第9話 水底からの囁き
報告書を手に、俺たちは顔を見合わせた。
この施設にはプールも池もない。
それなのに「水難死亡」とは――。
「……屋上だ」中村がぽつりとつぶやいた。
彼によれば、三年前まで屋上には大きな貯水槽があり、清掃中の事故が一件あったらしい。
だが公式には「転落死」としか記録されていないという。
昼の休憩時間を狙い、俺たちは屋上への階段を上った。
そこは今、分厚い鎖と南京錠で封鎖されていた。
錠前は新品だが、階段の壁には古い水の跡がまだ残っている。
「やっぱり何か隠してるな」
中村が鎖を指先で弾いたとき、金属音に混じって“水音”が聞こえた。
ぽた…ぽた…と、階段の上から滴り落ちる水。
見上げると、錠で閉ざされた扉の隙間から水滴が光っていた。
次の瞬間、その水が一気に吹き出し、俺たちの足元を濡らしていく。
冷たい。
だけじゃない――耳元で何かが囁いている。
「かえして…」
その声に反応するように、俺のポケットの入館証が震えた。
カードの表面に、一瞬だけ“濡れた指紋”の跡が浮かび上がる。
俺たちは息を呑み、後ずさった。
しかし足元の水はすでに消え、床は乾いたままだった。