【追補編】「残響」
夜明け前の街。
中村は、見慣れたアパートの階段を一段ずつ踏みしめながら、冷えた空気を吸い込んだ。
「……帰ってきたのか」
手の中には、あのメモがまだ残っていた。文字は薄れ、紙は湿気を帯びている。
ふと背後から声がした。
「よう。無事戻ったみたいだな」
振り向くと、そこに山崎が立っていた。
無精ひげ、コートの襟を立て、目の奥にまだ夜を引きずっている。
「山崎……あの時、なんでメモを?」
問いかけると、彼は煙草を取り出し、火をつけた。
「俺に渡せって言ったやつがいたんだよ。あんたの“先輩”だ。あの人は、俺と同じく、一度あそこから戻ってきた人間だ」
中村は息をのむ。
「じゃあ、お前も——」
「ああ。貯水槽に映った女の顔、あれが始まりだった。俺は……代償を払って帰ってきた」
山崎は淡々と続けた。
「俺は“声”を置いてきた。だから今でも、叫んでも、本当の声は届かない」
彼の言葉は妙に平坦で、それがかえって現実味を帯びていた。
——その時、通りの向こうから足音が近づいた。
背の高い男、コートのポケットに手を突っ込んだまま歩いてくる。
中村の胸がざわめく。
「……斎藤?」
斎藤は口元だけで笑い、近づくと山崎に視線を送った。
「渡すものは渡したな」
「……ああ」山崎が答える。
斎藤は中村の方に向き直り、低く言った。
「俺は、あそこに残った者だ。案内役ってやつさ。けど、もうお前は道を知った。次は一人で辿り着ける」
そう言うと、斎藤の姿は街の明かりの中でゆらぎ、まるで靄のように掻き消えた。
残された山崎は、煙を吐きながら呟く。
「代償を払わなかったお前には、その“半身”がいつか請求される。覚悟しとけ」
——その瞬間、中村の左手がわずかに痺れた。
皮膚の下で、誰かの指が脈打つような感覚。
現実に戻ったはずの街の空気が、ひどく冷たく感じられた。




