンションになる理由が思い当たらない。
「まあ、お客さんが来てくれるのは嬉しいことですし、頑張りましょう!」
莉花がそう言った時、店のドアが勢いよく開いた。入ってきたのは常連客の佐藤さん――六十代の温厚な男性で、いつもはコーヒー一杯をゆっくり飲んで新聞を読むだけの人だった。
「おはようございます、佐藤さん」
莉花が挨拶すると、佐藤さんは目を輝かせて大きく手を振った。
「莉花ちゃん!聞いてくれ、聞いてくれ!昨日、宝くじが当たったんだよ!」
「え?本当ですか?それは良かったですね!」
莉花は素直に喜んだが、佐藤さんの様子がいつもと全く違うことに困惑した。普段は物静かな人なのに、今日は手をぶんぶん振り回して、まるで子供のようにはしゃいでいる。
「それがね、昨日飲んだお茶のおかげなんだよ。茉莉花トニックって言うんだけど、知ってるかい?」
「茉莉花トニック?」
聞いたことのない名前だった。莉花は首を振る。
「知り合いが分けてくれたんだけどね、これが本当に効くんだ!飲んだその日に宝くじが当たるなんて、信じられないよ!」
佐藤さんはそう言いながら、小さな瓶を取り出した。透明で美しい液体が入っている。かすかに茉莉花の香りがして、確かに上品なお茶のようだった。
「これ、見た目は普通のお茶ですけど…」
「そうそう、味も美味しいし、香りもいいんだ。でも効果が凄いんだよ。莉花ちゃんも飲んでみる?」
佐藤さんが瓶を差し出してきたが、莉花は直感的に手を引っ込めた。何となく、違和感を覚えたのだ。
「あ、いえ、結構です。お仕事中なので」
「そうか、残念だな。でも本当に凄いんだよ、これ」
佐藤さんはいつものコーヒーを注文し、席に着いてからも興奮気味に茉莉花トニックの話を続けた。宝くじの当選金額から、トニックをくれた知人の話まで、とにかく話が尽きない。
そして十時頃になると、次々と常連客がやってきた。それも、みんな佐藤さんと同じように異様にテンションが高い。
「莉花ちゃん、聞いて聞いて!昨日告白したら、なんとOKもらっちゃった!」
三十代の会社員、山田さんが満面の笑みで報告した。山田さんは半年前から同じ職場の女性に片想いしていたが、なかなか勇気が出ずにいた人だった。
「それは良かったですね!でも山田さん、どうしたんですか?なんだか…」
「茉莉花トニックのおかげだよ!友達が教えてくれたんだ。昨日飲んだら、なんだか勇気が湧いてきて、気がついたら告白してたんだ」
また茉莉花トニックの名前が出てきた。莉花の眉間に小さなしわが寄る。
「その友達って、佐藤さんと同じ人ですか?」
「えーっと、確か大学生の女の子だって聞いたけど…詳しくは知らないな。でも本当に効くんだよ、これ!」
その後も客は途切れることなくやってきた。昇進が決まった人、長年音信不通だった友人から連絡が来た人、ずっと欲しかった限定品が手に入った人。みんな口々に「茉莉花トニック」の話をしていた。
お昼休憩の時間、莉花は田村さんと一緒に店の奥で休んでいた。
「店長、今日の常連さんたち、なんか変じゃないですか?」
「うん、確かに変だね。みんな同じお茶の話してるし…茉莉花トニックって言うの?聞いたことないけど」
「私も聞いたことないです。でも、みんなすごく効果があったって言ってますよね」
莉花は腕組みをして考えた。確かに、お客さんたちに良いことが起こったのは素晴らしい。でも、全員が同じ日に、同じお茶を飲んで、全員に幸運が舞い込むなんてことが本当にあるのだろうか。
「なんだか、できすぎてる気がするんですよね」
「莉花ちゃんは慎重だなあ。でも確かに、偶然にしては出来過ぎかもね」
田村さんも同感のようだった。莉花は直感的に、何かがおかしいと感じていた。
午後の部が始まると、状況はさらに加速した。午前中に来た客たちが、今度は友人や家族を連れて再び来店したのだ。
「莉花ちゃん、僕の妹と弟なんだ。茉莉花トニックの話をしたら、すごく興味を示してね」
山田さんが連れてきたのは、二十代前半の女性と高校生くらいの男の子だった。
「私も飲んでみたいです!どこで手に入るんですか?」
「僕も!兄貴の恋愛が成功したなら、僕の部活の大会も絶対勝てますよね!」
二人ともキラキラした目で莉花を見つめてくる。莉花は困惑した。自分は茉莉花トニックのことを何も知らないし、どこで手に入るかも分からない。
「すみません、私はそのお茶のことは詳しくないんです」
「そうなんですか…でも、このカフェの人なら知ってると思ったのに」
がっかりした様子の二人を見て、莉花は申し訳ない気持ちになった。でも同時に、違和感はますます強くなっていた。
夕方、アルバイトが終わって寮に帰る途中、莉花は商店街をゆっくり歩いた。いつもは急いで帰るのだが、今日は考え事をしながら歩きたかった。
すると、道端で立ち話をしている主婦たちの会話が耳に入ってきた。
「聞いた?茉莉花トニックって」
「ああ、あの奇跡のお茶でしょ?うちの旦那も飲んでから調子いいのよ」
「どこで手に入るの?」
「大学生の女の子が作ってるらしいけど、詳しくは分からないの。でも効果は抜群よ」
莉花は立ち止まった。町中で茉莉花トニックの話題が出ている。これはもう偶然とは言えない規模になっている。
寮に戻った莉花は、ルームメイトの宮野愛先輩に相談してみることにした。愛先輩は陸上部の三年生で、莉花の良き理解者だった。
「愛先輩、ちょっと相談があるんです」
「どうしたの?珍しく深刻な顔して」
愛先輩は読んでいた専門書から顔を上げた。莉花は今日一日の出来事を詳しく話した。
「茉莉花トニック…聞いたことないけど、確かに怪しいわね。でも、本当にみんなに良いことが起こってるなら、悪いものじゃないのかも」
「でも、こんなに都合よく物事が起こるものでしょうか?何か裏があるような気がして」
莉花の直感は冴えていた。愛先輩も考え込む。
「莉花の直感は結構当たるからね。気になるなら調べてみたら?あなたの性格だと、放っておけないでしょう」
その通りだった。莉花は正義感が強く、おかしいと思ったことは放っておけない性格だった。
「そうですね。明日、もう少し詳しく調べてみます」
その夜、莉花はベッドに横になりながら今日の出来事を振り返っていた。みんなが幸せそうだったのは確かだ。でも、その幸せが本物なのか、それとも何かの罠なのか。
窓の外を見ると、街の明かりが静かに瞬いていた。いつもと変わらない夜景だったが、莉花には何かが変わり始めている予感がしていた。
「茉莉花トニック…一体何者なの?」
小さくつぶやいて、莉花は眠りについた。しかし、この疑問が彼女を大きな冒険へと導くことになるとは、まだ知る由もなかった。




